2024年4月14日日曜日

立てないことを巡って

<蔵出しレビュー> 

金魚(鈴木ユキオ) 『言葉の先 The Point of Words』

2009年2月18日                    @アトリエ劇研



年明けから3月までのコンテンポラリーダンス公演のシーズンに、鈴木ユキオは4種類の公演のために関西に来て踊った。自身のカンパニー「金魚(鈴木ユキオ)」の自主公演の京都ツアー(2月18,19日)のほか、白井剛演出「blue Lion」へダンサーとして参加(2月13~15日)、「踊りに行くぜ!!」スペシャル公演においてバイオリン奏者とのデュオ作品「Love vibration」を上演2月21,22日)、日米振付家交換レジデンシープロジェクト参加(3月22日)と立て続けの登場である。首都圏を基盤にするアーティストにとってのアウェーで、ワークインプログレスやラフ・スケッチ的なアトリエ公演ではないそれぞれの完成形を披露したことになり、見る側には作品ごとの成功・不成功を云々する以上に、気鋭の踊り手の現在ある位置を広い角度から見極めることのできる絶好の機会だったと言える。トヨタコレオグラフィーアワードの最新の受賞者として鈴木ユキオへの期待は大きいはずだ。伸ばした髪、無駄をそぎ落とした肉体は禁欲的な求道者を思わせ「土方の再来」などと言わしめたりする一方、クールでストイックな風貌は新たなスターを求めて止まないマーケットの欲望にも合致しよう。そのような業界的事情はさておいても、現在のところ極めて刺激的で画期的なダンスであることに異論はない。舞踏に出自をもちコンテンポラリーダンスにエントリーされる彼の踊りは、同じく舞踏出身の伊藤キムが舞踏とコンテンポラリーの「融合」において貢献したのとは異なり、二つの領域の境界を限りなく接近させながらなお峻別するギリギリの縁を進むものだ。舞踏の理念から出発し、本質へと腑分けしていく鈴木の踊り手としての道筋は、見る者に対してもダンスの理論と実際の舞台とをつなぐ刺激的な思考を促すものである。


理念からの出発とは、室伏鴻と若手3人で組んだユニットKo&Edge Co.、とりわけ2006年大阪で上演された「DEAD 1+」を念頭に置いて述べている。銀色に塗り込められ、地面にまっ逆さまに突き立てられた3つの身体が衝撃を与えた舞台である。ユニットのひとりであった鈴木ユキオは他の2名とともに、神々しさと如何わしさのあい混じった身体となり、封じ込められたファロスのイメージと幾度となく繰り返される「倒れ」によって、運動の不可能性を律儀なまでに具現化した。これは立てないことを巡る考察でもあった。


およそ舞踊とは立つことを巡る技術と思考のうえに成り立っている。「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」との土方巽の言葉はあまりに多くを内包し、我々を惑わせ、惹きつける。立ちつつ崩れる、と言ったのは室伏鴻である(*1)。立つ、ということのなかに、立てない、は含まれ、今あるこの姿勢の内にも、立つ、は含まれている。身体を走る幾つものベクトル、せめぎあい、おそるべき可能性がひとつの身体に内包されている。硬直した倒れ、崩壊、四つん這いのケモノ、いずれもイメージの模りなのではなく、そうであり得るかもしれない身体の、異なる様態、無数の相の、いま、そこでの現前と見るべきなのではないのか。


「言葉の先」より一作品前にあたる「沈黙とはかりあえるほどに」を携えて京都に来たのは2007年9月である(京都芸術センター)。「DEAD 1+」のスタティックな佇まいから一転し、ひりひりと剥き出しの危機に晒された舞台の驚きは今も鮮明だ。足元が床に着地するそばから次々とおびやかされ、自らを追い立てる緊迫の舞台である。直立し安定しているその状態はまやかしだとでもいうように、自身の身体の外へと激しく引きちぎられ、放り出され、立つことの自明性がことごとく覆されていったのだった。


いっぽう「言葉の先」に顕著であるのは、動きの中途に差し挟まれる中断である。「沈黙とはかりあえるほどに」のすべてを投げ出すような苛烈さは沈静している代わりに、動きを堰き止め、つんのめるようなカウンターを喰らわせる。立つことの自明性への問い質しは、より微分され突き詰められた巧妙な方法で遂行される。振り上げようとした肘が鋭角に曲げられたまま中途でバウンドして行き場を失う。その先に予測された軌跡は去勢される。中断とは、疑うことだ。身体の道理、自然な気の流れ、当然の物理の法則に導かれるムーブメントの自明さに疑義を差し挟むのである。さしてみれば、鈴木ユキオの引き継いでいるものが理論に還元できない自然の摂理に即した身体、ましてや民族性や土俗や前近代に根ざした所与の歴史としての身体といった舞踏の思想的な価値ではなく、ひたすらアンチテーゼとしての、異議申し立てとしての、つまりはモダニズムの地平に現れる批評の運動としての舞踏であると理解されないだろうか。コンテンポラリーダンスとの接点を見出すとすれば、そのスタイリッシュな舞台の相貌に拠るというよりも、彼の中にあるモダニズムの理論に即したラディカルとも言える方向性が、既存のダンスの否定や越境を所以とするコンテンポラリーダンスの批評性(いまだ有効であるかはともかく)に符合する点だろう。


それにしても舞踏とは何だろうか。西欧近代の合理主義に対する暴力、エロス、異端と暗黒の美学、肉体の起爆力、そして祝祭性、あるいは身体を自然と捉え、場との交感や共振をはかるエコロジー的思想など、さまざまな価値を孕んで鬱蒼とした森のごとくダンスに隣接している。強烈なアフォリズムが掻き立てる特異なイメージは、かえって本質から我々を遠ざける。現在もっとも有効な視点を与えてくれるのは、舞踏の思想的な側面ではなく、身体と技術に関する理論からのアプローチであるように思われる。即ち、西欧近代の合理主義の体系というべきバレエが身体各部位の「統合」をはかる技術であるのに対し、舞踏の技術の核心は統合の解除であるとする見解である(*2)。重力に屈して崩れ、倒れる身体、あらゆる部位がそれぞればらばらに動いている舞踏に特有の身体の有り様とは、重力に抗して身体を立ち上げるバレエの技術の体系を対照項に置いた身体理論の批判的な実践とみることができる。これは「立つ」のなかに「立てない」が含まれるとして身体の倒れを提示する室伏鴻から、ブロンズ色のまっ逆さまの身体を経て、立つことの自明性をことごとく疑問に付さずにおかない鈴木ユキオまで、一貫して流れている批評性を理論的に裏付けるものだ。舞踏のアフォリズムと身体の理論をつなぎ、室伏を経由して鈴木ユキオの踊りに流れ込む線がここに見えて来るのではないだろうか。そして例えば伊藤キムが劇場で舞台と客席の構造をひっくり返したり、「階段主義」など劇場以外の場所で踊ったり、「裏キム」として夜のバーで妖しげなパフォーマンスをするなど、非日常の転覆力を自身の舞踏的価値としたことを想起すると、鈴木ユキオはあくまで身体と動きの構造の理論的な枠組みの内部にとどまり、ダンスが成立する/しないの際(きわ)=エッジをラディカルに追究する舞踏家であることが理解されてくるだろう。言葉の先とは、ダンスの表現形式を越えていく運動の中心のことでもあるだろう。


作品について言えば、ロック中心の選曲はケレン味たっぷりに聴かせるし、途中には蛇腹のホースとの絡みもあり、変化に富んだ身体の様相を引き出す演出は適切だ。とりわけ床をスクエアに照らし出した空間でのシーンが素晴らしく、光を受ける身体の感覚に伴い内省を深めてゆく鈴木の踊りは印象深い。共演者は3人。激しくストイックなトーンを彼らも同様にまとっている。しかしやはり本作品までについては、鈴木ユキオのダンスに議論の的は絞られると思う。


短期間に繰り返し彼の踊りを見てきて、独自の方法である「中断」が語彙として定着し、頻繁に使用され、馴染んでいる様子もまた同時に見とめられた。馴染んだ動きは踊る身体を自在にするが、その都度の批評の矢はやがて磨耗する。その少し手前に、現在の鈴木ユキオはいるようだ。「身体については、やり尽くしたと思っている。次に取り組むべきは空間だと思う。」今シーズン京都での最後のショーイングで、「言葉の先」の一部を踊った後に、鈴木は自らこう述べている(*3)。いずれクリシェと化していく前に、鈴木ユキオは次へ行こうとしている。 

(2月18,19日 アトリエ劇研)



*1 2007年3月9日「ジュネへ応答する8日間」ワークショップセッションにて

*2 稲田奈緒美「土方巽 絶後の身体」

*3 2009年3月22日、日米振付家交換レジデンシー・プロジェクトにおけるシンポジウムにて









2024年4月13日土曜日

『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』



<蔵出しレポート>

神戸リパブリック KOBE Re:Public Art Project(KORPA)より 

2023年2月24日~26日            @神戸市内の喫茶店


作・演出 岡田利規

出演 片桐はいり



日本の現代演劇のホープ、岡田利規による本作は「喫茶店演劇」として知られ、これまでに大分、東京、横浜で上演されてきた。このたび神戸では4か所の喫茶店が会場に選ばれ、計5回の上演が行われた。そのうち以下の3公演を見ることが出来た。いずれも由緒ある元町中華街や元町商店街に位置し、この町のハイカラ文化を支えてきた昭和の香り高い老舗である; 

2月24日 喫茶しゅみ

2月25日 元町サントス

2月26日 アルファ本店


喫茶店演劇の出演者は一人。会場は実際に営業中の喫茶店の店内。観客は店の外からガラス越しに鑑賞する。神戸公演で配役されたのは俳優の片桐はいりだ。著名度の高さゆえだろう、各回とも店の前に黒山の人だかりができる人気ぶりだが、何が起こっているのか知らぬままに人が人を呼び群衆が生まれた側面もある。人は人が集まっている場所にこそ集まるわけだが、コロナ禍で集合と接触が徹底して避けられた時期を思うと、この光景のコントラストは強烈に映る。


一人芝居である本作では、窓際の席に案内された喫茶店の客が一杯のコーヒーを前に途方もない想像を繰り広げる。俳優の一人語りはスピーカーによって店の外に届けられる。店外にはモニターも設置されていて、テーブルを頭上から撮影するカメラが俳優の手元を映し出す。


「世界は、はじめ液体だった。」で始まる演劇は天地創造の壮大な物語。暗黒の液体を示すのが他でもない手元のコーヒーだ。片桐はいりはクリームを入れてスプーンでかき混ぜ、宇宙のはじまりの渦を作る。「やがて光が生まれた」「時間が生まれた」と繰り出される哲学的な語りは、片桐のリアリズムを超越した演技を得て、妙に説得力のあるドラマとなる。大勢の観客はスピーカーから届く物語に聞き入っている。俳優は語りと同時にシュガーポット、紙ナプキン、タバスコ、粉チーズなど、昔ながらの喫茶店ならもれなく卓上に置かれているアイテムを次々に手に取り、それらを配置し、宇宙の創生を「再現」していく。コーヒーの黒い液体や粉チーズやタバスコをまき散らしたテーブル上はあたかも抽象画のキャンバスとなり、これを頭上から捉えた映像がモニターに映し出される。外にいる観客はガラス越しの俳優の姿とモニターの「絵」を交互に眺めるが、実際にはそのどちらも視界に納めることのできなかった多くの人々がいたようだ。それでも群衆の数は増えこそすれ減ることはない。人が人を一目見たいと欲する思いはかくも強烈だ。演劇とは人の身体を見たい欲望を正当化するための手の込んだ遊戯ではないのか――このような考えが巡るのも、これが劇場ではなく、演劇とはゆかりのない場所での、通りがかりの人々を巻き込んでのイレギュラーな上演であったからに他ならない。


さて物語はといえば、語り手は世界に最初に現れた一族の末裔の最後の一人であり、現在の世界を統治する新興の一族の支配を不当と感じている。そして歴史の彼方に忘れ去られようとする自らの一族の尊厳を掛けて反撃の機会を窺っている。かように陰謀論めいた話ではあるが、俳優の語りを最初から聞いてきた者たちには、それが荒唐無稽な妄想どころか、彼女にこそ理があると思えてしまう。商店街のとある喫茶店で一杯のコーヒーを嗜むごく普通の日本人の脳内に、このような陰謀論が巡っているというシチュエーション。それを聞く者たちもやすやすと「真実」として受け取ってしまう危ない状況。俳優の姿を十分に見られない渇望こそが陰謀論への加担を促している。誠に不穏な、政治的な演劇である。本作は2015年の作だが、2023年現在の政治状況に見事なまでに合致した展開に唸らされるばかりだ。


見事な怪演ぶりを発揮した片桐はいりは、何かを床に落とす粗相をしたり、「すいません、ちょっとナプキンを」と店の人に恐縮しながら頼んだりと、演技の合間に「素(す)」の自分を晒す時があり、アクシデントとはいえ日常と演技の落差を見せて、これもまた演劇なるものの原理を思わせる瞬間だった。語りを終え、会計を済ませてドアから出てきた片桐は、大勢の観客に観劇の礼を述べて去って行った。その姿は現代を生きるごく普通の日本人女性と変わらない。


やがて人だかりは解けて町はいつもの賑わいに戻るが、商店街を行く人々の脳内には、他人には想像もつかない思想や妄想や奇妙な信仰や不穏な感情が渦巻いているのかもしれない。喫茶店演劇を見た人は、人の集まりである「町」や「社会」を支えていた所与の信頼が根底から揺さぶられる思いを抱いたことだろう。




『TOUCHーふれるー』

<蔵出しレポート>

神戸リパブリック KOBE Re:Public Art Project(KORPA) より


2023年2月22日から3月19日まで開催された「KOBE Re:Public Art Project」(KORPA)は神戸市が観光誘客事業として主催したアートプロジェクトである。「パブリックアートをつくらずとも、パブリックにアートはすでにある」のスローガンが語るのは、新たに作っては廃棄する大型イベントの踏襲ではなく、地域に埋もれたものの価値を循環させる、ポストコロナの時代の経済や社会のあり方だ。キュレーターを務めた森山未來のしなやかな知性と出身地神戸への愛着が、新たな時代に即し地域に密着した様々な企画に反映していた。アーティストによるリサーチ、作品展示、交流イベント、AR体験など多彩なプログラムの中から、ここでは3つのパフォーマンス公演について報告する。ダンス、演劇、大道芸と形態は異なるものの、テーマである「神戸の街の再発見」をそれぞれのアプローチで活かしていた点が興味深い。地域アートのプロジェクトの例が多数ある中、パフォーミングアーツをプログラムすることで人々の交流や臨場感、参加の満足度を担保し、「物理的なアートに固執しない、新しい概念のパブリックアートの創出」に適う事例となったことにも注目したい。



『TOUCHーふれるー』

2023年2月24日            @旧住友倉庫、神戸


振付・演出・出演:三東瑠璃 大植真太郎、nouseskou

音楽:内田輝



コンテンポラリーダンスのアーティストによるダンスパフォーマンスが行われたのは新港町の旧住友倉庫。近代日本の貿易を支えてきた歴史的建造物で、大正15年に建てられたレトロスペクティブな雰囲気をもつ巨大倉庫である。内部は太く頑丈な角柱がグリッドに並ぶ広大な空間で、対比される人間の身体はいかにも小さく、通常のスケール感が麻痺する。その空間の魅力を引き出したのが本ダンス公演である。建物全体は幾つかの区画に分かれており、他のスペースでは本プロジェクトに参加中のアート作品の展示も行われていた。アートを見に来た人がふらりとパフォーマンスに立ち寄るといった緩やかな観覧が可能である。


作品『TOICHーふれる―』は2021年に振付家でダンサーの三東瑠璃が自身の主宰するカンパニー≪Co. Ruri Mito≫名義で立ち上げたプロジェクト。三東、大植真太郎、森山未來の顔触れでこれまで東京と横浜で上演している。今回、神戸では森山の出演はなく、nouseskou(山本晃)を加えた3名により上演された。初演時のテキストによれば「風」をメインテーマとし、「場所を限定せず移動し続け」、「留まらない、所有されないなど風の動きを読むような、風と共に動いていく作品」とある。そのたゆたうような、筋書のない行程に3人の気鋭のアーティストが臨んだ。


倉庫内には自然光が入らず、アクティングエリアには舞台照明家(三浦あさ子)の手によるライティングが施されている。ダンサーたちは照らし出された空間や照らされない一隅を自由に回遊する。観客はアクティングエリアの周囲を思いのままに歩きながら、列柱の間に姿を現わしたり、柱の影に消えたりするダンサーの動きを鑑賞する。ダンサーたちは緊張を保ちつつも急くことなく踊り、移動し、柱に身を寄せ、それぞれの居方、佇まいで途切れることのないパフォーマンスの時間を費やしている。時折エリアから退出して姿を見せなくなったと思うと、またいつの間にか戻ってきて、変わらぬ様子でパフォーマンスを継続する。巨大な空間の底をゆったりと行き来するその様子は深海に棲む生き物の生態を見るかのようである。


3人はそれぞれ個性をもったコンテンポラリーダンスのアーティストで、大植慎太郎はヨーロッパの名だたるバレエ団で活躍した経歴の持ち主、三東瑠璃はモダンダンスから出発し強烈な身体表象で見る人の度肝を抜く踊り手、nouseskou(山本晃)は京都のアンダーグラウンドのHIP HOPカルチャーがベースと、異なる出自を持つ。三者とも自然素材のゆったりとしたデザインの衣装(YANTOR)を着ており、三東は赤、大植は麻色のベージュ、nouseskouは紺色の三色。堅牢な柱や天井のアーチを背景に三人が絡むと、象徴的なトリコロールがあいまって荘厳な宗教画を連想した。


パフォーマンスには3人の他に5人の黒子(金愛珠、秋田乃梨子、川崎萌々子、楠田東輝、小松菜々子)が登場する。白いシャツに黒いズボン姿で個性を消した彼女や彼らは、高さ2メートルを超えるパネルを移動させて壁や仕切りを作り、空間を可変的なものにしていく。一定の時間間隔で現れ、文脈を分断するかのように坦々と介入する彼や彼女らこそ、パフォーマンスの進行を振り付けていたのかもしれなかった。


もう一つ上演に加わった要素は内田輝による音楽である。ライブで演奏される楽器は高音が艶やかなサキソフォーンと木製の鍵盤楽器のクラヴィコード。後者は大正琴やハープシコードに似た音色と鍵盤楽器ならではの華やかな響きが特徴的だ。音階が奏でられると音の飛沫が空間いっぱいに放出される極彩色のイメージでパフォーマンスを鮮やかに彩った。


さて、技術も舞踊言語も異なるダンサーの三人は興味深いことに、いずれも自らの得意とするテクニックの誇示や舞踊言語の使用を行わない。そのようにすれば8時間の長大な時間をスペクタクルに脚色しつつ乗り切ることはできるはずだが、三人はそれを封印し、ただ風を受けるように空間に身体を馴染ませる。演技というより「棲息」に近い在りかたで時を過ごすのである。その試みは環境に感応する新たな身体の存在の様式を見出すことでもあった。それぞれの身体が時間の耐え方を模索し、互いの関係性の構築の仕方を探るのだ。三人は時に交差し、互いに触れたり絡まり合ったりリフトしたりと、身体による様々な関わりを生んでは解いていく。或いは接触を持たないにしても、空間のどこに相手が居るかを察知し、自身の配置を選択していくといった、偶発的で即興的、かつ配慮に満ちたパフォーマンス空間が現出していた。急くことなく、棲息のためのゆったりとしたテンポを保った8時間は、フィクションではない時間として、そこに居る・在る身体によって現実に生きられたのである。


技術や強度のアピール、丁々発止のやりとり、緩急、速度、ダイナミズム、スペクタクルへの志向は資本主義の発想に近しい。一方、この上演に現れていたのは柔らかさや緩さであり、パーソナルスペースの尊重、自然な流れや出来事を受け入れる態度、互いの存在や周囲への配慮である。コロナ禍を経て社会や経済がこれまでとは違ったフェーズに入りつつあると感じられる今日、パフォーマンスが体現したものは持続可能で環境に配慮した新たな社会の価値観に親しい。「風と共に動くような」生き方であり、人新世をキーワードとする本プロジェクト(KORPA)のコンセプトと深いところで響き合うパフォーマンスだったといえるだろう。


 



大道芸パフォーマンス

<蔵出しレポート> 

神戸リパブリック KOBE Re:Public ArtProject (KORPA)より

2023年2月26日                @水道筋商店街、神戸市中央区


出演:to R mansion、江戸川じゅん兵、チャタ、油井ジョージ、吉田望

演出:スカンクスパンク(江戸川じゅん兵×上ノ空はなび)



大道芸パフォーマンス「水の泡サーカス しゅわしゅわツアー」は、日時と場所を変えて6回の上演があり、そのうち2月26日(日)、水道筋商店街から灘中央市場へのルートを辿る回を取材した。神戸の中心地、三宮から阪急電車で二駅、港町神戸の観光スポットとは趣きの異なる、生活圏にある商店街だ。これもまたディープな魅力に溢れた神戸のもう一つの顔といえ、再発見の驚きと魅惑に満ちた体験となった。


出演は世界を股に活躍し、東京オリンピック2020開会式にも出演したtoRmansionを中心とする大道芸のアーティストたち。近年はサーカスやパントマイムなどパフォーミングアーツの周縁的なジャンルにも洗練されたアーティスティックな演技を行うカンパニーが増えてきたが、こちらは敢えて大道芸の奇想天外でコミカルな味わいをもった、庶民の楽しみとしての路上パフォーマンスだ。普段着で行き来する町の人々が子どもも大人もお年寄りも一緒にパフォーマーたちの後について町を練り歩く。日常の中にふいに生まれた祝祭の時間である。


商店街の一角に現れたのは奇抜なメイクとカラフルな衣裳の道化役の男女(丸本すぱじろう、野崎夏世)と、ラート・パフォーマーの女性(吉田望)。ラートとは二本の鉄の輪を平行につないだ器具で、大きな車輪の内側に入ったり上部に乗ったり、アクロバティックな技芸を見せる。路上を回転して進むこともできる。洋品店のショーウィンドーの中ではタキシードを着た首なしのマネキンが動き出し、キャラクターに加わる。こうして開始したパレードには、途中、さらに何人もの大道芸のキャラクターたちが待っていて、歩き進むにつれて次々に出会っていく仕掛けである。3メートルはありそうな背高ノッポの男が現れると人々はその長い脚の下のアーチをくぐり、蝶ネクタイのショーマン(江戸川じゅん兵)のMCもパレードを盛り上げる。その先にはワンマンバンド(油井ジョージ)が待っている。手にギター、背中にドラムス、さらにハーモニカなど何種類もの楽器を身にまとい演奏する姿は、昔ながらのチンドン屋をカントリー調にアレンジした芸風にも見える。


パレードは商店街から灘中央市場へ。アーケードの入り口には「水の泡サーカス」に因んだ風船があしらわれ、ここから一行は人がようやくすれ違って歩けるほどの細い路地に入っていく。屋根のある路地の両脇には八百屋、鮮魚店、精肉店、乾物屋、酒屋、お菓子屋、お惣菜屋から日用品を売る店などがぎっしりと軒を連ね、見て歩くだけで心躍る場所だ。屋根のない一画を小さな広場に見立てた場所で、いよいよ本格的なショーが行われた。ヒッピー風の奇抜な衣裳の男性(チャタ)のリンボーダンス、首無しマネキンから妖精のようなキャラクター(上ノ空はなび)が飛び出すなど、子どもたちをはじめ観衆を沸かせる。ゴム紐を自在に変形させて矢印を作ったり船を表したりする定番の芸も披露。また地元の人とのコラボレーションとして、市場の商店主にしてギタリストの男性が登場、全身黒ずくめのゴシックな風貌でエレキギターをかき鳴らし、大道芸人たちと共演した。この後、さらに市場を進み、路地の奥のロータリー状の広場でショーはクライマックスを迎える。これもまた定番芸のエアーによるカー・チェイスやカラオケなどが場を盛り上げ、向かいの精肉店の店員さんも登場してストリートダンスを披露した。盛りだくさんで見応えたっぷりの大道芸に人々の表情も満足そうだ。MCは灘中央市場が間もなく開設100年の節目を迎える旨を紹介、各店舗での買い物を呼び掛け、市場の益々の発展を祈念しての閉幕となった。


2023年9月15日金曜日

Co.山田うん『In C』

2023年9月2日(土)            @ロームシアター京都 ノースホール


振付・演出・美術 山田うん

作曲 テリー・ライリー

作曲・音楽 ヲノサトル

衣装 飯嶋久美子

出演・共同振付 飯森沙百合 河内優太郎 木原浩太 黒田勇 須崎汐理 田中朝子 

        角田莉沙 西山友貴 長谷川暢 望月寛斗 山口将太朗 山根海音




音楽の緻密な解釈からダンスを立ち上げる山田うんは、ストラヴィンスキー『春の祭典』の振付をはじめ多くの力作を生んできた。音楽家の知見を得ながらスコアを読み込み、大人数のダンサーで構成する群舞の迫力は、日本のコンテンポラリーダンスの先頭を走る実力を誇っている。京都で公演を行うのは2018年1月の『モナカ』以来。作曲家・音楽家のヲノサトルがCo.山田うんの数々のマスターピースで音楽を担当しており、『モナカ』でも、今回の『In C』でも協働している。


『In C』はテリー・ライリーが1964年に発表したミニマル・ミュージックの歴史的名曲だ。53種のCコード(ハ長調)の非常にシンプルな旋律パターン(音型。すなわち音楽の最も短い構成部分)をミュージシャンが順番に演奏していくもので、作曲者による指示書に即する限り、パターンを何回演奏するか、どんな楽器を使用するか、何人で演奏するか(望ましい人数が示されてはいるものの)、などは演奏者に任されている。自由と即興性に開かれた楽曲であり、結果としての音楽の現れは無限の幅の中にあり得るということになろう。「In C」を用いてダンスのための音楽を、と山田うんの依頼を受けたヲノサトルの仕事は、この「開かれた」楽曲を「音源」として、ゲームのプレイのような演奏をたった一人でコンピューターのプログラミングによって実現すること。上演時には録音されたものを使うにせよ、音楽そのものは「脳内のヴァーチャルな合奏」であり、音型のインタープレイによって新しい景色を描き出すことであったという。


公演の当日パンフレットにはテリー・ライリーによる指示書と、制作にあたって書かれたヲノサトルのテキストが掲載されていて、いずれも興味深く読んだ。テリー・ライリーの「In C 演奏指示」は、多くの条件を演奏者の自由に委ねると同時に、互いの音を注意深く聴き合うことの重要性を述べている。パターン=音型の組み合わせから「ポリリズムのようなかけ合い」が生まれ、「面白いフレーズの塊が、浮かんでは消えていく」さまを想定しており、パターンへの移行を急いではいけないが留まり過ぎてもいけない、テンポは速すぎても遅すぎてもいけない。休んでもいいが再度参入する際には自分が全体の流れに与える影響を自覚せよ。そして一度か二度はユニゾンを目指そう、とも言っている。演奏の自由を謳いつつも、作曲者の脳内には理想の音楽の現れ方がイメージされていて、決して好き勝手に音を鳴らしてよいというものではなさそうだ。


一方、ヲノサトルは、先述の「インタープレイ」への興奮を語るとともに、ミニマル・ミュージックの音楽史ひいては文化史上の意味や位置づけに触れたうえで、あらためて「In C」の譜面を読み込む。そして自然倍音列に言及しつつ、ハ長調に還元された音の響きの中に、地上のさまざまな民族音楽に通じていく音階、旋律、音声、リズムの要素を見出している。アカデミックな思考を突き詰め理論へと閉じていく現代音楽から、環境音楽やノイズサウンド、ジャズやロック、あらゆるポピュラーミュージックとそれらが内包する身体性や場所性へ――その転換の契機としてミニマル・ミュージックを捉えている。山田うんも同じく当日パンフレットに自身のテキストを載せているが、山田は「In C」の音楽に現代を生きる私たちの社会の在り方を、すなわち個々が自由でありつつ共働し、雑多な振動が互いに影響し合い、崩壊と再生の繰り返しの中に人間の歴史と営みの大きな流れを見ようとしている。ポリリズムの調和を生み出す音楽に、人間社会の在りようと平和への希求、現代を生き抜く希望と覚悟を重ねるのである。


ダンス公演『In C』は、このヲノサトルの音楽観と山田うんの洞察が、作品のあらゆる部分に息づいた作品だ。冒頭の4分の4拍子の快活なリズムに足並みを揃えるダンサーたちのステップは、音型の反復・進行とともにズレや変異を生み、12名のユニゾンは分離・拡散、徐々に個々のパフォーマンスへとフォーカスが絞られてゆく。ダンサーたちはジェンダーの区別なく、みな太い眉、丸く赤い頬、ぺったりと塗り付けた黒い髪など誇張したメイクをしており、妖精とも道化とも何かの化身ともつかない、少しコミカルな味わいのキャラクターに造形されている。無論、配役はなく、匿名的でジェンダーレスな身体ではあるが、彼・彼女らの身体言語があくまでローカルであるために、完全に抽象化された無機質な存在ではなく、日常や、祭りや、現代の日本といった差異を含んだ具象的な身体として表象される。ソロ、デュオ、トリオと小さくフォーカスされる場面で、時に寸劇のような互いの絡みも見られるが、全体に物語はなく、エピソードの無数の集積が人の営みの堆積と歴史の大きな流れを形作っていくさまが描かれる。


ヲノサトルによる「In C」もまた、ミニマル・ミュージックの音型の重なりのうちに差異を多様に含んだ音楽として現れ、アフリカやアジアの民俗音楽を彷彿とさせる複雑で豊穣なポリリズムを生んでいく。抽象のようであって具象的、無機質のようでいて人の営みを思わせる本作の色調は、音楽、ダンスのみならず他の要素にも反映している。前述のメイク然り、イエロー、ブラウン、オークなど土色を思わせる衣装も然り。ダンサーたちがその陰に身を寄せたり、ばらばらに分解して移動させたりする美術のオブジェは、全体の部分としてのミニマルなブロックだが、遺跡が崩壊した瓦礫にも見える。瓦礫の中から零れ出てきたようなダンサーたちの踊りは、化石の時間から生命が解き放たれたかのようである。集積された人類史が音型の展開とともに語り直され、文化と歴史の壮大な流れを描き出そうとする舞台に、12人のローカルな身体が躍動する。


ここまで「ローカルな身体」と繰り返してきたが、ローカリティは山田うんの振付言語を読み解く際のキーワードと言っていいだろう。型をもたず、西洋化されず、既存のメソッドの洗礼を受けていないように見える山田の身体言語は、削ぎ落されずに保たれた日常性、土着性が顕著である。新体操出身でバレエや舞踏の訓練も受けている山田うんだが、彼女の舞踊言語のなかにそれら既存のジャンルに根ざしたテクニックや身体観の反映があるかといえば、そうとは言えず、特定の場所にルーツを辿ることが出来ない。さまざまなダンス・テクニックの経験によるハイブリッドな身体というよりは、日本人の、21世紀を生きる、もしくは戦後に開発された都市郊外をフィールドとして生きる、日常性・土着性を削ぎ落さずに残した、遊戯的に運用される身体であり、床や地面に親しく接し、体軸を抽象化しないままに立つ身体である。日本のコンテンポラリーダンスの一定程度がそのような身体性を示すと言えるが、山田うんが卓抜であるのは、そうした身体言語をアイデンティティの物語に回収せず、群舞の構成によるノン・プロットの舞踊形式に作り上げていく点だろう。身体のローカリティを保ったまま、音楽の構造に即した抽象的なダンス・パフォーマンスとして形式の洗練を極めるという、ダンスの創作の最北を歩んでいる。本作『In C』において、ベタ足でステップを踏み、軸を設定しないままに運用される身体が、ミニマル・ミュージックの反復と進行のなかで洗練の度を増しながら、筋力や可動域や機敏さを極めた運動性に還元されていく様子は、カンパニーの作品群の中でもひときわスリリングであり、山田の特質を顕わにしているように思われる。


分離と統合を繰り返し、クライマックスを迎えたと思えば再び始まるあらたなエピソード/個別のシーンの展開が、幾度も訪れる波のように反復し連続する。終わりかな、と思う間もなく次のパターンの音楽とダンスが始まり、終わりは全く予測せぬ間に切断として訪れる。ここに見て取れる「歴史性への展開」と「運動性への還元」の相克が、山田うんの振付を比類ないものにしている。ミニマルな音型に差異と身体性を聞き取ったヲノサトルとの共働が至った地平であることは間違いない。


2023年7月29日土曜日

mimacul 『あたたかな顔』



2023年7月22日(土)            @京都場

俳句 阿部青鞋

演出・構成・衣裳 増田美佳

出演・振付 神村恵 増田美佳

音楽 中村公

オブジェ キム・スミス・クラウデル

舞台監督・撮影 脇田友

翻訳 山口惠子 ブリジット・スコット

俳句翻訳アドバイザー 山本真也(ポストトーク・ゲスト)



自らも句を詠む増田美佳が俳句をスコアに見立てて踊ることを試みる。出演は増田のほか、スコアを用いてダンスを立ち上げるプロジェクトを継続中の神村恵。神村のプロジェクト『無駄な時間の記録』には増田も参加している。

 

今回の上演では阿部青鞋による俳句をスコアとして取り上げている。阿部の俳句は「手の甲」「中指」など、必ず身体のいずれかの部位を示す一語を含んでおり、からだへの眼差しをシャッフルするような感覚を呼ぶ。増田と神村は五十の句を選び、それぞれの解釈で一句ごとに短い振付に起こしている。

 

プロジェクターが壁に俳句の文字列を映し出すと、その投射を挟んで左右に並んだ増田と神村は、立ち位置をかえることなくその場で振付を動く。カシャ、カシャ、というプロジェクターの音とともに一句ごとに投射が切り替わり、そのたびに二人はそれぞれ短い振付を動いていく。一つの句が詠まれるごとに、二つの身体は異なる動きで応答するが、腕なら腕、爪なら爪と句ごとにフォーカスされるので、これを蝶番にして対の関係を保ちながら動きとイメージを提示していく。

 

五十の句に50の振付。全ての句の提示と振付の動き終えた後は、はじめに増田が、次に神村がそれらの振付を連続させてソロで動く。かるたをめくるように示された句と句、振付と振付の間に相互の関連はないので、それらを続けて動くと、ちょうどE.レイナーの『トリオA』のような振付の数珠状の平坦な連なりが生まれる。ソロの後はデュオ。振付を連ねて踊る線が二本、増田のそれと神村のそれが、各々振付の順序を変えたり、互いの振付を交換したりしながら、空間を広く使って動いていく。偶然のシンクロのように二人が同じ振付をユンゾンで動く瞬間もおとずれる。組み換えや構成のルールを変化させれば、俳句に対応した基本の振付がある限りダンスをいくらでも展開していけそうだった。

 

俳句は五七五の音に情景を詠み込む。限定された形式に内容をぎゅっと凝縮させた句もあるが、阿部青鞋の句は余白が多く、沢山のものを詠み込まない。増田いわく「スナップ写真を撮るように情景をサクッと切り取る」。そこから起こされる振付は増田、神村ともに1アクションか2アクション程度の簡素な動きで出来ている。だが、一つの句を解釈し、情景を想像し、意味を読み取って振付に起こしていく作業はそうそうサクッといくものではないらしい。余白の多い青鞋の言葉は真意を汲み取るには想像力を要し、ときに五七五の中に思いもよらない物や事を結び付けて詠んでいたりする。「ねちねちと」「こねくり回して」動きを作ったと二人はそれぞれに言う。簡素な振付の形が50個。これを組み合わせ連ねて“構成する”ことでダンスを踊ることが出来るが、ベースとなる振付そのものを生み出すには身体を駆使して動きをさがし、形をつくる作業を経なければならない。増田美佳の前作『カタストローク』は踊りの型を巡る思索だったが、連綿と受け継がれる「型」にも、それが成立し定形化するのに費やされた時間や作業の過程がある。また型には意味やイメージが内包されている。定形のバレエのパも、他のさまざまなメソッドも、オリジナルの意味を内在させている。記号というものがそもそもそうであるように。

 

ここでスコアを巡って二種類の時間があることがわかる。未知のダンスを探して未踏の地に踏み出す時間と、全体の想定のもと現在において部分を再現する時間。そのどちらにも阿部青鞋の俳句が存在する。創造を触発する言葉と、再現の契機となる言葉。スコアの定義とは、はて何だったろう?

 

上演は句の投射と振付の実演で坦々と始まり、振付ごとに身体の部位を意識させる動きを重ねた先、最後に訪れるのはスコアを外れて動きが自発的に展開していく時間だった。以前は染め物の工房だったという場の環境――コンクリートの床、木造の壁や天井や梁、光、空気、気温、オブジェ、観客の存在、そして上演の流れ、そうした条件の中でスコアなしで動きを選択していく。相手の手に自分の手を添え、そこにまた相手の手が置かれ、さらに応じ、互いの手が即興で応答し合う場面。その繊細な一手一手に引き付けられた。また背中合わせに立った二人の一方がゆっくりと前屈して相手を背中に載せる。足を宙に浮かせる相手の身体と支える自分と重力とのバランスは、無数に選択されうるフォルムと力学の関係性のあわいから、今ここの選択として現れた特別な瞬間だった。

 

スコアからダンスを立ち上げる神村の発想と、そこに共働する増田のこれまでの取り組みから派生した本作だが、俳句のもつイマジネーションの喚起力や読みの自由さはスコアを逸脱しており、スコアの概念を押し広げていくものであるように思われた。

 


2022年8月4日木曜日

スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』

730日(土)

スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』

                                                                      @カフェムリウイ

 



演出・出演 小野彩加 中澤陽 山口静

音楽 ストォレ・クレイベリー (アルバム「Meezotints」より『Ashes(Aske)』)

主催・企画・制作 スペースノットブランク

 

自らを舞台作家と名乗り、演劇、ダンスといったジャンル分類以前のパフォーマンスのかたちを独自に探求しているのがスペースノットブランクだ、と現時点ではとりあえずこのように言っておく。2019年からリサーチと上演を重ねてきた「フィジカル・カタルシス」の一連は身体にフォーカスしたシリーズ。ダンスの視点から見ても大変興味深い。とくに20213月にKYOTO CHOREOGRAPHY AWARDで荒木知佳と立山澄により上演された『バランス』は、瓦礫の固まりが対峙しあうようなごつごつと荒々しく、かつ息を詰めるように緻密なパフォーマンスに圧倒された。当方にとってこの時の舞台が「フィジカル・カタルシス」シリーズの唯一の観覧の経験(他は映像で視聴)ゆえにおのずと比較対照することになるが、主宰の小野彩加と中澤陽が自ら出演、さらにスペノに出演経験のある山口静が加わった今回は、『バランス』における熱量、質量はそのままに、ある種の洗練、もしくは様式化を獲得しているように見えた。

 

ではその内容はどのようなものか。ごく身近な動作や身振りと同等レベルの動きを敢えて脈絡を持たないように配した動きは、日常の具体性から切り離され、我々の現実の生への連想を引き起こすことがない。身体という素材・物質の具体性を介して現れるが、意味性はないという意味で抽象化されている。エフェメラルな現れではなく身体のマテリアル性、質量と密度を湛えた身体の現実を手放すことのないまま、重なりや連結や変形によって編まれる言語とその複層が独自の様式を生み出そうとしている。当人たちはパンフレットの文章で「段階(フェーズ)」、「階層(クラス)」といった言葉を使っている。「ミュージック」「リプレイ」「フォーム」「ジャンプ」「トレース」「バランス」「サイクル」「ストリート」「オブジェクト」と試してきた各フェーズから、今回タイトルにある4つを取り上げ「層状に重ねて」みたという。観覧したところでは「段階」「階層」とされる構造がすぐさま理解されるわけではないが、各フェーズのアーキペラゴ状の配置が作品を構成しているようには見とめられた。言っておくべきはこれまでの各「フェーズ」においては、かつて見たことのないパフォーミングアーツの風景が現れていたということである。それがしばしば「何なのだろうこれは」と戸惑いを覚えることにも繋がったが、今回は少なくとも、これをダンスとして観ることが出来る、というレベルでの様式が見とめられたのは確かである。

 

3人の出演者は黒いボディタイツにスニーカーをはき、アスリートのような装い。筋肉と脂肪と意志の力をみっちりと蓄えた身体で腕を直角に使ったミニマムな動きからはじめる中澤は、シリアスなクラシック音楽とともに身体の諸部位に焦点を絞った小さな動きを連ねてゆき、その一連を、向きを変えるなどわずかな変化のもとに繰り返す。山口は音と動きの一対一の対応を、中澤がスマホのアプリから打ち出すドラムスの一打音に合わせて行う。種類の異なるドラムスの音色ごとに動きが決まっていて、打音の一撃に対し規定の動き――片膝を素早く引き上げる、膝下を斜めに蹴り上げるなど、最小の動きを即座に振り出す。音の出力はスマホを操作する中澤に拠っており、二人の間のゲームか駆け引きのようにも見える。小野はクラシックのベースをもったダンサーだがここではテクニックもシャッフルされており、中澤や山口の動きよりも全身の運動性の高い振付を弾力を感じさせる巧みなアーティキュレーションによって実行していく。時にバレエのポジションやポーズが見られたが、シャッフルされた身体の可動性の中の一つの現れとしてである。全編にたくさんの振付が施され、皆よく動く。とくに他の公演では演出に徹する小野と中澤が自ら踊るのを初めて見た。強い。振付の語彙はポストモダンダンスのそれに近いが、パフォーマンスの密度、動きの質量、振付の情報量、上演への意志と思考の力が尋常ではなく、破壊や解体や還元主義とは明らかに異なる。

 

個々の動きのほか、デュオ、トリオのシーンもあるが、分かりやすいコンタクトやパートナリングを行うわけではない。互いの作り出す動きの線、あるいは面をつないだり、重ねたり、といった操作と配置。テラスから同時にカフェ内部に入ってこようとする3人の身体が扉の幅を堰き止めてしまい身動き取れなくなる、といった場面もあった。3つの線/面/フェーズの絡まり合ったバグ。

 

会場のカフェムリウイは初めて行った場所で、祖師ヶ谷大蔵の商店街の雑居ビルの階段を3階に上がると、屋根の連なりの先に空が広がる素敵な眺望のテラスに出る。カフェの内側とガラス窓で隔てられたこのテラスも上演に使用される。階下へつながる階段を使ってダンサーが登場するのだが、借景となる空の向こうから現れたり去ったりする上演のスペックが、パフォーマンスの生起する仮構の平面を思わせた。

 

スペースノットブランクは今年のKYOTO EXPERIMENT 2022の公式プログラムにラインナップされ、戯曲の松原俊太郎と組んで演劇と映画に関わる作品を発表することになっている。こちらは「フィジカル・カタルシス」とは異なる関心を追及することになると思われるが、こうした各方位の関心とリサーチと上演の先に、小野・中澤は舞台芸術の何を見ようとしているのか。未だ決定的な論評がされていないグループであるし、ステイトメントに用いる語彙にも異なる含意があるようで、そのヴィジョンの全体を把握するのは困難を要し、非常に評価が難しい。冒頭で「とりあえず」としたのはそのためだ。KYOTO EXPERIMENTのディレクター諸氏はスペノのどこに期待と関心をもって招聘を決めたのか、記者会見はあったものの、それぞれの思いを是非直接聞いてみたい。