2016年6月1日水曜日

アンサンブル・ゾネ 稽古場公演 7×7



アンサンブル・ゾネ 全作品上演計画 7×7

Place in the Moment』 

5月20日(金) @アンサンブル・ゾネ 稽古場


作:岡登志子
出演:森美香代(ゲスト) 伊藤愛 糸瀬公二 桑野聖子 住吉山実里 中村萌 文山絵真




芦屋にあるアンサンブル・ゾネの稽古場にはこれまでに何度か訪ねたことがある。7×7とは床面の尺だそうで、踊るスペースとしては決して広くはないが、天井が高く、白い壁は清楚で、奥の壁の両隅のわずかなスリットから光が射し込むように設計されている。そのためか閉塞感はない。この稽古場でアンサンブル・ゾネのレパートリー全てを上演していこうという新しい企画が開始した。フライヤーに「陶芸家の窯開きのように」とある。日々ここで稽古をし、創作への思いを巡らす場所、振付家やダンサーの勤勉にして創造的な日常があること、そこから生まれるものを創造のかたちそのままに差し出したいということだろう。


計画の第一弾は2012年の『Place in the Moment』。初演ではコントラバスのライブ演奏が入り、ゲストに中村恩恵が出演した。この作品はダンサーの桑野聖子を「発見」したことで印象に残っている。開始後早々から主題の核心に迫るような迫真の踊りを見せた桑野。この日も大柄な骨格を生かし、小手先の動きにとどまることなく、空間との関係の中に自身の存在を確かめるように踊る。今回は35分のバージョン、初演時にはいなかった若手や新人も出演していて、年月を経る中でレパートリーを継承していく意味もありそうだ。何より若いダンサーが実践を通じてアンサンブル・ゾネの振付言語を体験する場となるだろう。


冒頭のソロを踊ったのが初めて見る人。バレエの基礎があるのかと見受けられたが、バレエとは異なる身体の使い方へのチャレンジでもあるのだろう、つま先立ちなどをしながらたくさんの振付を踊る。国内ダンス留学卒業以来こちらで研鑽を積んでいる住吉山実里は、振付をひとつひとつ考えたり確かめたりしながら踊っている様子だった。糸瀬公二はいつもの誠実で衒いのない踊りに、この日はちょっとしたグルーブ感も出ていた。気の置けない稽古場ならでは。選曲も素敵だった。伊藤愛は落ち着いた踊り。彼女を含めた女性4人のシーンは本作でひとつの見せ場だった。


ゲストの森美香代が入ると、生き生きと場が引き立つ。踊り込んできた身体のしなやかさと懐の深さでゾネの語法を咀嚼しながら、地面から自然に身体が立ち上がっているような、潔くくっきりとした存在感があった。中村恩恵のパートを踊るのかと思いきや、彼女のために岡登志子があらたに振り付けたという。


中村恩恵とのエクスチェンジ・プロジェクトもそうだったが、長いキャリアをもち、自身の方法論を確立し、たくさんの人を教えている舞踊家が、このような形で作業を共にするのは興味深いことだ。互いに異なる舞踊言語を持つ岡登志子と森美香代が、相手に振り付け、振り付けられ、思考や言語を交換し合い、自身の身体を更新し続ける。舞踊家がひとつのジャンルやテクニック、メソッドを自身の出自とし基本の言語とするとしても、キャリアの中ではそれに重ねて機会あるごとに様々なメソッドやテクニックを習得してゆく。自身の身体言語を常に進化させ更新しているわけで、若い時期に学んだバレエであったりモダンダンスであったり、グラハム・テクニックであったり、をそのままずっと固持しているというものではない。またテクニックやメソッドのほうでも、時代とともにその内容は変化し、更新されているのであって、半世紀以上も前のモダンダンスのテクニックが現在もそのまま、昔の古臭いテクニックとして生き延びていると考えるのは(あえてそれを堅持する方向もあると思うが)実際とは少し違うらしい。これは美香代さんが話してくれた。


こうした稽古場とかアトリエでのパフォーマンスは大好きである。劇場公演のための設えなど本来必要なく、ただダンスの生まれる瞬間に触れることで十分にダンスを思考することができる。もちろん、テクニカルを含めた公演形態でなければ提示しえない世界があることを否定するわけではない。間近で見ると、足と床、体の芯と空間の関係から身体のドラマが生じるのがよくわかる。ドラマとは具体的な内容を物語るという意味ではなく、身体の定常的な在りようから、何かが根底で動き、身体と世界の関わりようを変えていく、その大きなうねりのようなプロセスのことだ。合理性や理想を追求するのがバレエなら、ドイツ表現主義の流れを汲むアンサンブル・ゾネの踊りは、現に存在しているこの世界に、実体ある身体を通して、自身の存立の根拠を探り、確かめていくものであるように思える。


プログラムにはもう一つ、岡さんの即興ソロがあった。鮮やかな赤いワンピースを着て椅子に腰かけたところから、少しずつ動きが生まれ、やがて立ち上がり、一瞬一瞬が空間と呼応する。一定のムーブメントとして形を残したり軌跡を描いたりするのではなく、身体と動きが一体になって空間に存在する、その状態、変化するプロセス自体がダンスになり、音楽が終われば残されるものはない。ケレンもハッタリもない、けれども確かなものを見たという手応えと、動く身体の説得力が見た人の印象にのみ刻まれる。さりげなく始まったはずが、何か特別な出来事をこの目で見たような、見事な踊りだった。