2016年7月31日日曜日

山下残の授業発表公演


書きそびれたレビューのためのアーカイブ


2015年725日(土)


山下残 授業発表公演 『水のような、水』

@京都造形芸術大学 松林館屋上




京都造形芸術大学が位置する瓜生山を急勾配の階段に沿ってさらに高く上ったところに、京都の町を見下ろせる素晴らしい眺望をもった広場があり、ここに野外舞台が設営されている。薪能の上演などを行うこともあるというこの場所で、山下残が指導する舞台芸術学科のクラス発表公演があった。この日の午後、アトリエ劇研で別の公演があり、そこで会った人から情報を得て、午後5時からの発表に急遽駆けつけた。



天井も囲いの壁もない、床面のみが地面から1メートルほどの高さに組まれた舞台。盛夏の午後5時はまだまだ炎天下である。両サイドには金属パイプが高く組まれていて、パイプの口から舞台上に水が流れ落ちる仕掛けになっている。リノリウムを張った床は水浸しになり、ここにパフォーマーが水にまみれて身を滑らせる。出演者は7名、舞台の両サイドにしゃがんで待機している。一緒にいるスタッフは水圧のコントロールをしているのか、水は時に強く流れ落ちたり、弱まったり、止まったりする。



舞台上には常に何人かのパフォーマーがいて、音楽はなく、リズムもとらず、ただゆったりと、ストレッチを効かせたさまざまな動作を行う。環境に水という要素が加わることで、普段には経験しないような特別な体の感覚と運動が引き出される。



身体が水にぬれる、水をかぶる、という事態は、身体が何事かを「被る」ことである。実際のところ、服は濡れ、重量を増し、肌にまとわりつき、体温を奪う。身体にとっては甚だ煩わしい負荷となる。この日のような酷暑の中ではむしろ涼やかな恩恵というべきだが、いずれにせよ水との格闘を繰り返すうちに、この「負荷」のかかった事態はやがて「開放」へと転じる。水を浴び、身を浸し、戯れの中に涼しさや滑らかさの快感を得る身体。床面へのスライディングなど、動きにも通常には不可能な種類が加わり、スピードも増幅される。水に濡れることのもたらす厄介さとの格闘と、水をまとうことで開放される身体感覚と自由度を増す運動。負荷から快楽へのグラデーションをリアルタイムで経験しながらパフォーマンスはすすむ。



7人は入れ替わり舞台に出入りし、自らの身を挺してたっぷりと、動きの中で、この特別な条件下での体感を享受している。水にまみれたパフォーマーたちの肌が、夏の午後の日差しを受けてきらめき、生命を謳歌する。その悠然たる様子は波打ち際に身を横たえる海獣を連想させた。山下残に『動物の演劇』という作品があるが、何かの動物か生き物の生態を眺めているようでもあった。



水際を生きる身体の感覚は見る側にも十分に伝わってくる。子供の水遊びや動物の水浴はいつまで見ていても飽きないものだが、この日の舞台でもパフォーマーたちの姿を飽くことなく見続けていたかった。ドラマ的な設定はないが、水が止まり、水音が止むと訪れる静かさとか、舞台上に人がいなくなる瞬間の空白などが偶発的なメリハリになる。水は舞台の上では制御されつつも不確定な要素で、その不確定性、偶発性をはらんだ条件のもとにありながら、個々の身体の即興的な対応は、水の与える開放や快感原則に導かれてゆったりと鷹揚にすすんでいく。



この身体と水との関わりを、パフォーマーたちは何度も何度も、飽くことなく試し、探り、繰り返し味わっている。その存分な様子が、生きてここにあることを丸ごと受け入れ喜ぶ姿であると映った。あるいは、この特別な条件下での身体経験の繰り返しの中に、身体が何か新しい感覚へと開かれていく契機を見出そうとしていたのかもしれなかった。進化の木の枝分かれする瞬間とはこのようなものかもしれない。その方向もあり得るという新しい感覚や機能を、彼・彼女らの身体は水にまみれながら獲得しかかっていたのではなかったか――こんな想像力の遊びの余地を含んだパフォーマンスには、分かりやすい着地点などない分、たどり着こうとする場所への射程の大きさがあった。



山下残の授業発表としては、一昨年、『庭のようなもの』を上演したのを見たが、アイホールでのオリジナル版とはまた違って、コミュニケーションの方法をより動きに特化した躍動的な舞台になっていて、大変面白かった。今回は既存の作品の再演ではなく、授業を通しての新しいパフォーマンスの創作である。作品の意図などについて直接聞くことはなかったが、山下ならではの集団創作のスケールの大きさを感じる舞台だった。