2016年12月6日火曜日

黒沢美香氏を悼んで



12月1日、ダンサー・振付家の黒沢美香氏の訃報が入った。

10月末の国内ダンス留学5期生ショーケース公演『lonly woman』の指導で神戸に滞在され、アフタートークではダンスをみずみずしく語っておられた。11月のダンスボックス20周年パーティでも神戸ダンサーズの『JAZZZZZ』を見届ける姿が客席にあった。それがお会いした最後となった。つい先日のことだ。あまりに早く逝ってしまわれた。

黒沢美香氏の仕事に触れたのは多くが関西においてだが、公演のほか、国内ダンス留学のワークショップを見学させていただいたこともあり、その場に渦巻くエネルギーに圧倒された。何より「黒沢美香」を経験したダンサーたちが――ワークショップにせよ、リハーサルにせよ、公演本番にせよ――なにか尋常ならざる熱をあおり、高揚しているのが傍で見ていても手に取るようにわかるのだった。黒沢美香に出会うことで、踊る動機を問い質され、その人の中のなにか根源的なものが揺さぶられ、ダンスへの向き合い方が大きく変わるというダンサーたちをみてきたように思う。影響力は大きく、日本のコンテンポラリーダンスのゴッドマザーとの異名をとったが、どこか純粋な少女のままのような人でもあった。

ご冥福をお祈りいたします。


少し前のものだが黒沢美香氏について触れている文章を、追悼の意を込めて掲載します。
原稿はダンスボックスで行われた舞踊史講座シリーズ「ダンス解体新書」で、アメリカダンス史の講義を担当された中島那奈子氏からの課題を受け、メモ片手に口頭発表したものをのちに書き起こしたものです。論の荒い部分はご容赦を。





・日本のコンテンポラリーダンス・シーンにみるアメリカダンス史の流れ
 (課題発表の抄録 2012.9.11 @ArtTheater dB 神戸)


 今回は批評に携わる者として、ダンスを踊るのでも作るのでもない、もっぱら客席の側から舞台を見る立場で、アメリカのダンス史の現在への関わりを考えてみる。この場に集まっている皆さんは、ヒップホップやバレエ、あるいは神楽など、様々な踊りと関わっていらっしゃる方々だが、このようなダンサーの集まりの中にいると、ダンスというジャンルの裾野の広さをあらためて感じる。私はその中のごく狭いフィールドのひとつ、コンテンポラリーダンスに限って見て来た人間で、今日はその限られた鑑賞体験から、アメリカン・ダンスに繋がると思われる公演やダンサーを拾ってみようと思う。

 しかし、この課題――日本のコンテンポラリーダンスにアメリカのダンス史の直接の影響を即座に見て取ることは、なかなか難しかった。日本のコンテンポラリーダンスは1980年代の半ばに始まったといわれる。これは主にフランス・ヌーベル・ダンスの影響を受けてのことである。当時日本はバブル経済の真只中にあり、潤沢な企業の協賛金やプラザ合意後の円高の恩恵を受けて海外のビッグ・カンパニーが続々来日した。日本の若いダンサーたちがこの動きに大いに感化、触発され、(それまでの現代舞踊協会系とは違った)新しい価値観をもった作品を作り始めた、というのが定説である。舞踏の土方巽が亡くなりひとつの時代を画したのも、勅使川原三郎がバニョレに行ったのも80年代の半ば(1986年)であり、ピナ・バウシュの初来日もこの頃である。ウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルトバレエ団やベルギーのローザスなど、フランス以外でもヨーロッパのアーティストやカンパニーの来日が衆目を集めた。日本のダンス史を画する大きな契機といわれる89年の「ヨコハマ・アートウエーブ」では、勅使川原三郎ら日本勢に加えて、ピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踊団、ローザス、ダニエル・ラリュー、ラ・フーラ・デルス・バウスなど、海外からの招聘はこぞってヨーロッパ勢が占めていた。日本のコンテンポラリーダンスの初期は、ヨーロッパからの刺激や影響を多大に受けたといえるだろう。一方、アメリカは一昔前の中心というイメージが、私がダンスを見始めた90年代後半にはすっかり定着していた。

 しかしよく目を凝らしてみると、現在のコンテンポラリーダンス・シーンの中にも、アメリカのダンス史の流れを引くと思われる何人かのダンサーを見出すことができる。ここではその筆頭に、黒沢美香を挙げたいと思う。


 黒沢美香については、まず今年2月、こちらの劇場ArtTheater dBで開催された「Kobe-Asia Contemporary Dance Festival #2」に参加した作品、『Wave』について語りたい。これは1985年の作で、以後、黒沢自身がほとんど封印しかかっていたもので、Kobe-Asia Contemporary Dance Festivalでの上演は全く久しぶりでのことであったという。作品はアメリカのミニマリズムの影響を直に反映している。暗い舞台の中央にうっすらと浮かび上がる人影が脈打っていて、これが一歩進んでは一歩下がり、を繰り返す。歩行という動作のみに特化した、極度に削ぎ落とされた作品である。前へ後ろへの繰り返しが一定のリズムで行われ、やがて歩数を増して舞台の奥行きの距離の全てを前後に往来するうちに、ある時、不意に腕の振りが入り、それまでのミニマムな進行の中に、何か決定的なことが起こったというような、強烈な出来事としてのインパクトをもたらす。人の動作というものが、その最もシンプルな、歩を踏む、腕を振る、という還元された形で示されたポストモダンダンスの精神に則った作品である。

 黒沢でもうひとつ挙げたいのは、10年ほど前、ArtTheater dBが大阪にあった時代の公演(『薔薇の人』)で、舞台の上でひたすら掃除、雑巾がけをするというパフォーマンスだった。途中で肌も露わに着替えをしたと記憶するが、通常の意味でのダンス的な瞬間は訪れず、クライマックスも盛り上がりもない。これには正直、どう見ればいいのかと困惑した。後日、批評仲間の何人かとこの作品について話をした。このとき、本日のレクチャーでも言及のあったジョン・ケージの『4’33’’』を持ち出して話したことを覚えているが、それではこの黒沢のパフォーマンスをどう見るか。「ああ、雑巾がけをしているな、と思って(事実をそのまま)見ればいいのだ」と言う者、「では金を払って雑巾がけを見るのか」と突っ込む者。当時はまだジャドソン・グループについて多くを知らず、このようなコンセプチュアルな作品の存在を否定こそしないものの、実際にはどう受け止めればよいか、戸惑ったものである。

 今回この発表に際して、ある批評誌に黒沢美香へのインタビューがあったのを思い出して昨晩読み直してみた。黒沢は80年代の前半にニューヨークに2年ほど滞在している。ジャドソン・グループのリアルタイムの活動はすでにピークを過ぎていたが、それでもニューヨークにはジャドソンの精神はあふれていたという。それまでの黒沢は、両親とも舞踊家という家庭に育ち、現代舞踊協会系のモダンダンスを踊っていた人で、受賞歴も何度もある。そんな人がニューヨークで全く違った(価値観の)ダンスに出会った。本当に楽しかった、ニューヨークが大好きだったと答えている。挙げた2つの作品は、80年代前半のアメリカ、ニューヨークの、ジャドソン以来のポストモダンダンスの息吹を伝えるものと言えるだろう。黒沢の『薔薇の人』ソロ・シリーズでは、このほか、たとえばキャバレーの踊り子のきらびやかな衣装や、誇張された鎧のような乳房を身に着けるなど、身体に過剰なイメージを付与して踊る作品もあり、実にさまざまな顔をもった、奥の深い舞踊家だと思う。


 次に挙げたいのが、木佐貫邦子である。木佐貫の舞台はまだ私が東京にいた90年代の後半、ほんのわずかに見たことがある。日常的なスケールで動くダンスだが、日常の具体的な動作の引用はなく、すべて独自に作り出された、開発された動きで構成される。ジャドソン派が身振りや動作を対象化してその要素を根源的に突き詰めていった後、そこから新たに動きを作り直していく過程においては、動作は一振り、ストロークとして出てくる。フレーズを作らず、(身体の部位を単位とした)ワン・ストロークを組み立て、編み上げていくことで、ダンスの固有の空間が出来ていく。私が見た舞台では、木佐貫はスタスタとステージに現れると、手のひらを床に平行にかざして、重力を感じ取ろうとするかのような姿勢から始めた。ストーリーがないのはもちろん、ドラマ性、スペクタクル性とも無縁の、ひたすら身体のストロークのみでダンスを紡いで、編み上げていく。(また身体感覚を重視し、空間や場への知覚を鋭くするが、過度に内側に入り込むことはなく、没入による時間の圧縮や意味・象徴の付与をも避けている。)60年代のラディカルさを直接受け継ぐものではないが、ジャドソン派が切り開いたポストモダンダンスの地平のその後を耕すような表現である。日常の動作の引用はしないと言ったが、この公演のアンコールでの踊りに、ふと片手を挙げて左右に振る動きが現れた。ストイックに動きを追求していく中に出てきたこの動きは、客席に向かって手を振っているようにも見え、舞台上の身体言語と、客席のこちら側の通常の日常言語の意味のコードがふと繋がった瞬間だった。客席からは木佐貫に応えるように拍手が広がった。木佐貫も80年代にニューヨークに進出したと記憶する。コンテンポラリーダンス誕生前夜という時代、国内ではドイツのノイエ・タンツに由来する現代舞踊協会系の(もしくは50年代にアメリカから入ってきたグラハムテクニックに基づいた)モダンダンスが主流だった。その日本を飛び出し、新しいダンスの地平を求めた木佐貫のポストモダンダンスは、モダンダンスとコンテンポラリーダンスの間に位置し、両者をつなぐものと言えるだろう。


 身体による動きそれ自体がダンスであることを示す振付家として、アメリカからはジョディ・メルニックを挙げることができる。ジョディ・メルニックは2年ほど前、(ダンスボックスの招聘により)大阪のなにわ橋アートエリアB1で公演を行った。自身の振付作品、および新作振付を、関西在住のダンサーに振り写し、またあらたに振り付けたのである。このときのダンサーはアンサンブル・ゾネの伊藤愛、ソロ・ダンサーの黒子沙菜恵、京極朋彦だった。メルニックの作品でも、物語、感情表現、スペクタクルといった要素の侵入をシャットアウトし、身体とその動きのみに限定した厳しい振付だった。これもまた動きのミニマムを積み重ねていくことで空間を構築していくような振付で、メルニックに話を聞いたところ、トリシャ・ブラウンに影響を受けており、自身の作業を「アーキテクチャ」であると説明した。表現的、象徴的な意味作用を担うものではないが、樹が樹であり、雲が雲であるように、身体には身体それ自体の存在の仕方が/様式があるのだとも語っていた。


 さてこのようなアメリカのポストモダンダンスの方向性にあるダンサーを関西に探してみるとどうだろうか。ここで挙げたいのが宮北裕美である。宮北はアメリカの大学で舞踊を修めているので、その経歴から名前が浮かんだともいえるのだが、やはり仕事の内容からもポストモダンダンスの流れを引くアーティストといっていいだろう。宮北が目下、継続的に取り組んでいるのは、手作りで楽器の創作と演奏を手掛ける音楽家、鈴木昭男との即興的なセッションである。主に小さなアートスペースを使い、鈴木が作り出すのは身の回りの素朴なモノを用いてその素材ならではの響きや軋みによって鳴る様々な音だ。(これも“オルタナティブな”音楽であり、ポストモダンの芸術のひとつのあり方だろう。)鈴木が次々に音を作り出し、“演奏”する傍らで、それと関わったり関わらなかったりしながら、宮北が踊る。宮北の踊りも基本的に身体の部位をシンプルに使ったワン・ストロークの繰り返しと積み重ねである。ここでも感情表現とか意味や起承転結はなく、身体構造の分析と把握から自然なかたちで生み出される動きである。動きのリソースは常に身体の中にあり、身体からいくらでも踊りが引き出されて尽きることがない。そのままいつまでも踊っていられそうである。そうやって一振り一振りの単位が空間を切り開いてゆく先に、動きの豊穣な沃野、身体言語の広大なフィールドが広がっていく。

 
 以上のダンサーの仕事をよく見ると、多くはソロ・ダンサーの仕事であることに気付く。身一つで舞台に立つ身体の孤高にして敢然たる存在のしかたと、ポストモダンダンスが切り開いた思想的な地平を考えたとき、そこにフェミニズムとの照応関係を見出すことが可能ではないかと私は考えるのである。ダンス表現におけるフェミニズム思想というと、例えばピナ・バウシュの作品で、一人の女性ダンサーがたくさんの男性ダンサーに舞台の上でいじり倒されるといったシーンが、ある非対称な状況を告発しているのだ、といった表象としてのフェミニズムへの言及がされるが、ここではそうした意味・表象のうえではなく、(したがってある関係性におけるイメージと権力の操作としての政治性をいうのではなく、)ただ身体と動き――言語と形式としての究極の自律/自立した体系・時間軸と、弧であり個であることに立ち返る、生きる形式としてのフェミニズムとが共鳴する。ジャドソン・グループの根源的かつ急進的な思考、態度、身体観と、それを経て立ち至る運動としての政治性が、存在の形式として究極の自立を求めるラディカル・フェミニズムの理論、思想、運動と共振する局面が、ここにみられると思うのだ。