2019年12月29日日曜日

ダンスという仮象 ~ヲミトルカイ 『家の無い庭』~

 ダンスという仮象

~ヲミトルカイ 『家の無い庭』~

2019年4月6日  @角野邸



【蔵出しレビュー】


庭は人の手になる最も親密な創作物のひとつだが、その存在は両義的だ。自然と人工、配置と造形、プライベートとパブリック、内と外。囲われた小空間には美と秩序の完結したイメージが投影されるが、ひとたび放置すれば、たちまち野生が支配する。むしろ変化を内包し、自然の理に即して姿を変えていくことが庭の本来的な在り方であるのだろう。人が自らの理想を託す庭は、両義性のあわいに成り立つ仮象にすぎないのかもしれない。


今作は神戸市長田区の下町に大正時代に建造され、今は住む人のない民家で行われたサイトスペシフィックなダンス公演である。上演のほかにヲミトルカイのダンサーらによる3種類の屋内インスタレーションがあり、全体で一つの公演を構成している。観客は玄関から家に上がり、各部屋の展示に案内される。松縄春香による樹木をかたどり外の光を招き入れる切り絵。いはらみくによる動物のミニチュアを多数配したジオラマ。遠藤僚之介は完全暗転した部屋の中で微かなノイズを含んだ環境音を再生する。いずれも作り手が観察し妄想する「庭」のイメージ/実体の表現である。ダンスの上演はこれら3つに並列した山本和馬の構成・振付作品という位置づけで、この家の小さな坪庭で行われた。観客は家屋の2階から庭に面した縁側へ降り、ガラス窓を通して鑑賞する。窓の大きさが額縁となり、一つの画面を形作る。


開始時、庭石や植生に溶け込むように風景の一部となった山本和馬、いはらみくの姿があり、遠藤僚之介が自身の動線を引き込むように「画面」に入る。ほどなくして山本は庭を囲むブロック塀に上り、天辺を歩くと、そのまま塀の向こう側へ姿を消してしまう。早い段階での山本の不在は、その後もパフォーマンスを通じて通奏低音のように響き続ける。


遠藤といはらの水平に延ばした腕が繋がり、庭に一つの景が立ち上がる。ミラーリングやユニゾン、互いの接触点を移動させるコンタクトなど、同調と離散を重ね、風景の中に芽生えるダンスを提示していく。二人は向かい合って相手の首元に腕を回し、互いに引き寄せ合う。一方がくるりと向きを変えると、相手が背中から抱えるより早く、その身は地面に崩折れてしまう。こぼれる砂のように儚い二人のデュエット、そして周囲の環境を感受しながらすすむ各々の繊細なソロが、身体の境界を曖昧にし、移ろいゆく時間を可視化する。二人はそれぞれ背中で地面を感じ、石の表面や木肌の肌理に身を預ける。自我を消失し、環境に同化してゆく解体的な身体の、自在な物質感に目を見張らされる。


4人目のダンサー松縄春香は、しん、と透徹した空気を漂わせて庭に入ると、周囲を眺め、樹木に手を伸ばし、静かにその場を巡る。松縄の眼差しは庭を対象化する。環境と同化する遠藤やいはらの身体に対し、あくまで見る主体として現れた松縄は、ゆっくりと揺蕩いながら手数少なくソロを舞う。3人で地面の石を手に取り、中央の小山に向けて放ったり、足元の石を寄せながら轍を作ったりするくだりは、風景の変化や物質の風化、その形跡についての言及だろうか。遠藤と松縄のデュエットは、庭と親密な身体と、それらを対象化する身体によるダンスであり、自然に属する身体と人間の身体、見られる側と見る側、男性と女性のダンスでもある。異質なもの同士、位相を異にする主体どうしが時を縒り合わせながら、過ぎてゆく時間そのものを踊るようなデュエット。分節されない身体、刻まれることのない時間の中で、ただ互いのありようを触れ合わせているかのようなダンス。二人は重ねた腕を体の前方へ伸ばすが、さらにその腕の先を庭の境界の外へと向け、身体の実寸の限界を超えて、その先の何かへ届かせようとする。かりそめのダンスの行く先を問うているようでもある。やがて緊張は解かれ、それぞれの身体は、その場に崩れ、地面に同化してゆく。踊り続けていたいはらは動きを止め、記憶の中に固定される。人も自然も風景に取り込まれ、その風景もまた風化への予感を残して、パフォーマンスは終わる。


公演は昼と夜、時間帯を変えて行われたが、自然光のもとでの昼の上演がとくに素晴らしかった。午後の光と澄んだ空気、庭の土、石、樹木、それらの感触がガラス越しにも体感され、わずかな陽射しの傾きでパフォーマンス中の時間の経過を知る。庭を歩くダンサーの目に一瞬、陽の光が斜めに入り、眼球を透き通らせて見せたのが美しかった。


庭を巡る本作の着想は、東日本大震災の被災地を訪れた体験に基づくという。風景の喪失と、かつてそこにあったものの気配。圧倒的な不在の痕跡。風景はそれを形作った営みの去った後も、風景であり続けるのか。人はそこに何を見ているのだろう。この強烈に刻まれた不在と喪失の感覚を、山本たちは、神戸市長田区の、自らのダンスの根付く日常にパラフレーズしたのだ。見上げれば高層マンションも視界に入る、塀に囲まれた小さな民家の庭。かつて住んだ人が縁側から眺めたであろうはずの景色に、ダンサーたちは息を吹き込む。庭はここでは視線の対象たるパフォーマティブな仮象の別称だが、では視線の主体が失われたとき、庭はどこへゆくのか。そしてダンスは?と山本は問う。劇場でそれを欲する眼差しから解かれたとき、そのパフォーマティブな対象はそれでもダンスであり続けるだろうか。「家の無い庭」とは浮遊する仮象を巡る考察だ。かつてそこにあったものの痕跡と記憶が、視線と認識の制度への批判を含みながら、ダンスという仮象のゆくえを探している。



出演:ヲミトルカイ(いはらみく、遠藤僚之介、松縄春香、山本和馬)

舞台監督:米澤百奈

協力:ArtTheater dB KOBE





2019年8月19日月曜日

梅田哲也『Composite』と山下残『船乗りたち』


8月12日(月・祝)


ワークショップ「表現しないうたと身体」制作公演

               

@神戸アートビレッジセンター





・梅田哲也『Composite』

 出演 梅田哲也、ワークショップ参加者有志、他




KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGで発表され、フィリピン、ベルギーでも現地の人々とワークショップや上演を行ってきたパフォーマンス作品。そもそもの構想は「フィリピン山岳地帯にあるカヤン村の子どもたちと制作した作品を再構築」したもので、「動きと声の掛け合わせで進行する合唱」「指揮者のような中心点を持たないパフォーマンス」とされる(KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGパンフレットより)。



今回、神戸では、「表現しないうたと身体」と題し、小学生、中学生、高校生のほかに教育に関わる大人などを対象にしたワークショップの発表公演の形で行われた。ワークショップ自体はKAVCが主催する「はじまりのみかた」シリーズ(*)のVol.3として企画されたものである。出演はWS参加者有志を中心とした20名。客席内に紛れて座っていて、出番がくると舞台フロアに降りていく。最初は大人の男女6名によるパフォーマンスで、手足で一定の動きを繰り返すタスクを行う。後に子どもチーム6名が現れて同様のタスクを行う。さらにパフォーマーが加わり、先の2チームとは異なる内容のタスクを行う。最後にはこれらのタスクが重なり、声と身振りの分厚い層をなして会場を満たす。

  *はじまりのみかた:アートのはじまりの見方を提案し、はじまりを味方にするワークショップシリーズ。文化活動の入り口となる様々な事柄に着目し「体感する」「思考する」「探求する」「創造する」をキーワードに、幅広いジャンルを横断しながら企画を構成。シリーズを通した受講によって。参加者が文化芸術に親しみ、また自身の生活の中に文化的な視野を育むきっかけとなるような講座を目指す。(KAVCHPより)



パフォーマンス作品とも合唱作品とも銘打たれるこの『Composite』は、ごく簡単な身振りと声のパターンの繰り返しで成り立っている。最初の大人6人(男女3人ずつ)は、「かごめかごめ」のように手を繋いで輪になり、内側を向き、各々自分の手、腕、肩など体の部位を軽く叩く動作をする。時折、右足で床を踏み一拍の音を出す動作も組み込まれる。同時に「ウ、ウ、アレ。ウ、ウ、アレ」と3拍子で声を出し、唱和する。ただし、6人の動作と発声には3種類(だと思う)のパターンがあり、おそらく2人ずつで一つのパターンを繰り返す。また時折交代して、それぞれが異なるパターンを行うようにルール化されている、と見える。そのパターンの違いとは、「ウ、ウ、アレ」が、「ウ、アレ、ウ」になったり、「アレ、アレ、ウ」となったりするが、よく聞いてみても実のところ、異なるパターンを交代して行っているのか、一つのパターンの輪唱によるズレでこのように聞こえるのか、見極め(聞き極め)は難しい。動作にも、片手の先で反対側の手先、手首、肘の内側、肩を軽いタッチでトントンと叩いていくほか、両手で両肩を叩き、下に下ろし、といったものなど、これも3つほどのパターンが観察された。パフォーマンスする6人はみな目を閉じていて、ひと通りの動作と発声の反復を終えると、手を繋いで輪を少しだけ回転させ、各自の位置が隣に二人分くらい移動する。これを合図に担当するパターンの交代が行われるようだった。そしてまた新たに3拍子の声と動作の反復が行われる。このようにして、行為はシンプルながら、一定の拍子で進む複数の声と動作、そこに床を踏む音のアクセンが加わり、声の質も女声と男声が混成し、結果として複雑で厚みのある声と音の重なりが生まれる。さらに、声を全く出さないで動作のみを遂行する回もあって、進行は変則的である。輪を回ってパターン交代をする際の直前のタスクの終わらせ方を見ると、6人一斉に終えるのではなく、ばらばらに終え、最後に二人、一人と声と動作が残る。皆、目をつぶっているはずだが、どのようなルールで何を感知し動作を終息させ、次へ移るのか。個々によるタスク遂行の差異か、何等かの判断が相互にはたらいるのか。このあたりにこの作品のゲーム性、遊戯性が胚胎していたような気がする。遊戯といえば、実際に、このパフォーマンスの印象は輪になった子供の遊びであり、拍子をつけた発声はわらべ歌を思わせる。無国籍なわらべ歌だ。



大人だけで結構な時間が、おそらく上演時間の半分ほどが過ぎた頃、子どもチーム6人が現れ、同じような要領でパフォーマンスを始める。小学生の男女に中学生か高校生と見える人も数人交じっている。一人、とても元気な小学生の女の子がいて、大人が淡々と繰り返すのを見慣れてきた手足の動作を、それこそダンスのようにひとつながりのフレーズとしてグルービーに動いている。拍子に先んじてストロークを出し、身体全体を弾ませ、動作を行うことが楽しくてじっとしていられなくて、といった生気が全身に漲っていた。舞台には大人6人と子ども6人による二つの輪が出来ていて、それぞれに「ウ、ウ、アレ」「アレ、アレ、ウ」の3拍子の遊戯が進行し、男声と女声、大人と子供、子供にも小学生、中学生、高校生と異なる世代による声と身体と身振りが混在し重層して、いっそう分厚い声とリズムの重なりを織りなしている。二つの輪の間で拍子を揃えることはないから、それぞれの3拍子はさらなるズレを含んでいる。しかしどこかの拍子で誰かの声がひときわクリアに届いてくる瞬間があり、全体がただの騒音とかノイズと化すことは決してない。それはちょうど、夜中に泣きかわすカエルの合唱を聞くようだった。混沌というより濃淡、もしくは遠近であり、その中で突出してクリアに届いてくる声は、閃く主旋律に聞こえる。それは一瞬のことであり、旋律はしばしば交代する。誰かの声が浮き上がり、他の誰かの声は全体の中に沈み込み、ということが一つの現象として絶えず起こっている。



その後、パフォーマンスはさらなる段階へ。客席からあらたに二人の女性がフロアに入り、床にテープを張って一本の境界線を設ける。それから二人は6人組の輪の2チームとはまったく別のテンポで、一定のフレーズのある声を発していく。フレーズはパストラーレふうの8分の6拍子に近く、「タータ、ターララ、タータ、ターララ」と歌のように聞こえる。二人の女性はフレーズの拍子がもつ自然な抑揚に合わせ、一歩ずつ歩みを進めながらフロア中を移動する。境界線のテープの上をなぞるように進む人もいる。客席からはさらに一人、またひとりとパフォーマーがフロアへ入っていき、フレーズに加わりフロアを埋めていく。いまや異なる種類のタスクが二つの輪とランダムな移動によって遂行されている。異なるパターン、重なる声が、この場所をうっそうと覆っていく。



途中、照明が落とされ、暗闇の中で声が続く場面があるが、様々な方向から拍子を複雑に重ねながら届く子どもの声や大人の声に耳を澄ますのは、まさに夜中のカエルの合唱を聞くのに似た体験だった。



やがて輪のチームから一人ずつ、徐々に抜けてパフトラーレのフレーズの側に加わる。大人の輪も子どもの輪もそのようにして縮減し、フロア上にいた20名に及んだパフォーマーたちは、少しずつ舞台をはけていく。最後に3人の人が残るが、ここであらためて気づいたのは、この間、ランダムに移動していた人たちも、目を閉じたままタスクをこなしていたらしいことだ。3人のうちの二人は動線が交差して身体がぶつかったところで両者ともはけていった。目を閉じていたので互いに避けることが出来なかったのだ。最後に一人女性が残った。が、もはや誰ともぶつかることはないので、このままでは永遠にひとりフレーズをうたいながら一歩、一歩と動くのみである。その時、客席側から巨大な風船が放り入れられ女性にやわらかくぶつかった。これで女性も無事タスクを終了し舞台を去ることができた。風船は先にも舞台に投入されていたので、これにぶつかったり触れたりした人は、はける、というルールが最初からあったのかもしれない。



シンプルな動作、親しみやすい声のパターンからのこのような厚みと広がりのあるパフォーマンスへの発展が驚きであり、面白くもある。人の小さな輪がやがて大きな集合になり、異なる複数の運動を含み、分厚いテクスチャーを生す。やがてそれらは解けて一人=個へ戻る。おそらくあらゆる民族、地域に共通するであろう遊戯のエッセンスを抽出したような、最小単位の動作で構成されたパフォーマンスの形態に、個と集合のシンプルな原形を見たように思う。京都以来の2度目の観覧ながら興味が尽きることはない。








・山下残『船乗りたち』

 出演  山下残 垣尾優 佐々木峻一(努力クラブ) 畑中良太




ワークショップ成果発表とダブルビルで上演されたのは山下残の旧作。私は過去の公演を見ていないので今回は得難い機会だった。

タイトルどおり、船に乗った状態を舞台に再現したのが初演時の構想で、人が乗れば不安定に揺れるボードの上で演じたと聞く。足元のぐらつく不確定な要素が演じ手たちの身体に負荷として掛かっていたはずだ。今回、ボードはなく、ダンサーたちは直接フロアの上で演じる。身体が対処すべき負荷が一段減っているわけだが、その条件で不確定な要素を振付によって作り出すことが試されていたのだと、後になって気付いた。以下は、どのような趣旨や意図が込められていたのかはさておき観客の目にはこのように映った、という事実を記述していく。



出演は男性ばかり4人。これは初演時と同じで、垣尾優はその初演にも出演している。内容は特になく、人の体が日常的に動きうる範囲において、さまざまな動作、身振りを即物的にパフォームしていく。基本は舞台の中央に4人が集まって行われるが、これは元の構想がボードの上での演技だったことによるだろう。4人は互いをよく見合い、間合いを取り、誰かが動くと、他の者たちも同様の動きを行う。この繰り返しは、最初に動き始める者の振付を他の3人が模倣するというタスクに見える。模倣と言っても、一挙手一投足の形、角度、方向の全てを忠実に再現して見せるという意味ではない。たとえば「中腰に構えてドタドタ歩く」といった指示の範囲で各人が自身の身体で解釈して動く、といったほどの意味だ。動きの内容は同じだが、型や方向などパフォームのされ方には幅がある。また一斉に模倣する場合もあれば、一人ずつ順に真似て動いて見せる場合もあり、タイミングにも幅がある。これを不確定要素と言ってもいいだろう。



一つの動きを行うことを1シーンとし、シーンは次々と間を置かずに連なっていく。後で聞いたところでは全15シーンあったそうで、15のアイデア、15の振付が再現されたわけである。4人が互いの出方を伺う様子は柔道かレスリングなどの格闘技を思わせ、身体を交えて対戦することはないが、敵味方のないバランスの中へ、4人が機を見て自分の身体を投じる試みに見える。互いを観察し合い、間合いを測り合う間に、各々が意思をキャッチし合う、一種のコミュニケーションが図られているようにも見える。その意味で作品は相互的、ゲーム的であり、パフォーマンスは即興性を多分に含んだものに感じられる。



15の動きの一つひとつに意味や脈絡はなく、全体を貫くドラトゥルギーも存在しない。腰を落とし気味に構え、床の上でごろごろし、身体を揺らしたり、腕を上下させたりそよがせたり、・・・このように記述することに記述以上の意味はないほどの、単純で非目的的な動き。しかし人の身体の、四肢や胴体や頭部がとり得るあらゆる動きを、なんら背景も状況設定もないニュートラルな演技空間で、振付の引出しから取り出すようにして、4つの身体で遂行していく。引出しの中のアイデアは尽きることがなく、人の身体からこぼれ出る動作や身振りのたっぷりとした豊かさが、繁茂する身振りの森といった調子で体現されてゆく。動きが演じられる順番にも、先行するシーンからの必然的な流れでこのように動く、といった身体運動に即した道理はない。一つの場面、一つの動きは、人の動きの純粋なサンプルとしてあり、作品はサンプルの組み合わせと集積として成り立っている。こういうと無機的に聞こえるが、その背後には稽古場で自ら動き、膨大な振付を生み出し、記録した、作業の「量」があるだろうことを推察させるものがある。



非ドラマ的という意味で演劇からは遠く、身体と動きを媒体とした表出という意味でダンスに近い。ただし、ダンスといっても踊る身体を司る技術というものをいっさい用いず、裸足で床に立ち、普段の生活と変わらないピッチで舞台に居る。音楽は使用せず、詩的な感興や抒情を引き寄せることもなければ、振りをリズムで調整することも、カウントで分割することもしない。そうした意味では非ダンス的と言えるのかもしれない。(ダンスを、日常とは異なる調整をもって身体を一定の様式・スタイルのもとに運用する技術、およびそれが刻み出す時間もしくは織り出す審美的なテクスチャーとするならば。)舞台に現われ演じられ遂行されるのは、雑多にしてナチュラルで有機的で、人の生態に親しく、身体の合理性に即した動きの数々である。それらはあくまで無目的で意味をなさない。限りなくリアリスティックであり、かつ振付家により考案されたフィクショナルな動きである。それらをひたすら遂行する4人の行為は、真摯にしてナンセンスで可笑しみがあり、動物園の動物たちをいつまで見ていても飽きないように、いつまでも見続けていたい面白さがある。人の動作・身振りの本質に触れ得ているような奥深さがある。遊戯する人=ホモ・ルーデンスと呼ぶべき人たちを目の当たりにする感慨を覚えるのはこのような時である。



上に述べたパフォーマンスの相互性、ゲーム性、即興性について、終演後、振付家に話を聞いたところ、ほぼ振り付けられたものであると分かった。4人が同じ動きをするにしてもそれがユニゾンにならないように、シーンとシーンの境目が機械的に分断されないように、振付の段階でさまざまなズレを設定しているという。観察されたところでは、誰か一人が始めた動きを、他の者らが見て取り、各々の身体で模倣する。そろそろ納得がいったところで、次に誰かが別の動きをしてみる。それを見て取った他の者らがやはり真似て自分なりに動いてみる、ということを繰り返しているように見える。だから4人の動作の動き出しは少しずつ時差を生じ、一斉に動くとか一糸乱れず規範的に動くといった統制から遠ざかる。動きはいつも誰かが先んじているように映るし、一つの動きを真似ていく状況で一人だけはそれをやらないという選択もある。最初の一人から、次の人、その次の人、と順に真似て動き、最後の一人が動くと期待させておいてそれをやらない、といったオチもある。そのようにして動作は、時間的にも内容的にも、様々なレベルにおいてずらされており、そのズレはあらかじめ振付として仕込んであるのである。そうすることで構造としてはサンプルの連続的な提示である本作が、生体的、有機的なあいまいさ、複雑さを得ている。



上演の順番は『船乗りたち』が最初で『Composite』が後。2作には共通点があり、好企画だった。どちらも集団の間で動きを共有するための自然発生的なプロセスへの仕掛けを構造化することで、ダンス・テクニックを媒介としない身体パフォーマンスの可能性を力強く示していたと思う。










2019年7月26日金曜日

ローザス来日公演 『我ら人生のただ中にあって』


2019年5月19日   @東京芸術劇場 プレイハウス



【蔵出しレビュー】手元にある未発表原稿を掲載



東京芸術劇場プレイハウスのステージは奥行きがたっぷり深く、ほぼ正方形に近い形状で使用される。本来なら正面性のあるプロセニアム劇場とは違う場所で上演される作品なのかもしれない。2017年の初演は、ベルギー国内の使われなくなった工場か、それに似た場所だったと聞く。舞台上に装置は何もないが、床にはチョークで円や直線などの図形が描かれている。これについては開演前にロビーで販売していた写真集を見て知った。写真集を見ていなかったら1階客席からは気付かなかったかもしれない。2階席から見下ろして図形と実際のダンサーの動きの関係を確かめてみるのも面白かったろうと思う。


奥行きの深さ、天井の高さ、青み掛かった深い照明のトーン、チェリストのための一脚の椅子。それ以外に何もないがそれでもう完璧な深みをもった空間だ。チェリストのインディゴ・ブルーの服が空間のトーンに一層のニュアンスを添える。


バッハの無伴奏チェロ組曲は全6曲、さらにそれぞれが6つのピースをもつ。第一番ト長調なら、1.プレリュード、2.アルマンド、3.クーラント、4.サラバンド、5.メヌエット、6.ジーグ。曲によって5.メヌエットが、3番4番ではブーレになり、5番6番ではガヴォットになる。3番のブーレ、6番のガヴォットは有名で、リサイタルでは単独でアンコール曲として演奏されたりする。プレリュードは「前奏曲」だが、他はいずれも舞曲であることに、振付化される縁を感じる。


第1番はト長調、第2番はニ短調、第3番はハ長調・・・と曲ごとに異なる調整で作曲されている。短調は第2番と第5番だ。第一番はト長調ならではの透明な明るさのある曲調。第3番は華やかさがある。この二つは特に聴き易くポピュラーだ。いずれの組曲も一つの調整で統一された、互いにリズムの異なる6つのピースで構成されている。また第1番から第6番までの異なる調整は互いに関係し合っているともいわれ、組曲全体でひとつの秩序体系を形成しているという。こうした秩序立った形式性に魅かれて作品を作るのはケースマイケルの他の作品でも見られることで、フィボナッチ数列の応用など数理的な理論と音楽、ダンスの関係を探求する彼女の面目躍如といったところだろう。


ケースマイケルは第1番から第6番まで各曲が始まる前に舞台下手前に現れ、客席に向かって指で「I」、「II」、「III」…と曲の番号を示す。示し方にちょっとずつ指の形を工夫したサインが加わり、なにかしらの意味・符牒を込めているようにも見える。このダンス作品が何かしら宇宙のごとき構成体の一部に組み入れられるべきものであることを示そうとするかに思われた。そのことは、やはり各曲開始時、舞台奥の壁にデジタルな4桁の数字が映写される時にも感じた。これはJ.S,バッハの作品番号の提示だと後に知ったが、数字を打つ、ナンバリングするということは、世界の中の事物をある秩序のもとに整え、位置づけ、カタログ化することだ。第1番は「1007」と打たれ、以後一曲ごとに数字が増えていく。


第1番から第5番まではそれぞれを一人のダンサーが踊る。但し各曲とも2曲目のアルマンドはケースマイケルとのデュオになる。第1番は大柄な口髭のある男性ダンサー、第2番は色白の男性、第3番はショートヘアの女性、第4番はさらに大柄であごひげのある熊さん?みたいなダンサー。第5番はケースマイケル自身が踊り、第6番は5名全員で踊る。ただし少々変則的な部分があり、後に述べる。


ダンサーごとに持ち味が異なり、用いられる振付の語彙も異なる。第1番、第2番のダンサーたちがいずれもフロアへのフォールを含んだポストモダンな振付で動いていたのに比べ、第3番の女性ダンサーは精緻に音を取り、身体のポジションを正統に保ち、シャープな動きを見せていた。ただ第3番はチェロ組曲の中でも華やかさと圧倒的な盛り上がりを見せる曲だが、それに対してはちょっとお利巧に収まっている印象を受けた。音楽を詳細にアナリーゼした振付であるのだろうけれど、そしてハ長調からくる正統さと明朗さであるのだろうけれど、単に音から動きへ、では掬い上げきれない音楽の特質といったものはあるだろう。だがそうした「情」や「感」に拠った聞き方をするべき音楽ではバッハはないのだということでもあるだろうか。チェリストのジャン=ギアン・ケラスの解釈は、華美な演奏を志向してはいないものの、敢えて抑制した演奏というのでもない。軽快で、自在な弓捌きが見事で、母語を操るように弓を操る。かつ、技巧に拠るのではない、思慮深さのあるチェロ。第4番の男性ダンサー「熊さん」は床への自由落下を繰り返しながら音楽の節に応じていく。


全6曲に共通した振付要素があったことも記しておかなくてはいけない。各曲の2番目アルマンドはいずれもケースマイケルとのデュオであることは既に述べた。加えて、3番目クーラントはいずれのダンサーも軽快で躍動感ある動きを見せる。4番目サラバンドでは、音楽がゆったりとした拍子であることからだろう、床を使った動きを多用する。5番目メヌエット/ブーレ/ガヴォットでは、前進後退の歩みを音楽のリズムに合わせて行う。6曲目ジーグは各組曲の最後を締める華麗な音楽であり、踊りも躍動的なステップや、回転やターンなど「見せ場」的な要素を多く取り入れたダニナミックな振付となる。第3番の女性はギャロップ風のステップを見せていた。


もう一つ、振付について言うと、2曲目アルマンドのデュオではケースマイケルの振付はどの組曲もほぼ同じものだった、もしくは同じ部分をかなり多く含んでいた。もちろん曲が異なり相手のダンサーが異なるので全く同じデュオのピースを踊っているという印象はないが、それがかえって異なるものの中に埋め込まれた符牒を示すことになる。第4番のデュオでは「熊さん」とケースマイケルがともに客席に背を向け、ホリゾントに向かって踊る。客席からは同じ振付を背後から見ている図になる。


このように、6つのピースからなる6つの組曲という構成に、振付・構成・演出の上でいくつかの共通項を串差すように通し、さらにそれらを数学的・幾何学的に転移させながら、ダンスが音楽と空間の形式と秩序に応えようとしていることがわかる。


チェリストのジャン=ギアン・ケラスは楽曲ごとに椅子の位置を変える。第1番では舞台中央で客席に背中を向けて。2番では位置をずらし、客席に対し横向きに。3番は正面を向いて、といったように。舞台の景色に変化をつけるためと思って見ていたのだが、こうして振り返ってみると、空間的にも、本来正面性のない舞台において、観客が対象のダンサーに対してその都度異なる角度からの見え方を作り出すための操作と考えてよいのではないか。    


さて、ダンスはこのまま定形を保ち、バッハの組曲の構成に即して進行するかに見えたが、曲が進むにつれてこの形は変則的になり、作品としての展開を見せていて、なかなか一筋縄ではいかない。第3番の途中で演奏が突如途絶え、ダンスも中断、謎の沈黙・静止に入った。これはちょっとした脅かしやアクセントとしての中断というにはかなり長く、その中断、沈黙、静止の意味を見る者に否が応にも考えさせる。ハ長調の正統、明朗の只中に示された空白の中心であり、秩序ある構造の中心の無を、あるいは明朗・緻密な秩序に対するダンスの不可能性を、示唆するのだろうか。


また第4番ではやはり途中で演奏が途絶え、ダンスだけが続いていく。この楽曲を踊ったのは前述のように臥体の大きな髭の男性(熊さん)。チェロのパッセージに合わせてフォールダウンを繰り返す負荷の大きい動きをしていたが、音のない場面でも踊り込んでいったその果てに、上手袖でこちらに背を向け、身を横たえる。音楽に対してダンスは、身体という実体を抱えている限り、完全な応答は不可能であるのだと、横たわるダンサーの身体は無言で語っていたのだろうか。


チェロは第5番の演奏に入るが、先の「熊さん」はその冒頭を少し踊ってから退いた。楽曲ごとに一人のダンサーが躍るという形態に変化が加わったわけだ。第五番のダンサーとして現れたのはケースマイケルだった。この第5番にはそれまでの4曲とはこれまた異なる変化があり、まずダンスなしでチェロの演奏のみの時間帯がある。照明が落ち、下手サイドからの灯り一つが上手寄りにいるチェリストを照らす。その光にケールマイケルも照らされて踊る。ケースマイケルはしかし光の外に出て、ほとんど姿を見て取れない闇の中で踊り続ける。

つまり第3番は演奏と踊りの中断、

第4番は演奏なしのダンスのみ、

第5番はダンスなしの演奏のみ、の時間帯が挟まれているというわけである。

こうした演出・構成の仕掛けは効果的だった。聞こえない音楽を聴き、見えないダンスを想像する。それはまた、それぞれの曲を振付家がどのような言語に変換しダンサーがどう対応して踊るかにのみ焦点を絞るのではなく、組曲全体の構成、バッハの音楽の構造自体に意識を向け、演奏が、またダンスがある箇所で欠損することで、音世界の完全性(ダンスには決して体現しえない)が逆説的に印象付けられる。


第6番はダンサー5名全員が出て来て、各々のソロの動きを再び踊ったりなどする。個人的に注目したいガヴォットは、やはり5人が並んで前進後退のステップを曲のリズムとともに繰り返し、ステージの奥へ手前へと動く、というもの。本作の規則・形態に則ったとはいえ、うーん、こうなるか、そうか。

しかし最後のジーグは5人入り乱れての蝶の舞のような乱舞となった。チェロが最後の音を鳴らし終えた瞬間、余韻もなくパっと照明が落ちたのがかっこよすぎた。



ダンスについて一点言及しておくとすれば、本作に見られた振付言語は、主に現在のコンテンポラリーダンスを形作っている主要な言語と言っていいだろう。すなわちリリーステクニクを中心とした自由落下、遠心力を用いた回転、ステップ、コンタクト(触れないコンタクト含め)など、重力や空間と対話する身体から繰り出される、自由度の高い動きである。前回の来日時にプログラムされた『FASE』が、ケースマイケルがニューヨークでポストモダンダンスの洗礼を受け、ヨーロッパに戻って間もない時期に作られら作品で、まさにポストモダンダンス色を感じさせたとすれば、今回の来日公演は本作『我ら人生のただ中に会って』、もう一方のプログラム『A Love Supreme』も、ダンス・クラシック、モダンダンス、ポストモダンダンスを経てコンテンポラリーダンスと呼ばれるダンスの今日現在の熟成した言語を示しているのだと言えるだろう。より演劇的に、あるいはヴィジュアル・アートとの混交を深める方向にある今日のパフォーミングアーツにおいて、ダンスそのものの追求を続けるケースマイケル。また『A Love Supreme』がジョン・コルトレーンへの、『我ら人生のただ中にあって』がバッハへの、大いなる/切なる応答として作られたダンスであることは肝要な点だろう。ジャズに対するアプローチと、バロック/古典音楽に対するそれとの違いもさらに考えていきたい。






 


 

2019年6月21日金曜日

社会的な身体のドキュメント ~村川拓也『瓦礫』劇評 再掲載


Dance Fanfare Kyoto 2013 参加作品

演劇 × ダンス


『瓦礫』

演出:村川拓也 

2013年7月7日(日)  @元・立誠小学校




  



何が人の身体を動かすかに興味があると言ったのはピナ・バウシュだが、「何」に相当するものをダンスでは多くの場合、「記憶」に求めてきたと言っていいのだろう。身体の内側に年月をかけて積み重なる記憶は、時に思わぬ距離から人の行動を方向付け、表現の源泉となる。ダンスを評して「からだの内側から出てくる動き」との言い方がしばしばされるが、動きをそのように結実させている記憶の存在を思うとき、たしかに人は深く納得するものである。この記憶というパーソナルな圏域で展開するダンス的思考に演劇的な想像性を引き入れると、身体はもう少し外からの視線で捉えられ、社会という中間領域が視界に入り始めるだろう。そこでは人の身体を動かす何かが新たに問い直されることになる。村川拓也・演出『瓦礫』は、こうした問いを誘発する作品であったと思う。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            



本作は関西で活動するダンサーらが自ら主催するフォーラム「Dance Fanfare Kyoto」において、「演劇×ダンス」と銘打った企画プログラムのひとつとして上演された。演劇の演出家とダンサーによる創作は、従来のようにジャンルの混合や越境自体を価値とするコラボレーションと異なり、ジャンルの壁をなくした更地で、身体を、また表現を、ゼロから思考しようとする。昨年の「We Dance Kyoto 2012」に続き、演劇人がダンサーを演出するという図式から、このように根本的な思考を促す作品が生まれたことに、とても刺激を受けた。



映像作家でもあり、これまでにいくつかの映画を作っている村川は、本作の舞台でドキュメンタリーの手法を用いている。3人の女性たちが舞台で演じているのは仕事の中のさまざまな身振りや動作、しかも開始後ほどなくして判ってくるのだが、これらはどうやら演技ではなく、実際に彼女らが従事している仕事の再現なのである。3人の出演者にはダンサーとしての表現は封じられている。代わりに仕事という現実の要請によって否応なく、必然的に遂行される動きというものが課されている。



じっと静止していた3人が不意にはじけるように動き出し、「おはようございまーす、おねがいしまーす」と、いまどきの女子に特有の歌うような抑揚で朝の挨拶を交わす。てきぱきと作業をこなす細やかな身振り手振りは、舞台に闊達なリズムを生んでいく。 飲食店のテーブルを整え、こまごまとした物のあれこれを所定の位置に並べている中間アヤカ。映画館で切符のもぎりや客の誘導、電話対応などにあたる野渕杏子。フィットネス体操のインストラクターだろうか、手本を示しながら生徒を教える倉田翠。それぞれの仕事ぶりは午前中の街の活気に通じ、彼女らが経済活動の一部に組み込まれていることが、ここでは喜ばしいものとして実感される。3人の動きは互いに交わらず、舞台を重層的に進んでゆく。その拡大した先に、社会という、より大枠のフィールドの存在を感じ取るのである。



一方で三人それぞれの動作や身振りは、実に詳細に再現される。見ている者は何ら作為のない労働の最中にある身体が、これほどに強い訴求力をもつことに驚かされることになる。中間アヤカがモノを運んだり持ち上げたり、スタスタと歩き回ったりする様子に作り事の余地は微塵もないが、ひとつひとつの身振りや動作は繊細で濃やかであり、あらゆる細部が見る者の視線を引きつける。野渕杏子では客との対話がリアルである。次回の上映は**時からです、ああそれはもう始まっていますよ、まだ来週もやっているので大丈夫ですよ、ええ、また是非お越し下さい、雨が降るから気をつけて。落ち着いた物腰と語り口、声の質感が、仕事の実際をありありと再現する。倉田翠の穏やかに語り掛けるテンション低めの口調も、現場に流れる特有の雰囲気を伝える。床上の低い位置でゆったりとストレッチの動きを続ける倉田は、舞台構成の中ではいわば通奏低音にあたる存在である。野渕は主に後景にいて、その語りと声の調子からして中音部を担う存在。そして繊細な手の動きと、何より作業の単純さの度合いにおいて、中間は本作の主旋律をなしていると言える。その無駄を排した動作の連なりは美しく、三者の動きの重なりには一種の詩学が宿っている。



忘れてならないのだが、中間、野渕、倉田の3人はダンサーであり、ここで従事している仕事はすべて副業、つまりバイトだ。生きるための労働であって、これを通しての自己実現は本来望むべくもない。彼女らが提供する労務に対しては賃金をもって報いられる。その限りにおいてダンサーとしてのアイデンティティは疎外されている。3人は自らの意思や欲求、感情や衝動によって自律的に動くのではなく、労務の必然に従って否応なく動作を導き出しているのであり、観客はそのように動くことを余儀なくされている身体を見ている。



ここで身体を動かすものは、たとえば経済活動の現場が求める「効率」という価値であるかも知れない。それは必ずしも強制を伴うものではないし、工業化の時代の労働者が置かれたような明快な搾取の構図のもとにあるわけでもない。彼女たちが置かれているのはグローバル化された資本主義社会におけるサービス産業の一端であり、給仕や接客といった末端にある労務である。3人には自らの状況を声高に訴え出るなどという様子はなく、むしろ淡々と、流れるように作業に従事している。だがその身体は、たしかに外にある価値により方向付けられ、その価値が要請してやまない作業を無駄なく効率的に遂行することを余儀なくされている。



効率の求めるところに従った3人の動きは、日々繰り返し、単純化され、習慣化されたルーティンワークである。ただ目的のために遂行される最小の動作の連なりだ。効率を外れた無駄な動きにこそグルーヴが生まれダンスが生まれると説くのは、コンテンポラリーダンスを支える身体観のひとつと言えるが、この快楽本位ともいえるコンテンポラリーな身体観に照らせば、効率に従ったルーティンワークの身体が美しいとは、逆説的というほかないだろう。グルーヴを価値の中心に置く快楽主義的なダンス観は、近代化の過程で要請された全体的で統制的な身体への批判として機能してきた。これはコンテンポラリーダンスの出現が、工業化社会を脱し、個々の身体が労働者から消費者のそれへと移行した時代に重なることと符牒する。規律訓練された従順な身体への批判としてのダンスする身体は、先般、風営法違反の過剰摘発に対する異議申し立ての論拠ともなった。「効率を外れたところにダンスがある」は今日現在も説得的である。その一方で、今、目の前の舞台で、効率に則った労働する身体を観客は美しいと感じ、強いリアリティを見出していることも確かである。それは今日の身体が置かれた現実が、コンテンポラリーダンスが出現した時代の楽観論と一線を画し、別のリアリティを抱え始めていることの示唆であるのだろうか。リーマン・ショック後の厳しい労働環境、広がる格差、深まる分断。ドキュメンタリーの手法は、個々の労働する身体をつぶさに捉えながら、その在り様を要請する状況へと、見る者の想像を促していく。舞台にあるのは、我々の身体が置かれた資本主義社会の断面であり、2013年現在のリアリティの在り処を示すドキュメントでもある。そこに私は現代の労働歌を聞く思いがする。



ところでバイト労働における3人の疎外のされ方というものは一様ではない。野渕杏子の場合、職場である映画館は台詞から察するにアート系のミニシアターであり、仕事を通じて多くの映像作品に触れることのできる環境にある。これはダンサーにとって必ずしも「生きるため」だけの労働とは言えないだろう。受付係として野渕が見せる気転、気配り、客へのウェルカムな対応には、彼女自身の仕事への自発性を見てよいのだろう。倉田翠に至っては、ストレッチ運動のインストラクターという仕事自体がダンサーの専門性を積極的に生かすものであり、この副業が倉田のダンサーとしてのアイデンティティを裏切るとは考えにくい。



野渕、倉田の二人に比して、飲食店ではたらく中間アヤカは労働によって最も疎外された存在である。中間がこの作品の主旋律であるとは、こうした意味からも言えることである。職場は定食屋のチェーン店らしく、中間層から下層にかけてのサラリーマンや労働者が訪れる店である。客の注文をとり、食事を運び、テーブルを片付けるといった、なんら付加価値のない単純作業に従事する中間。彼女の手さばきや身のこなしには、ルーティンワークならではの洗練と吹っ切れ感があり、また「原田さーん」と厨房の奥の同僚に呼びかける口調にも、どこか開き直ったような、微妙にぶっきらぼうな響きがある。そこに中間のかすかな抵抗を見ることも、或いは可能だろう。ただ中間がこのバイトに全く絶望しているかといえば、そうではない。  忙しさのピークを過ぎて遅い昼食をとる中間が、休憩を早く切り上げて仕事に戻る場面がある。「まだ食べ終わってないです」と主張しつつ、「でも、いいですよ」と上司か同僚かの要請に応じる中間には、業務のよりよい稼動に貢献しようとする意思があり、同時に静かに何かを堪えてもいる。この誠意と諦念との交じり合う場面は印象的だ。このとき他の二人も同時に休憩をとり、それぞれの職務から解かれ、束の間、自分に戻っている。置かれた状況は一様ではないながら、3人はそれぞれの位置を受け入れつつ、静かに尊厳を保っていると、私には思えた 。ここまで個別に進んできた3つの時間をここで同期させる演出は巧みであり、3人に寄せる共感と、あくまで引いた視点で現実を捉えようとする冷静な眼がある。



ダンサーたちの演技について村川自身は「ダンサーの中にある動きでも、(演出家である)私が与える動きでもない」ものと語っている。パーソナルな内的要因でも、絶対的な他者の力でもなく、中間領域にあって身体を外から動かし、若しくはそのように動くことを選択の余地なく方向付けているものは、確定できる人称を持った何者かというより、さまざまな主体が発する意思のベクトルが複合的に交差し作用し合う場、その営みの全体としての社会であり、当の身体の意思や欲望もここに組み込まれつつ、他の主体との関係性によって決定付けられる、そのような関係性そのもの、と本作で見てきた身体についてひとまずありていに結語することは出来るだろう。この社会というレベルにある身体に、労働という切り口を与えたところに村川独自の視点があり、パフォーマンスは具体的な相貌をもつことになる。(村川にはフェスティバル/トーキョー11公募プログラムに参加した『ツァイトゲーバー』という作品があり、身体障害者とその介助者の労働を取り上げている。この舞台を私は未見だが、選択肢の極めて限られた条件下で、そうせざるを得ない形で動きを導出される身体という点に、今作との共通項があるのだろう。)村川のドキュメンタリーという方法は、個々の具体的な労働の場面、つまり客への対応や上司、同僚との駆け引きといった現場レベルのアクションや身振りを照射しつつ、それらを包摂する産業社会、さらにその背後にある資本の存在をも浮き彫りにする。今日現在の身体が置かれた社会的、政治的状況の活写であり、社会的な身体の実相を映し出したドキュメントとなっている。



このドキュメンタリーの手法は、現実の身体の再現をダンサーに課す一方で、舞台演出の緻密さ、巧みさによっても特徴付けられ、現在を映し出すドキュメントが一編のパフォーマンス作品としての完成度を誇るに至っている。静止から動きに入る開始時や、3人の動きを同期させた場面のほか、3人それぞれの動きには時折ストップモーションが差し挟まれ、そのたびに見る者は小さく胸を突かれ、時間の異化を体感する。3人が黒い服を着ているのは、抽象化を施された身体であることを示すものだろう。こうしたフィクショナルな操作がこの舞台を社会的、政治的な状況への問題提起としてのみ読み取られることを回避させている。本稿冒頭でダンスの文脈から提示した動きの源泉についての根本的な問いは、この一元的ではない時間構造があってこそ問い得たといえる。



最後にどうしても触れなくてはならないのはタイトル『瓦礫』が示唆する震災後の風景である。作品中にあの震災と原発事故への直接の言及はない。だがこの舞台を今日現在の身体のドキュメントとして見たとき、全体をまとう控えめで抑制したトーンが強く印象に残るだろう。それにはこの現実を、拒絶するでも肯定するでもなく、糾弾でも積極的な関与でもなく、静かに見つめようとする表現者の態度が関わっていると思われる。「ダンサーの中にある動きでも、私が与える動きでもない」という村川の言葉には、アーティスティックに自らを表現することへの違和感が読み取れる。自律する身体の楽観論から遠く距離を置き、目の前で進みつつある事態をみつめ、思考するという生き方を、村川とダンサーたちは、余儀なくされるという形で選択しているように思われる。「いつもどおりでーす」とシフトに入る彼女たちの身体は、巻き戻すことの出来ない現実への諦観と静かな闘争を映し出している。



初出:Act24号



 




2019年6月15日土曜日

tuQmo  『道具とサーカス』

 


ART LEAP 2018

tuQmo ERIKA RELAX×池田精堂 

「道具とサーカス」 

3月13日(水)@神戸アートヴィレッジセンター



【蔵出しレビュー】


KAVCとアーティストが連携し、10か月の制作期間をおいて開催された展覧会。2018年から開始した30~40代のアーティストを対象とした「ART LEAP」という公募プログラムで、作家選定にあたっては公開プレゼンテーションが行われ、そこから選出されたのがパフォーマンスユニット「tuQmo」である。2018年度の審査にあたったのは美術評論家/詩人の建畠晢氏。


建畠氏の選定によるという点にも惹かれたが、今回の私のお目当ては期間中に何度か行われるポールダンサーERIKA RELAXによるパフォーマンスだった。ERIKA RELAXについては2017年1月に日置あつしがアトリエ劇研でおこなった公演に、ドラァグクイーンのフランソワ・アルデンテやダニエル・ジュゲムとともにゲスト出演していたのを見たことがある。ナイトクラブでのショーを主な活動の場とするアーティストたちの麗しく艶やかな出で立ち、見せ場の勘所を押さえたプロの芸能者の仕事ぶりに魅了されっぱなしだったのだが、その中にあってERIKAのポールダンスは、ショーの形式をとりながらも、一つの身体表現としての内的な追求があり、内容的にもピュアで詩的なイメージを伴うものだった。


「tuQmo」のもう一人、美術家の池田精道は、主に木や金属などの素材を用い、「もの」と「他者」の接点の在りようを考察する、と資料にある。今回、会場はKAVC内の3つの部屋を展示に使用しているが、パフォーマンスを行う地下のシアターには、部屋の中央に天井から木製のオブジェが吊り下げられている。三脚の丸椅子を横にしたような造形をモチーフにしたオブジェで、木肌を生かし、整い過ぎないラインを保ったそれは、作家の手による造形物であり、かつ用途をもったデザインの側面をもち、パフォーマンスのための装置でもある。観客席はなくオールスタンディング、壁際に立って鑑賞した。会場は暗く、オブジェの辺りにだけ暖かみのあるライティングが施されている。上演時間が来ると天井からERIKAの足が現れ、オブジェを伝い下りてきて、ポールダンスの技を生かした空中パフォーマンスが行われた。オブジェに身体の部位を掛け、からだの上下を逆さにしてポーズを作る。揺れるオブジェと一体化し、重力とのバランスをとる。途中で池田が現れ、オブジェを地上から引いて重量とのバランスを調節したようだった。会場が暗いのと、見る方向がよくなかったのか、このあたりの装置と操作のからくりをよく見極められなかったのだが。池田は吊り下げられたオブジェから木片の一部を引き抜き、部屋のもう一箇所に設置してある柱状のオブジェに差し込んでいった。柱のオブジェはこれによって一つの造形として完成するということのようだ。パフォーマンスは15分ほどで終了。


もう一つの小部屋にはモニターが一台置かれていて、木のオブジェとERIKAの絡み合う身体を至近距離で撮影した映像が映し出されている。呼吸が聞こえそうな近い位置で撮られた映像は、身体のどの部分を捉えているのか、どこからが身体でどこからがオブジェか、判別しがたい。身体と道具の境界が入り組み、自他の区分が曖昧になった状態から、身体とその拡張としての道具との関係を捉えようとするものに思われた。


 展示のメインと思われる一階の美術ギャラリーには、やはり木製の、シェルフが二種類。引出しを開けるとその中にも製作されたオブジェが入っていて、手をかたどったフィギュアと、それに握られる円筒のようなモノが引出しの開け閉めで揺れるように設計されていた。もう一方のシェルフでは、引出しを引くと声がする仕掛け。あとで資料を読んでわかったが、池田とERIKAがリサーチ中に交わした議論の録音だという。


10か月という制作期間には神戸に拠点を構える職人の仕事場を尋ねたり、造船所のドッグを訪れたりしてリサーチを重ね、神戸の町への関与を深めながら人と道具と身体の関わりを考察していったようである。その様子がレポート資料に残されていた。こうした地域の職人の所在を把握しアーティストと橋渡しするプロセスにKAVCがコーディネーターとして機能していることも見えた。リサーチの過程で「tuQmo」の二人の示す視点はとても興味深く、人と道具、身体とモノ、パフォーマンスと展示を相互に関連させ、KAVCのスペースを複数使ってコンセプトを展開していく意欲的な展覧であると見えた。ただ成果物である展示には空間的、物量的に、パフォーマンスには時間量的に、少々ボリューム不足、迫力不足を感じた。人が道具を使用してきた歴史、身体の拡張としての道具の可能性、パフォーマンスの場における身体と道具・装置・モノとののっぴきならない――パフォーマーの命を預けている――関係性へと、まだまだ視点を広げる余地はありそうだ。