2019年8月19日月曜日

梅田哲也『Composite』と山下残『船乗りたち』


8月12日(月・祝)


ワークショップ「表現しないうたと身体」制作公演

               

@神戸アートビレッジセンター





・梅田哲也『Composite』

 出演 梅田哲也、ワークショップ参加者有志、他




KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGで発表され、フィリピン、ベルギーでも現地の人々とワークショップや上演を行ってきたパフォーマンス作品。そもそもの構想は「フィリピン山岳地帯にあるカヤン村の子どもたちと制作した作品を再構築」したもので、「動きと声の掛け合わせで進行する合唱」「指揮者のような中心点を持たないパフォーマンス」とされる(KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGパンフレットより)。



今回、神戸では、「表現しないうたと身体」と題し、小学生、中学生、高校生のほかに教育に関わる大人などを対象にしたワークショップの発表公演の形で行われた。ワークショップ自体はKAVCが主催する「はじまりのみかた」シリーズ(*)のVol.3として企画されたものである。出演はWS参加者有志を中心とした20名。客席内に紛れて座っていて、出番がくると舞台フロアに降りていく。最初は大人の男女6名によるパフォーマンスで、手足で一定の動きを繰り返すタスクを行う。後に子どもチーム6名が現れて同様のタスクを行う。さらにパフォーマーが加わり、先の2チームとは異なる内容のタスクを行う。最後にはこれらのタスクが重なり、声と身振りの分厚い層をなして会場を満たす。

  *はじまりのみかた:アートのはじまりの見方を提案し、はじまりを味方にするワークショップシリーズ。文化活動の入り口となる様々な事柄に着目し「体感する」「思考する」「探求する」「創造する」をキーワードに、幅広いジャンルを横断しながら企画を構成。シリーズを通した受講によって。参加者が文化芸術に親しみ、また自身の生活の中に文化的な視野を育むきっかけとなるような講座を目指す。(KAVCHPより)



パフォーマンス作品とも合唱作品とも銘打たれるこの『Composite』は、ごく簡単な身振りと声のパターンの繰り返しで成り立っている。最初の大人6人(男女3人ずつ)は、「かごめかごめ」のように手を繋いで輪になり、内側を向き、各々自分の手、腕、肩など体の部位を軽く叩く動作をする。時折、右足で床を踏み一拍の音を出す動作も組み込まれる。同時に「ウ、ウ、アレ。ウ、ウ、アレ」と3拍子で声を出し、唱和する。ただし、6人の動作と発声には3種類(だと思う)のパターンがあり、おそらく2人ずつで一つのパターンを繰り返す。また時折交代して、それぞれが異なるパターンを行うようにルール化されている、と見える。そのパターンの違いとは、「ウ、ウ、アレ」が、「ウ、アレ、ウ」になったり、「アレ、アレ、ウ」となったりするが、よく聞いてみても実のところ、異なるパターンを交代して行っているのか、一つのパターンの輪唱によるズレでこのように聞こえるのか、見極め(聞き極め)は難しい。動作にも、片手の先で反対側の手先、手首、肘の内側、肩を軽いタッチでトントンと叩いていくほか、両手で両肩を叩き、下に下ろし、といったものなど、これも3つほどのパターンが観察された。パフォーマンスする6人はみな目を閉じていて、ひと通りの動作と発声の反復を終えると、手を繋いで輪を少しだけ回転させ、各自の位置が隣に二人分くらい移動する。これを合図に担当するパターンの交代が行われるようだった。そしてまた新たに3拍子の声と動作の反復が行われる。このようにして、行為はシンプルながら、一定の拍子で進む複数の声と動作、そこに床を踏む音のアクセンが加わり、声の質も女声と男声が混成し、結果として複雑で厚みのある声と音の重なりが生まれる。さらに、声を全く出さないで動作のみを遂行する回もあって、進行は変則的である。輪を回ってパターン交代をする際の直前のタスクの終わらせ方を見ると、6人一斉に終えるのではなく、ばらばらに終え、最後に二人、一人と声と動作が残る。皆、目をつぶっているはずだが、どのようなルールで何を感知し動作を終息させ、次へ移るのか。個々によるタスク遂行の差異か、何等かの判断が相互にはたらいるのか。このあたりにこの作品のゲーム性、遊戯性が胚胎していたような気がする。遊戯といえば、実際に、このパフォーマンスの印象は輪になった子供の遊びであり、拍子をつけた発声はわらべ歌を思わせる。無国籍なわらべ歌だ。



大人だけで結構な時間が、おそらく上演時間の半分ほどが過ぎた頃、子どもチーム6人が現れ、同じような要領でパフォーマンスを始める。小学生の男女に中学生か高校生と見える人も数人交じっている。一人、とても元気な小学生の女の子がいて、大人が淡々と繰り返すのを見慣れてきた手足の動作を、それこそダンスのようにひとつながりのフレーズとしてグルービーに動いている。拍子に先んじてストロークを出し、身体全体を弾ませ、動作を行うことが楽しくてじっとしていられなくて、といった生気が全身に漲っていた。舞台には大人6人と子ども6人による二つの輪が出来ていて、それぞれに「ウ、ウ、アレ」「アレ、アレ、ウ」の3拍子の遊戯が進行し、男声と女声、大人と子供、子供にも小学生、中学生、高校生と異なる世代による声と身体と身振りが混在し重層して、いっそう分厚い声とリズムの重なりを織りなしている。二つの輪の間で拍子を揃えることはないから、それぞれの3拍子はさらなるズレを含んでいる。しかしどこかの拍子で誰かの声がひときわクリアに届いてくる瞬間があり、全体がただの騒音とかノイズと化すことは決してない。それはちょうど、夜中に泣きかわすカエルの合唱を聞くようだった。混沌というより濃淡、もしくは遠近であり、その中で突出してクリアに届いてくる声は、閃く主旋律に聞こえる。それは一瞬のことであり、旋律はしばしば交代する。誰かの声が浮き上がり、他の誰かの声は全体の中に沈み込み、ということが一つの現象として絶えず起こっている。



その後、パフォーマンスはさらなる段階へ。客席からあらたに二人の女性がフロアに入り、床にテープを張って一本の境界線を設ける。それから二人は6人組の輪の2チームとはまったく別のテンポで、一定のフレーズのある声を発していく。フレーズはパストラーレふうの8分の6拍子に近く、「タータ、ターララ、タータ、ターララ」と歌のように聞こえる。二人の女性はフレーズの拍子がもつ自然な抑揚に合わせ、一歩ずつ歩みを進めながらフロア中を移動する。境界線のテープの上をなぞるように進む人もいる。客席からはさらに一人、またひとりとパフォーマーがフロアへ入っていき、フレーズに加わりフロアを埋めていく。いまや異なる種類のタスクが二つの輪とランダムな移動によって遂行されている。異なるパターン、重なる声が、この場所をうっそうと覆っていく。



途中、照明が落とされ、暗闇の中で声が続く場面があるが、様々な方向から拍子を複雑に重ねながら届く子どもの声や大人の声に耳を澄ますのは、まさに夜中のカエルの合唱を聞くのに似た体験だった。



やがて輪のチームから一人ずつ、徐々に抜けてパフトラーレのフレーズの側に加わる。大人の輪も子どもの輪もそのようにして縮減し、フロア上にいた20名に及んだパフォーマーたちは、少しずつ舞台をはけていく。最後に3人の人が残るが、ここであらためて気づいたのは、この間、ランダムに移動していた人たちも、目を閉じたままタスクをこなしていたらしいことだ。3人のうちの二人は動線が交差して身体がぶつかったところで両者ともはけていった。目を閉じていたので互いに避けることが出来なかったのだ。最後に一人女性が残った。が、もはや誰ともぶつかることはないので、このままでは永遠にひとりフレーズをうたいながら一歩、一歩と動くのみである。その時、客席側から巨大な風船が放り入れられ女性にやわらかくぶつかった。これで女性も無事タスクを終了し舞台を去ることができた。風船は先にも舞台に投入されていたので、これにぶつかったり触れたりした人は、はける、というルールが最初からあったのかもしれない。



シンプルな動作、親しみやすい声のパターンからのこのような厚みと広がりのあるパフォーマンスへの発展が驚きであり、面白くもある。人の小さな輪がやがて大きな集合になり、異なる複数の運動を含み、分厚いテクスチャーを生す。やがてそれらは解けて一人=個へ戻る。おそらくあらゆる民族、地域に共通するであろう遊戯のエッセンスを抽出したような、最小単位の動作で構成されたパフォーマンスの形態に、個と集合のシンプルな原形を見たように思う。京都以来の2度目の観覧ながら興味が尽きることはない。








・山下残『船乗りたち』

 出演  山下残 垣尾優 佐々木峻一(努力クラブ) 畑中良太




ワークショップ成果発表とダブルビルで上演されたのは山下残の旧作。私は過去の公演を見ていないので今回は得難い機会だった。

タイトルどおり、船に乗った状態を舞台に再現したのが初演時の構想で、人が乗れば不安定に揺れるボードの上で演じたと聞く。足元のぐらつく不確定な要素が演じ手たちの身体に負荷として掛かっていたはずだ。今回、ボードはなく、ダンサーたちは直接フロアの上で演じる。身体が対処すべき負荷が一段減っているわけだが、その条件で不確定な要素を振付によって作り出すことが試されていたのだと、後になって気付いた。以下は、どのような趣旨や意図が込められていたのかはさておき観客の目にはこのように映った、という事実を記述していく。



出演は男性ばかり4人。これは初演時と同じで、垣尾優はその初演にも出演している。内容は特になく、人の体が日常的に動きうる範囲において、さまざまな動作、身振りを即物的にパフォームしていく。基本は舞台の中央に4人が集まって行われるが、これは元の構想がボードの上での演技だったことによるだろう。4人は互いをよく見合い、間合いを取り、誰かが動くと、他の者たちも同様の動きを行う。この繰り返しは、最初に動き始める者の振付を他の3人が模倣するというタスクに見える。模倣と言っても、一挙手一投足の形、角度、方向の全てを忠実に再現して見せるという意味ではない。たとえば「中腰に構えてドタドタ歩く」といった指示の範囲で各人が自身の身体で解釈して動く、といったほどの意味だ。動きの内容は同じだが、型や方向などパフォームのされ方には幅がある。また一斉に模倣する場合もあれば、一人ずつ順に真似て動いて見せる場合もあり、タイミングにも幅がある。これを不確定要素と言ってもいいだろう。



一つの動きを行うことを1シーンとし、シーンは次々と間を置かずに連なっていく。後で聞いたところでは全15シーンあったそうで、15のアイデア、15の振付が再現されたわけである。4人が互いの出方を伺う様子は柔道かレスリングなどの格闘技を思わせ、身体を交えて対戦することはないが、敵味方のないバランスの中へ、4人が機を見て自分の身体を投じる試みに見える。互いを観察し合い、間合いを測り合う間に、各々が意思をキャッチし合う、一種のコミュニケーションが図られているようにも見える。その意味で作品は相互的、ゲーム的であり、パフォーマンスは即興性を多分に含んだものに感じられる。



15の動きの一つひとつに意味や脈絡はなく、全体を貫くドラトゥルギーも存在しない。腰を落とし気味に構え、床の上でごろごろし、身体を揺らしたり、腕を上下させたりそよがせたり、・・・このように記述することに記述以上の意味はないほどの、単純で非目的的な動き。しかし人の身体の、四肢や胴体や頭部がとり得るあらゆる動きを、なんら背景も状況設定もないニュートラルな演技空間で、振付の引出しから取り出すようにして、4つの身体で遂行していく。引出しの中のアイデアは尽きることがなく、人の身体からこぼれ出る動作や身振りのたっぷりとした豊かさが、繁茂する身振りの森といった調子で体現されてゆく。動きが演じられる順番にも、先行するシーンからの必然的な流れでこのように動く、といった身体運動に即した道理はない。一つの場面、一つの動きは、人の動きの純粋なサンプルとしてあり、作品はサンプルの組み合わせと集積として成り立っている。こういうと無機的に聞こえるが、その背後には稽古場で自ら動き、膨大な振付を生み出し、記録した、作業の「量」があるだろうことを推察させるものがある。



非ドラマ的という意味で演劇からは遠く、身体と動きを媒体とした表出という意味でダンスに近い。ただし、ダンスといっても踊る身体を司る技術というものをいっさい用いず、裸足で床に立ち、普段の生活と変わらないピッチで舞台に居る。音楽は使用せず、詩的な感興や抒情を引き寄せることもなければ、振りをリズムで調整することも、カウントで分割することもしない。そうした意味では非ダンス的と言えるのかもしれない。(ダンスを、日常とは異なる調整をもって身体を一定の様式・スタイルのもとに運用する技術、およびそれが刻み出す時間もしくは織り出す審美的なテクスチャーとするならば。)舞台に現われ演じられ遂行されるのは、雑多にしてナチュラルで有機的で、人の生態に親しく、身体の合理性に即した動きの数々である。それらはあくまで無目的で意味をなさない。限りなくリアリスティックであり、かつ振付家により考案されたフィクショナルな動きである。それらをひたすら遂行する4人の行為は、真摯にしてナンセンスで可笑しみがあり、動物園の動物たちをいつまで見ていても飽きないように、いつまでも見続けていたい面白さがある。人の動作・身振りの本質に触れ得ているような奥深さがある。遊戯する人=ホモ・ルーデンスと呼ぶべき人たちを目の当たりにする感慨を覚えるのはこのような時である。



上に述べたパフォーマンスの相互性、ゲーム性、即興性について、終演後、振付家に話を聞いたところ、ほぼ振り付けられたものであると分かった。4人が同じ動きをするにしてもそれがユニゾンにならないように、シーンとシーンの境目が機械的に分断されないように、振付の段階でさまざまなズレを設定しているという。観察されたところでは、誰か一人が始めた動きを、他の者らが見て取り、各々の身体で模倣する。そろそろ納得がいったところで、次に誰かが別の動きをしてみる。それを見て取った他の者らがやはり真似て自分なりに動いてみる、ということを繰り返しているように見える。だから4人の動作の動き出しは少しずつ時差を生じ、一斉に動くとか一糸乱れず規範的に動くといった統制から遠ざかる。動きはいつも誰かが先んじているように映るし、一つの動きを真似ていく状況で一人だけはそれをやらないという選択もある。最初の一人から、次の人、その次の人、と順に真似て動き、最後の一人が動くと期待させておいてそれをやらない、といったオチもある。そのようにして動作は、時間的にも内容的にも、様々なレベルにおいてずらされており、そのズレはあらかじめ振付として仕込んであるのである。そうすることで構造としてはサンプルの連続的な提示である本作が、生体的、有機的なあいまいさ、複雑さを得ている。



上演の順番は『船乗りたち』が最初で『Composite』が後。2作には共通点があり、好企画だった。どちらも集団の間で動きを共有するための自然発生的なプロセスへの仕掛けを構造化することで、ダンス・テクニックを媒介としない身体パフォーマンスの可能性を力強く示していたと思う。