1月11日(日)
@Art Theater
dB神戸
ダンスボックスが主催する国内ダンス留学3期生によるショーイング公演。7月末からの学びの期間、10月からの創作の期間を経ての成果を問う。振付家コースの4名による4作品にダンサーコースの4名が出演(一部にゲストダンサーあり)、これに制作者コース1名を加えた9名のメンバーが留学期間中最大のヤマ場を迎えるわけである。ここから2作品が選出され、3月の最終成果上演に向けて1時間のフルレングス作品に作り直されることになる。私は一昨年(一期)、昨年(二期)に続き、今年も選考委員を務める機会をいただいた。毎年のことながら、選考会は互いのダンス観を戦わせる真剣な議論の場となり、舞台の見方、作品の価値の見出し方、評価の軸の立て方について、さまざまな立場にある委員諸氏の広範な知見に触れることとなる。また意見の異なる人を説得する言葉の力が試される場ともなる。毎回目からウロコを落とされ、卓見に唸らされる一方、自らの言葉の脆弱さ、論拠の不明瞭さを突き付けられることしきりである。もちろん最終決定は様々な議論の末に全員の納得を得たうえで至ったものである。以下に選考委員間での議論、そして結果発表後の打ち上げの席で振付家コースの4名とそれぞれ話した内容も織り交ぜて、作品を振り返ってみる。
ショーイング・プログラム(上演順):
上野愛美 『under』
小堀結香 『月に置いたら?』
塚田亜美 『しらない。』
長屋耕太 『余白に満ちたかはたれどき』
選考作品は、上野愛美、長屋耕太の二作品に決定。
ダンサー奨励賞は貫渡千尋。
上野愛美・振付『under』はコンテンポラリーダンスの文脈をよく理解しており、その価値に即した作品といえる。選考の場でも多くの委員が推し、最初に選出が決まった。客入れの時間からすでに舞台ではダンサー5名が散在し、表情も姿勢も変えずにそれぞれ静かに歩を進めている。ヨハン・シュトラウスのよく知られたワルツが鳴って開演となるが、先ほどからの‘冷えた’身体の歩みは続行し、祝祭的な音楽との奇妙な対照をつくる。このコントラストをいわば作品の‘地’として、そこから不意に裂け目がのぞくようにダンサーの身体から奇妙な動きがこぼれ出てくるというのが作品の基本の構造だ。あるところで不意にお尻を細かく震わせる者が現れたかと思うと、伊藤キムばりのいびつで不穏なうねりを見せる者、何かの合図か記号なのか指先で何かを指し示しながらグルグルと旋回する者、あるいは四つん這いになって床を片手でチョップする者、とか。なんとも説明のつかない謎の動きが、相変わらず温度を感じさせずに歩みを続ける身体から突如ほころびのように現れ出る。それらはただドロドロうねうねとその場まかせに不定形に動くのではなくて、どれもしっかりと作られたムーブメント、しかもダンサーの持ち味を引き出すようにそれぞれ個別に、丁寧に振付けられている。また‘地’にあたる冷えた歩みも周到に作られていて、ランダムな5人の動きが時折一列に並び、3対2、4対1などのフォーメーションを形っては、また静かにバラけていく。こうした基本の構図が起承転結なく一定のテンションで進むので、作品としてのメリハリに欠けるという意見も出たが、むしろ意図されたメリハリのなさと考えられる。作品の中で何を表し訴えるのか、その構図が最後まで明瞭でブレがなく、身体を説明しがたいいびつなものと捉える批評的な視点も秀逸。才気を感じさせる作品だ。
小堀結香・構成・振付『月に置いたら』は一個のソファをめぐり一対の男女が動きを繰り広げる。それぞれの動きが合理的な連携をつくり、場面ごとの細かい動きの処理にセンスも感じられてよくまとまった佳作だが、作品世界が設定以上に広がりをもたず、ウェルメイドな作品にとどまってしまった。私は小堀さんの作品を以前に一度見ている。自身の身体性に密着した独特のムーブメントが魅力的なソロで、ちょっと奇抜な妄想も含め、新人ながらすでに自分の世界を持った人との印象を刻まれたのだったが、今回‘巧くまとめた’感が強かったのは、ジャッジを意識したのか、或いは他人に振り付ける責任感もあったのかもしれない。打ち上げの席で話すなかで何度も「デュオは難しい」と呟いていた。そう、今回デュエットを振付けたのは小堀さんのみ。3人以上を振付けるのとは根本的に異なる作業であったことは想像に難くなく、動きやフォーメーションの配置・構成では済まない、人と人の関係性に深く踏み入った考察と、相応の動きのアウトプットが要請されるところだろう。実は選考の場でもこの点に話が及んだ。自身の経験も反映させながら、そしてダンサーの身体から動きを引き出しながら、よりリアリティのある関係性の描写が可能だっただろうと。振付家自身による作品テキストを読む限り、どうも男女の濃密な関係に踏み入ることを避けようとするフシも感じられる。で、実際はどんな関係を意図したの?と本人に尋ねてみたら、いわく「親子」。一瞬リアクションに戸惑ったが、たしかにタイトルからも、人の関係性の深みというより、もう少し冴え冴えとしたファンタジーをイメージしているようにも受け取れる。その想像力の冒険を見てみたい。いずれにせよ、一期から見渡してもデュオを作った人は少なく(一期に2作あったがいずれも女性デュオ)、難しい挑戦だったことと思われる。バレエなら確立された形式が官能や感情の横溢を可能にしている。コンテンポラリーダンスでは言語を自ら開拓するところから始まるわけだが、記憶に残るデュオの秀作はあって、岩淵多喜子『Be』、砂連尾理+寺田みさこの『明日はきっと晴れるでしょ』をはじめとする作品群、セレノグラフィカの『ファスナハト』、最近では高木貴久恵がDance Fanfare Kyoto 2013で発表した『夢見る装置』も印象深い。本作『月に置いたら』もその都度ダンサーの身体と対話しながら再創作を重ねて、コンテンポラリーダンスの愛されるデュオ作品に育っていったら素敵だろう。
塚田亜美・振付『しらない。』。日々大量に流される情報と、そのほんの一部しか受け取っていない自分、出来事の表層ばかりで真実を知らぬままに送る日々。そのギャップや焦燥感、渇望感(本人の言葉では‘コンプレックス’)を動機とした作品だ。コンプレックスとはいえ自らを卑小に感じるというより、目の前に広がる知るべき世界のダイナミズムに圧倒されつつ向き合おうとする前向きなトーンも作品テキストからは感じられる。実際の舞台はこうした心情を説明的に描いていくのではなく、情報と身体との関わりを直観的に捉えたアクションで構成している。大量の新聞紙の山から人が出てきたり、その一枚をホリゾントの壁に叩きつけたり、手にした新聞の一部を読み上げたり、‘山’をカオティックに掻き混ぜ、果てに次々と舞台下に落としていったり。また途中で上演当日のTVニュースが音声で流れたりする。この作品は評価が分かれた。厳しい意見は、情報といった場合2015年の今日、新聞はないだろうというもの。グローバルなIT社会において新聞はいかにもアナクロではある。また、情報の内容がどこまで当人にとって切実な問題であるかが不明だという意見。ニュースを内容ではなく当日のアナウンスという事実のみで使用したことや、新聞紙を媒体の機能でなくモノとして扱っていることなどが指摘された。一方、この作品を押す意見では、社会について見る側にも考えさせてくれる点や、あくまで身体で表現しようとする姿勢がある点が挙げられた。実は私もこの立場だ。塚田さんの作品には、このダンス留学の学びの期間にさまざまなボディ・ワークを体験したことの反映が感じられた。スポットライトの中に3人が身体を密着させてうごめいているシーンなどはアメリカのポストモダンダンスのシモーヌ・フォルティのワークを実践した授業の応用にも見える。物質としての新聞紙や重力の影響を受けた身体が剥き出しにされていくアクションは、ポストモダンダンス以降今日に至るまでダンスが問い続けてきた本質に触れている。情報社会をネットでなく新聞で表現したことは、要はリサーチの問題で、今後新たに情報空間というモチーフを立てた場合にも、塚田氏はおそらくこれにあくまで身体の作業を通して取り組んでくるだろうという信頼がある・・・こういった論旨を選考の場で十分に展開し切れなかった私は、ひたすら「身体で表現」「からだで」「からだが」と繰り返す自分の言葉が、次第に‘からだイデオロギー’めいてくるのをリアルタイムで感じていた。いやはや。打ち上げの席で塚田さんともたくさん話をした。3歳からバレエを始め、中学、高校と創作ダンス部に所属、王道のダンス人生を歩む中で身に着けてきたダンス・コードは大学でポストモダン系の教官と出会い、いったん解除、そしてこのダンス留学では現在マーケットの第一線で活躍する講師たちに学び、さらに多様な表現方法に出会ったわけである。『しらない。』だからこそ知りたい、と語る本作は、彼女がいままさに経験しつつあるダンス人生の行程を重ね合わせたもの、との深読みも出来そうだ。
長屋耕太・振付『余白に満ちたかはたれどき』については、私は随分突っ込ませてもらった。振付者には表現したい明確なイメージがあって、これを従来のダンス言語とは異なる方法を用いて舞台化しようと試みている。そのイメージとは、まことに繊細で儚いが、長屋氏本人の胸の内では大切に暖められ、確かな像を結んでいるようだ。タイトルにある「かはたれどき」、たそがれどきともまた違った、これから夜明けを迎える、未明というよりまだ早い時間、その独特の陰影や空気。そんな形にならない感覚をダンスの創作のモチーフとした。舞台はほぼ暗闇や半闇の中で進む。闇に灯る小さな豆電球やランプ、細かく繰り返される暗転とシーンの切り替え。ダンサーの存在はホリゾントに映るシルエットだったり、暗い照明の中にかろうじて見とめられる人影だったりする。形にならないもの、触れ得ないものをモチーフとし、身体以外の要素に多くを負ったこの舞台をダンス留学の成果と見ることには、当初私には躊躇があった。参照した葛飾応為(葛飾北斎の娘)の浮世絵「夜桜美人図」は、暗がりの中に描かれた蛍や灯篭など種類の異なる灯り・光の取り合わせの妙と、やがて訪れる夜明けへの予感に満ちた絵だが、これを舞台化するのに照明と暗闇でというのでは、あまりに‘まんま’ではないかと感じたのだ。その独特の感覚を身体言語化するのがダンスだろう、というのがここでの私の立場で、それでいうと語彙に乏しく、選択された方法もイメージに届いていないとの判断である。一方、本作を強力に推す意見では、この舞台を狭義のダンスから解き放ち、より広範なパフォーマンス作品としての可能性を見て取っている。特に「全裸で上演してみたら面白いだろう」との提案は、「身体」と「動き」の三次元的・言語的な展開とは異なるアプローチを示唆するもので、これには私のみならず他の委員も目を見開かされた。そして振付者の中に明確なイメージがあり、それに表現が追いついていないというのは、むしろポテンシャルの高さを示すのではとの幾分レトリカルな説得を受け、というか論破され、本作の選考に同意した次第。確かに、より大きなチャレンジを要する作品を選考することはひとつのメッセージにもなり得る。打ち上げで長屋さん本人と話をしながら、彼が昨年12月のアイザック・イマニュエルのレジデンス・ショーイングに自ら乞うて出演していたことを思い出し、ああそうかと、ここで何かが腑に落ちた。イマニュエルのそれは、人の存在の痕跡とか不在といったテーマを、風景、気象、空気、気配など、重力に支配されない要素によって浮かび上がらせようとするパフォーマンス。三次元的な空間ではなく、「環境」や「時間」のフィクショナルな配置を目論む舞台だ。これを参照すると長屋氏の目指すものが見えてくる気がする。あるいは白井剛とかdotsの桑折現にも通じるかもしれない。3月の最終成果上演に向けて彼はどんなアプローチをしてくるだろう。楽しみに待ちたい。