書きそびれたレビューのためのアーカイブ 2
MuDA
『MuDA Exhibition
SPECIAL PERFORMANCE』
2015年1月17日 @江之子島文化芸術創造センター、大阪
作・演出:MuDA
ダンス・振付:Quick、内田和成、三重野龍、出川晋、CHIBIGUTS、
田崎洋輔、福島駿、渋谷陽菜
サウンドデザイン・DJ:山中透
空間デザイン:井上信太
開催中の個展の日程の一日を割いて行われたスペシャル・パフォーマンス。展示会場の一部に細長い通路状の空間を仕立てて演技スペースに。両側に客席用パイプ椅子が並び、観客は30~40名といったところ。
頭髪の片側を剃り上げ、もう片側を長く伸ばした独特の風貌の人がリーダーのQuick。ダンサーは他に7名、みな白塗りにボディペインティングを施し、その皮膚の内側にカオティックなエネルギーを湛えている。
パフォーマンスは集団としてのMuDAの基本となるボディ・ワークを順次披露していくような構成。床上で瞬時に身を返す、或いは地べたをもんどりうつ。単発的だが負荷の高い動作を、ダンサーたちは一列になって訓練の手順を踏むように順繰りに行っていく。だが、内容はまったく淡々としたものではない。どの動作・行為にも、それを行うのに必要とされる以上の強い負荷がかけられ、唸り声や呻き声を伴いながら、ものすごいボルテージをもって実行される。自らを食い破るばかりの暗いエネルギーで身がのたうつ様は、獰猛な獣のようでもあり、肩をぶつけ合っての一対一の格闘などは闘牛を思わせたりもする。一斉に空中に跳び上がり、膝を折った姿勢をとってそのまま落下し倒れ込むと、床に打ち付けられるからだの音が肉体の重量感、量塊感を強調する。円陣を組み、まじないのような言葉を唱和すれば、高揚とともに集団の生む求心的な圧力が誇示される。パフォーマンスは過激で容赦がないが、進行は統率されており、若き男性集団のもつ儀式性の中で、身体の過剰な力が垂直に立ち上がっていく。卑近な例だが、硬派の応援団とか政治的右派にみる、儀礼的な関係の尊重と力の誇示を旨とする集団の身振り、行為といったものに通じる。
無骨なる男どもの肉体のぶつかり合いといえばcontact Gonzoがその先鋒だが、力の発現や関係の生成においてGonzoは水平的、MuDAは垂直的。Gonzoが多くを環境にゆだね、定点のない関係性と成り行きの不確かさを特徴とするのに対し、MuDAは力と統率によってパフォーマンス空間を支配し、ファロス的な求心力と儀式の美学で世界を構築する。会場エントランスのモニターには、いずこかの神社の境内で演じられたパフォーマンスの映像がかかっていた。神霊のための儀礼の空間とはいかにもMuDAにふさわしい。Gonzoなら雑踏や郊外の原っぱ、あるいは山や森や川原だろう。そうしたわけで方向性では両者は対照的だが、関西を拠点にする彼らは互いに交流もあり(塚原悠也がディレクションしたKobe-Asia Contemporary Dance Festival 2013にQuickが出演など)、この日もcontact Gonzoを経験しているダンサーが出演していた。
MuDAの過剰に荒ぶる力は、ともすれば自虐や自滅へと向かうが、これを肉体の酷使や行為の反復を通して昇華し、気化熱の放出の瞬間のように、ある宇宙的な、広大な普遍へたどり着くことを集団は目指している。今回に限らず作品中にたびたびQuickによってアジテーションされるのが、「あらゆる物質の最終形態は鉄である」という、それ自体は多分にいかがわしい独自のテーゼだ。もちろんフィクションとしての世界観だが、鉄のもつ特別の硬度や重量感はなるほどMuDAの志向する身体のイメージにふさわしい。その独自の哲学はサブカルチャー的B級色を帯びてもいて、ボルテージを上げていくほどパロディ色を濃くする。確信犯なのか自覚的であるのか、ちょっと見ていて判断がつかない。今この時代に、垂直的な力の誇示という表象の選択が、どのような思考によってなされているのだろう。たとえば室伏鴻と3人の若き舞踏手による「Ko & Edge Co.」では、男性性の無効化という形での批評が展開されたのだったが。
パフォーマンスは終盤に向けていっそう過激に、過酷になる。通路の両端から互いに全力で疾走してきて中央で衝突する。ラグビーのスクラムのように7名が前屈した姿勢で体を密着させ、エネルギーを充満させながら一塊となって押し合う。脈絡なく全力で遂げられていく行為は、重力に屈する肉体の重みと存在自体の重さ――むしろ卑小さ――を露わにする。そのアンビバレンツを生きる者らの呻きや怒号が今も聞こえるようだ。