2021年4月14日水曜日

垣尾優『それから』

228日(日)

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING

@ロームシアター京都 ノースホール

 

 


関西のローカル・ベースで活動してきた垣尾優。京都のハイ・ブラウなアートシーンとも少し毛色の違う彼が、KYOTO EXPERIMENT 2021の公式プログラムにラインアップされた。公演日前から事務局はツィッター上にこれまで垣尾の作品に触れたことのある縁の人々からの応援メッセージを連投、ちょっとした「垣尾優まつり」、といっては大げさだろうか(私も寄稿した)。さまざまな人がそれぞれの言葉でこの異色のダンサーの魅力を伝えているが、それは踊り手として長いキャリアを誇りながら、確定的な評価の言葉を得ていないことの裏返しでもあり(批評の端くれとして責任を痛感する次第)、やはりというか、どの人の言葉も一様ではなく、垣尾の魅力が一言で語れるものではないこと、何か前例のない不思議なセンスの持ち主であってまったく既視感がないことの証でもある。


ダンスボックスが大阪の千日前にあった時代、「呆然リセット」という男性二人組のユニットで活動していた垣尾が一度ソロ作品を発表したのを私は見ている。ナンセンスともユーモアともつかない行為性を含んだパフォーマンスは隘路に迷い込んでいて、まだ自身の方向性を模索する最中のものだったろう。その垣尾がダンサーとしての自身の身体と出会うきっかけは、岡登志子のアンサンブル・ゾネへの参加だったのではないか。確かな理論に基づいた岡の振付を受けて、垣尾が自らの身体の可能性を舞台上で開花させるのを見るのは感動的だった。しかし彼はカンパニーの一ダンサーとして踊ることに留まらず(現在もゾネにゲスト出演しているが)、やがて塚原悠也とcontact Gonzoを開始する。すでに語られているように、ある晩「コンタクト・インプロビゼーションの稽古をしよう」と垣尾が夜の公演に塚原を呼び出したのがきっかけだ。最近では佐藤健大郎と秘密裡にイヴォンヌ・レイナーの『Trio A』を稽古しているとの噂も耳にする。ダンサーの習性であるのか、さまざまな技法やレパートリーに関心を持っては自主練しているのだろう。さらにノーラ・チッポムラのダンス作品、松本雄吉のパフォーマンス作品、砂連尾理の『猿とモルターレ』に出演。最近では増田美佳が主宰するmimaculの『夢の中へとその周辺』に増田、捩子ぴじんと共に出演していて、実にさまざまな方向性をもった表現者に信頼されてやまないダンサーであることが分かる。腰高で胸板が厚く頭部の小さい日本人離れした体格、匿名的な「ある男」として舞台に立つ存在感。振付の核心を直観で受け止め、過度に熱くならずクールに突き放すでもなく、淡々と動いて懐深く体現するダンサーの身体。その垣尾の創作者としての熟した一面が明らかになったのが一昨年に発表したフル・レングスのソロ作品『愛のゆくえ』である。自ら手掛けた空間の仕掛け、小道具、合成した音楽、それらが醸し出す不条理とナンセンスに彩られた世界。垣尾の中にかくも奇妙なテイストをもつ独自の世界が広がっているとは。寡黙な印象のある人だけに舞台は見る人すべてを驚かせた。今回のKYOTO EXPERIMENT 2021への参加は、この『愛のゆくえ』が評価されてのことと思われる。 


ここまで、あまり広く知られていない関西ローカル・ベースのダンサーのこれまでの歩みを振り返ってみた。


さて今回の新作ソロ『それから』は、記者会見時の本人のコメントに違わず、昨今の国際フェスティバルでは希少なほどのダンスそれ自体でシンプルに見せる作品だった。ノースホールの床から嵩を上げた特設ステージ上がパフォーマンスの行われるエリア。会場入り口からステージ脇を通って奥の壁の出入り口まで通り抜けになっていて、奥の開いた扉からは続くバックヤードが見える。この通路の床にはミサンガのようなカラフルなリボンや何台もの自転車が並んでいて、劇場における上演を外へ開く通路であることが仄めかされる。開始前から音響として砂利を踏む靴音や環境音のノイズが聞こえている。垣尾優は通路から特設ステージによじ登って登場し、やがてノイズも止んで無音となった空間でパフォーマンスを開始する。


特設舞台の黒い床の中央に一本の大根が置かれていて、垣尾はその傍らに立ち、片手を眼前にかざした格好で静止する。さりげない立ち姿勢だがどこか飄々として戯画的な風情が漂う。気が付くと姿勢が徐々に傾き、揺れや振りが生じている。垣尾の動きはフォルム、ムーブメント、ステップなどダンスの構成要素として取り出すことのできない不定形で瞬間的なもので、身振り以前、ステップ未満の断片が動きの芽生えや気配のようなものとして身体に生じるさまを観客は息を詰めて見守る。とくに前半部、音楽なしで動きが次々と、相互に脈絡なくとも連続して沸き起こり推移するさまは、濃やかで野性味があり、クオリティの高さに目を見張った。


赤い上下のつなぎを着た垣尾は足音を立てて少し歩をすすめる。床に横たわり、立ち上がって手を振り、せわしなく動く。がくがくっとつんのめるように左右の足を踏み込むが重心はしっかり据えており、左右の手を肩先から、ぐぐっと上へ二段階で差し出そうとするかに見えて、腕を伸ばしきることなく引き戻す。ひとり舞台の上に居て、迷い、選び、探り、動きを手繰り寄せる。日常的というには親密さはなく、パーソナルというより匿名的なそれらは、かつて何者かであった身体の記憶である。岸辺に辿り着いた人類の遠い記憶が身体に到来する。「動き」とカギ括弧つきでは呼び得ないもの、「歩き」「倒れ」「上げ・下げ」「揺れ」「ぶれ」「震え」「振れ」…と名指し得ない身体のざわめきが、遠い記憶とともに絶え間なく到来するのである。


突然「キーン」と耳を劈くエレクトリックな鐘の音でパフォーマンスは次のフェーズへ移行し、天井から銀色の器が下りてくる、垣尾は大根を手に取り放り投げる構えを見せ、虎のお面を被り、また自ら音を出すなど遊びの要素が入り始める。だがここでのメインのタスクは自転車を一台ステージに載せ、工具を使っていそしむ解体作業である。赤いつなぎはエンジニアの作業服からの発想だろう。本物の自転車というゴツいオブジェとの遊び、もしくは難儀しながらの解体作業という格闘は、ほかならぬcontact Gonzo的なタスクと言える。車輪や車軸など抽象性をもった部品が身体とともに舞台にある様子は、手術台の上のミシンとコウモリ傘の光景を成している。工具や部品のたてる金属音にエコーがかかり、メカニックの作業が硬質なリズムのある音楽になる。このあたりの展開はややテンションが緩んでいて、作業する身体の朴訥とした味わいや、脈絡のないシュールなオブジェ、垣尾の分身として『愛のゆくえ』以来のサルのぬいぐるみの登場など、垣尾のキャラクターの滲む箇所でありパフォーマンスの意図するところであるとしても、全体の運びや構成にはまだまだ詰める余地があると思われた。


それでも終盤に向けて、自転車や他のオブジェとの絡み方がカオス度を増し(銀の器を頭にかぶる、解体した自転車をロープで釣るなど)、そこにキレも粘りもある垣尾の踊りが熱量高く混入し始める。相変わらず不定形のまま素早く激しく動く、と思うと浮力を得たように遊泳する。タスクを負い、行為し、振舞い、動き回る身体に、人類の、いや非人類の記憶の中にある身振りが現れては消え、訪れては去りを繰り返しているかのようである。


当日パンフレットにある垣尾の文章は、自己紹介とともに出生からこのかたを辿って遥か大陸を巡り、あるとき道を選択した「運命的な出会い」の時を語る。そして「それからです。」というのである。タイトルの所以である。どこか人を食ったようでいて、踊りへの愛が滲んでいる。



2021年3月8日月曜日

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

 

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

3月5日(金) @ロームシアター京都 ノースホール

 

 

ホルツィンガーは1986年オーストリア、ウィーン生まれのダンサー・振付家。アムステルダムとウィーンを拠点に活動する。今回初めてその世界に触れたが、いかにもヨーロッパらしい肉体への執着・偏愛と濃厚な美学的アプローチに、悪趣味ともいえるサディスティックなパフォーマンスが合体し、唯一無二の過激でスキャンダラスな舞台が繰り広げられた。内容的にも時間の尺も膨大・長大(手元の時計では100分弱ほど)なボリュームがあり、そろそろ一息つかせてほしいと思うこちら側の耐性をよそに、さらにシーンを被せてくる。相当に感覚が刺激されるので、冗談ではなく観覧注意である。新型コロナウィルス感染拡大の影響でアーティストの来日が叶わず、上映会の形が取られたが、本来なら舞台で生のパフォーマンスを見たはずのもの。その場にいたらはたしてどのような感興を得たことであろうか。

 

タイトル『Apollon』はバランシンのバレエ・リュス時代の作品で、作曲はストラヴィンスキー。ギリシャ神話に材をとり、アポロと3人のミューズが登場する。「古典的なフォームの美しさが追求されたバランシンらしい振付」とプログラムにあるが、YouTubeで見るといわゆる古典バレエに対して斬新、清新な作風、かつ天上世界の清澄な雰囲気が「アポロ」のタイトルに相応しい。これをベースにしたホルツィンガーの挑戦は、一つにこのアポロ的な天上世界に対するディオニュソス的な陶酔を追究すること。さらに西洋美学の正統、アカデミズムに対する周辺的、大衆的、娯楽的な路線の対置、ハイアートとエンターテイメントを一緒に扱うことにあると見える。

 

大衆的なパフォーマンスの要素はサイドショーと言われる見世物に顕著だ。ホルツィンガーはニューヨークを旅し、コニー・アイランドで見たサーカスやエンターテイメントに大いに関心を持ったという。サーカスは今回入っていないが、サーカスの「隣で行われる」の意のサイドショーを取り上げている。本作の冒頭は長さ8センチの釘を自身の鼻の孔に差すというもので、ハンマーで少しずつ深く差し込んでゆき、パフォーマーのMCによれば頭蓋骨に到達させるのだという。また細長く膨らませた風船を飲み込むメニューでは、咽頭、呼吸器、食道、胃までを貫く風船のチューブが少しずつ口から入っていく。危険極まりない、きわどいショーである。ピンク色の風船チューブは男根を示唆してもいると思うが、そう、この作品はミューズの名のもとに6名の女性たちが欲望と背徳の限りを尽くすもので、女性の身体表象が大きな主題となっている。女性たちはほぼ全裸、アマゾネスという言葉があるが、エロスと野蛮が全方位的に開け放たれた身体である。腰に黒いベルトをしている者、スニーカーを履いている者、トゥシューズをつけて踊る者など、わずかな装身具が生まれたままの無垢の体と文化的に選択・武装された裸体との一線を保っている。チームはダンサーとサイドショーのアーティストが混在した編成で、ホルツィンガーの友人が多く参加、ショーのアーティストはその道のプロを呼んだという。そうだろう、とても素人の手出しできるものではない危険なもので、剣を飲むメニューなども含まれる。他にピアッシング、脱糞、腕詰め(指詰めならぬ)、自分の左右の鼻孔を通したストローで観客にカクテルを飲ませる、といった痛みや生理的な嫌悪を伴った悪徳、悪ふざけの数々。平行してランニングマシン、ダンベルなどを用いての身体の鍛錬も行われる。痛みと快楽の経験の場としての肉体礼賛であろう。

 

一方、美学的な表象としては、天上を描いた空と雲の背景画、雲の上を模したのであろうか舞台中央を大きく占める白いエアーマットレス、その中央にいる牛の等身大フィギュア、そして二人のダンサーによる左右対称のポーズ。二人はダンベル運動もすればバレエのポワントも見せ、舞台を縁取るようにシンメトリーの構図を作る。舞台で行われる行為の数々、表象、イメージの数々が縁取られて一幅の絵になる。牛は電動でうねるように動き、跨る女の身体も大いに翻弄される。同じく牛の背中に身を預けるもう一人の女は、尻をぴしゃりと叩かれて快楽の笑い声をあげる。牛は舞台上のシンボリックな存在で、獣性、欲望、怠惰、愚鈍、愚劣、下等を意味すると見える。白いエアマット上に寝そべりくつろぐ女たち。脱糞したものを食すという文字にするのもはばかられる行為に至るミューズたちである。おそらくは西洋美術史上の名画や神話の場面を参照しているのであろうと思われるシーンや構図が含まれ、私はこの方面に不案内なのだが、知識があればより楽しみや味わいが増すだろう。ちなみに西洋絵画の伝統では脂肪のたっぷりついた女性の尻のえくぼが美学のツボと聞くが、本作のほぼ裸体の6人は長く美しい脚、豊かな脂肪のついた腰や腹、たわわな乳房、なびかせる長い髪と、たしかに西洋美学のミューズを思わせる肉体を誇っている。贅肉一つついていない現代的なダンサーの身体とは異なる身体像である。

 

参照といえば、ポストトークでディレクターチームから、実際に見て取れた種々の引用について言及があったのは参考になった。西部劇のパロディは誰の目にも明らかだが、スターウォーズ、007、20世紀後半のアメリカ大衆文化も含めた様々なリファレンスに満ちた作品であったことが理解された。初めての鑑賞ではとにかく行為のショッキングなことに感覚の多くが持っていかれてしまうわけだが。それも含め、映像配信ではなく、劇場での上映会の形をとったディレクターチームの選択は正しかっただろう。これをパソコンの画面で情報として受け取ったのでは、全く「体験」にならなかっただろう。


演出:フロレンティナ・ホルツィンガー

製作:CAMPOアートセンター(ベルギー)

 

*映像は201710月にCAMPOによって撮影された

 

2021年3月7日日曜日

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADOR

 

32日(火)

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADORA   @元町映画館

  

モダンダンスの始祖として知られる伝説のダンサー、イサドラ・ダンカン(「イザドラ」が正しいと言われる)。映画ではダンカンについて多くを語らないが、彼女が二人の子どもを事故で亡くしており、その悲痛の中で亡き子どもたちに捧げて創作したソロダンス『母』をモチーフとして語り進む。物語は、この『母』を巡って、作品をそれぞれの関わり方で受け止める女性たちについての3つのオムニバスで成り立っている。互いに直接には関わらないが静かに呼び合う3つのエピソード。舞踊作品『母』には記譜が残されており、これを手に入れた振付師のアガトが丹念に読み込みながら振りに起こしていく様が、最初に描かれる。パリの街の寒色の風景の中、ひたむきに記譜に向き合う若き振付師の勤勉さ、創作にいそしむひたむきさが引き締まった空気を画面に与える。周辺的な話題というものが一切描かれないのも特徴的。アガトという人物や生活にまつわるあれこれなどには一切触れないのである。またダンスを描くのに、稽古場の熱気とか、身体のリアリティといった定形を用いず、記譜を読み、振りを起こし、その作業の中にイサドラ・ダンカンの魂をすくい上げようとする淡々として知的な取り組み方が、かえって新鮮だ。コロナの時代のダンス創作に相通じるものがある。今ここであること、一つの場所に集まること、生身の身体によって遂行されること、共同性の中で創作すること――上演芸術の条件と信じられてきた約束事が無効になって、なおダンスの真髄に触れようとする態度。アウラを介さない創造と受容。もう一つのダンスへのアプローチは可能なのである。


二つ目のエピソードは、『母』の公演を控えてリハーサルを重ねる振付師マリカとダンサー、マノンの対話と交流の日々。二人は親子なのか、と最初に思ったのだが、マリカには離れて暮らす二人の子がおり、マノンはそのマリカの寂しさ(彼女と子たちとの間にどのような関係の経緯があるのかは語られないが)をみつめる。マノンはダウン症であると思われ、いわゆる鍛え抜かれたダンサー然とした身体をもった踊り手ではない。そのことが映画を複層的にしている。マノンは誰かのケアを必要とする側と思われるが、実際には傍らのマリカを深い洞察によって思いやっている。母と娘に似ていながら、それとは違う関係性が一組の振付師とダンサーの関係に垣間見える。


3つ目は『母』の公演を見た観客のひとり、エルザの物語。観劇後の彼女の行動をつぶさに捉えていくが、やはり周辺の事情は一切語られない。拍手をし、劇場を出て、杖をつきながら街路を歩き、レストランに辿り着き、ひとり遅い夕食をとり、タクシーに乗り、夜も更けており、さらに杖をついて夜道を歩き、カギを開け、家に入り、鍵を所定の場所に置き、部屋着に着替える。なぜかこの行動の一部始終をカメラは追っていく。そして彼女の老いが見る者に切なく迫り、部屋に飾られた写真の少年は彼女の子であろうことが察せられる。喪失の中で重ねてきた彼女の月日が想像される。カーテンを開け、夜の街の景色を見るエルザの、遠い目、孤高の魂。かつては舞台に立った人であるのかと、ふと思った。


母になったことのない女性、現在母である女性、その傍らにある女性、そしてかつて母であった女性。年代も境遇もルーツも異なる4人の「母」を巡る思索が、イサドラから時を超えて遠く響き合いながら、静かなトーンで描かれる。余計なもののない物語、そして画面。それでも十分に、むしろたっぷりと語られるそれぞれの魂のドラマがある。



監督:ダミアン・マニヴェル

脚本:ダミアン・マニヴェル、ジュリアン・デュードネ

撮影:ノエ・パック

出演:アガト・ボニゼール、マノン・カルパンティエ、マリカ・リッジ、

エルザ・ウォリアストン