2018年7月25日水曜日

シンポジウム 「海外の性教育からみた日本」



7月10日(火)

@ワコールスタディホール 京都





KYTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018の関連イベント第一弾として、シンポジウム「海外の“性教育”からみた日本 ―社会構造と『性意識』形成の関係を結びながら―」が、記者会見直後に行われた。今年のKYOTO EXPERIMENTが「女性」をキーワードとして開催されることから、社会における性意識やジェンダーの役割形成に関わる事項として性教育に焦点を当てたものだ。
パネリストはパトウ・ムスマリ、古久保さくら、山田創平、橋本裕介の各氏。モデレーターは国枝かつら氏。各氏のコメントから要点を紹介しよう。




パトウ・ムスマリ氏(医学研究科博士、京都大学)は第三世界の公衆衛生に携わる専門家の立場から登壇。The WYSH (ウィッシュ Well-being of youth in Social Happiness=青少年の社会的健康)と呼ばれる性教育プロジェクトに携わっている。
・世界の人口の半分は25歳以下であり、
・若者は性病、HIV、望まれない妊娠に見舞われやすい。これは先進国、途上国にかかわりなく言える
・15~19歳の女性の死亡原因に性病や中絶が挙げられる

こうした現状から、sexual educationとreproductiveについてのニーズの把握が重要であること、これらを踏まえてWYSH projectでは
・sexual educationのほか、いじめなどメンタル面での支援も行う
・Risk Personalization 、すなわちHIV、人工妊娠中絶などのリスクが他人事ではなく、自分にも起こり得ることであると理解させる
・Future dream=将来への夢をもてるように促していく

といったミッションを、若者たちとのグループディスカッションなどを通して進めていることが、グラフや写真を用いながら語られた。WYSHにより、コンドームの使用など具体的な事柄も含めた性の知識を得ていること、教師への教育としても有効であることが確認されているという。厳しい現実に公衆衛生という社会的インフラに携わる立場から向き合い、こつこつと地道に活動する誠実な様子がうかがえた。将来への夢を、とのくだりは、一人一人が尊厳をもった存在として自らの人生を生きていけるようにとの思いが込められたものだろう。

後のディスカッションで、性教育に関してアフリカ諸国ではまず医療面での対応が喫緊であり、本日この場でなされたような社会や政治の問題としてエイズを考えるというアプローチはされないと語っていたのも印象的だった。




古久保さくら氏(ジェンダー研究者、大阪市立大学)は、性行動を巡る平等でHappyな関係とは、と題し、大学でセクシュアリティと暴力の関係を教えている。大学教育は18歳を過ぎて性行動が活発になる時期の人達に性教育を行う最後のチャンスであるという。
また弁護士やフェミニストカウンセラーらとともに、性暴力被害のカウンセリングなどの実践的な活動も行っている。

これまでの性教育は被害者にならないためのものであり、実質は結婚前の性交渉はNGであるなどといった純潔教育であった。しかし今は、加害者にならないための教育が中心である。

特に二次被害について詳細な解説がされた。そのメカニズムは、
性暴力が起きる→驚いた周囲の人間は信じたくない、信じようとしない→「あの人が(あんなにいい人が)そのような暴力をはたらくわけがない」→被害者の方がおかしいのではないかと考え始める→これがSNSで広がる・・・このように、「私が信じている世界を崩したくない」ので、「よほど被害者がおかしいのでは」と考えてしまう。これが二次被害(加害)にほかならない。

古久保氏の話は、セクハラなど権力ある人に対して断ることの難しさなど、現場の力関係やその理不尽なありようを知る人ならではの具体性と説得力に満ちている。




山田創平氏(社会学者、京都精華大学)は「マイノリティと地域」、「芸術と地域」の視点から、HIV/AIDS、性道徳、性規範について研究。エイズ予防、セクシュアル・マイノリティの人権、セックスワーカーの権利擁護などの活動に関わっている。
また、MASH大阪という、大阪梅田の東にあるゲイタウンに拠点を置いたNPOで活動した時期があり、この経験が基盤となっているそう。

山田氏の話もまた、支援活動の現場の声を汲んだ切実な内容で、HIV感染者・発病者、ゲイやバイセクシュアルの人々が社会の中でいじめ・差別を受け、困難に直面している状況を、客観的な調査の数字や、メディアで取り上げられた最近の事件や差別的発言などにも触れながら語った。

山田氏の言説は、理論的にはマルクスに根拠を置く。参考文献にマルクス主義フェミニズムの立場をとる上野千鶴子・著「家父長制と資本制」をあげ、「ラディカル・フェミニストは市場の外に家族という社会領域を発見した」の引用とともに、近代=国民国家と資本主義(経済成長モデル)の結びつきが、いかなるメカニズムで家族という領野を自らのシステムに取り込んでいったかが語られた。家父長制による家族、すなわち搾取される労働者、「愛」のもとに無賃の家事労働に携わるその妻、未来の労働者として育成・再生産される子で構成される家父長的家族が資本主義の経済システムを支えてきたモデルであり、これから外れ、有用でないとされる同性愛者、あるいは他のマイノリティへの差別の構造がここから生まれた、とする。

続いて、マイノリティとされる人々が社会において差別・周縁化されていくメカニズムを、「異性愛者、既婚、正社員男性」を中心に置いた同心円の図式を用いて解説。女性、同性愛者、障害者、単身者、非正規雇用者、在日外国人・・・といった人々が中心から円の外へ外へと「周縁化」されていく構造が明らかにされた。






ディスカッションでは、KYOTO EXPERIMENTに向け、性を巡る社会関係と芸術との関係性について、幅広く話し合われた。

KYOTO EXPERIMENTの橋本裕介氏より、「京都で舞台芸術に関わる限り必ずや想起される」ダムタイプの名が挙がり、1993年の『S/N』にみられた、制作プロセス自体のもっていた社会性について提起するところから議論に入った。

中心メンバーの古橋悌二がゲイでありHIV陽性であるという周縁にありながら社会批判を行ったこと、また、ダムタイプが制作集団としてヒエラルキーなく開かれており、様々なジャンルの人が出入りしていたこと、KYOTO EXPERIMENTでも、作品のみならず、作る過程で(アーティストが)どれだけ豊かに関われるかという点にも目を向けたい、といった意見が出た。



古久保氏は2年前に横浜でも上演された『ヴァギナ・モノローグ』を挙げ、女性が自分の外性器をいかに語るのかという問いがあり「私のアソコには呼び名がない」と題されたワークショップがあることに言及。

これに関して客席にいた、あかたちかこ氏より、この自分たちのヴァギナ・モノローグを作ろうというワークショップの中国の大学で実践された例について紹介があり、学生たちが地下鉄で女性器の呼び名をフラッシュ・モブのように発語していくものだったこと、これが教育の場で芸術を用いて気付きを得ていくプロセスであるとした。舞台芸術にはこのような力が強くあるのであり、人に伝えるものとして(手法を)洗練させてゆく芸術の力について語られた。
あかたちかこ氏は性教育とエイズのカウンセラーとしてセイファー・セックスの啓発活動などに携わっている女性で、余越保子・構想・振付による性教育をテーマにしたダンス作品(一昨年のKYOTO EXPERIMENTフリンジ参加作品)に、語り部/教育者として出演したのを拝見したことがある。



議論はまた、(山田氏の示した)同心円の真中に居る人が、周縁の人を「使って」作品を作るという構図にも及んだ。例として@KCUAでのデリヘル嬢をギャラリーに呼ぶとしたイベントが波紋を呼んだ件にも触れ、周縁化された人への想像力の欠如をあらためて指摘するとともに、フェスティバル自体が同心円の中心にいる人たちによるものであり、カッコつきの女性を生んではいないかという問い掛けがなされた。非常に鋭い問い掛けといえる。



かたや芸術における性的な表現を巡って、橋本氏から、KEXは裸体OKと言われているのか、海外から送られてくる売り込みの映像には脱いだりする作品もある。これらについては実行委員たちで議論し慎重に招聘している。いっぽうで、性的なもの、暴力、過激な表現について、「老人や子供が見たらどう思うか」と批判する人がいる。自分自身の考えではなく弱者を引き合いに出す論法であり、性教育の現場に議員らの批判があるのとも同様の、パターナリズムの存在を感じる、と。

資本主義構造におけるパターナリズムは、性は家庭内に押し込め、主婦の無賃労働を「愛」に呼び変えて搾取する、との意見や、
その一方で性産業は非常にさかんであり、売り物の性がはびこる。それなのになぜ芸術の性はNGなのかと、ろくでなし子の女性器の彫刻が法に触れるなどの例を挙げながらの指摘もあった。

これについてはパトゥ氏も、「9年前に日本に来て以来、性的なマガジンが簡単に手に入ることに驚いている。性に関しオープンであるのに、芸術に関してNGが多いのは不思議である。検閲の対象にならないことを願う」と話した。

さらに、舞台芸術の、他の芸術(音楽、美術、etc.)と異なる力とリスクについても言及があり、(観客の)性的な期待を引き受けてしまう(演者の)身体があり、あるいはキャスティングにおけるハラスメントなど(業界の)権力構造がある、と問題の在り処が示された。



モデレーターの国枝かつら氏からは、「誰が語るのか」という問いが立てられ、これについても興味深い発言が続いた。
古久保氏による「周縁のことを、同心円の中心にいる者が語ってよいのだ、むしろ語るべきなのだ」との言葉は力強い。見た目男性のプログラムディレクターが、女性性をテーマにしたプログラムをたてることはあっていいはずである、と。
山田氏はスピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」を挙げ、周縁の者が自分を語る言葉をもつことも大切である、とした。
パトウ氏からは、当事者でないと語れないとするのでは一つの視点しか得られない、様々な角度を得ることで何が見えるのか、と視点の多様さの大切さについて考えが述べられた。



以上、医療、教育、社会学、芸術、それぞれの視点と、理論と実践とが交差した闊達な討論となった。
女性という視点でいえば、マルクス主義フェミニズムからポストコロニアル的な問題提起(周縁化された女性が自分自身を語る言葉を持てるか)までが広く視野に入った議論となった。京都は上野千鶴子が京都精華大学で教えた町でもあり、セクシュアリティ、ジェンダー、マイノリティ、差別、人権といった問題を巡って議論の蓄積がすでにあることをこの日のシンポジウムから感じ取ることができた。

理論研究や社会的実践と並行して、ダムタイプや、そのメンバーによる個別の活動があり、OKガールズ、ブブ・ド・ラ・マドレーヌをはじめとしたアートとアクション、活動や発言が続いてきた歴史がある。古久保さくら氏、山田創平氏、あかたちかこ氏ら研究者や専門家、実務家による実践と合わせ、これらの集積のある京都という都市の土壌を踏まえて、「女性」「女性性」をキーワードにした今年のKYOTO EXPERIMENTのラインナップを見ていくことも、いっそうの深まりを与えてくれるのではないか。
































2018年7月14日土曜日

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018 記者会見



7月10日(火)
@ワコールスタディホール



9回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018の記者会見が行われ、女性アーティストおよび女性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループにフォーカスした12組、15作品による公式プログラムの全容が明らかになった。他にレジデンス・プログラム1件、フリンジ公演37件。今回初めて会場に二条城二の丸御殿を使用。日仏交流160周年及び京都・パリ友情盟約締結60周年記念に基づきフランスから複数のアーティストを招聘する。



フェスティバルを女性アーティストもしくは女性性を打ち出すグループで構成することについて、プログラム・ディレクター、橋本裕介氏のプレゼンテーションは以下の通り;
I. 性、ジェンダーについて。個人的、または文化的なものと捉えられるジェンダーは社会または政治的な要請によって形作られているのでは。この観点からジェンダーを考えてみたい。
II. 集団制作を主とする舞台芸術においても、政治や家庭同様の家父長制が見られるのでは。真の創造性のための集団のあり方を問いたい。
III. 「他者としての女性」という視点で社会と支配の構造を考えてみたい。E・サイード『オリエンタリズム』を参照しつつ、西洋/東洋、男性/女性、主体/客体、等々の二項対立による西洋近代の思考を疑い、世界がより流動化している現在、他者とは、外部とは何なのかをみつめたい。



以上を踏まえたうえで、実際の作品は4つにカテゴライズされる;
1.歴史、記憶との対峙
2.音楽、空間との混交あるいは対峙
3.(KYOTO EXPERIMENTとの)共同製作
4.パリー京都、フランスー日本の友好関係(過去8回で育まれた京都と他都市、アーティストとフェスティバルの関係に順じる)  



以下、個々のアーティストと作品が映像を交えつつ紹介された。筆者の個人的なコメントも交えて記す;
・KYOTO EXPERIMENT(以下、KEX.)へ二度目、三度目の登場となるアーティストに、ジゼル・ヴィエンヌ、田中奈緒子、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー、She She Pop、ロラ・アリアスの5組。

・韓国のジョン・グムヒョンはKEX.へは初登場ながら2011年の来日公演『油圧バイブレーター』で、セクシュアリティを妄想とともに淡々と説き進める独自の作風が印象に残っている人。

・ブラジル出身でヨーロッパで活動するロベルタ・リマは昨年のKEX.の関連シンポジウム(*)に登壇し、伏見の女性杜氏をリサーチしている旨語ったが、いよいよ作品化される。
  *「ナショナルアイデンティティと文化イベント」 田中奈緒子、キミ・マエダ、ロベルタ・リマの3名の女性アーティストが登壇した

・日本のアートシーン、ダンスシーンで存在感を発揮しているアーティストが、「女性(性)」という文脈から初参加となるのもKEXならではの視点だろう。山城知佳子はインスタレーションのほか自身初のパフォーマンスを発表する。会見にゲストとして登壇した山城氏は「ヒューマンビートボックスを合わせた展示『土の人』では音、リズム、音楽が映像とともに別の次元に連れて行ってくれると知った。(パフォーマンス作品では)この映像からもう一度現場をどう取り戻すかを模索しつつ、映像と音のコラボレーションを構想している」と話す。エキストラ50名を募集し、鑑賞者ではなく作品の中の人になってもらいたいという。

手塚夏子は日本におけるダンス・アーカイブの議論を誘発したセゾン文化財団主催のプロジェクト「ダンスアーカイブボックス」に端を発する「Floating Bottle Project」Vol.2を、スリランカ、韓国のアーティストとともに上演する。一昨年のTPAMで見た本作の最初のプレゼンテーションでは、投瓶通信の形を借りて手塚が西洋近代を問うための指示書を発し、受け手が自らの文化的背景とセクシュアリティの要素を込めたパフォーマンス作品で応答した。会見に届いたビデオ・メッセージで手塚氏は、アジアにおける西洋近代とは世界の中に(分割の)線を引くことだったのではないかとし、「線引きされた視点を動かしてみる時、何が見えてくるか」を問いたいと語る。

・初登場にはさらに往年の劇団ウースターグループ、ライジング・スター的な勢いをみせるダンスのマレーネ・モンテイロ・フレイタス、東京の若い世代の市原佐都子。ゲストの市原佐都子氏は、モノローグを特徴とする自らの戯曲のスタイルについて、「最初の作品をケータイで書いたことから生じた」と語り、社会の多くのことに関心があるわけではなく自身がリアリティを感じる事象を取り上げているという。『妖精の問題』では相模原の障害者施設で起きた事件に自分が東京で暮らしている感覚を重ねる。



ゲストの山城知佳子氏、市原佐都子氏が、会場の質問に答えてさらに語ったところを紹介すると;
沖縄という自らの出自を創作の軸とする山城氏は、沖縄という場所そのものが日本本土から見た他者であり、オリエンタルな癒しの島といった女性性で語られることを疑問に思うことがあると話した。
市原氏は、自作に対する反応の中にいつも「女性」という言葉が付いて回るが自身は男性中心社会にメッセージを出している意図はなく、前提ともしていないという。女性/男性を意識しないというアーティストの表現にどんなジェンダーの表象が見て取れるだろうか。



以下は個人的な所感。
プレス資料にも、また会見の場でもフェミニズムという言葉は使われていないが、女性アーティストもしくは女性性にフォーカスするとした今回のKYOTO EXPERIMENTの方針は、ひとつの芸術祭が多分に政治性を含んだプログラムを世に問うもので、芸術祭のあり方に議論もある中、画期的なものと考える。奇しくも#Mee too運動の世界的な高まりと重なるわけで、主題を文化・芸術の側面からのみ扱う「中立的」な態度に終始することなく、眼前の社会や政治状況との生き生きとした関係を芸術表現がどう築いていけるか、その実験の場となり、様々な問いと議論の行き交う場となることが期待される。

#Mee too運動との関わりに関して、会場からの質問に答える形で橋本氏より、芸術祭の準備には通常2、3年を要し、今回のテーマも2015年頃から検討していたとの話がされた。現実社会で目に見えないもの(の構造)を見えるようにしたいと考えてのことだが、#Mee too運動(によって多くが暴かれ可視化された状況)との重なりは、偶然で驚いている、と。昨年ハノーファーで開催された芸術祭ではラインナップが全て女性と意図は明白であったが、敢えてテーマを掲げることをしないというスマートな姿勢をとっていた。しかし今の日本で何も言わないことに意味はあるだろうかと考え、(フェスティバルとして)表明することにしたという。

いっぽう、芸術祭実行委員長の森山直人氏からは、「#Mee too運動だけでは解決できないこと、必ずしも社会運動に還元できない感情、欲望などの表現を、楽しみつつ考える場としてのKYOTO EXPERIMENT」と、芸術祭本来の可能性を重視する見方も示された。



プログラム全体をざっと辿ってみるとき、「女性」や「女性性」という軸を通したことで、性別以外の指標への注目が、より促されるように感じるのは面白いことだ。その一つ、国籍や活動拠点の多様さについては、フランスが2組、ドイツ・ベルリンを拠点とする人が3組、リスボン、ウィーンとヘルシンキなどヨーロッパの都市が多く目に入る。他にニューヨーク、ブエノスアイレス。アジアからは、ソウル、沖縄、東京。ただしヨーロッパを拠点とする人たちでも出身国はブラジル、東京、福岡と様々である。移動しながら表現し続けるアーティスト、逆に出身地にこだわり続ける人など、様々な混合がみられ、そのこと自体が多様性を物語る。女性であることを抱えつつどの場所で活動していくかの選択に、アイデンティティを巡るそれぞれの物語が、またそこから見えてくる状況があるかもしれない。


一方、今回のラインナップ(パースペクティブ)においては、ジャンルや表現形態の違いをことさらに言う必要がないように感じられるのも、興味深い点だ。展示と上演の双方を行う作家が複数入っていることもあろうが、今年はダンスが何作品あるかと記者発表のたびに注視しがちであったのが(因みに今回ダンスと登録されているのはジゼル・ヴィエンヌ、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー、マレーネ・モンテイロ・フレイタス、手塚夏子の4組)、ダンスであろうとパフォーマンスであろうと演劇、あるいは展示であろうと、女性(性)というモーメントがいかなるドラマトゥルギーを形成するのか、作品と表象の内容にこそ関心が注がれ、言語や形式の違いを超えた議論の展開が期待される。これはダンスなのか、ダンスとは何か、ダンスとそうでないものとの違いはどこにあるのかといった、ダンスの周辺でしばしば交わされるジャンル固有性にこだわる議論は(それがダンスの強度を支えてきたことは確かだが)、ここでは、女性性と身体性との不可分な関わりと表現の成り立ちといった視点に移行するのではないか。形式ではなく内容へ。そのことが現在のダンスをめぐる思考や創作をより多角的な方向へ開いていくとすれば幸いだ。






2018年7月9日月曜日

O.F.C.『カルミナ・ブラーナ』


616日(土)

O.F.C.『カルミナ・ブラーナ』
合唱舞踊劇 独唱・合唱と管弦楽とバレエによる世俗カンタータ           @東京文化会館
                            
作曲:C.オルフ                  

演出・振付:佐多達枝

指揮:坂入健司郎
ソプラノ:澤江衣里  テノール:中嶋克彦  バリトン:加耒徹

ダンサー:酒井はな  浅田良和  三木雄馬  

管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
児童合唱:すみだ少年少女合唱団
コロス・合唱:オルフ祝祭合唱団






合唱と管弦楽に舞踊が加わった、言わずと知れた世俗カンタータの壮大かつ祝祭的な舞台。だがそのスペクタクル性にものを言わせることなく、形式の尊重の上に創造の自由を開花させた、端正で理性を感じる舞台だった。黒服の合唱団は舞台の左右を占め、身振りが振り付けられていて、コロスの役割を担う。通路より右側のウィング前方の客席で見たが、オーケストラ・ピットからの音と、間近にいる上手側の合唱の歌声とがわずかにずれて届いてくる。それも生オケ・生うたによるライブならではの味わいだった。少年少女合唱団が途中、白い服で登場した。前面のオケ・ピット、合唱団/コロスの左右対称の配置、そして中央に展開するバレエ。最終シーンの酒井はなを頂点とした階層的なフォーメーションが、東京文化会館の大ホールという典型的なプロセニアムの舞台でダイナミックに展開し、近代劇場のもつ求心的な力で観客を引き込んだ。 



佐多達枝は日本の創作バレエの第一線で長く活躍してきた大ベテランの振付家だが、コンテンポラリーダンスとの接点は多くはない。不覚にも私自身は今年3月の「another BATIK」に提供した『子どもたちの歌う声がきこえる』が初見だった。今回はそれに続いての佐多作品の鑑賞で、プログラムに掲載された高橋森彦氏の解説を導きとして見た。「運命の女神よ」と歌う曲の迫力に拮抗して、舞踊がスケール大きく展開する。動きには古典を離れた創意があるが、ダンスの形式を大きく外れることなく王道を行く。高い抽象性をもった振付は、マイムを用いず、ステップの組み合わせと群舞のフォーメーションにより構成されている。西洋舞踊の身体理論と、舞踊言語への信頼に基づいた振付による作舞で、情緒に流されず、舞踊の理念と美学がしっかりとした文法のもとに体現されている、と感じた。舞踊言語への信頼とは、舞台を流れる時間のあらゆる瞬間を振付言語で表現することが可能であり、そうするのだという意志と確信に裏打ちされているということだろう。



唐突かもしれないが、たとえば法律の文言になぞらえてみる。人間の構成する社会のあらゆる局面を、法の理念が行き渡り支配し、尊厳、権利義務、関係性のあり方の全てが論理的に規定され、これが言語で表現される。憲法でも、(改正前の)教育基本法でも、最近では劇場法の前文などでも、読むごとに胸をうつものがあるが、その厳格で理詰めでとっつきにくいと思われがちな法文の文言によってこそ、崇高な理想や幸福追求の理念、未来の同胞へ託す思いが熱く気高くうたい上げられる。佐多達枝という人の作舞には、これによく似た、理念と美学を体現する舞踊言語の高み、それを裏打ちする理論と形式の尊重があるように思われる。あらゆる事物や精神を振付言語で表現し得るとする、ダンスへの信頼だ。日本のモダンダンスは花鳥風月に流れたと山野博大氏が説いておられるが、ここでは抒情や風景の明媚な描写とは一線を画した舞踊芸術の至高の精神が志向されていると言ってよいだろう。



「カルミナ・ブラーナ」は今年2月に石井潤・振付による舞台を京都で見た。第二幕、酒場の場面を文字通り具象的に演出し、キャラクター・ダンスも登場するポピュラリティのある楽しい舞台だった。もちろん運命の女神が登場する冒頭と最終場面は出演者総出となり大迫力であった。石井潤追悼公演として上演され、かつてメイン・キャラクターを踊った寺田みさこ、及び中村美佳が振付指導をつとめた。佐多振付・演出ではダンサーは男女とも薄いベージュの衣装で統一され、具象性は排される。円形の配置、3つの分割した景の同時並行の展開など構成的で合理的なフォーメーション。個々のボキャブラリーはポワントにこだわらず、自由闊達で創意に満ちる。歌のソリストがバリトン、テノール、ソプラノと登場するが、特にバリトン独唱と男性ダンサーのソロがコラボする場面は印象深い。男性ダンサー陣は群舞も含めて躍動感に溢れ、見応えがあった。女性陣もしなやかで素晴らしかった。



振付言語と形式ということをことさらに言うのは、コンテンポラリーダンスのアーティストの中に、これを意識した仕事が見受けられると思うからだ。佐多達枝を踊ったBATIKはもちろん、群舞の振付・構成に卓抜した力と才気をみせる山田うん、マーラーに振り付けているきたまり。コンテンポラリーの様々な逍遥を経て、舞踊言語の新しいスタンダードを確立したいという欲求が個人レベルを超えて渦巻いているのだろうか。これは仮定に過ぎないが、検証のためにも、本来のスタンダードをしっかり見ておきたいと思った次第だ。