2018年7月14日土曜日

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018 記者会見



7月10日(火)
@ワコールスタディホール



9回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018の記者会見が行われ、女性アーティストおよび女性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループにフォーカスした12組、15作品による公式プログラムの全容が明らかになった。他にレジデンス・プログラム1件、フリンジ公演37件。今回初めて会場に二条城二の丸御殿を使用。日仏交流160周年及び京都・パリ友情盟約締結60周年記念に基づきフランスから複数のアーティストを招聘する。



フェスティバルを女性アーティストもしくは女性性を打ち出すグループで構成することについて、プログラム・ディレクター、橋本裕介氏のプレゼンテーションは以下の通り;
I. 性、ジェンダーについて。個人的、または文化的なものと捉えられるジェンダーは社会または政治的な要請によって形作られているのでは。この観点からジェンダーを考えてみたい。
II. 集団制作を主とする舞台芸術においても、政治や家庭同様の家父長制が見られるのでは。真の創造性のための集団のあり方を問いたい。
III. 「他者としての女性」という視点で社会と支配の構造を考えてみたい。E・サイード『オリエンタリズム』を参照しつつ、西洋/東洋、男性/女性、主体/客体、等々の二項対立による西洋近代の思考を疑い、世界がより流動化している現在、他者とは、外部とは何なのかをみつめたい。



以上を踏まえたうえで、実際の作品は4つにカテゴライズされる;
1.歴史、記憶との対峙
2.音楽、空間との混交あるいは対峙
3.(KYOTO EXPERIMENTとの)共同製作
4.パリー京都、フランスー日本の友好関係(過去8回で育まれた京都と他都市、アーティストとフェスティバルの関係に順じる)  



以下、個々のアーティストと作品が映像を交えつつ紹介された。筆者の個人的なコメントも交えて記す;
・KYOTO EXPERIMENT(以下、KEX.)へ二度目、三度目の登場となるアーティストに、ジゼル・ヴィエンヌ、田中奈緒子、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー、She She Pop、ロラ・アリアスの5組。

・韓国のジョン・グムヒョンはKEX.へは初登場ながら2011年の来日公演『油圧バイブレーター』で、セクシュアリティを妄想とともに淡々と説き進める独自の作風が印象に残っている人。

・ブラジル出身でヨーロッパで活動するロベルタ・リマは昨年のKEX.の関連シンポジウム(*)に登壇し、伏見の女性杜氏をリサーチしている旨語ったが、いよいよ作品化される。
  *「ナショナルアイデンティティと文化イベント」 田中奈緒子、キミ・マエダ、ロベルタ・リマの3名の女性アーティストが登壇した

・日本のアートシーン、ダンスシーンで存在感を発揮しているアーティストが、「女性(性)」という文脈から初参加となるのもKEXならではの視点だろう。山城知佳子はインスタレーションのほか自身初のパフォーマンスを発表する。会見にゲストとして登壇した山城氏は「ヒューマンビートボックスを合わせた展示『土の人』では音、リズム、音楽が映像とともに別の次元に連れて行ってくれると知った。(パフォーマンス作品では)この映像からもう一度現場をどう取り戻すかを模索しつつ、映像と音のコラボレーションを構想している」と話す。エキストラ50名を募集し、鑑賞者ではなく作品の中の人になってもらいたいという。

手塚夏子は日本におけるダンス・アーカイブの議論を誘発したセゾン文化財団主催のプロジェクト「ダンスアーカイブボックス」に端を発する「Floating Bottle Project」Vol.2を、スリランカ、韓国のアーティストとともに上演する。一昨年のTPAMで見た本作の最初のプレゼンテーションでは、投瓶通信の形を借りて手塚が西洋近代を問うための指示書を発し、受け手が自らの文化的背景とセクシュアリティの要素を込めたパフォーマンス作品で応答した。会見に届いたビデオ・メッセージで手塚氏は、アジアにおける西洋近代とは世界の中に(分割の)線を引くことだったのではないかとし、「線引きされた視点を動かしてみる時、何が見えてくるか」を問いたいと語る。

・初登場にはさらに往年の劇団ウースターグループ、ライジング・スター的な勢いをみせるダンスのマレーネ・モンテイロ・フレイタス、東京の若い世代の市原佐都子。ゲストの市原佐都子氏は、モノローグを特徴とする自らの戯曲のスタイルについて、「最初の作品をケータイで書いたことから生じた」と語り、社会の多くのことに関心があるわけではなく自身がリアリティを感じる事象を取り上げているという。『妖精の問題』では相模原の障害者施設で起きた事件に自分が東京で暮らしている感覚を重ねる。



ゲストの山城知佳子氏、市原佐都子氏が、会場の質問に答えてさらに語ったところを紹介すると;
沖縄という自らの出自を創作の軸とする山城氏は、沖縄という場所そのものが日本本土から見た他者であり、オリエンタルな癒しの島といった女性性で語られることを疑問に思うことがあると話した。
市原氏は、自作に対する反応の中にいつも「女性」という言葉が付いて回るが自身は男性中心社会にメッセージを出している意図はなく、前提ともしていないという。女性/男性を意識しないというアーティストの表現にどんなジェンダーの表象が見て取れるだろうか。



以下は個人的な所感。
プレス資料にも、また会見の場でもフェミニズムという言葉は使われていないが、女性アーティストもしくは女性性にフォーカスするとした今回のKYOTO EXPERIMENTの方針は、ひとつの芸術祭が多分に政治性を含んだプログラムを世に問うもので、芸術祭のあり方に議論もある中、画期的なものと考える。奇しくも#Mee too運動の世界的な高まりと重なるわけで、主題を文化・芸術の側面からのみ扱う「中立的」な態度に終始することなく、眼前の社会や政治状況との生き生きとした関係を芸術表現がどう築いていけるか、その実験の場となり、様々な問いと議論の行き交う場となることが期待される。

#Mee too運動との関わりに関して、会場からの質問に答える形で橋本氏より、芸術祭の準備には通常2、3年を要し、今回のテーマも2015年頃から検討していたとの話がされた。現実社会で目に見えないもの(の構造)を見えるようにしたいと考えてのことだが、#Mee too運動(によって多くが暴かれ可視化された状況)との重なりは、偶然で驚いている、と。昨年ハノーファーで開催された芸術祭ではラインナップが全て女性と意図は明白であったが、敢えてテーマを掲げることをしないというスマートな姿勢をとっていた。しかし今の日本で何も言わないことに意味はあるだろうかと考え、(フェスティバルとして)表明することにしたという。

いっぽう、芸術祭実行委員長の森山直人氏からは、「#Mee too運動だけでは解決できないこと、必ずしも社会運動に還元できない感情、欲望などの表現を、楽しみつつ考える場としてのKYOTO EXPERIMENT」と、芸術祭本来の可能性を重視する見方も示された。



プログラム全体をざっと辿ってみるとき、「女性」や「女性性」という軸を通したことで、性別以外の指標への注目が、より促されるように感じるのは面白いことだ。その一つ、国籍や活動拠点の多様さについては、フランスが2組、ドイツ・ベルリンを拠点とする人が3組、リスボン、ウィーンとヘルシンキなどヨーロッパの都市が多く目に入る。他にニューヨーク、ブエノスアイレス。アジアからは、ソウル、沖縄、東京。ただしヨーロッパを拠点とする人たちでも出身国はブラジル、東京、福岡と様々である。移動しながら表現し続けるアーティスト、逆に出身地にこだわり続ける人など、様々な混合がみられ、そのこと自体が多様性を物語る。女性であることを抱えつつどの場所で活動していくかの選択に、アイデンティティを巡るそれぞれの物語が、またそこから見えてくる状況があるかもしれない。


一方、今回のラインナップ(パースペクティブ)においては、ジャンルや表現形態の違いをことさらに言う必要がないように感じられるのも、興味深い点だ。展示と上演の双方を行う作家が複数入っていることもあろうが、今年はダンスが何作品あるかと記者発表のたびに注視しがちであったのが(因みに今回ダンスと登録されているのはジゼル・ヴィエンヌ、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー、マレーネ・モンテイロ・フレイタス、手塚夏子の4組)、ダンスであろうとパフォーマンスであろうと演劇、あるいは展示であろうと、女性(性)というモーメントがいかなるドラマトゥルギーを形成するのか、作品と表象の内容にこそ関心が注がれ、言語や形式の違いを超えた議論の展開が期待される。これはダンスなのか、ダンスとは何か、ダンスとそうでないものとの違いはどこにあるのかといった、ダンスの周辺でしばしば交わされるジャンル固有性にこだわる議論は(それがダンスの強度を支えてきたことは確かだが)、ここでは、女性性と身体性との不可分な関わりと表現の成り立ちといった視点に移行するのではないか。形式ではなく内容へ。そのことが現在のダンスをめぐる思考や創作をより多角的な方向へ開いていくとすれば幸いだ。






2018年7月9日月曜日

O.F.C.『カルミナ・ブラーナ』


616日(土)

O.F.C.『カルミナ・ブラーナ』
合唱舞踊劇 独唱・合唱と管弦楽とバレエによる世俗カンタータ           @東京文化会館
                            
作曲:C.オルフ                  

演出・振付:佐多達枝

指揮:坂入健司郎
ソプラノ:澤江衣里  テノール:中嶋克彦  バリトン:加耒徹

ダンサー:酒井はな  浅田良和  三木雄馬  

管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
児童合唱:すみだ少年少女合唱団
コロス・合唱:オルフ祝祭合唱団






合唱と管弦楽に舞踊が加わった、言わずと知れた世俗カンタータの壮大かつ祝祭的な舞台。だがそのスペクタクル性にものを言わせることなく、形式の尊重の上に創造の自由を開花させた、端正で理性を感じる舞台だった。黒服の合唱団は舞台の左右を占め、身振りが振り付けられていて、コロスの役割を担う。通路より右側のウィング前方の客席で見たが、オーケストラ・ピットからの音と、間近にいる上手側の合唱の歌声とがわずかにずれて届いてくる。それも生オケ・生うたによるライブならではの味わいだった。少年少女合唱団が途中、白い服で登場した。前面のオケ・ピット、合唱団/コロスの左右対称の配置、そして中央に展開するバレエ。最終シーンの酒井はなを頂点とした階層的なフォーメーションが、東京文化会館の大ホールという典型的なプロセニアムの舞台でダイナミックに展開し、近代劇場のもつ求心的な力で観客を引き込んだ。 



佐多達枝は日本の創作バレエの第一線で長く活躍してきた大ベテランの振付家だが、コンテンポラリーダンスとの接点は多くはない。不覚にも私自身は今年3月の「another BATIK」に提供した『子どもたちの歌う声がきこえる』が初見だった。今回はそれに続いての佐多作品の鑑賞で、プログラムに掲載された高橋森彦氏の解説を導きとして見た。「運命の女神よ」と歌う曲の迫力に拮抗して、舞踊がスケール大きく展開する。動きには古典を離れた創意があるが、ダンスの形式を大きく外れることなく王道を行く。高い抽象性をもった振付は、マイムを用いず、ステップの組み合わせと群舞のフォーメーションにより構成されている。西洋舞踊の身体理論と、舞踊言語への信頼に基づいた振付による作舞で、情緒に流されず、舞踊の理念と美学がしっかりとした文法のもとに体現されている、と感じた。舞踊言語への信頼とは、舞台を流れる時間のあらゆる瞬間を振付言語で表現することが可能であり、そうするのだという意志と確信に裏打ちされているということだろう。



唐突かもしれないが、たとえば法律の文言になぞらえてみる。人間の構成する社会のあらゆる局面を、法の理念が行き渡り支配し、尊厳、権利義務、関係性のあり方の全てが論理的に規定され、これが言語で表現される。憲法でも、(改正前の)教育基本法でも、最近では劇場法の前文などでも、読むごとに胸をうつものがあるが、その厳格で理詰めでとっつきにくいと思われがちな法文の文言によってこそ、崇高な理想や幸福追求の理念、未来の同胞へ託す思いが熱く気高くうたい上げられる。佐多達枝という人の作舞には、これによく似た、理念と美学を体現する舞踊言語の高み、それを裏打ちする理論と形式の尊重があるように思われる。あらゆる事物や精神を振付言語で表現し得るとする、ダンスへの信頼だ。日本のモダンダンスは花鳥風月に流れたと山野博大氏が説いておられるが、ここでは抒情や風景の明媚な描写とは一線を画した舞踊芸術の至高の精神が志向されていると言ってよいだろう。



「カルミナ・ブラーナ」は今年2月に石井潤・振付による舞台を京都で見た。第二幕、酒場の場面を文字通り具象的に演出し、キャラクター・ダンスも登場するポピュラリティのある楽しい舞台だった。もちろん運命の女神が登場する冒頭と最終場面は出演者総出となり大迫力であった。石井潤追悼公演として上演され、かつてメイン・キャラクターを踊った寺田みさこ、及び中村美佳が振付指導をつとめた。佐多振付・演出ではダンサーは男女とも薄いベージュの衣装で統一され、具象性は排される。円形の配置、3つの分割した景の同時並行の展開など構成的で合理的なフォーメーション。個々のボキャブラリーはポワントにこだわらず、自由闊達で創意に満ちる。歌のソリストがバリトン、テノール、ソプラノと登場するが、特にバリトン独唱と男性ダンサーのソロがコラボする場面は印象深い。男性ダンサー陣は群舞も含めて躍動感に溢れ、見応えがあった。女性陣もしなやかで素晴らしかった。



振付言語と形式ということをことさらに言うのは、コンテンポラリーダンスのアーティストの中に、これを意識した仕事が見受けられると思うからだ。佐多達枝を踊ったBATIKはもちろん、群舞の振付・構成に卓抜した力と才気をみせる山田うん、マーラーに振り付けているきたまり。コンテンポラリーの様々な逍遥を経て、舞踊言語の新しいスタンダードを確立したいという欲求が個人レベルを超えて渦巻いているのだろうか。これは仮定に過ぎないが、検証のためにも、本来のスタンダードをしっかり見ておきたいと思った次第だ。




2018年5月31日木曜日

BLIND PIECE PROJECT


5月11日(金)

秋津さやか『Blind piece』 @京都芸術センター



構想・振付:秋津さやか
照明:今村達紀  音楽:アルフレド・ジェノベシ
振付・出演:合田有紀 中間アヤカ 西岡樹里 野村香子 山本和馬




本作は2015年に『踊りに行くぜ? II』の神戸公演のプログラムとしてダンスボックスで初演され、昨年夏に改訂版が京都で行われたシリーズで、今回はそれに続く第三のヴァージョンとなる。タイトルから分かるように、作品は観客に対し、上演中たびたび目を閉じるよう要請する。目を閉じて広がる想像と、再び目を開いた時に見える景色とのギャップに、何らかの創造的なインスピレーションが得られることを意図している。これを基本のコンセプトとしつつ、作品はヴァージョンごとに変貌をとげてきた。とくにプロセニアムの舞台で上演した初演時と、京都で行った2つめのヴァージョンでは、作品の印象は大きく変わった。プロセニアム形式では、観客は通常通り客席に座ったままアナウンスにより目を閉じたり開けたりしながら視界を操作することで、舞台上のダンスの進行を断ち、眼にしたイメージを切り取られた「絵」として印象に刻んでゆくことになる。初演のダンサーは中間アヤカ、西岡樹里、山本和馬の3名。眼を閉じて開けるたびに異なる配置をみせる3者の踊りが、ミニマムな遊戯性を宿したトリオという形式の原型を思わせ、それはそれで魅力的な作品だった。ただ、目を閉じることで得られる鑑賞上の効果といったものは、あまり明瞭には浮き上がってこなかった。暗転による場面転換とさしたる違いがなかったように思う。




2017年夏に実施された2つめのヴァージョンでは、上演の形態は全く変わった。まず場所の違いが大きい。京都の繁華街にある小規模のビル「FORUM KYOTO」は、ポストモダン風にデザインされた、全体にシンプルで開放感のある設計。建物中心部の吹き抜けを囲いのない階段が貫き、各階は仕切りのないフロアになっている。壁面は大きなガラ張りで、上層階からは京都を囲む山並みと広い空が見える。パフォーマンスはこの3階か4階あたりの小さなフロアを使って行われた。壁沿いに椅子を並べた客席は10席もあっただろうか、観客どうしで顔を見合うほどの小さな空間だ。

ダンサーは初演時の3名に合田有紀、野村香子を加えた5名。回ごとに組み合わせを変えて3名ずつ、それにガイド役が一人入る。ガイドによる「目を閉じてください」「目を開けて下さい」の指示に従い鑑賞が始まると、ダンサーは観客が囲むフロアで踊りながら各々言葉を発していく。この言葉の介入が初演とのもう一つの大きな違いだ。内容はダンサーにより異なるが、いずれもダンサー自身の個人的な記憶を辿るもので、幼少の頃の印象に残ったふとした出来事や風景を具体的に描写する。ダンサーたちは交互に、およそ2~3つのセンテンスずつ言葉を発し、それぞれが語る3つの記憶の情景が同時進行していく。

さらにもう一点の相違は、目を閉じている時、ダンサーが不意に鑑賞者の体に触れてくる瞬間があることだ。最初は膝にそっと手のひらで触れられる程度、それが目を閉じる/開ける、を繰り返すにつれ、少しずつ身体的な関与の度合いを増していく。私が鑑賞した回では、子供時代の習字の思い出が語られる時、眼を閉じた私の手にダンサーが自分の髪の束を握らせるということがあった。語りにあった毛筆のふさふさとした感触を自身の毛髪で伝えてきたのだ。触れてくるダンサーが3人のうちの誰なのかは、基本的には分からない。そこも謎めいている。やがて眼を閉じたまま手を引かれ椅子から立ち上がりフロアの中心に導かれるといったことも起こる。ガイドの指示により目を開けると、他の鑑賞者たちも同じ空間に立っていて、思いもよらない状況に自分が置かれていたことに気付かされる。目を閉じて想像している情景と、眼を開いた時に飛び込んでくる現実の景色の落差が、驚きではあるが不快なものではなく、感覚の飛躍の体験として面白い。そして言葉が掻き立てるイメージと、ダンサーたちの語る声、親密な接触、手を引かれる見えない相手への不安と信頼の入り混じった心持、それらすべてがガラスの向こうの京都の空を借景としながら、柔らかく繊細な空気感の中で運ばれ、ダンサーたちの持つピュアな雰囲気もあいまって、五感のすべてをもって歓待されているような不思議な鑑賞体験だった。



さて、第三のヴァージョンとなった今回は京都芸術センターの旧教室を会場に選び、語る言葉も小学校時代に因んだノスタルジックなものになった。板張りの床、黒板、木枠の窓のある教室に、椅子がロの字に並べられている。鑑賞者は今回も互いに近い距離にある。ガイド(所見の日は中間アヤカ)に導かれて教室に入り、椅子に腰かけ、目を閉じ、ダンサー3名(この日は西岡樹里、野村香子、山本和馬)の語りに耳を傾ける。各々の記憶に因んだ語りは前回同様、場面を具体的に描写するもので、内容はやはり極めて個人的なものである。たとえば(正確にこの通りではないかもしれないが)、野村は学校の裏庭の茂みにみつけたカラスウリを採ろうとフェンスの隙間から手を伸ばしている様子、山本は雪国の小学校のそり遊びにまつわる一部始終、西岡は教室で先生に課題を提出する場面や、忘れ物を取りに戻った教室に射す夕方の光の印象といったように、いずれも日常の中に生じた他愛のない出来事や風景の記憶である。それらを感情や心理状態、価値判断などに関わる言葉は交えず、見たもの、経験したことの細部を描き出すように語ることで、聞く側に情景を具体的にイメージさせる。決して演劇調の抑揚や強弱、ドラマチックな感情移入などを伴うことなく、むしろ淡々とした口調で語られていく。三人が交替に語りながら同時進行していくのも前回同様である。

ダンスはといえば、語る言葉をそのまま身体に置き換えていくような動きで、マイム的な要素も入るが説明的ではなく、仕草とダンスの曖昧な境界を漂う、はかなげな動き。幼い頃に誰もが体験した世界との身体的なつながりを思わせるような、親密で、言語化以前の、フォルムにならない動きを見せている。これもトリオで踊った初演時とは大きく異なる点である。ダンスを見、言葉を聞き、眼を閉じ、鑑賞者はダンサーたちのごくパーソナルな記憶が掻き立てるイメージを受けて、自身の中で膨らませていく。

今回も目を閉じていると不意にダンサーが膝に触れる時があり、手を引いてパフォーマンス・エリアに誘い出されたり、再び椅子に腰かけるよう誘導されたりした。さらにダンサーの両手がこちらの両手をとり、大きな円を描くように動かされたのは、イメージの中で一緒にダンスを踊る試みだったのだろうか。最後に目を閉じたままフロアに立っていると音楽が流れてきて、思わず体を揺らしたくなった。他の鑑賞者たちも一緒に立っていたはずだから、この状況を外から見れば、鑑賞者たちによるこの場限りのダンスが生まれていたのかもしれない。目を閉じて鑑賞する側である限り、全体を眺めることは不可能で、最後に目を開けてしまえば、生まれていたかもしれないダンスは幻と消えている。



ダンスを見る=「眼差す」という行為には、踊り手に視線を一方的に差し向ける能動性があり、ときに対象への攻撃性、暴力性を含むこともある。ところが『BLIND PIECE』ではその一方向性が様々に攪乱される。目を閉じることによって眼差しの一方向性は反故にされ、そこに言葉を聞き、身体への接触を受けるという、ダンサーの側からの聴覚や触覚へのはたらきかけがあり、鑑賞行為における受動性という側面が開かれる。このとき鑑賞者は、客席に座ってダンスを眼差す“マス”としての観客から、この場に身を置く一人の参加者へと移行し、パフォーマンスとの直截的な関与を引き受け(引き入れられ)、気が付けば演じる側と同じ平面に立っている。このように、ここでは見る側、演じる側の境界が曖昧にされている。

目を閉じたり開けたりする操作は、上演の一元的な時間進行を分断し、過去の記憶の風景と現在この場所の景色とを脈絡なく接続させる。複数のダンサーの記憶の語りが輻輳し、異なる時間が切り替わりながら、鑑賞者にとっては他者のそれであるイメージをコラージュ的に掻き立てていく。作品はこうした記憶、感覚、認識についての異なる段階を体験するために仕掛けられた、特異な形の観客参加型パフォーマンスといっていいだろう。ここではダンサーのごく個人的な記憶が、鑑賞者一人ひとりの身体性に受け止められ、移植されることが目論まれている。繊細でひそやかな、極めてパーソナルな記憶が、別の誰かの身体に経験し直される試みだ。









2018年3月16日金曜日

国内ダンス留学@神戸六期生 成果上演


310日(土)

国内ダンス留学@神戸6期生  NEWCOMER/SHOWCASE #6
成果上演              ArtTheater dB Kobe

メンター:余越保子


6期目を数えた国内ダンス留学@神戸が今年も8か月にわたる学びの日々終えて成果上演を迎えた。4つの上演枠を巡って振付家志望者が自作をプレゼンテーションし、選ばれた4作品が披露された。創作期間の5週間にメンターを務めたのは余越保子。まずは4作品の報告を上演順に記す。


・アラン・スナンジャ『Who is behind
出演 松縄春香 Alan Sinandja 五十嵐香里 友廣麻央 照屋仁美 川上瞳 合田昌宏 恵風(演奏、11日のみ) 奥田敏子(歌)

アフリカの民族舞踊をベースに、パーカションを中心とした音楽もアフリカンを使用、その種類も多彩に用いて場面を次々と展開してゆく盛沢山な20分間だった。新長田の人々がエキストラ出演して無名の群衆となり舞台を往来するのに対し、ダンス留学6期生の松縄春奈がアランとともに都市の生活と環境から疎外されるメイン・キャラクターを演じ、集団と個、都会と農村、先進国と途上国といった対比がドラマとして浮かび上がっていく。アランのアフリカン・ダンスの特徴ある小刻みのステップは空気を一変させて迫力があるが、彼と向き合ってデュオを踊る松縄も器用な踊り手ではないながら存在感があり、様々なアフリカン・ダンスの語彙に対応して臆することなく踊っていく。アラン自身の出自であるアフリカの踊りと太鼓のリズムが疎外された人間性の回復を示唆するようでもあり、大地を踏むという踊りの起源や農作業から踊りの所作へのつながりも見て取れる。ところが最後は悲劇の結末。単純な二項対立で収める気はない、アフリカ=自然・人類といったステレオタイプなど現代では通用しないということかもしれない。20分の持ち時間にこれだけの要素を投入し、社会批評を込めた複層的なドラマトゥルギーを組み立ててきた。つい内的になりがちな等身大のコンテンポラリーダンスとは異なる作風だ。


・宮脇有紀『Accord
出演 Kyall Shanks Maria de los Angeles Pais 植野晴菜 大谷萌々夏 宮脇有紀

独特の体の質感の追求と、4人のダンサーの関係の変化で見せる20分。具体的なドラマや内容設定をもたず、形式におけるチャレンジをみせたのは今回では宮脇のみだった。たわめられ、ゆがみを含みながら、なめらかに粘りをもって動いていく不定形のムーブメントは舞踏の人の動きとも少しテイストが違う。宮脇自身がこれを濃やかに動いていて、独自の身体語彙を生み出そうとする方向性は、他の3人とは位相を異にするもの。(これが日本のダンスに共有されている何かしらの文脈や問題意識と関係するものなのかどうか、確かなことは言えないが、或いはそうであるのかもしれない。)4人が二組のデュエットを踊ったり、その組み合わせを変えたりしていくが、編成を決して固定させず、流動的に次々と関係を変化させていくもので、ひとところのツボ、快感や納得にとどまらずに変化し続けようとする意図があっての動かし方。とても複雑なことをやろうとしている。中盤がすこし迷走気味だったが、それもコンセプトの抽象性ゆえだろうか。目指すところを高く持って、妥協なく進んでほしい。


・マイア・ハルター『still unnamed
出演 大谷萌々夏 松縄春香 Maia Halter

沖縄民謡「安里屋ユンタ」で幕開け、海が時とともに色を変えていくようにブルーの濃淡による照明が印象的。日本で出会った風景なのか。ここにマイアの西洋仕込みのダンスが重なり、異なる文化、複数の美意識の間を揺れてたゆたう心情を映し出した美しい作品。半ばから白いユニタード姿になった3人の女性ダンサーは三美神のごとく、調和と優美をダンスで体現していく。水/海の中というシチュエーションであるのか、ゆらめくような動きに照明が重要な役割を果たし、また布と衣もモチーフの一つになっていた。終盤に向けて低音のパーカッションがドライヴ感を増し、ヘッドバングして髪を振り女性性の対極的な面を露わにするマイアと、敢えて静かな松縄、大谷。内的世界を海の深さに重ねているようだ。踊りの語彙に新奇なものは感じなかったが、自身の世界観を存分に描き出していて、アランの作品に劣らず様々な要素を投入している。たくさんの素材が引出しの中に蓄えられていて、日常や旅や新長田での生活などで経験される全てがダンスへと注ぎ込まれるような振付と創作の日々を思わせる。見る側も彼女の世界にどっぷりと浸され、大変手応えのある鑑賞体験だった。


・カイル・シェンクス『Shared
出演 植野晴菜 宮脇有紀 Alan Sinandja Maria de los Angeres Pais Kyall Shanks

ユーモアとパロディ、ナンセンスと日常の裂け目を舞台の上に描き出した若者らしい才気にとんだ作品。冒頭は大きな袋からカラーボールを次々と取り出すという現実の作業を舞台上にのせたもので、メタ構造による異化を試みている。小道具をたくさん使い、キッチンやリビングのありふれた情景を異なる切り口で照らし出すもので、4人が家族写真のような絵図をつくって客席正面を向いてポーズするなど、シアトリカルな場面の作りも多用される。クローゼットから取り出されるギリシャ彫刻の頭部など、脈絡のないリファレンスが効果的になされたり、なぜかサングラスをしたカイルがクールな表情でワゴンを押していたり、細切れのイメージがコラージュのように構成され、舞台は謎めいていく。より長い尺の作品にして神話や古典を引用しながらこのパロディを織り上げていったら面白いことになりそうだ。カイルもまた自身が体の利くダンサーでもあり、彼の西洋舞踊をベースとしたコンテンポラリーなダンスとアランのアフリカンと、それぞれの踊りが並んだ場面は見どころの一つ。最後は全員リビングでお茶を入れ、くつろぎ始めてしまうというナンセンス。冒頭のカラーボールが舞台にぶちまけられて、破綻が祝祭的でもあるという世界のもう一つの真実=シュールレアリズムを示して終わる。方向性のはっきりと見て取れる作品。これは4作品に共通して言えることで、今年の特徴だった。メンターの役割によるところも大きいのかもしれない。




成果上演にあたってフライヤーや当日パンフレットに記されたメンター余越保子氏の文章がことのほか印象的だ。「ダンスは予定調和が叶わない縦横無尽な性癖を持ち、偶然、失敗、ハプニングをすべて飲み込んでしまいます」。ダンサーでいることと振付家であることとはマインドが異なることや、「わからなさを享受」すること、「意味や価値を保留することができる想像力」についても語られている。5週間の創作とリハーサルの日々、週に三日は互いの作品の合評に費やしたという。その合評とは「いったい何を表そうとしているのか」「ここをこうすればもっと良くなる」といった質問や助言ではなく、「何が、どのように、起こっていたのか」を言葉で発するワークであったという。これは大変興味深い方法であって、私事を言えば批評のワークショップで最初に言われたのが「(己が解釈や価値判断を披歴するのでなく)そこで何が起こったかを正確に伝えよ」であったし、そのことにいまだに四苦八苦しながらダンスを書くことに携わり続けている。「わからなさを享受する」「意味や価値を保留する」と語る余越氏だが、この日見た4作品は4作品とも非常にクリアな輪郭をもち、コンセプト、主題、素材の適用、ドラマ運び、シーン構成、いずれにも一本の芯が通っていた。「謎」という意味でのわからなさは残りつつも、作る過程を表現者自身の意志や動機に拠らず、外から客観視することが合評を通じて可能になったのかもしれない。


アフタートークの様子も掻い摘んで書いておくと、余越氏曰く、振付作品はどのように出来るか?作品を作るにあたって時間と空間を扱うが他の芸術と違うのは人間を使って作ること。頭の中にある思想を体を使って具現化する。自分の中にある動きを自分で動いて見せてもそれですぐに具現化するわけではなく、ダンサーを動かすには相当の言語能力が要求される。ここではニューヨークで自分も受けた育成システムを応用した。ダンスとは目で見たもののことであって、アイデアはただのアイデア。目の前に現れたものが作品である・・・合評会の手法はニューヨークでの育成システムの応用ということだろう。因みに余越氏は昨年の5期生のショーケースにおいてもアメリカの大学の舞踊課程で行われる振付家育成のプログラムについて言及していた。その経験を生かして現場を導く彼女は非常にプロフェッショナルな方法論をもった日本では貴重な振付家であり教育者といっていいだろう。


振付を行った留学生4人の言葉も様々に示唆に富んでいた。8か月間は長い旅のようで、チャレンジがあり創造がありタフな経験だった、It was hard, very very hard, difficult、そしてラッキーだったと話すのはアラン。メンバーはファミリーであり、母国の友人以上に絆を感じると感慨深げだった。新長田の町と人々のフレンドリーでオープンな雰囲気、dB側の寛容さとサポート、身近に劇場スタッフの仕事を見たこともいい経験だったと語るマイア。仲間で作り上げた成果上演の達成感と、課程の中で少しずつ自身の成長を感じ、気付いたら吸収していたと振り返るカイル。劇場を使いながらのクリエーションは他ではない経験で、ダンサーと常に一緒にいる状態で様々なことにトライできた、普通は絵になるのはある程度時間がかかるのだが、と宮脇。ダンス留学生には年ごとに特色があるが、今年は初めて海外からの受講生がいたこと、そしてメンター余越氏のナビゲートもあって、成果上演の作品自体も、すでに舞踊家としてのスタートの段階を過ぎて自身の舞踊言語を持った人たちによる中身の濃いものだった。そこで敢えて、質問してみた:ダンス留学を通じて学んだこと、とくにNEWCOMER/SHOWCASEの講師5人のリハーサルからテクニック上でも舞踊思想の面でも、なにか新しく得たものを今回の作品に生かしたといった点はあるか? 二人の人が答えてくれたが、いずれも「具体的にどのテクニックをどの場面に生かして、といったことを言うのは難しい。学びは継続的なもので、この先も変化し続けていく。」「実際には様々な条件、たとえば一緒に作る仲間から得るものも多くあり、この成果上演に向けた一か月の間にも変化し続けてきた。これからもそうだろう」といい、ピンポイントでこの技術を得るとか、この新しい考え方を採り入れる、といった限定的なことではなさそうだ。


ダンスの学びというものがすぐれて全人的な経験であり、この人格丸ごとをもって取り組んだ経験を通してのみ、人は本当に変化し、成長できるものなのだと強く感じるアフタートークだった。新長田の町や人々との関わり、町に移り住んで日常生活もここで送ること、内外から集まってきた志を同じくする仲間とどっぷりダンス漬けの日々を過ごすこと、その中で挑戦や創造やタフネスを乗り越えること。国内ダンス留学@神戸はこうした事柄が有機的に結びついた全体性の中にある。ダンス・テクニックのメニューを揃えることとは訳が違うのだ。その一方で、振付という行いには表現を人格や内的な意識から切り離し、自身の外に置いて客観視する眼も必要とされる。内的で全体的な経験と、外から見る眼の双方がダンスの現場を作っていくのだろう。






2018年3月15日木曜日

地点『正面に気をつけろ』


38日(木)

地点『正面に気をつけろ』              @アンダースロー、京都



作 松原俊太郎

演出 三浦基

音楽 空間現代

出演 安部聡子 石田大 小河原康二 久保田史恵 小林洋平 田中祐気 麻上しおり





地点の新作はブレヒトの未完の戯曲『ファッツァー』の翻案。これとは別にブレヒトの『ファッツァー』を構成した舞台は地点のレパートリーとしてすでに上演を重ねている。第一次世界大戦中の脱走兵が地下にこもり、来ることのない革命を同胞たちと夢見ながら、閉じ込められた空間で心理戦を強いられ、欲望と互いへの疑心が彼ら自身を追い詰め、次第に焦燥と敗北の色を深めていく。スリーピースバンド空間現代の図太く鋭い生演奏が弾丸よろしく音を撃ち込み、地点の役者たちのセリフまでもが銃弾のごとく打ち出されるスリリングこの上ない作品だ。今回『正面に気をつけろ』の劇作を行った松原俊太郎はこのシチュエーションを現代の日本に置き換えた。登場するのは英霊たちという設定だが、死んでいるのか死にきれずに彼岸と此岸の間をさまよい続けているのか。当日パンフレットによれば「やってきた者たち」とのこと。「まいったなあ!」で口火を切る台詞の反復と空間現代の相変わらず鋭く重い打音。第二次世界大戦の戦後処理を曖昧にしてきた日本の精神構造が、第二の戦後というべきか福島の原発事故「以後」の閉塞に重なり、二重の不条理な状況を、それ自体がマニフェストかアフォリズムであるかのような政治的かつ詩的にも聞こえる台詞群によって浮き彫りしていく。舞台の手前と奥を分けるように一筋の溝(三途の川?)が通っていて、女がひとり横たわる図はオフィーリアさながら。役者たちが川を渡って手前に出てくると間髪入れずにサイレンが響くのは放射能汚染区域の警報をなぞる。役者たちの発語と身体の緊密な連携にバンドの音が強烈なアクセントで介入し、濃密な観劇体験の中で危機感は高まるばかりである。折しも7回目の3.11を前に、現政権下で起きていると誰もが知っている不正、スキャンダル、崩壊寸前の社会規範と公正と民主主義、外交情勢の急展開等々に見舞われる日々、このままではやばい感が押し寄せる今の日本をそっくり映し出す。新しいメンバー二人を見たのは初めてだった。