2022年8月4日木曜日

スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』

730日(土)

スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』

                                                                      @カフェムリウイ

 



演出・出演 小野彩加 中澤陽 山口静

音楽 ストォレ・クレイベリー (アルバム「Meezotints」より『Ashes(Aske)』)

主催・企画・制作 スペースノットブランク

 

自らを舞台作家と名乗り、演劇、ダンスといったジャンル分類以前のパフォーマンスのかたちを独自に探求しているのがスペースノットブランクだ、と現時点ではとりあえずこのように言っておく。2019年からリサーチと上演を重ねてきた「フィジカル・カタルシス」の一連は身体にフォーカスしたシリーズ。ダンスの視点から見ても大変興味深い。とくに20213月にKYOTO CHOREOGRAPHY AWARDで荒木知佳と立山澄により上演された『バランス』は、瓦礫の固まりが対峙しあうようなごつごつと荒々しく、かつ息を詰めるように緻密なパフォーマンスに圧倒された。当方にとってこの時の舞台が「フィジカル・カタルシス」シリーズの唯一の観覧の経験(他は映像で視聴)ゆえにおのずと比較対照することになるが、主宰の小野彩加と中澤陽が自ら出演、さらにスペノに出演経験のある山口静が加わった今回は、『バランス』における熱量、質量はそのままに、ある種の洗練、もしくは様式化を獲得しているように見えた。

 

ではその内容はどのようなものか。ごく身近な動作や身振りと同等レベルの動きを敢えて脈絡を持たないように配した動きは、日常の具体性から切り離され、我々の現実の生への連想を引き起こすことがない。身体という素材・物質の具体性を介して現れるが、意味性はないという意味で抽象化されている。エフェメラルな現れではなく身体のマテリアル性、質量と密度を湛えた身体の現実を手放すことのないまま、重なりや連結や変形によって編まれる言語とその複層が独自の様式を生み出そうとしている。当人たちはパンフレットの文章で「段階(フェーズ)」、「階層(クラス)」といった言葉を使っている。「ミュージック」「リプレイ」「フォーム」「ジャンプ」「トレース」「バランス」「サイクル」「ストリート」「オブジェクト」と試してきた各フェーズから、今回タイトルにある4つを取り上げ「層状に重ねて」みたという。観覧したところでは「段階」「階層」とされる構造がすぐさま理解されるわけではないが、各フェーズのアーキペラゴ状の配置が作品を構成しているようには見とめられた。言っておくべきはこれまでの各「フェーズ」においては、かつて見たことのないパフォーミングアーツの風景が現れていたということである。それがしばしば「何なのだろうこれは」と戸惑いを覚えることにも繋がったが、今回は少なくとも、これをダンスとして観ることが出来る、というレベルでの様式が見とめられたのは確かである。

 

3人の出演者は黒いボディタイツにスニーカーをはき、アスリートのような装い。筋肉と脂肪と意志の力をみっちりと蓄えた身体で腕を直角に使ったミニマムな動きからはじめる中澤は、シリアスなクラシック音楽とともに身体の諸部位に焦点を絞った小さな動きを連ねてゆき、その一連を、向きを変えるなどわずかな変化のもとに繰り返す。山口は音と動きの一対一の対応を、中澤がスマホのアプリから打ち出すドラムスの一打音に合わせて行う。種類の異なるドラムスの音色ごとに動きが決まっていて、打音の一撃に対し規定の動き――片膝を素早く引き上げる、膝下を斜めに蹴り上げるなど、最小の動きを即座に振り出す。音の出力はスマホを操作する中澤に拠っており、二人の間のゲームか駆け引きのようにも見える。小野はクラシックのベースをもったダンサーだがここではテクニックもシャッフルされており、中澤や山口の動きよりも全身の運動性の高い振付を弾力を感じさせる巧みなアーティキュレーションによって実行していく。時にバレエのポジションやポーズが見られたが、シャッフルされた身体の可動性の中の一つの現れとしてである。全編にたくさんの振付が施され、皆よく動く。とくに他の公演では演出に徹する小野と中澤が自ら踊るのを初めて見た。強い。振付の語彙はポストモダンダンスのそれに近いが、パフォーマンスの密度、動きの質量、振付の情報量、上演への意志と思考の力が尋常ではなく、破壊や解体や還元主義とは明らかに異なる。

 

個々の動きのほか、デュオ、トリオのシーンもあるが、分かりやすいコンタクトやパートナリングを行うわけではない。互いの作り出す動きの線、あるいは面をつないだり、重ねたり、といった操作と配置。テラスから同時にカフェ内部に入ってこようとする3人の身体が扉の幅を堰き止めてしまい身動き取れなくなる、といった場面もあった。3つの線/面/フェーズの絡まり合ったバグ。

 

会場のカフェムリウイは初めて行った場所で、祖師ヶ谷大蔵の商店街の雑居ビルの階段を3階に上がると、屋根の連なりの先に空が広がる素敵な眺望のテラスに出る。カフェの内側とガラス窓で隔てられたこのテラスも上演に使用される。階下へつながる階段を使ってダンサーが登場するのだが、借景となる空の向こうから現れたり去ったりする上演のスペックが、パフォーマンスの生起する仮構の平面を思わせた。

 

スペースノットブランクは今年のKYOTO EXPERIMENT 2022の公式プログラムにラインナップされ、戯曲の松原俊太郎と組んで演劇と映画に関わる作品を発表することになっている。こちらは「フィジカル・カタルシス」とは異なる関心を追及することになると思われるが、こうした各方位の関心とリサーチと上演の先に、小野・中澤は舞台芸術の何を見ようとしているのか。未だ決定的な論評がされていないグループであるし、ステイトメントに用いる語彙にも異なる含意があるようで、そのヴィジョンの全体を把握するのは困難を要し、非常に評価が難しい。冒頭で「とりあえず」としたのはそのためだ。KYOTO EXPERIMENTのディレクター諸氏はスペノのどこに期待と関心をもって招聘を決めたのか、記者会見はあったものの、それぞれの思いを是非直接聞いてみたい。

  

2022年7月8日金曜日

鈴木ユキオプロジェクト『刻の花 トキノハナ/moments』

 71日(金)

鈴木ユキオプロジェクト

「刻の花 トキノハナ/ moments             @シアタートラム

 



 

コロナ禍を経て2年半ぶり、鈴木ユキオによる待望のカンパニー公演である。写真家、八木咲との共同を通して、瞬間を切り取る写真の特性に着想し、時間をモチーフとした2つの作品を発表した。


『刻の花 トキノハナ』は鈴木のソロ作品。「コロナ自粛中に、生活を切り取るように撮影」したという八木咲が共演する。舞台を奥と手前に分けた中ほどに紗幕がおりていて、八木の撮影した写真が投影される。東京郊外からさらに山奥の、鈴木が家族と生活し稽古場をもつ自然豊かな環境の中の、土の上の小さな草花などのささやかな風景が、ぽつりぽつりと間を置きながら映し出される。上手側には水を張った器、石や岩、木組みの椅子など、写真の風景にちなんだ自然物や古びた道具が置かれていて、その一隅に鈴木と八木が並んで腰をおろし、こちらに背を向け、紗幕に映し出される写真を見ている。そんなふうに始まったソロ・ダンスは鈴木の近年の踊りの充実が、あるマニエリスティックな至芸の領域に入りつつあることを思わせた。冒頭に鳴っていたピアノ曲はいつやら消え、やがて無音となるシーンで、水を打ったような観客の集中と、濃やかにストロークを刻み続ける鈴木の踊りが張り詰めた空気の中で対峙する時間など、実に得難い瞬間だった。コロナ禍を経て、リアルに身体と向き合う体験の換え難さをこれほどまでに感じたことはなかった。


肩と顎の距離を寄せて引き攣らせた独特の構えから動きが振り出され、絶え間なく時を刻む過程。独自の言語の熟練であり至芸とは言えども、その推移は予測不能の出来事の連なりだ。腕のストロークの連続の中に不意に小さく跳んだり、イレギュラーな動きの要素が介入したりする。それらが振り付けられているのか即興で放たれるのかは分からない。構造は消え、かつて自らへの批評として踊りをせき止めた「中断」は語彙に吸収される。振りと刻みは面を開き、空間に独自の肌理を生む。そう、深さに降りるのではなく表層を耕すストローク。その背後に膨大な日々の営みと稽古の積み重ね、思索の痕跡がある。家族をつくり、場所を構え、環境に身体を深く根ざして育まれた踊りである。「小さな環境でささやかな毎日」「特別なことは何もないけれどそこに差し込む光」「かけがえのないもの」「繊細で壊れやすいもの」と鈴木は記している。この控えめでつつましやかな言葉に、地を耕し、風雪に耐え、踊りを継いできた舞踏の先人たちの系譜を思う。


終盤に暗転し、終了かと思いきや、再び照明が入り、踊り続ける鈴木がいる。面を耕し続ける身体の営みに終わりはない。歴史を継ぎ、心身を投じ、生きることと同義の現れの、むしろ坦々とした表面に存在の凄みを見る。


    moments』ではやはり写真から得た発想を鈴木のソロとは別の形に展開する。8名のダンサーによる遊戯的な作品で、モチーフを様々に発展させた諸々のシーンで構成される。冒頭はひとりずつアップリケや漢字の一文字を施したオリジナルのTシャツを着て登場、それぞれのキャラクターを動きにしたようなソロ・シーンを披露していく。長身で朴訥とした感じの山田暁がこちらを振り向くとTシャツに「刻」の一文字。無論、鈴木ユキオの「刻の花」のパロディで、無表情の中の微かなギャグ味に笑いを押し殺した。安次嶺菜緒は張り詰めた空気をその身一つで完璧に統御、集中力が抜きんでていた。各人の名刺がわりのようなソロから少しずつ関係性を作っていく。途中衣装を変え、動きのモチーフも変わり、「個々の」「切り取った瞬間」を覗き見てフレームの内部に入っていくと、ミクロの世界がリアルへと転位し、人数を生かしたプレイフルな風景が次々と繰り広げられる、といった具合。白黒のギンガムチェックの衣装を着たダンサーらがゲームのように位置関係を変えていくシーンのワンダーランド感。フィクショナルだが、あくまで身体と動きの本質を追及した先の風景である。ダンサーは皆訓練が行き届いており、ソロ、デュオ、アンサンブルまで様々な形式、質感、語彙に難なく対応する。「個」や「瞬間」のモチーフを転がして着地点を定めない探索を作品の中でどこまでも推し進めていくような、作品そのものがタフで長い旅。気が付いたらこんなに遠くまできてしまった、と充実感と寂寥とが入り混じった感慨がやってきた。ダンスの未踏のフィールドはどこまでも広い。




振付/演出:鈴木ユキオ

出演:「刻の花」 鈴木ユキオ 八木咲

     moments」 安次嶺菜緒 赤城はるか 山田暁 小暮香帆 中村駿 西山友貴

         小谷葉月 阿部朱里

照明:筆谷亮也

サウンドデザイン:斉藤梅生

楽曲提供:前原秀俊

衣装:山下陽光(途中でやめる)

         


2022年7月5日火曜日

Co.Mito Ruri 『ヘッダ・ガーブレル』

 

630日(木)

Co. Ruri Mito 『ヘッダ・ガーブレル』                    @愛知県芸術劇場

 

 

 

 

イプセンの戯曲を原作とした舞踊作品。「人形の家」同様、近代化の過程でなお残る古い因習の中で生きる女性の葛藤する姿を描く。あらすじのみを押さえて観劇に臨んだが、岩波文庫の解説には「美しく魅力的な婦人」「暇で退屈だけれど自分では何をしたらいいのかわからない」「でも他人の成功には平成でいられない」「強そうで臆病」「望みが高いが平凡」「気位が高いくせに嫉妬深い」「複雑で矛盾した性格のヒロイン」などとある。上演史上は女ハムレットの異名もあり、各国の女優の意欲をそそる役であるようだ。すでにある物語を舞踊にするのは、ことにストーリーやドラマを表現しないことが主流となった今日のダンスにおいては、むしろチャレンジといえる。公演前にも戯曲を舞踊化する今作の試みに焦点を絞った対談がリリースされている。三東は原作のプロットを追うのではなく、主題の本髄を掴み取り、一人の女性の内面の動き、人間の精神のドラマとして立ち上げた。

 

主人公と自身を重ねた三東瑠璃の圧巻の身体、独特の言語によるコロスたちの集団ワーク、加えて今作では視覚に訴える濃密なイメージが映像を駆使して次々と投入される。記憶のフィルターを通した幻想的な映像には、男性(森山未來)との粘着的な関係が仄めかされ、主人公は関係性への執着と解放への希求との間で引き裂かれる。意識の底から掬い上げられたようなイメージは、懐かしさで人を縛りもすれば、存在を脅かしもする。エフェメラルな映像と舞台空間が重なり合い、映像の中の人物とリアルなダンサーの身体とが融合してシーンを形成する手法も新規な試みである。挿入されるテキスト(「それも愛だったのだろうか」などの文句が出てくる)の朗読がさらに重層的に記憶や幻想の描写を色濃くしてゆく。

 

特徴的なのは床に急勾配の傾斜をつけていることで、ダンサーにとっては大きな負荷となる。本作に先立つインタビューで三東は主人公ヘッダの「痛み」について語っているが、この負荷の大きい床で踊ることでその痛みを自らの身体で生きようとしたのにちがいない。見る側にとってこの急勾配は床面近く低めに推移する三東の動きを隈なく見るのに役立った。しなやかで敏捷で動物的な身体は配役以前の三東自身の踊りを他と区別するものとして認知されるが、可動域を超えるほどの背面の湾曲を何度も見せ、そのたびに生への渇望と痛みが三東を貫く様子は、主人公の苛烈な生が三東自身のそれとして現れ出るかのようだった。床からホリゾントまでが一枚のスクリーンになり映像が大きく投影されたり、勾配の天辺でダンサーらが動いていると、その群れから床を転げ落ちるように人物の映像が投射されたりするのも斬新だった。全体に縦のスケールが強調されており、そのことが叙述的であるより直観的に精神のドラマの強弱や高低を掴み出して提示するのに奏功していた。最後のドレスが床の底辺から引き上げられてゆくシーンも、美しくも凄絶。ヘッダの悲劇的な生の結末を象徴している。

 

共演のダンサーたちの動きはCo. Ruri Mitoに独特のもので、一人一人が固有の身体性を謳歌するコンテンポラリーダンスの思想とは異なる身体観による。最初にこのグループを見たのは2018年の『住処』@セッションハウスだったが、どのような影響関係のもとにこのような身体の扱いが生まれてくるのか全く見当がつかなかった。集まった複数の身体は有機的な群れになり、不思議な形で結び合い、重力に対し共同の力で抗する。互いを支え、ソリストの身体を支え、信頼で結びつき、献身的にタスクに殉じる。テクニックを備えたダンサーの身体がリズムによって自律的に動き出すといったダンスの作り方とは全く違っていて、身体がその物質性に依拠したまま相互に作用し合い、形状を結び、関係性を変化させてゆく。力の配分や位置関係は精密に振付・設計され、精度高く遂行されているように見えるが、たとえ重力やコンディションなどの誤差がイレギュラーな出来事を招いても、互いの間で吸収していくような、それ自体が呼吸する、中心のない集合体である。

 

 

 

 

 

 

2022年6月8日水曜日

展覧会 「ミニマル/コンセプチュアル」

529日(日)

展覧会

ミニマル/コンセプチュアル

ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術

@兵庫県立美術館

 

 

美術史上に思考の転換をもたらしたミニマリズムとコンセプチュアル・アートを、1967年デュッセルドルフに画廊を開いたフィッシャー夫妻が手掛けた展覧会を主軸に振り返る。昨年より川村記念美術館、愛知県美術館での開催を知るも見る機会を逃したと惜しく思っていたところ、足元の兵庫県美で行われているのを閉幕前日になって知り、最終日に駆け付けた。関心の所以はこの動向がポストモダンダンスの発生に深くかかわったものであること、また個人的には現代美術に多く触れた時期の美術界にこの思潮の余波があり、遠い歴史上の一トピックという以上に近しさを感じることである。順路の最初の部屋に展示されたカール・アンドレの『鉛と亜鉛のスクエア』の金属版の並びや『愛と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌』の144個の鉛の立方体は、もの派やその後の80年代の彫刻に通じるストイシズムと物質感を醸している。だが物質や物体としての作品はこの2作のほかは数えるほどしかなく(リチャード・ロングの柳の枝を床に平行に並べた『コンラート・フィッシャーのための彫刻』はその少ない例)、展示のほとんどが写真、スケッチ、描かれないキャンバス、指示書、あるいは手紙、展覧会の招待状、印刷物などの資料で構成されている。ソル・ルウィットの『ストラクチャー(正方形として1,2,3,4,5)』は三次元の物体だが素材と量塊を伴ったモノというよりは観念の立体化というに近い。それがそもそもミニマル/コンセプチュアルというものではあるか。文字情報が多く、キャプションを含めて「読む」ことに労力を費やす展覧会でもあった。それでも作家の思考の跡にこちらの感覚がカチっと嵌る快感がある。

感情を排し、禁欲的で規則的な表現と言われるが、たとえば河原温の日付を記したメモを途方もない年月の分だけ反復連続したインクの跡、とか、画廊主に宛ててその日の起床時間を記して送った絵葉書の何年分もの集積、などには、一定の作業を当該の期間中に一日も欠かすことなく延々と続けた、その静かで淡々とした行為の執拗さ、コンセプトを貫徹する熱量に驚く。行為はミニマルだが想像力は今日の人間が生まれる遥か以前からもう誰も生きてはいないはずの未来まで100万年に及ぶ遠大なものであったりする。これまで機会があれば目にしてきた日付を記した一幅のキャンバス≪Today≫は、その膨大で遠大な反復の中の一コマ、一片、一単位であったのだ。展覧会で一望して初めてコンセプトの全容に触れることができた。またハンネ・ダルボーフェンのペン書きされた賃金・給与リストやそのシリーズも、形は違うが数字というミニマルな単位の反復連続やそのバリエーションへの偏執的なまでの情熱、熱量に圧倒される。この作業に没頭する作家の「身体」が色濃く刻印されている。

 単位、規則性、原理への志向と表現のストイシズムの観点からは、他にリチャー・ロングとスタンリー・ブラウンにも惹かれた。この二人は展覧会の構成上、「歩くこと」と題したセクションにまとめられている。スタンリー・ブラウンによる、人間の踏む一歩と抽象的な距離の10㎞の関係を数理的に考察し、タイポグラフィを打ったインデックスカードに登録・集積した一連の作品も、ハンネ・ダルボーネンとの近さを感じさせる。この緻密で、簡素ながら論理的で、タイトで禁欲的な思考に美、もしくは詩が宿るぎりぎりの表現。柳の枝のインスタレーションで先述したリチャード・ロングは、草地に人の歩いた跡を一本の道=線と見做した写真を展示。ミニマルな志向を自然の環境や身体に結び付ける発想がイギリス人らしい。ベルント&ヒラ・ベッヒャーの写真、ブリンキー・パレルモのペイントに関しても、対象に形状の原型をみる姿勢を面白く思った。なぜかラインナップされているゲルハルト・リヒターや、フィールドワークに基づいたローター・バウムガルテン、「日常」のキーワードで展示されたギルバート&ジョージなどは、ナラティブの要素を引き込んでおり、展覧会の主題との関連に必然性を感じなかった。

 さて、ダンスとの関連では、一点だけビデオ作品にダンスへの接続を思わせる出品があった。モニターの中のモノクロの映像に男性がひとり、自身の脚を尺に、わずかに遠心力を使い、一投足ずつ向きや角度を変えながら振り出す動作を行っている。間をおかずに動作は続くがリズムやカウントはなく、音楽よりも建築的な発想による身体の数理の積み重ねであり、ここからたとえばトリシャ・ブラウンの『Accumulation』までの距離は近い。また、作家がデュッセルドルフのギャラリーまで出向かずとも現地での作品展示を可能にする「指示書」の発想は、近年、議論される振付の概念に関わる事項の一つといえる。美術のミニマリズムがポストモダンダンスの発生源であることはつとに語られているが、日本ではこうした数理・論理的思考による概念的(コンセプチュアル)なダンスの潮流は生まれなかったか、もしくは大きくならなかった。同時代の日本は舞踏の影響が圧倒的であったことがその理由の一つと言われる。だがダンス創作における、あるいは振付における論理思考、原理的思考の経験の欠如が、2020年代現在の日本のコンテンポラリーダンスの一部に見られる学校ダンスの延長のような集団性に依拠したナイーブな作舞や、浪花節的なナラティブに対し、無批判な状況を招いているように思える。