2017年9月25日月曜日
ダンス講座
びわ湖ホール主催による「バレエ・ダンス講座」のバレエ編を舞踊ジャーナリストの菘あつこさんが、ダンス編を竹田真理が担当しました。ダンス編の講座を9月18日(日・祝)に無事終えました。講座といえばもっぱら聴く側にいた私ですが、昨年、国内ダンス留学@神戸にて「批評家講座」シリーズの一コマをいただいて以来、2度目の経験となります。これまで機会あるごとに気鋭のダンス研究者諸氏によるレクチャーに顔を出し、多くを学ばせていただいてきましたが、そろそろ還元する側に回りなさいという天のお達しかと。2時間の持ち時間で20世紀のダンス史の流れとコンテンポラリーダンスの主な振付家の作品を映像で見ていくという欲張りすぎの内容を企て、手元にある書籍や公演プログラムのありったけを引っ張り出して重要事項をパワーポイントにまとめていく作業は、受験時代に世界史やらのノートを作るなどして以来のことでした。
改めて通史を当たってみると、これまで曖昧に理解してきた事柄がなんとも生き生きと手に取るように感じられて、私自身にとって大きな学びの機会となりました。ドイツ表現主義舞踊など、ラバン、ヴィーグマン、クルト・ヨース、その先にいるピナ・バウシュといった一握りのカリスマとその系譜でのみ掴んでいたのが、時代背景には、健康、体操、ワンダー・フォーゲル、ヌーディズムなど身体を通して新しい生活や文化モードを生み出そうとする社会の大きな機運があったこと、またこの新しい舞踊は、、フライエ・タンツ(自由)舞踊、ノイエ・タンツ(新舞踊)などなど呼び名も様々で固定されず、共通のスタイルなどなかったようで、日々夥しい数の公演が打たれ、舞踊観も作品の主題も内容もさまざま、音楽、衣装、ダンサーの編成、公演する場所、優美なものからなものまでと、ありとあらゆることが試されたのだとか。コンテンポラリーダンスの「何でもあり」などまだ序の口かとさえ思えます。その後ドイツのダンスはその集団性からナチスとの関係を深めていきますが、こうした記述に出会うと、時代の精神、人々の舞踊に託した思いなどが具体的に想像されて実に興味深いです。
1930年代にアメリカのモダンダンスが確立されていく過程にもドラマとダイナミズムを感じます。恐慌後の経済危機の中、ダンスや演劇は労働運動と距離を近くし、デモや集会にも関わったとの記述に出会いましたが、これはグレアム舞踊団の折原美樹さんが「30年代には舞踊団のユダヤ系の女性ダンサーたちがフェミニズム運動に参加していた」と話されていたことに通じてきます。(ただしマーサ・グレアム自身はピルグリム・ファーザーズの子孫であり、マイノリティとしての意識は持たなかったとも。)ダンスに限らず、表現の持ち得る/持たざるを得ない政治性について富みに議論が交わされる昨今ですが、歴史上にはダンスと政治がこのように直截的な関わりを持った時代があったのですね。ダンス史は何度でも発見があり、現在を照らし出す出来事の宝庫です。
もうひとつ気になるのがアメリカのポストモダンダンスの鍵となる人物、アンナ・ハルプリンの存在です。イヴォンヌ・レイナー、トリシャ・ブラウンはじめジャドソン・ダンス・シアターのダンサーらがことごとく影響を受け「ポストモダンダンスの母」とも言われる人で、どの舞踊史の本も少しずつ触れてはいるのですが、どうも実体が掴めません。夫の風景建築家(ランドスケープ・アーキテクト)ローレンス・ハルプリンとともに西海岸に本拠を置き、自然の中で身体感覚を開放し即興を基礎とするワークショップやセミナーの開催を活動の中心としたようです。セミナーにはその思想に共鳴する者たちが世界中から集まったという記述もあり、日本からは川村浪子、田中泯といった人たちが訪れています。川村浪子は夜明けの海岸に全裸で立つなどの身体パフォーマンスを行う人、田中泯が山梨県の白州で農業と芸術を結びつけた活動に入ったのはハルプリンの影響があったとも。ニューヨークを中心とした東海岸の劇場文化やダンス/アートシーンと、西海岸の精神と、ポストモダンダンスの複層的な展開を思わずにはいられません。
レクチャーを終えて感じるのは、ジャーナリズムの役割の大きさです。批評は自身の見方と考察を示すものと取り組んできましたが、後世の人が参照するのは事実の正確な記述であり、「印象批評」と揶揄されますが、いや印象も大切な事実・事象の記録だと思いを新たにする次第。このたびの機会を節目として、また新たな気持ちで劇場に向かおうと思います。