2017年9月29日(金)
習俗とアート夜話 -新長田アジア学ー 第六夜
「アジアの舞台芸術、最新事情!」
講師 矢内原美邦(ニブロール主宰)
@ミャンマー食堂tete
新長田で毎年秋に開催される「下町芸術祭」。
これをより深く楽しむための予習として、本年は「下町芸術大学」という講座プログラムが企画されている。この中でも特に「習俗とアート夜話」と題したスタディシリーズは、新長田の町をアジアの様々な地域にルーツを持つ人々が暮らす「マルチ・エスニック・タウン」と捉え、町の歴史や多文化共生の様々な事例を講師を招いて学んでいくもの。ここから視点を地理的な/横のつながりへと広げる今回は、ゲストにニブロール主宰の矢内原美邦氏を迎え、2015年に文化庁文化交流使としてアジアの国・地域を回り公演を行った経験から、各国の最新の舞台芸術事情を聞く会となった。私は本講座シリーズに初めて参加した。
矢内原氏が訪れた国・地域から今回取り上げられたのはシンガポール、マレーシア、タイ、ベトナム、インドネシア、台湾、フィリピンの状況。ダンス制作に国家から助成がつくシンガポール、アートセンターやコレクティブが複数存在しシーンが活発なマレーシア、国立劇場が主流で演劇が盛んだがピチェ・クランチェンのような世界的なダンス・アーティストを輩出したタイの3か国のように、日本と状況はほぼ変わらない程度に舞台芸術が盛んな国々がある。(ただ、こうした国々でも「制作」という仕事が独立した職種として確立しておらず、アーティスト自身がマネージメントを行っていたり、それぞれが仕事を持ちながら場所・スペースを運営していたりする。)他方、アメリカとの戦争を経た現在、カンパニーは少ないがお客は非常に熱心で、若い人たちがダンス・演劇に飢えていると感じられるベトナム、稽古中にもモスレムのお祈りの時間がやって来るインドネシア、といったようにそれぞれの歴史、国家体制、民族構成、宗教の違いをつぶさに感じる旅でもあったようだ。検閲の厳しい国もあり、官憲の目をかわしながらその都度公演にこぎつけているマレーシアの例、また大谷燠氏からは質疑に応える形で、軍政のもと美術家たちが作品を形に残さないようにと始めたパフォーマンスアートが身体表現の主軸となっているミャンマーの例など、政治的に厳しい状況下での活動の在りようも聞いた。国ごとに事情が違い、その異なる状況のもと、矢内原氏はニブロールのダンサーたちを呼び寄せたり、現地でオーディションをしたり、滞在先で新作を作ったりと様々な形で公演をやり遂げていった経験を豊富な写真とともに語ってくれた。受け入れの劇場や各都市のダンスシーンにおけるキー・パーソン(アーティスト、プロデューサーなど)も、この日聞きに来ていたダンサーたちに向けて「ここを訪ねてみるといい」などのサジェスチョンとともに紹介された。
アジアで出会うアーティストたちはコンテンポラリーのダンサーもいれば伝統舞踊の踊り手たちもいる。ダンサーのメンタリティについては稽古開始の時間は守られることはないが、本番近くなると自ら望んで夜中まで励む真面目さがある。一様に語ることは出来ないが、急速な経済発展のもと、まだ若年世代の人口が多い東南アジアの国々は社会全体に勢いがあり、国家や社会の民主的な制度や活動環境は未完成な面があるとしても、それらの整うのを待つよりも先に表現への欲求に溢れ、アーティストたちが活発に動いている様子が感じられるレポートだった。それぞれの話には鷹揚さやどこか寓話的なユーモラスさも滲む。その一方、緊張を強いられた場面もある。タイでは滞在中に稽古場から至近距離の寺院で死亡テロが起きた。これを受けてダンサーたちと話をしながら、人間の尊厳や権利に纏わる戯曲をシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に想を得て書いた。貧困や戦争、世界の闇、いかなる状況にあろうと人が備え、保ち続ける良心についての劇だという。
矢内原氏の話は単にどの国・地域にどんな舞台人がいてどんな劇場や組織があって、といった事実関係にとどまらず、アーティストとして直面した事態に対する自らの判断や思考にまで言及され、生きた情報という以上に語りそのものに迫力があった。イントロダクションではアジアという「外」へ向かうことの意味を、「すごい内側とすごい外側は繋がっている」という表現で語った。一人、内心と向き合って過ごすことが多いという矢内原氏だが、国境を越えて思いっきり外の世界に出ていくこと、そこで遭遇する出来事の中にほかでもない自分自身と響きあうものを見出していく。“言葉の通じる”“業界内”の関係では望みようのないものがあるのだろう。
東南アジアを回ってみて実感するのは、自分たちが「教えに行く」という状況では(もはや)ないということだという。経済面ではまだ日本からの技術指導といった関係も存在するが、アートにおいては日本のアートを押し付けるといったことは一切ない、与えるなどということは出来ない、というのである。かつてニブロールがヨーロッパやアメリカでツアーを続けていた時期、彼の地のハイソサエティーに対して「日本では今こういう傾向にありますよ」と見せて歩くような感覚が辛かったという。ある意味、ジャッジされる立場に自らを置く経験だったのだろう。2014年からアジアへ行き始めてみると、(見せる相手は)“原チャリ”で乗りつけてくるような地元の人々であり、東京ブランド、日本ブランドへの興味もあって旺盛な好奇心をもって臨んでくる。西洋に倣った近代化をどちらが先に遂げたかによって優劣の関係に置かれるのではない在り方を矢内原氏は見出しており、そこに可能性を感じているようだ。それは日本にいてもアジアから押し寄せる表現のパワーに触れるたびに、私たち自身も確かに感じ取っている何かであり、おおいに肯けた。彼らの作品に対してジャッジメント(とりわけ美学的な)を下すような対し方は、可能性の中にある大切な未来を取り逃がすことになるだろう。矢内原氏はさらにその先に抱く夢についてもひと言話してくれたが、ここではオフレコにしておく。実現する日を心待ちにしよう。
今回の矢内原氏の登壇は「アジア女性舞台芸術会議」と連動している。如月小春、岸田理生といった女性舞台人の先輩世代が立ち上げ、現在矢内原、羊屋白玉ら気鋭の演劇人らが引き継ぎ発展させているコレクティブ=集合体について、時折耳にするも(如月小春の時代に、伴戸千雅子らが主宰した女性舞踏グループ「花嵐」が参加したことがあったと記憶する)実際の活動を知らずにいたのだが、今年6月に新長田にアジア5か国10人のアーティストが滞在し、トークの会などが催されたのを皮切りに、今秋は「Kobe-Asia Contemporary Dance Festival #4」にて朗読劇上演とトークが企画されている。またKYOTO EXPERIMENT 2017でもシンポジウムが組まれている。何かが動き出そうとしているのか。ダンスにおいて、また世界で、日本で今起きつつあること議論されるべきことはたくさんあり、それらを自分自身に引き寄せ、具体的に考えることを促してくるのが“亜女会”の存在だ。「アジア」「女性」「舞台芸術」この3つの言葉が私を喚起する。6月のトークの会で示された12個のキーワードは、
境界 検閲 ジェントリフィケーション
不可視 移民 隠された歴史
神話 女性 記憶と記録
アウトサイダー 未来(10年後) 災害
私が、そしてあなた自身が境界を生き、移動と定住を繰り返し、公私様々なレベルでコンフリクトを経験しているのではないのかとの問いかけが、違う歴史を生きている女性たちと出会うことが出来るかもしれない予感を孕んで、身体の奥にある何かを突き動かすのだ。