2018年7月14日土曜日

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018 記者会見



7月10日(火)
@ワコールスタディホール



9回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018の記者会見が行われ、女性アーティストおよび女性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループにフォーカスした12組、15作品による公式プログラムの全容が明らかになった。他にレジデンス・プログラム1件、フリンジ公演37件。今回初めて会場に二条城二の丸御殿を使用。日仏交流160周年及び京都・パリ友情盟約締結60周年記念に基づきフランスから複数のアーティストを招聘する。



フェスティバルを女性アーティストもしくは女性性を打ち出すグループで構成することについて、プログラム・ディレクター、橋本裕介氏のプレゼンテーションは以下の通り;
I. 性、ジェンダーについて。個人的、または文化的なものと捉えられるジェンダーは社会または政治的な要請によって形作られているのでは。この観点からジェンダーを考えてみたい。
II. 集団制作を主とする舞台芸術においても、政治や家庭同様の家父長制が見られるのでは。真の創造性のための集団のあり方を問いたい。
III. 「他者としての女性」という視点で社会と支配の構造を考えてみたい。E・サイード『オリエンタリズム』を参照しつつ、西洋/東洋、男性/女性、主体/客体、等々の二項対立による西洋近代の思考を疑い、世界がより流動化している現在、他者とは、外部とは何なのかをみつめたい。



以上を踏まえたうえで、実際の作品は4つにカテゴライズされる;
1.歴史、記憶との対峙
2.音楽、空間との混交あるいは対峙
3.(KYOTO EXPERIMENTとの)共同製作
4.パリー京都、フランスー日本の友好関係(過去8回で育まれた京都と他都市、アーティストとフェスティバルの関係に順じる)  



以下、個々のアーティストと作品が映像を交えつつ紹介された。筆者の個人的なコメントも交えて記す;
・KYOTO EXPERIMENT(以下、KEX.)へ二度目、三度目の登場となるアーティストに、ジゼル・ヴィエンヌ、田中奈緒子、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー、She She Pop、ロラ・アリアスの5組。

・韓国のジョン・グムヒョンはKEX.へは初登場ながら2011年の来日公演『油圧バイブレーター』で、セクシュアリティを妄想とともに淡々と説き進める独自の作風が印象に残っている人。

・ブラジル出身でヨーロッパで活動するロベルタ・リマは昨年のKEX.の関連シンポジウム(*)に登壇し、伏見の女性杜氏をリサーチしている旨語ったが、いよいよ作品化される。
  *「ナショナルアイデンティティと文化イベント」 田中奈緒子、キミ・マエダ、ロベルタ・リマの3名の女性アーティストが登壇した

・日本のアートシーン、ダンスシーンで存在感を発揮しているアーティストが、「女性(性)」という文脈から初参加となるのもKEXならではの視点だろう。山城知佳子はインスタレーションのほか自身初のパフォーマンスを発表する。会見にゲストとして登壇した山城氏は「ヒューマンビートボックスを合わせた展示『土の人』では音、リズム、音楽が映像とともに別の次元に連れて行ってくれると知った。(パフォーマンス作品では)この映像からもう一度現場をどう取り戻すかを模索しつつ、映像と音のコラボレーションを構想している」と話す。エキストラ50名を募集し、鑑賞者ではなく作品の中の人になってもらいたいという。

手塚夏子は日本におけるダンス・アーカイブの議論を誘発したセゾン文化財団主催のプロジェクト「ダンスアーカイブボックス」に端を発する「Floating Bottle Project」Vol.2を、スリランカ、韓国のアーティストとともに上演する。一昨年のTPAMで見た本作の最初のプレゼンテーションでは、投瓶通信の形を借りて手塚が西洋近代を問うための指示書を発し、受け手が自らの文化的背景とセクシュアリティの要素を込めたパフォーマンス作品で応答した。会見に届いたビデオ・メッセージで手塚氏は、アジアにおける西洋近代とは世界の中に(分割の)線を引くことだったのではないかとし、「線引きされた視点を動かしてみる時、何が見えてくるか」を問いたいと語る。

・初登場にはさらに往年の劇団ウースターグループ、ライジング・スター的な勢いをみせるダンスのマレーネ・モンテイロ・フレイタス、東京の若い世代の市原佐都子。ゲストの市原佐都子氏は、モノローグを特徴とする自らの戯曲のスタイルについて、「最初の作品をケータイで書いたことから生じた」と語り、社会の多くのことに関心があるわけではなく自身がリアリティを感じる事象を取り上げているという。『妖精の問題』では相模原の障害者施設で起きた事件に自分が東京で暮らしている感覚を重ねる。



ゲストの山城知佳子氏、市原佐都子氏が、会場の質問に答えてさらに語ったところを紹介すると;
沖縄という自らの出自を創作の軸とする山城氏は、沖縄という場所そのものが日本本土から見た他者であり、オリエンタルな癒しの島といった女性性で語られることを疑問に思うことがあると話した。
市原氏は、自作に対する反応の中にいつも「女性」という言葉が付いて回るが自身は男性中心社会にメッセージを出している意図はなく、前提ともしていないという。女性/男性を意識しないというアーティストの表現にどんなジェンダーの表象が見て取れるだろうか。



以下は個人的な所感。
プレス資料にも、また会見の場でもフェミニズムという言葉は使われていないが、女性アーティストもしくは女性性にフォーカスするとした今回のKYOTO EXPERIMENTの方針は、ひとつの芸術祭が多分に政治性を含んだプログラムを世に問うもので、芸術祭のあり方に議論もある中、画期的なものと考える。奇しくも#Mee too運動の世界的な高まりと重なるわけで、主題を文化・芸術の側面からのみ扱う「中立的」な態度に終始することなく、眼前の社会や政治状況との生き生きとした関係を芸術表現がどう築いていけるか、その実験の場となり、様々な問いと議論の行き交う場となることが期待される。

#Mee too運動との関わりに関して、会場からの質問に答える形で橋本氏より、芸術祭の準備には通常2、3年を要し、今回のテーマも2015年頃から検討していたとの話がされた。現実社会で目に見えないもの(の構造)を見えるようにしたいと考えてのことだが、#Mee too運動(によって多くが暴かれ可視化された状況)との重なりは、偶然で驚いている、と。昨年ハノーファーで開催された芸術祭ではラインナップが全て女性と意図は明白であったが、敢えてテーマを掲げることをしないというスマートな姿勢をとっていた。しかし今の日本で何も言わないことに意味はあるだろうかと考え、(フェスティバルとして)表明することにしたという。

いっぽう、芸術祭実行委員長の森山直人氏からは、「#Mee too運動だけでは解決できないこと、必ずしも社会運動に還元できない感情、欲望などの表現を、楽しみつつ考える場としてのKYOTO EXPERIMENT」と、芸術祭本来の可能性を重視する見方も示された。



プログラム全体をざっと辿ってみるとき、「女性」や「女性性」という軸を通したことで、性別以外の指標への注目が、より促されるように感じるのは面白いことだ。その一つ、国籍や活動拠点の多様さについては、フランスが2組、ドイツ・ベルリンを拠点とする人が3組、リスボン、ウィーンとヘルシンキなどヨーロッパの都市が多く目に入る。他にニューヨーク、ブエノスアイレス。アジアからは、ソウル、沖縄、東京。ただしヨーロッパを拠点とする人たちでも出身国はブラジル、東京、福岡と様々である。移動しながら表現し続けるアーティスト、逆に出身地にこだわり続ける人など、様々な混合がみられ、そのこと自体が多様性を物語る。女性であることを抱えつつどの場所で活動していくかの選択に、アイデンティティを巡るそれぞれの物語が、またそこから見えてくる状況があるかもしれない。


一方、今回のラインナップ(パースペクティブ)においては、ジャンルや表現形態の違いをことさらに言う必要がないように感じられるのも、興味深い点だ。展示と上演の双方を行う作家が複数入っていることもあろうが、今年はダンスが何作品あるかと記者発表のたびに注視しがちであったのが(因みに今回ダンスと登録されているのはジゼル・ヴィエンヌ、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー、マレーネ・モンテイロ・フレイタス、手塚夏子の4組)、ダンスであろうとパフォーマンスであろうと演劇、あるいは展示であろうと、女性(性)というモーメントがいかなるドラマトゥルギーを形成するのか、作品と表象の内容にこそ関心が注がれ、言語や形式の違いを超えた議論の展開が期待される。これはダンスなのか、ダンスとは何か、ダンスとそうでないものとの違いはどこにあるのかといった、ダンスの周辺でしばしば交わされるジャンル固有性にこだわる議論は(それがダンスの強度を支えてきたことは確かだが)、ここでは、女性性と身体性との不可分な関わりと表現の成り立ちといった視点に移行するのではないか。形式ではなく内容へ。そのことが現在のダンスをめぐる思考や創作をより多角的な方向へ開いていくとすれば幸いだ。