2018年7月25日水曜日

シンポジウム 「海外の性教育からみた日本」



7月10日(火)

@ワコールスタディホール 京都





KYTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018の関連イベント第一弾として、シンポジウム「海外の“性教育”からみた日本 ―社会構造と『性意識』形成の関係を結びながら―」が、記者会見直後に行われた。今年のKYOTO EXPERIMENTが「女性」をキーワードとして開催されることから、社会における性意識やジェンダーの役割形成に関わる事項として性教育に焦点を当てたものだ。
パネリストはパトウ・ムスマリ、古久保さくら、山田創平、橋本裕介の各氏。モデレーターは国枝かつら氏。各氏のコメントから要点を紹介しよう。




パトウ・ムスマリ氏(医学研究科博士、京都大学)は第三世界の公衆衛生に携わる専門家の立場から登壇。The WYSH (ウィッシュ Well-being of youth in Social Happiness=青少年の社会的健康)と呼ばれる性教育プロジェクトに携わっている。
・世界の人口の半分は25歳以下であり、
・若者は性病、HIV、望まれない妊娠に見舞われやすい。これは先進国、途上国にかかわりなく言える
・15~19歳の女性の死亡原因に性病や中絶が挙げられる

こうした現状から、sexual educationとreproductiveについてのニーズの把握が重要であること、これらを踏まえてWYSH projectでは
・sexual educationのほか、いじめなどメンタル面での支援も行う
・Risk Personalization 、すなわちHIV、人工妊娠中絶などのリスクが他人事ではなく、自分にも起こり得ることであると理解させる
・Future dream=将来への夢をもてるように促していく

といったミッションを、若者たちとのグループディスカッションなどを通して進めていることが、グラフや写真を用いながら語られた。WYSHにより、コンドームの使用など具体的な事柄も含めた性の知識を得ていること、教師への教育としても有効であることが確認されているという。厳しい現実に公衆衛生という社会的インフラに携わる立場から向き合い、こつこつと地道に活動する誠実な様子がうかがえた。将来への夢を、とのくだりは、一人一人が尊厳をもった存在として自らの人生を生きていけるようにとの思いが込められたものだろう。

後のディスカッションで、性教育に関してアフリカ諸国ではまず医療面での対応が喫緊であり、本日この場でなされたような社会や政治の問題としてエイズを考えるというアプローチはされないと語っていたのも印象的だった。




古久保さくら氏(ジェンダー研究者、大阪市立大学)は、性行動を巡る平等でHappyな関係とは、と題し、大学でセクシュアリティと暴力の関係を教えている。大学教育は18歳を過ぎて性行動が活発になる時期の人達に性教育を行う最後のチャンスであるという。
また弁護士やフェミニストカウンセラーらとともに、性暴力被害のカウンセリングなどの実践的な活動も行っている。

これまでの性教育は被害者にならないためのものであり、実質は結婚前の性交渉はNGであるなどといった純潔教育であった。しかし今は、加害者にならないための教育が中心である。

特に二次被害について詳細な解説がされた。そのメカニズムは、
性暴力が起きる→驚いた周囲の人間は信じたくない、信じようとしない→「あの人が(あんなにいい人が)そのような暴力をはたらくわけがない」→被害者の方がおかしいのではないかと考え始める→これがSNSで広がる・・・このように、「私が信じている世界を崩したくない」ので、「よほど被害者がおかしいのでは」と考えてしまう。これが二次被害(加害)にほかならない。

古久保氏の話は、セクハラなど権力ある人に対して断ることの難しさなど、現場の力関係やその理不尽なありようを知る人ならではの具体性と説得力に満ちている。




山田創平氏(社会学者、京都精華大学)は「マイノリティと地域」、「芸術と地域」の視点から、HIV/AIDS、性道徳、性規範について研究。エイズ予防、セクシュアル・マイノリティの人権、セックスワーカーの権利擁護などの活動に関わっている。
また、MASH大阪という、大阪梅田の東にあるゲイタウンに拠点を置いたNPOで活動した時期があり、この経験が基盤となっているそう。

山田氏の話もまた、支援活動の現場の声を汲んだ切実な内容で、HIV感染者・発病者、ゲイやバイセクシュアルの人々が社会の中でいじめ・差別を受け、困難に直面している状況を、客観的な調査の数字や、メディアで取り上げられた最近の事件や差別的発言などにも触れながら語った。

山田氏の言説は、理論的にはマルクスに根拠を置く。参考文献にマルクス主義フェミニズムの立場をとる上野千鶴子・著「家父長制と資本制」をあげ、「ラディカル・フェミニストは市場の外に家族という社会領域を発見した」の引用とともに、近代=国民国家と資本主義(経済成長モデル)の結びつきが、いかなるメカニズムで家族という領野を自らのシステムに取り込んでいったかが語られた。家父長制による家族、すなわち搾取される労働者、「愛」のもとに無賃の家事労働に携わるその妻、未来の労働者として育成・再生産される子で構成される家父長的家族が資本主義の経済システムを支えてきたモデルであり、これから外れ、有用でないとされる同性愛者、あるいは他のマイノリティへの差別の構造がここから生まれた、とする。

続いて、マイノリティとされる人々が社会において差別・周縁化されていくメカニズムを、「異性愛者、既婚、正社員男性」を中心に置いた同心円の図式を用いて解説。女性、同性愛者、障害者、単身者、非正規雇用者、在日外国人・・・といった人々が中心から円の外へ外へと「周縁化」されていく構造が明らかにされた。






ディスカッションでは、KYOTO EXPERIMENTに向け、性を巡る社会関係と芸術との関係性について、幅広く話し合われた。

KYOTO EXPERIMENTの橋本裕介氏より、「京都で舞台芸術に関わる限り必ずや想起される」ダムタイプの名が挙がり、1993年の『S/N』にみられた、制作プロセス自体のもっていた社会性について提起するところから議論に入った。

中心メンバーの古橋悌二がゲイでありHIV陽性であるという周縁にありながら社会批判を行ったこと、また、ダムタイプが制作集団としてヒエラルキーなく開かれており、様々なジャンルの人が出入りしていたこと、KYOTO EXPERIMENTでも、作品のみならず、作る過程で(アーティストが)どれだけ豊かに関われるかという点にも目を向けたい、といった意見が出た。



古久保氏は2年前に横浜でも上演された『ヴァギナ・モノローグ』を挙げ、女性が自分の外性器をいかに語るのかという問いがあり「私のアソコには呼び名がない」と題されたワークショップがあることに言及。

これに関して客席にいた、あかたちかこ氏より、この自分たちのヴァギナ・モノローグを作ろうというワークショップの中国の大学で実践された例について紹介があり、学生たちが地下鉄で女性器の呼び名をフラッシュ・モブのように発語していくものだったこと、これが教育の場で芸術を用いて気付きを得ていくプロセスであるとした。舞台芸術にはこのような力が強くあるのであり、人に伝えるものとして(手法を)洗練させてゆく芸術の力について語られた。
あかたちかこ氏は性教育とエイズのカウンセラーとしてセイファー・セックスの啓発活動などに携わっている女性で、余越保子・構想・振付による性教育をテーマにしたダンス作品(一昨年のKYOTO EXPERIMENTフリンジ参加作品)に、語り部/教育者として出演したのを拝見したことがある。



議論はまた、(山田氏の示した)同心円の真中に居る人が、周縁の人を「使って」作品を作るという構図にも及んだ。例として@KCUAでのデリヘル嬢をギャラリーに呼ぶとしたイベントが波紋を呼んだ件にも触れ、周縁化された人への想像力の欠如をあらためて指摘するとともに、フェスティバル自体が同心円の中心にいる人たちによるものであり、カッコつきの女性を生んではいないかという問い掛けがなされた。非常に鋭い問い掛けといえる。



かたや芸術における性的な表現を巡って、橋本氏から、KEXは裸体OKと言われているのか、海外から送られてくる売り込みの映像には脱いだりする作品もある。これらについては実行委員たちで議論し慎重に招聘している。いっぽうで、性的なもの、暴力、過激な表現について、「老人や子供が見たらどう思うか」と批判する人がいる。自分自身の考えではなく弱者を引き合いに出す論法であり、性教育の現場に議員らの批判があるのとも同様の、パターナリズムの存在を感じる、と。

資本主義構造におけるパターナリズムは、性は家庭内に押し込め、主婦の無賃労働を「愛」に呼び変えて搾取する、との意見や、
その一方で性産業は非常にさかんであり、売り物の性がはびこる。それなのになぜ芸術の性はNGなのかと、ろくでなし子の女性器の彫刻が法に触れるなどの例を挙げながらの指摘もあった。

これについてはパトゥ氏も、「9年前に日本に来て以来、性的なマガジンが簡単に手に入ることに驚いている。性に関しオープンであるのに、芸術に関してNGが多いのは不思議である。検閲の対象にならないことを願う」と話した。

さらに、舞台芸術の、他の芸術(音楽、美術、etc.)と異なる力とリスクについても言及があり、(観客の)性的な期待を引き受けてしまう(演者の)身体があり、あるいはキャスティングにおけるハラスメントなど(業界の)権力構造がある、と問題の在り処が示された。



モデレーターの国枝かつら氏からは、「誰が語るのか」という問いが立てられ、これについても興味深い発言が続いた。
古久保氏による「周縁のことを、同心円の中心にいる者が語ってよいのだ、むしろ語るべきなのだ」との言葉は力強い。見た目男性のプログラムディレクターが、女性性をテーマにしたプログラムをたてることはあっていいはずである、と。
山田氏はスピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」を挙げ、周縁の者が自分を語る言葉をもつことも大切である、とした。
パトウ氏からは、当事者でないと語れないとするのでは一つの視点しか得られない、様々な角度を得ることで何が見えるのか、と視点の多様さの大切さについて考えが述べられた。



以上、医療、教育、社会学、芸術、それぞれの視点と、理論と実践とが交差した闊達な討論となった。
女性という視点でいえば、マルクス主義フェミニズムからポストコロニアル的な問題提起(周縁化された女性が自分自身を語る言葉を持てるか)までが広く視野に入った議論となった。京都は上野千鶴子が京都精華大学で教えた町でもあり、セクシュアリティ、ジェンダー、マイノリティ、差別、人権といった問題を巡って議論の蓄積がすでにあることをこの日のシンポジウムから感じ取ることができた。

理論研究や社会的実践と並行して、ダムタイプや、そのメンバーによる個別の活動があり、OKガールズ、ブブ・ド・ラ・マドレーヌをはじめとしたアートとアクション、活動や発言が続いてきた歴史がある。古久保さくら氏、山田創平氏、あかたちかこ氏ら研究者や専門家、実務家による実践と合わせ、これらの集積のある京都という都市の土壌を踏まえて、「女性」「女性性」をキーワードにした今年のKYOTO EXPERIMENTのラインナップを見ていくことも、いっそうの深まりを与えてくれるのではないか。