2017年10月11日水曜日

NEW COMER SHOW CASE #1 山崎広太『ダンスは日常生活ダ!第2弾』

9月17日(日)
国内ダンス留学@神戸6期生  NEW COMER SHOW CASE #1

山崎広太・振付『ダンスは日常生活ダ!第2弾』   @ArtTheater dB Kobe



国内ダンス留学@神戸の6期目が7月末に開校し、各講座の成果として上演されるショーイングの第一弾が行われた。振付は山崎広太。都合により1日早くゲネプロを見学させてもらう。山崎が講座をもつのは昨年に続き2年目。今回もショーイングの会場内にはひな壇式の観客席を設けず、舞台上から客席フロアまで全面を使ったスケール感あふれるパフォーマンスだ。ダンサーたちは舞台袖にハケることなく(ソデの幕も取り払われているので)、いったん開始したら最後まで踊り切るほかない条件のもと、大海原に漕ぎ出すようにショーイングに臨む。

山崎の作品では踊り手の喚起するイマジネーションが場の意味を様々に変化させる。昨年のショーイング作品でいえば目の前に現れ出る光景はニューヨークの街角だったり、新長田の町中だったり、ナイトクラブのダンスフロアだったり。ほとんど静止し、わずかな身体のブレのみが入るようなスタティックな佇まいから、ダンサーがひとりずつ呟くように言葉を発するポエティックなシーンをはさみ、音楽とともに徐々にエネルギーがその場を満たしてゆく。気が付けばけたたましい喧騒に満ちた都市の祭りへとシチュエーションが変化している。様々なスタイルの踊りで構成される各シーンが切れ目なく続くに従い、劇場空間のボルテージも変化する。この緩やかで大きな波のようなダイナミズムに身を泳がせながら、ダンサーたちは動きと身体の様々な表情や質感を作り出していくのだった。

さて今回のショーイング。会場に入って開始を待っていると6期生たちが気さくに話しかけてくる。ちょうど台風が近づきつつあり近畿上陸の予報が出ていた日、一人の女性ダンサーに「外の様子はどうでしたか?」などと尋ねられ、こちらも「ダンサーの皆さんの衣装が素敵」と話題を振り、これは演出なのかと頭の隅に疑問符を浮かべながらも、ウェルカムな心情を示してくれるダンサー達との他愛ない会話に興じた。やがて音楽が鳴りダンスが始まるが、最初の盆踊り「東京音頭」にも、続くディスコ(クラブ?)でするパラパラ風の踊りにも、観客が誘われ、ステージに上がって一緒に踊る。ここまではいわばプロローグ。客席と舞台の境界をなくして人々を巻き込み、これからここで起こる出来事が誰にとっても現実であり日常であり、誰もが主役であるというメッセージだ。講座では山崎と6期生たちが新長田の町に出掛け、地域の盆踊りに参加するなどの交流をしたという。今期は海外からも留学生が集まり、共にダンス三昧の日々を送ることになる。その出会いへの祝福を込め、小さな点である新長田が世界につながる感覚と、日常に組み込まれた祭りの時間、誰をもその輪に招き入れる盆踊りの形をとったセレブレーションを舞台に立ち上げる。

6期生によるダンス本編では、ダンサーたちがステージ上と、その両端から階段を下りた客席フロアの全体に散らばり、胸のすくような空間の広がりの中でパフォーマンスを展開した。場面の設定はより抽象的。踊りはカウントによる振付ではなく、動きにならない動きの萌芽のようなもの、振付言語となる以前の喃語のような動きをみせている。胸の前で両の手を淡くゆらめかせ、関節をあらぬ方向へたわめ、「直立」にあるような調整・統合の解除された身体で佇んでいる。

ここは混沌と生成の渦巻く“ダンス以前”の場所であり、内と外の境界はなく、自他の認識は外され、 ダンサーたちの漂わす気配は星雲のように曖昧だ。確かな核をもった「個」の存在とは異なるあり様でそこにいる。(そういえばダンスを「存在」で語るなどナンセンスだという呟きを最近見た。)そうした中、ダンサーたちの身体から、今日までの舞踊人生の中で各々が身に付けてきた既存のスタイルの踊りが不意にこぼれ出る瞬間がある。曖昧な佇まいの中に唐突に甦る舞踊言語の記憶。それは生成されるダンスの予兆でもあり、彗星のように現れては消え去る踊りの言語の欠片でもある。脈絡なく現れる踊りの欠片は鮮やかで、強烈だ。

或いはまた、不意にステージ上と客席フロアとに遠く離れた身体が、あるいは触れ合うほど接近している身体同士が、動きのシンクロニシティを見せる瞬間もある。二つの身体、異なる時間が偶然に呼び合い、星雲のあわいに光を放つように、明瞭なダンスの形をひらめかせる。混沌(山崎の言う「暗黒」?)の中に一筋の理知の光が通り抜けていくイメージであり、スケール感、速度と並び、山崎広太の作品に見られる鮮烈な魅力の一つだと思う。

6期生には海外から入学してきた人たちもいて国際色豊かな顔ぶれだ。アランのアフリカン・ダンスのステップや、西洋人の女性のバレエのパとフレーズ。一概には言えないが、海外からのダンサーは強い身体性と強固に仕込まれたダンステクニックを備えている人が多いようで、そのことがテクニックを解除しダンス言語獲得以前の身体に立ち返るような本作のタスクを、幾分困難にしているようにも見受けられた。逆に、これも一概に言うべきではないが、日本人のダンサーは喃語の段階にある身体をさほど困難とせず、現在の自分自身とそう遠くないものと感じているようだった。それだけ“ナイーブな”身体を保っているということかもしれないし、あるいは舞踏の身体観の影響があるのかもしれない。本格的に舞踏を学んでいなくとも、日本でコンテンポラリーダンスを踊る環境の中にはなんらかの形でその身体観、舞踊観に触れる機会はあり、明瞭なフォルムやステップとして成形しない身体表現というものがあり得ることを理解しやすいのかもしれない。そしてそうでないダンサーにとっては、テクニックの「鎧を外す」ことは国内ダンス留学@神戸第6期における一つのテーマとなるのかも知れない。

山崎と6期生たちはカリキュラムの中で新長田の盆踊りを体験し、触発されるものがあったようだ。プロローグに見たように、本作は人々の集まりと、営々と営まれる祭りの習慣に想を得ているのだろう。『ダンスは日常生活ダ!』のタイトルには、ダンスを日常に引き寄せ、誰にもアクセス可能なものにするという民主的な意味と、ルーティンの中にあるベタ足の日常から踵を引き上げ、イマジネーションの力でどこにでも走っていける思考と身体を持つという意味の二つがあると思われる。日常をセレブレイトするダンスの想像力が私たちを突き動かすとき、私たちの身体は世界のあらゆる広場や路上とつながることさえできるのだ。