2020年12月24日木曜日

勅使川原三郎 佐東梨穂子 宮田まゆみ 『調べ――笙とダンスによる』

 


音と動きのテクスチャー

~勅使川原三郎 佐東梨穂子 宮田まゆみ 『調べ――笙とダンスによる』~レビュー


12月6日 @愛知県芸術劇場 小ホール



ダンスと音楽は親和性の高い芸術といわれるが、その多くは音楽に合わせてダンスを踊るというものだ。拍子をとってステップを踏み、旋律に感情をのせる。ベジャールは『ボレロ』の配役を「メロディ」と「リズム」と名付けた。ケースマイケルはバッハやバルトークの曲の構造を振付に応用する。だが本作では、要素を分析する西洋音楽とは別の回路で音楽とダンスの関係が結ばれる。3人の「呼吸家」が奏でる音とダンスは、風のざわめきや降り注ぐ光を思わせ、自らがその中に含み込まれる空間のトーンを作り出す。太古の人は音楽をこのように、場を満たす全体の気配と一体のものとして感じていたのだろうか。


最初に耳に届いて来たのは闇の中に紛れた一筋の糸のように繊細な笙の音である。わずかに照明の度合いが上がり、世界の目覚めを思わせると、闇に紛れていた勅使川原三郎が、続いて佐東利穂子が静かに舞いながら舞台前方に出てくる。長短の竹を組んだ笙という楽器の音には、天から差し込む光のような崇高さと、竹の感触を残したような複雑な響きがある。不協和音であるのかさえも定かではない音の重なりの中で、二人のダンサーは揺蕩いながら動く。かがめた身体が伸びあがり、腕が大きく軌跡を描いてゆくさまは二人のベーシックな身体語彙といえるが、その独特のテクスチャーが笙の響きとともに放たれると、空間は濃やかな質感で満たされる。二人はその質感の中を、空気を掻くように動き続ける。


笙の8つの演奏曲目はそのまま作品のドラマトゥルギーを構成する。はっきりと聞き分けられる曲調の変化は少ないが、動きに速度や勢いが出たり、静止したりする場面は、曲目の変わり目だったのだろう。無音の中で一人踊る佐東がいて、そこに再び笙の音が入るとき、新たな光がもたらされたように感じた場面。粒子のように降り注ぐ笙の音を浴びながら喜びの中で高揚する勅使川原の踊り。物語性のない本作で、こうした鮮やかな瞬間が印象に刻まれ、しかし同時に全体の流れの中に飲み込まれてゆく。気象の変化や季節の移り変わりのように訪れる舞台のトーンや質感の違いは、解説にあるように、それぞれの場を整える「調子」の曲にあたるものだっただろうか。黒い舞台を照らす、凍てついた白い照明は、冬、北、黒、水を象徴するという3曲目「盤渉調調子」のシーンであったのかもしれない。曲目の進行とともに音、ダンス、照明、空間が変化し続け、一見すると抽象的な空間に、様々な彩りや肌理、質感や抑揚が一体となった「調子」、「調べ」を奏でてゆく。


勅使川原と佐東の踊りの違いも興味深い。身体に軸と中心を設け、左右の腕を対象にかざす勅使川原は、秩序や調和や意志を志向するようにも見える。一方の佐東のうねるような動きは、非対称、流動、揺らぎを体現する。異なる二つの原理を象徴するようでもあり、単に勅使川原、佐東という個体差であるようにも思える。二人は時に近づき、時に遠ざかり、触れることのないデュエットを踊る。宮田まゆみ、勅使川原、佐東の三つの身体もまた、それぞれの音、それぞれのダンスを紡ぎながら、なお分かちがたく結び合い、それぞれの呼吸で場の質感を、彩りを、トーンを、肌理を、「調べ」を奏で続ける。そして自らもその肌理に包み込まれ、時を超えて生き続ける。


夜の訪れのように照明が落ちると、冒頭と同じ笙の一音が鳴り、やがて吹き込む息の音だけになって、舞台は闇に沈んでゆく。呼吸する者らのかそけき気配に永遠を見たような一瞬であった。


(鑑賞&レビュー講座 対象公演)



2020年12月16日水曜日

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING 記者発表

 


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRINGの記者発表が12月15日に催され、全プログラムが明らかになった。本来は本年2020年の10月に開催予定であったが、新型コロナウィルス感染拡大を受け、来年2月6日~3月28日に会期を延期した。今回はこの延期したフェスティバルについての発表である。内容はすでに一般にも公開されたので、ここでは記者発表での発言から印象的だったものを書き留めておく。なお、今回はオンラインで参加した。




今回は3名の共同ディレクターが運営する初回。リサーチ、上演、エクスチェンジの3つの軸で構成される点に注目した。過去10回が選び抜かれたキレのあるプログラム構成を誇ったとすれば、新体制ではコレクティブならではの複数の視点を生かし、周辺領域の知への幅広い関心や、足元の京都、関西のリソース再発見のプロセスを組み込んでいる。


Kansai Studies(カンサイ・スタディーズ)は建築ユニットdot architects(ドット・アーキテクツ)と演出家の和田ながらによるリサーチプログラム。琵琶湖の水にまつわる様々な事象をリサーチし、ウェブサイト、トーク、展示などで3年かけて発表していく。「コロナ流行の中、国境とか県境など境界線を意識する事が多いが、人間が引いた線をキャンセルできる視点を持ちたい。水の循環はそのガイドになる」と和田ながら氏。


上演プログラム「Shows」(ショウズ)でも小原真史が展示で参加。前世紀初頭、帝国主義国による博覧会での被植民者の展示を題材に、見られる身体の歴史を考える。身体を見る、エキゾチックな文化を眼差し、消費するなど現代の芸術と共通する点が多い、とディレクターの塚原氏。Kansai Studiesも合わせ、リサーチ&展示プログラムが充実したものになりそう。


コロナ感染の危機のもと、映像による参加も含まれるが、オンライン配信とせず上映会の形式をとった。これについて塚原氏は「作品は出来る限り決められた空間、画質、サイズで見ることとしたい」と述べる。パソコンやIT環境に左右され一定のクオリティが保てない鑑賞は避けたいとの判断だ。


関西のアーティストが入ることは予想されたが、この顔触れに新風を感じる。垣尾優はベテランだが前回の自作ソロで見せた独特の世界観に度肝を抜かれた。今回もソロにこだわる。自分の表現はシンプルでオーソドックスだが混沌としている。矛盾しているが体そのものである、と語る。ジャンルの境界や外へ向く横軸ではなく、縦の時間に関わるものだという。中間アヤカ『フリーウェイダンス』神戸、横浜に続く京都ではリ・クリエーションする。会見で自作を語る言葉が力強く、自身のやろうとしていることがより明確になっているのかなと見受けられる。


音遊びの会×いとうせいこう。言葉を音や声などより広く捉え、一人一人がいとう氏とセッションすることで、それぞれ存在の仕方が違うのだということが見えるようなパフォーマンスにしたい。一度リハーサルをしたがもうすぐにでも本番に入れそうな勢いであるという。障害のある人の参加は『劇団ティクバ+循環プロジェクト』以来。関西のダンスに通底する価値感だろう。


海外からはカナダ、オーストリア、タイ、インドネシア、カナダ。感染の状況では無事公演ができるか予断を許さないが、中止にせず何等かの形での参加を模索する方針という。3名のディレクターそれぞれ海外のフェスティバルに感じることは世界を同じ作品が回り、消費されている、それが開催地域とどうつながるかが見えないという疑問。作品のプロセスや背景が見えること、地域とフェスがどうつながるかを探ること、社会に受け止められ影響していくかを考えたい、とする。


コロナの影響による会期延期の事態に対しては、ディレクターチームであったからこそ出来ることをやっていこうと前向きになれた。世界各国のディレクターたち同業者とも定期的にミーティングして情報を共有し、プログラムにも影響している。配信ではなく上映会にしようとの決定もこうしたコミュニケーションからヒントを得た、と塚原氏。


前任者の橋本裕介氏からはKEX.の名称だけは受け継いでほしいと要望があった。そのほかは出来るだけ変えてくれと言われた。ディレクター3人で毎週2回ミーティングを行い、社会状況、背景などを話し合っている。3人だから色々なことが出てくる。ふつかることもあるがそのプロセスが面白い、それらを一つの言葉でまとめるのではなく、様々な視点で観客に提供したい。一つの定義より複数あることの自由さがある(塚原、ナップ、川崎)。




2020年10月15日木曜日

柿崎麻莉子 『The stillness of the wind』/ akakilike/倉田翠 『家族写真』


DANCE SELECTION 2020 ダンスセレクション  レビュー


柿崎麻莉子 『The stillness of the wind』

akakilike/倉田翠 『家族写真』


 10 月 3 日  @愛知県芸術劇場 小ホール



ソロパフォーマンスとグループ作品、自作自演と他の身体への振り付け、ダンスに特化し

ていることと演劇性を取り入れていること。異なるロジックで成り立つ対照的な作品がコ

ンテンポラリーダンスの表現の幅を示す二本立て公演である。


柿崎麻莉子『The stillness of the wind』は独特のうねるようなムーブメントが印象的

な 15 分間のソロ。つま先立ちで床を探るように進む足の運びから、腰を落として長い手足

を広げたスケール感のあるフォルムへの途切れのない変容が特徴的だ。盛り上がっては沈

み、肩に肘に首にと潮の満ち引きのように現れては引いていく複雑なムーブメント。外から

形を与えられるのでも、内なる衝動に突き動かされるのでもなく、外部の空間や重力、光や

風の質感と、それらを受け止め触発される動きのモチーフが身体を挟んで静かに拮抗して

いる踊り。異なる複数の力と方向が柿崎の踊る身体を振り付けていく。刻々と移ろいゆく動

きは言葉にならない豊穣なざわめきに満ちている。

肌に密着したシースルーの衣裳は身体を裸体のように見せていて、黄昏時のような照明

を受けて神々しく、なまめかしい。その分節しえない身体の不定形の動きは、植物の繁茂や

人間ではない生き物の息づくさまであったとしても何ら不思議はないように思える。生命

の実体は身体の器に満ちることでしか可視化されないのだ。パフォーマンスは終盤に向け

て徐々に熱を帯びていく。聞こえてくるプリミティブなリズムと女声ヴォーカルのループ

につま先立ちの柿崎の足踏みが同期し、大地に近しい生命力となって舞台に漲っていくよ

うだった。


akakilike/倉田翠『家族写真』は、とある家族に男性一人を加えた7人による不条理感

の漂うアンサンブルだ。最も特徴的な点は全編を通して父親に台詞のあることで、関西弁の

抑揚が生活感と関係性の重みを暗に伝える。ここにバレエ、音楽、写真が混在し、約 60 分

のダンスシアターに仕立てられている。

作品のモチーフは「お父さんが死んだら」お金が下りる生命保険。「もし、もしやで」で

始まる父親の語りは、この「不思議な商品」をきっかけに各々の抱える欲望や矛盾をあらわ

にする。中央に置かれたテーブルを中心に、上下の空間を使った身体のインスタレーション、

個々のパフォーマーの配置や身振りが、ときに親密で、根拠の危うい関係性を浮き彫りにす

る。妹の踊るバレエは過ぎゆく時間のアイコンであり家族を寿ぐ切ないステップに見える。

兄がカメラのシャッターを切るのは時を区切り記憶を刻む行為だろうか。肥大化するひず

みと軌を一にするようにバレエ音楽のフィナーレが最大限の音量で響き渡り、舞台は暗転

する。

 「もし、もしやで」の問いかけから暗転までの過程は、内容を少しずつ変えて3回繰り返

された。このループ構造は、矛盾を孕みつつ懲りずに歴史を繰り返す家族なる制度のあり方

そのものであり、社会に無数に存在するバリエーションの示唆でもあるだろう。


(鑑賞&レビュー講座 対象公演)

 

2020年9月3日木曜日

室内オペラ『サイレンス』

アレクサンドル・デスプラ、アンサンブル・ルシリン 

2020年1月18日 @ロームシアター京都 サウスホール



【蔵出しレビュー】


川端康成の短編「無言」をテキストにした小編成のオペラ。原作は幽霊の話が出てくる怪談と紹介される例が多いようだが、病で言葉を失い、読み書き、会話の手段を絶たれた老作家と、その世話をし、他者との意思疎通を作家に変わって引き受けている長女の富子、老作家を見舞いに訪れる後輩の作家、三田の3人によるやりとりが本題である。物語の前後には三田とタクシー運転手との会話が配され、鎌倉から逗子までの見舞いの道中には、トンネルに女の幽霊が現れるという言い伝えが話題となる。老作家を尋ねるエピソード本編と前後の幽霊の話題は直接の関連はないのだが、言葉を失う経験について思索を巡らすうちに、意志や欲望、表現や伝達の主体としての人間という根拠が揺らぎ、危うさが滲み増していく物語にとって、幽霊の話は、確証のなさや不安、畏れのトーンをなして、物語の全編を覆っている。


「室内オペラ」と冠されているのは「室内楽」に対応しているのだろう、演奏を担当する器楽アンサンブルはフルート3人、弦楽器3人、クラリネット3人、パーカッション1人という小編成で、出演者もバリトンとソプラノのみ、これにナレーション担当の俳優ロラン・ストケールが加わる。ストケールはほかにタクシー運転手の役をこなし、後半では、背もたれがこちらに向けられているため姿は見えないが、老作家の役を担って椅子に身を沈めている。音楽の「アンサンブル・ルシリン」はステージ後方に横一列に並んで演奏する。音が鳴り始めるとすぐにストケールが現われ、語り始める。台詞はフランス語、舞台の左右にスクリーンがあり、日本語字幕が縦書きで投影される。原作を読まずに臨んだが、俳優のナレーションは小説の地の文にあたるのだろう。


三田役の歌手、ロマン・ポクレーは登場後、第一声をファルセットで歌い出し、通常のオペラ歌手のイメージからかけ離れていることに少し戸惑った。あれ、この人、バリトンではなかった?と。低音を響かせて物語世界の底を固め、ゆるぎない存在感をアピールするといった役どころとは異なる三田という人物像が、いわゆるベルカントではない裏声(=虚?)の唱法によって映し出される。ビブラートは控え目、そしてファルセットから実声へとシームレスに移行する声は、思慮深く、少し懐疑的な内面や思考のはたらきを抑制的に語り出し、言葉を発しなくなった先輩作家の境遇や意思の在り処、それらの伝達のされ方の謎を巡ってモノローグを連ねる。その思索の中に言葉や記号、音や文字について語るくだりがあり、水やお茶が欲しいのならせめて「ミ」や「チ」と示してはどうなのだ、カタカナで、などと吐露するのだが、こうした台詞は全て作曲のアレクサンドル・デスプラにより歌唱化されている、つまり音程とリズムが与えられ、分節化されている。面白いのは歌唱と演奏がわりと即物的な同期をみせることで、フランス語の歌詞の中で日本語のまま「カタカナ」と発語されると、パーカッションが「タタタタ」と叩いて応じる。「catacana(カタカナ)」タタタタ。こんな具合。


音楽について気付いたことをもう少し言えば、フルートはフルートの管の、弦楽器は弦の、鳴る音そのものの飾り気のない手触りが客席に直接届いてくるような演奏だった。音の物質性というのか、テクニックにより増幅されることのない音は、楽器本来が持っている素朴な質感を伝える。昨年12月にアルディッティ弦楽四重奏団と小㞍健太の共演を鑑賞した折にも、弦楽器の可能性をとことん追求するような音楽に「現代性」を見たと感じたが、今回の音楽も同じ方向性にあるように思われた。モノとして物理的な装置としての楽器と、そこから生まれる音の質感―ー摩擦や振動が空気を震わせる音そのものの物質性を尊重した演奏であると感じた。これはコンテンポラリーダンスが身体そのものを提示する態度にも通じるように思う。とはいえ、まるで無味乾燥な音楽というのではない。「カタカナ」「タタタタ」と、かかとを上げて弾むような機智に富んだ音楽性は、遊び心の表れでもあり、かつ本作の主題である言葉と表現をめぐる意識を、作品の始めの段階で喚起するものでもあったろう。


音の物質性を重視する方向性は歌い手の声についても言えるように思う。バリトンのポクレーについては先に述べたが、半ばに登場する富子訳のソプラノ、ジュディット・ファーも、やはりビブラートを控え目にした、喉の太さからそのまま出てくるような声の太さ、マットな質感が最初に印象付けられた。老作家と富子の住む家には「明白で絶対的なわびしさ」があると叙述されるように、ベルカント唱法による華麗さや過剰さはここには無用というわけだろう。病の父への見舞い客と、彼を迎える家の長女という間柄で交わされるバリトンとソプラノのやりとりは、形式的なあいさつ、節度ある会話から、少しずつ話の核心に踏み込んでいく。言葉を発しない父に代わってその意思を三田に伝える富子は、三田への歓迎やもてなしの意を表する。「お酒を差し上げなさいと父が申しております」、「では一杯だけ」といったやりとりにも、礼節とともに凛とした緊張感があり、老作家の病状はどうか、意思や感情は健在であるか、その表現や伝達がどこまで可能であるのかなど「実際のところ」に踏み入ろうとする三田の欲求と踏みとどまろうとする節度、あるいは富子の側からはたらいている牽制といった、実に微妙で繊細な、ぎりぎり成り立っているような対話を、二人の虚飾のない歌唱が重ねていく。そもそも老作家と三田の直截的な対話が封され、富子を挟んで意思の疎通が図られるシチュエーション自体が、目上の者に直にものを申さない礼儀やしきたり、作法の様式性に通じているとも言え、日本文化に深く根付いたふるまいの美意識、一種のスノビズムとして、西洋人の作り手たちが川端康成のテキストに見出したものかもしれない。


いわゆる「盛り」のない、虚飾や増幅を避けた歌唱は、このような抑制的で儀礼的なふるまいのためだけにあるのではない。声の物質性を尊重した唱法は、聴く人を思慮深くし、ものごとの本質へと下りてゆく態度へと促す。三田と富子の対話の核心はむしろ、書くことをめぐる、表現や創作をめぐる哲学的とも言えるやりとりにある。ある狂気に冒された作家による、書かれることのない物語についての逸話が、象徴的に語られる。書けない作家は白紙のままの紙を母親に渡し、「自分の書いた物語」を読んでくれとせがむのだという。母は何も書かれていない紙を手に、その場で即興で仕立てた物語を聞かせる。そんな読み聞かせが繰り返されるうちに、いったいどちらが作者であるのかが定かでなくなってくる。存在しない物語を即興で語るのは母であるが、書くことを欲望し、読み聞かせを所望する息子の存在なくしては語られることのないはずの物語なのである。「母の読める」と題される老作家の代表作の一つだというこの逸話にならい、言葉を失い沈黙する父に代わって富子が創作を続けてはどうかとの考えが三田の口から語られる。しかしこれは老作家を生かすことでもあり、葬ることでもありうる、非常にデリケートで、ある意味危険な発想といえる。何より、「(先生の)聖なる沈黙を侵すことではないのか」。三田はこの「立ち行った」「差し出がましい」危険な考えを口にしつつ、「無言ほど美しい、豊かなものはない」ともモノローグする。このくだりは本作の主題に肉迫する場面であり、タイトル『サイレンス』、原作「沈黙」の所以となっている。


この見舞いの場面の音楽は、控え目で抑制的なトーンをつくり、アンサンブルの低めの響きが素晴らしい。主旋律(メロディ)、フレーズ、ハーモニーといった概念は打ち捨てられていて、各楽器から発する単音が重なり、音の層を作る。不協和音はもはやデフォルト。デスプラとアンサンブル・ルシリンにおいては「協」「不協」の区別など存在しないのだ。弦楽器はバイオリンの他にチェロが一台。クラリネットの一人はバスクラを吹く(楽器は色々と持ち替えていた?)。そうして低音部が作られる。加えてチェロがピチカートでバリトンの歌唱のタンギングと音程に随伴していくのが面白い。台詞を分節し音程とリズムを与えて歌唱化し、それをさらにチェロがなぞり、ピチカートのほか、ときにはボーイングで歌と同期(ユニゾン)するのである。富子との対話では歌唱のピッチが幾分か上がり、音の全体が透明な緊張を帯びる。とくに対話が核心部分に入り、二人の意思の微妙な食い違いや軋轢の生じる中で、一瞬の高揚により富子がひときわ高音で張らせる声の鋭く閃くような印象は鮮烈だった。また三田が暇を乞い、老作家宅を辞する際の挨拶の場面で、バリトン、ソプラノとも一段と低音で交わす歌声のやりとりも、大変に印象的だった。圧倒的な表現というのではないが、歌、音楽、テキスト、どれもオーソドックスな分野でありながら現代にアップデートされた洗練きわまる舞台作品。衣装デザインはファッション界の著名なデザイナーによるものだったが、こちらがうっかりしていたこともあり、特に注目しなかった。映像は、幽霊を思わせる女性のシルエットや、終始椅子の背をこちらに向けてその向こうにいることになっている老作家の、目元をアップで映したりするなど。



原作:川端康成「無言」

台本、作曲、指揮:アレクサンドル・デスプラ

台本、演出、音楽監督、ビデオ演出:ソルレイ

舞台美術:シャルル・シュマン

衣装:ピエールパオロ・ピッチョーリ

演奏:アンサンブル・ルシリン

バリトン(三田):ロマン・ボクレー

ソプラノ(富子):ジュディット・ファー

語り:ロラン・ストケール(コメディーフランセーズ)



2019年12月29日日曜日

ダンスという仮象 ~ヲミトルカイ 『家の無い庭』~

 ダンスという仮象

~ヲミトルカイ 『家の無い庭』~

2019年4月6日  @角野邸



【蔵出しレビュー】


庭は人の手になる最も親密な創作物のひとつだが、その存在は両義的だ。自然と人工、配置と造形、プライベートとパブリック、内と外。囲われた小空間には美と秩序の完結したイメージが投影されるが、ひとたび放置すれば、たちまち野生が支配する。むしろ変化を内包し、自然の理に即して姿を変えていくことが庭の本来的な在り方であるのだろう。人が自らの理想を託す庭は、両義性のあわいに成り立つ仮象にすぎないのかもしれない。


今作は神戸市長田区の下町に大正時代に建造され、今は住む人のない民家で行われたサイトスペシフィックなダンス公演である。上演のほかにヲミトルカイのダンサーらによる3種類の屋内インスタレーションがあり、全体で一つの公演を構成している。観客は玄関から家に上がり、各部屋の展示に案内される。松縄春香による樹木をかたどり外の光を招き入れる切り絵。いはらみくによる動物のミニチュアを多数配したジオラマ。遠藤僚之介は完全暗転した部屋の中で微かなノイズを含んだ環境音を再生する。いずれも作り手が観察し妄想する「庭」のイメージ/実体の表現である。ダンスの上演はこれら3つに並列した山本和馬の構成・振付作品という位置づけで、この家の小さな坪庭で行われた。観客は家屋の2階から庭に面した縁側へ降り、ガラス窓を通して鑑賞する。窓の大きさが額縁となり、一つの画面を形作る。


開始時、庭石や植生に溶け込むように風景の一部となった山本和馬、いはらみくの姿があり、遠藤僚之介が自身の動線を引き込むように「画面」に入る。ほどなくして山本は庭を囲むブロック塀に上り、天辺を歩くと、そのまま塀の向こう側へ姿を消してしまう。早い段階での山本の不在は、その後もパフォーマンスを通じて通奏低音のように響き続ける。


遠藤といはらの水平に延ばした腕が繋がり、庭に一つの景が立ち上がる。ミラーリングやユニゾン、互いの接触点を移動させるコンタクトなど、同調と離散を重ね、風景の中に芽生えるダンスを提示していく。二人は向かい合って相手の首元に腕を回し、互いに引き寄せ合う。一方がくるりと向きを変えると、相手が背中から抱えるより早く、その身は地面に崩折れてしまう。こぼれる砂のように儚い二人のデュエット、そして周囲の環境を感受しながらすすむ各々の繊細なソロが、身体の境界を曖昧にし、移ろいゆく時間を可視化する。二人はそれぞれ背中で地面を感じ、石の表面や木肌の肌理に身を預ける。自我を消失し、環境に同化してゆく解体的な身体の、自在な物質感に目を見張らされる。


4人目のダンサー松縄春香は、しん、と透徹した空気を漂わせて庭に入ると、周囲を眺め、樹木に手を伸ばし、静かにその場を巡る。松縄の眼差しは庭を対象化する。環境と同化する遠藤やいはらの身体に対し、あくまで見る主体として現れた松縄は、ゆっくりと揺蕩いながら手数少なくソロを舞う。3人で地面の石を手に取り、中央の小山に向けて放ったり、足元の石を寄せながら轍を作ったりするくだりは、風景の変化や物質の風化、その形跡についての言及だろうか。遠藤と松縄のデュエットは、庭と親密な身体と、それらを対象化する身体によるダンスであり、自然に属する身体と人間の身体、見られる側と見る側、男性と女性のダンスでもある。異質なもの同士、位相を異にする主体どうしが時を縒り合わせながら、過ぎてゆく時間そのものを踊るようなデュエット。分節されない身体、刻まれることのない時間の中で、ただ互いのありようを触れ合わせているかのようなダンス。二人は重ねた腕を体の前方へ伸ばすが、さらにその腕の先を庭の境界の外へと向け、身体の実寸の限界を超えて、その先の何かへ届かせようとする。かりそめのダンスの行く先を問うているようでもある。やがて緊張は解かれ、それぞれの身体は、その場に崩れ、地面に同化してゆく。踊り続けていたいはらは動きを止め、記憶の中に固定される。人も自然も風景に取り込まれ、その風景もまた風化への予感を残して、パフォーマンスは終わる。


公演は昼と夜、時間帯を変えて行われたが、自然光のもとでの昼の上演がとくに素晴らしかった。午後の光と澄んだ空気、庭の土、石、樹木、それらの感触がガラス越しにも体感され、わずかな陽射しの傾きでパフォーマンス中の時間の経過を知る。庭を歩くダンサーの目に一瞬、陽の光が斜めに入り、眼球を透き通らせて見せたのが美しかった。


庭を巡る本作の着想は、東日本大震災の被災地を訪れた体験に基づくという。風景の喪失と、かつてそこにあったものの気配。圧倒的な不在の痕跡。風景はそれを形作った営みの去った後も、風景であり続けるのか。人はそこに何を見ているのだろう。この強烈に刻まれた不在と喪失の感覚を、山本たちは、神戸市長田区の、自らのダンスの根付く日常にパラフレーズしたのだ。見上げれば高層マンションも視界に入る、塀に囲まれた小さな民家の庭。かつて住んだ人が縁側から眺めたであろうはずの景色に、ダンサーたちは息を吹き込む。庭はここでは視線の対象たるパフォーマティブな仮象の別称だが、では視線の主体が失われたとき、庭はどこへゆくのか。そしてダンスは?と山本は問う。劇場でそれを欲する眼差しから解かれたとき、そのパフォーマティブな対象はそれでもダンスであり続けるだろうか。「家の無い庭」とは浮遊する仮象を巡る考察だ。かつてそこにあったものの痕跡と記憶が、視線と認識の制度への批判を含みながら、ダンスという仮象のゆくえを探している。



出演:ヲミトルカイ(いはらみく、遠藤僚之介、松縄春香、山本和馬)

舞台監督:米澤百奈

協力:ArtTheater dB KOBE





2019年8月19日月曜日

梅田哲也『Composite』と山下残『船乗りたち』


8月12日(月・祝)


ワークショップ「表現しないうたと身体」制作公演

               

@神戸アートビレッジセンター





・梅田哲也『Composite』

 出演 梅田哲也、ワークショップ参加者有志、他




KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGで発表され、フィリピン、ベルギーでも現地の人々とワークショップや上演を行ってきたパフォーマンス作品。そもそもの構想は「フィリピン山岳地帯にあるカヤン村の子どもたちと制作した作品を再構築」したもので、「動きと声の掛け合わせで進行する合唱」「指揮者のような中心点を持たないパフォーマンス」とされる(KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGパンフレットより)。



今回、神戸では、「表現しないうたと身体」と題し、小学生、中学生、高校生のほかに教育に関わる大人などを対象にしたワークショップの発表公演の形で行われた。ワークショップ自体はKAVCが主催する「はじまりのみかた」シリーズ(*)のVol.3として企画されたものである。出演はWS参加者有志を中心とした20名。客席内に紛れて座っていて、出番がくると舞台フロアに降りていく。最初は大人の男女6名によるパフォーマンスで、手足で一定の動きを繰り返すタスクを行う。後に子どもチーム6名が現れて同様のタスクを行う。さらにパフォーマーが加わり、先の2チームとは異なる内容のタスクを行う。最後にはこれらのタスクが重なり、声と身振りの分厚い層をなして会場を満たす。

  *はじまりのみかた:アートのはじまりの見方を提案し、はじまりを味方にするワークショップシリーズ。文化活動の入り口となる様々な事柄に着目し「体感する」「思考する」「探求する」「創造する」をキーワードに、幅広いジャンルを横断しながら企画を構成。シリーズを通した受講によって。参加者が文化芸術に親しみ、また自身の生活の中に文化的な視野を育むきっかけとなるような講座を目指す。(KAVCHPより)



パフォーマンス作品とも合唱作品とも銘打たれるこの『Composite』は、ごく簡単な身振りと声のパターンの繰り返しで成り立っている。最初の大人6人(男女3人ずつ)は、「かごめかごめ」のように手を繋いで輪になり、内側を向き、各々自分の手、腕、肩など体の部位を軽く叩く動作をする。時折、右足で床を踏み一拍の音を出す動作も組み込まれる。同時に「ウ、ウ、アレ。ウ、ウ、アレ」と3拍子で声を出し、唱和する。ただし、6人の動作と発声には3種類(だと思う)のパターンがあり、おそらく2人ずつで一つのパターンを繰り返す。また時折交代して、それぞれが異なるパターンを行うようにルール化されている、と見える。そのパターンの違いとは、「ウ、ウ、アレ」が、「ウ、アレ、ウ」になったり、「アレ、アレ、ウ」となったりするが、よく聞いてみても実のところ、異なるパターンを交代して行っているのか、一つのパターンの輪唱によるズレでこのように聞こえるのか、見極め(聞き極め)は難しい。動作にも、片手の先で反対側の手先、手首、肘の内側、肩を軽いタッチでトントンと叩いていくほか、両手で両肩を叩き、下に下ろし、といったものなど、これも3つほどのパターンが観察された。パフォーマンスする6人はみな目を閉じていて、ひと通りの動作と発声の反復を終えると、手を繋いで輪を少しだけ回転させ、各自の位置が隣に二人分くらい移動する。これを合図に担当するパターンの交代が行われるようだった。そしてまた新たに3拍子の声と動作の反復が行われる。このようにして、行為はシンプルながら、一定の拍子で進む複数の声と動作、そこに床を踏む音のアクセンが加わり、声の質も女声と男声が混成し、結果として複雑で厚みのある声と音の重なりが生まれる。さらに、声を全く出さないで動作のみを遂行する回もあって、進行は変則的である。輪を回ってパターン交代をする際の直前のタスクの終わらせ方を見ると、6人一斉に終えるのではなく、ばらばらに終え、最後に二人、一人と声と動作が残る。皆、目をつぶっているはずだが、どのようなルールで何を感知し動作を終息させ、次へ移るのか。個々によるタスク遂行の差異か、何等かの判断が相互にはたらいるのか。このあたりにこの作品のゲーム性、遊戯性が胚胎していたような気がする。遊戯といえば、実際に、このパフォーマンスの印象は輪になった子供の遊びであり、拍子をつけた発声はわらべ歌を思わせる。無国籍なわらべ歌だ。



大人だけで結構な時間が、おそらく上演時間の半分ほどが過ぎた頃、子どもチーム6人が現れ、同じような要領でパフォーマンスを始める。小学生の男女に中学生か高校生と見える人も数人交じっている。一人、とても元気な小学生の女の子がいて、大人が淡々と繰り返すのを見慣れてきた手足の動作を、それこそダンスのようにひとつながりのフレーズとしてグルービーに動いている。拍子に先んじてストロークを出し、身体全体を弾ませ、動作を行うことが楽しくてじっとしていられなくて、といった生気が全身に漲っていた。舞台には大人6人と子ども6人による二つの輪が出来ていて、それぞれに「ウ、ウ、アレ」「アレ、アレ、ウ」の3拍子の遊戯が進行し、男声と女声、大人と子供、子供にも小学生、中学生、高校生と異なる世代による声と身体と身振りが混在し重層して、いっそう分厚い声とリズムの重なりを織りなしている。二つの輪の間で拍子を揃えることはないから、それぞれの3拍子はさらなるズレを含んでいる。しかしどこかの拍子で誰かの声がひときわクリアに届いてくる瞬間があり、全体がただの騒音とかノイズと化すことは決してない。それはちょうど、夜中に泣きかわすカエルの合唱を聞くようだった。混沌というより濃淡、もしくは遠近であり、その中で突出してクリアに届いてくる声は、閃く主旋律に聞こえる。それは一瞬のことであり、旋律はしばしば交代する。誰かの声が浮き上がり、他の誰かの声は全体の中に沈み込み、ということが一つの現象として絶えず起こっている。



その後、パフォーマンスはさらなる段階へ。客席からあらたに二人の女性がフロアに入り、床にテープを張って一本の境界線を設ける。それから二人は6人組の輪の2チームとはまったく別のテンポで、一定のフレーズのある声を発していく。フレーズはパストラーレふうの8分の6拍子に近く、「タータ、ターララ、タータ、ターララ」と歌のように聞こえる。二人の女性はフレーズの拍子がもつ自然な抑揚に合わせ、一歩ずつ歩みを進めながらフロア中を移動する。境界線のテープの上をなぞるように進む人もいる。客席からはさらに一人、またひとりとパフォーマーがフロアへ入っていき、フレーズに加わりフロアを埋めていく。いまや異なる種類のタスクが二つの輪とランダムな移動によって遂行されている。異なるパターン、重なる声が、この場所をうっそうと覆っていく。



途中、照明が落とされ、暗闇の中で声が続く場面があるが、様々な方向から拍子を複雑に重ねながら届く子どもの声や大人の声に耳を澄ますのは、まさに夜中のカエルの合唱を聞くのに似た体験だった。



やがて輪のチームから一人ずつ、徐々に抜けてパフトラーレのフレーズの側に加わる。大人の輪も子どもの輪もそのようにして縮減し、フロア上にいた20名に及んだパフォーマーたちは、少しずつ舞台をはけていく。最後に3人の人が残るが、ここであらためて気づいたのは、この間、ランダムに移動していた人たちも、目を閉じたままタスクをこなしていたらしいことだ。3人のうちの二人は動線が交差して身体がぶつかったところで両者ともはけていった。目を閉じていたので互いに避けることが出来なかったのだ。最後に一人女性が残った。が、もはや誰ともぶつかることはないので、このままでは永遠にひとりフレーズをうたいながら一歩、一歩と動くのみである。その時、客席側から巨大な風船が放り入れられ女性にやわらかくぶつかった。これで女性も無事タスクを終了し舞台を去ることができた。風船は先にも舞台に投入されていたので、これにぶつかったり触れたりした人は、はける、というルールが最初からあったのかもしれない。



シンプルな動作、親しみやすい声のパターンからのこのような厚みと広がりのあるパフォーマンスへの発展が驚きであり、面白くもある。人の小さな輪がやがて大きな集合になり、異なる複数の運動を含み、分厚いテクスチャーを生す。やがてそれらは解けて一人=個へ戻る。おそらくあらゆる民族、地域に共通するであろう遊戯のエッセンスを抽出したような、最小単位の動作で構成されたパフォーマンスの形態に、個と集合のシンプルな原形を見たように思う。京都以来の2度目の観覧ながら興味が尽きることはない。








・山下残『船乗りたち』

 出演  山下残 垣尾優 佐々木峻一(努力クラブ) 畑中良太




ワークショップ成果発表とダブルビルで上演されたのは山下残の旧作。私は過去の公演を見ていないので今回は得難い機会だった。

タイトルどおり、船に乗った状態を舞台に再現したのが初演時の構想で、人が乗れば不安定に揺れるボードの上で演じたと聞く。足元のぐらつく不確定な要素が演じ手たちの身体に負荷として掛かっていたはずだ。今回、ボードはなく、ダンサーたちは直接フロアの上で演じる。身体が対処すべき負荷が一段減っているわけだが、その条件で不確定な要素を振付によって作り出すことが試されていたのだと、後になって気付いた。以下は、どのような趣旨や意図が込められていたのかはさておき観客の目にはこのように映った、という事実を記述していく。



出演は男性ばかり4人。これは初演時と同じで、垣尾優はその初演にも出演している。内容は特になく、人の体が日常的に動きうる範囲において、さまざまな動作、身振りを即物的にパフォームしていく。基本は舞台の中央に4人が集まって行われるが、これは元の構想がボードの上での演技だったことによるだろう。4人は互いをよく見合い、間合いを取り、誰かが動くと、他の者たちも同様の動きを行う。この繰り返しは、最初に動き始める者の振付を他の3人が模倣するというタスクに見える。模倣と言っても、一挙手一投足の形、角度、方向の全てを忠実に再現して見せるという意味ではない。たとえば「中腰に構えてドタドタ歩く」といった指示の範囲で各人が自身の身体で解釈して動く、といったほどの意味だ。動きの内容は同じだが、型や方向などパフォームのされ方には幅がある。また一斉に模倣する場合もあれば、一人ずつ順に真似て動いて見せる場合もあり、タイミングにも幅がある。これを不確定要素と言ってもいいだろう。



一つの動きを行うことを1シーンとし、シーンは次々と間を置かずに連なっていく。後で聞いたところでは全15シーンあったそうで、15のアイデア、15の振付が再現されたわけである。4人が互いの出方を伺う様子は柔道かレスリングなどの格闘技を思わせ、身体を交えて対戦することはないが、敵味方のないバランスの中へ、4人が機を見て自分の身体を投じる試みに見える。互いを観察し合い、間合いを測り合う間に、各々が意思をキャッチし合う、一種のコミュニケーションが図られているようにも見える。その意味で作品は相互的、ゲーム的であり、パフォーマンスは即興性を多分に含んだものに感じられる。



15の動きの一つひとつに意味や脈絡はなく、全体を貫くドラトゥルギーも存在しない。腰を落とし気味に構え、床の上でごろごろし、身体を揺らしたり、腕を上下させたりそよがせたり、・・・このように記述することに記述以上の意味はないほどの、単純で非目的的な動き。しかし人の身体の、四肢や胴体や頭部がとり得るあらゆる動きを、なんら背景も状況設定もないニュートラルな演技空間で、振付の引出しから取り出すようにして、4つの身体で遂行していく。引出しの中のアイデアは尽きることがなく、人の身体からこぼれ出る動作や身振りのたっぷりとした豊かさが、繁茂する身振りの森といった調子で体現されてゆく。動きが演じられる順番にも、先行するシーンからの必然的な流れでこのように動く、といった身体運動に即した道理はない。一つの場面、一つの動きは、人の動きの純粋なサンプルとしてあり、作品はサンプルの組み合わせと集積として成り立っている。こういうと無機的に聞こえるが、その背後には稽古場で自ら動き、膨大な振付を生み出し、記録した、作業の「量」があるだろうことを推察させるものがある。



非ドラマ的という意味で演劇からは遠く、身体と動きを媒体とした表出という意味でダンスに近い。ただし、ダンスといっても踊る身体を司る技術というものをいっさい用いず、裸足で床に立ち、普段の生活と変わらないピッチで舞台に居る。音楽は使用せず、詩的な感興や抒情を引き寄せることもなければ、振りをリズムで調整することも、カウントで分割することもしない。そうした意味では非ダンス的と言えるのかもしれない。(ダンスを、日常とは異なる調整をもって身体を一定の様式・スタイルのもとに運用する技術、およびそれが刻み出す時間もしくは織り出す審美的なテクスチャーとするならば。)舞台に現われ演じられ遂行されるのは、雑多にしてナチュラルで有機的で、人の生態に親しく、身体の合理性に即した動きの数々である。それらはあくまで無目的で意味をなさない。限りなくリアリスティックであり、かつ振付家により考案されたフィクショナルな動きである。それらをひたすら遂行する4人の行為は、真摯にしてナンセンスで可笑しみがあり、動物園の動物たちをいつまで見ていても飽きないように、いつまでも見続けていたい面白さがある。人の動作・身振りの本質に触れ得ているような奥深さがある。遊戯する人=ホモ・ルーデンスと呼ぶべき人たちを目の当たりにする感慨を覚えるのはこのような時である。



上に述べたパフォーマンスの相互性、ゲーム性、即興性について、終演後、振付家に話を聞いたところ、ほぼ振り付けられたものであると分かった。4人が同じ動きをするにしてもそれがユニゾンにならないように、シーンとシーンの境目が機械的に分断されないように、振付の段階でさまざまなズレを設定しているという。観察されたところでは、誰か一人が始めた動きを、他の者らが見て取り、各々の身体で模倣する。そろそろ納得がいったところで、次に誰かが別の動きをしてみる。それを見て取った他の者らがやはり真似て自分なりに動いてみる、ということを繰り返しているように見える。だから4人の動作の動き出しは少しずつ時差を生じ、一斉に動くとか一糸乱れず規範的に動くといった統制から遠ざかる。動きはいつも誰かが先んじているように映るし、一つの動きを真似ていく状況で一人だけはそれをやらないという選択もある。最初の一人から、次の人、その次の人、と順に真似て動き、最後の一人が動くと期待させておいてそれをやらない、といったオチもある。そのようにして動作は、時間的にも内容的にも、様々なレベルにおいてずらされており、そのズレはあらかじめ振付として仕込んであるのである。そうすることで構造としてはサンプルの連続的な提示である本作が、生体的、有機的なあいまいさ、複雑さを得ている。



上演の順番は『船乗りたち』が最初で『Composite』が後。2作には共通点があり、好企画だった。どちらも集団の間で動きを共有するための自然発生的なプロセスへの仕掛けを構造化することで、ダンス・テクニックを媒介としない身体パフォーマンスの可能性を力強く示していたと思う。










2019年7月26日金曜日

ローザス来日公演 『我ら人生のただ中にあって』


2019年5月19日   @東京芸術劇場 プレイハウス



【蔵出しレビュー】手元にある未発表原稿を掲載



東京芸術劇場プレイハウスのステージは奥行きがたっぷり深く、ほぼ正方形に近い形状で使用される。本来なら正面性のあるプロセニアム劇場とは違う場所で上演される作品なのかもしれない。2017年の初演は、ベルギー国内の使われなくなった工場か、それに似た場所だったと聞く。舞台上に装置は何もないが、床にはチョークで円や直線などの図形が描かれている。これについては開演前にロビーで販売していた写真集を見て知った。写真集を見ていなかったら1階客席からは気付かなかったかもしれない。2階席から見下ろして図形と実際のダンサーの動きの関係を確かめてみるのも面白かったろうと思う。


奥行きの深さ、天井の高さ、青み掛かった深い照明のトーン、チェリストのための一脚の椅子。それ以外に何もないがそれでもう完璧な深みをもった空間だ。チェリストのインディゴ・ブルーの服が空間のトーンに一層のニュアンスを添える。


バッハの無伴奏チェロ組曲は全6曲、さらにそれぞれが6つのピースをもつ。第一番ト長調なら、1.プレリュード、2.アルマンド、3.クーラント、4.サラバンド、5.メヌエット、6.ジーグ。曲によって5.メヌエットが、3番4番ではブーレになり、5番6番ではガヴォットになる。3番のブーレ、6番のガヴォットは有名で、リサイタルでは単独でアンコール曲として演奏されたりする。プレリュードは「前奏曲」だが、他はいずれも舞曲であることに、振付化される縁を感じる。


第1番はト長調、第2番はニ短調、第3番はハ長調・・・と曲ごとに異なる調整で作曲されている。短調は第2番と第5番だ。第一番はト長調ならではの透明な明るさのある曲調。第3番は華やかさがある。この二つは特に聴き易くポピュラーだ。いずれの組曲も一つの調整で統一された、互いにリズムの異なる6つのピースで構成されている。また第1番から第6番までの異なる調整は互いに関係し合っているともいわれ、組曲全体でひとつの秩序体系を形成しているという。こうした秩序立った形式性に魅かれて作品を作るのはケースマイケルの他の作品でも見られることで、フィボナッチ数列の応用など数理的な理論と音楽、ダンスの関係を探求する彼女の面目躍如といったところだろう。


ケースマイケルは第1番から第6番まで各曲が始まる前に舞台下手前に現れ、客席に向かって指で「I」、「II」、「III」…と曲の番号を示す。示し方にちょっとずつ指の形を工夫したサインが加わり、なにかしらの意味・符牒を込めているようにも見える。このダンス作品が何かしら宇宙のごとき構成体の一部に組み入れられるべきものであることを示そうとするかに思われた。そのことは、やはり各曲開始時、舞台奥の壁にデジタルな4桁の数字が映写される時にも感じた。これはJ.S,バッハの作品番号の提示だと後に知ったが、数字を打つ、ナンバリングするということは、世界の中の事物をある秩序のもとに整え、位置づけ、カタログ化することだ。第1番は「1007」と打たれ、以後一曲ごとに数字が増えていく。


第1番から第5番まではそれぞれを一人のダンサーが踊る。但し各曲とも2曲目のアルマンドはケースマイケルとのデュオになる。第1番は大柄な口髭のある男性ダンサー、第2番は色白の男性、第3番はショートヘアの女性、第4番はさらに大柄であごひげのある熊さん?みたいなダンサー。第5番はケースマイケル自身が踊り、第6番は5名全員で踊る。ただし少々変則的な部分があり、後に述べる。


ダンサーごとに持ち味が異なり、用いられる振付の語彙も異なる。第1番、第2番のダンサーたちがいずれもフロアへのフォールを含んだポストモダンな振付で動いていたのに比べ、第3番の女性ダンサーは精緻に音を取り、身体のポジションを正統に保ち、シャープな動きを見せていた。ただ第3番はチェロ組曲の中でも華やかさと圧倒的な盛り上がりを見せる曲だが、それに対してはちょっとお利巧に収まっている印象を受けた。音楽を詳細にアナリーゼした振付であるのだろうけれど、そしてハ長調からくる正統さと明朗さであるのだろうけれど、単に音から動きへ、では掬い上げきれない音楽の特質といったものはあるだろう。だがそうした「情」や「感」に拠った聞き方をするべき音楽ではバッハはないのだということでもあるだろうか。チェリストのジャン=ギアン・ケラスの解釈は、華美な演奏を志向してはいないものの、敢えて抑制した演奏というのでもない。軽快で、自在な弓捌きが見事で、母語を操るように弓を操る。かつ、技巧に拠るのではない、思慮深さのあるチェロ。第4番の男性ダンサー「熊さん」は床への自由落下を繰り返しながら音楽の節に応じていく。


全6曲に共通した振付要素があったことも記しておかなくてはいけない。各曲の2番目アルマンドはいずれもケースマイケルとのデュオであることは既に述べた。加えて、3番目クーラントはいずれのダンサーも軽快で躍動感ある動きを見せる。4番目サラバンドでは、音楽がゆったりとした拍子であることからだろう、床を使った動きを多用する。5番目メヌエット/ブーレ/ガヴォットでは、前進後退の歩みを音楽のリズムに合わせて行う。6曲目ジーグは各組曲の最後を締める華麗な音楽であり、踊りも躍動的なステップや、回転やターンなど「見せ場」的な要素を多く取り入れたダニナミックな振付となる。第3番の女性はギャロップ風のステップを見せていた。


もう一つ、振付について言うと、2曲目アルマンドのデュオではケースマイケルの振付はどの組曲もほぼ同じものだった、もしくは同じ部分をかなり多く含んでいた。もちろん曲が異なり相手のダンサーが異なるので全く同じデュオのピースを踊っているという印象はないが、それがかえって異なるものの中に埋め込まれた符牒を示すことになる。第4番のデュオでは「熊さん」とケースマイケルがともに客席に背を向け、ホリゾントに向かって踊る。客席からは同じ振付を背後から見ている図になる。


このように、6つのピースからなる6つの組曲という構成に、振付・構成・演出の上でいくつかの共通項を串差すように通し、さらにそれらを数学的・幾何学的に転移させながら、ダンスが音楽と空間の形式と秩序に応えようとしていることがわかる。


チェリストのジャン=ギアン・ケラスは楽曲ごとに椅子の位置を変える。第1番では舞台中央で客席に背中を向けて。2番では位置をずらし、客席に対し横向きに。3番は正面を向いて、といったように。舞台の景色に変化をつけるためと思って見ていたのだが、こうして振り返ってみると、空間的にも、本来正面性のない舞台において、観客が対象のダンサーに対してその都度異なる角度からの見え方を作り出すための操作と考えてよいのではないか。    


さて、ダンスはこのまま定形を保ち、バッハの組曲の構成に即して進行するかに見えたが、曲が進むにつれてこの形は変則的になり、作品としての展開を見せていて、なかなか一筋縄ではいかない。第3番の途中で演奏が突如途絶え、ダンスも中断、謎の沈黙・静止に入った。これはちょっとした脅かしやアクセントとしての中断というにはかなり長く、その中断、沈黙、静止の意味を見る者に否が応にも考えさせる。ハ長調の正統、明朗の只中に示された空白の中心であり、秩序ある構造の中心の無を、あるいは明朗・緻密な秩序に対するダンスの不可能性を、示唆するのだろうか。


また第4番ではやはり途中で演奏が途絶え、ダンスだけが続いていく。この楽曲を踊ったのは前述のように臥体の大きな髭の男性(熊さん)。チェロのパッセージに合わせてフォールダウンを繰り返す負荷の大きい動きをしていたが、音のない場面でも踊り込んでいったその果てに、上手袖でこちらに背を向け、身を横たえる。音楽に対してダンスは、身体という実体を抱えている限り、完全な応答は不可能であるのだと、横たわるダンサーの身体は無言で語っていたのだろうか。


チェロは第5番の演奏に入るが、先の「熊さん」はその冒頭を少し踊ってから退いた。楽曲ごとに一人のダンサーが躍るという形態に変化が加わったわけだ。第五番のダンサーとして現れたのはケースマイケルだった。この第5番にはそれまでの4曲とはこれまた異なる変化があり、まずダンスなしでチェロの演奏のみの時間帯がある。照明が落ち、下手サイドからの灯り一つが上手寄りにいるチェリストを照らす。その光にケールマイケルも照らされて踊る。ケースマイケルはしかし光の外に出て、ほとんど姿を見て取れない闇の中で踊り続ける。

つまり第3番は演奏と踊りの中断、

第4番は演奏なしのダンスのみ、

第5番はダンスなしの演奏のみ、の時間帯が挟まれているというわけである。

こうした演出・構成の仕掛けは効果的だった。聞こえない音楽を聴き、見えないダンスを想像する。それはまた、それぞれの曲を振付家がどのような言語に変換しダンサーがどう対応して踊るかにのみ焦点を絞るのではなく、組曲全体の構成、バッハの音楽の構造自体に意識を向け、演奏が、またダンスがある箇所で欠損することで、音世界の完全性(ダンスには決して体現しえない)が逆説的に印象付けられる。


第6番はダンサー5名全員が出て来て、各々のソロの動きを再び踊ったりなどする。個人的に注目したいガヴォットは、やはり5人が並んで前進後退のステップを曲のリズムとともに繰り返し、ステージの奥へ手前へと動く、というもの。本作の規則・形態に則ったとはいえ、うーん、こうなるか、そうか。

しかし最後のジーグは5人入り乱れての蝶の舞のような乱舞となった。チェロが最後の音を鳴らし終えた瞬間、余韻もなくパっと照明が落ちたのがかっこよすぎた。



ダンスについて一点言及しておくとすれば、本作に見られた振付言語は、主に現在のコンテンポラリーダンスを形作っている主要な言語と言っていいだろう。すなわちリリーステクニクを中心とした自由落下、遠心力を用いた回転、ステップ、コンタクト(触れないコンタクト含め)など、重力や空間と対話する身体から繰り出される、自由度の高い動きである。前回の来日時にプログラムされた『FASE』が、ケースマイケルがニューヨークでポストモダンダンスの洗礼を受け、ヨーロッパに戻って間もない時期に作られら作品で、まさにポストモダンダンス色を感じさせたとすれば、今回の来日公演は本作『我ら人生のただ中に会って』、もう一方のプログラム『A Love Supreme』も、ダンス・クラシック、モダンダンス、ポストモダンダンスを経てコンテンポラリーダンスと呼ばれるダンスの今日現在の熟成した言語を示しているのだと言えるだろう。より演劇的に、あるいはヴィジュアル・アートとの混交を深める方向にある今日のパフォーミングアーツにおいて、ダンスそのものの追求を続けるケースマイケル。また『A Love Supreme』がジョン・コルトレーンへの、『我ら人生のただ中にあって』がバッハへの、大いなる/切なる応答として作られたダンスであることは肝要な点だろう。ジャズに対するアプローチと、バロック/古典音楽に対するそれとの違いもさらに考えていきたい。