2017年5月19日金曜日

ローザス愛知公演

●5月10日(水)
ローザス『ファーズ-Fase』
@名古屋市芸術創造センター
振付:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル
出演:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、ターレ・ドルヴェン
音楽:スティーヴ・ライヒ(ピアノ・フェイズ、カム・アウト、ヴァイオリン・フェイズ、クラッピング・ミュージック/録音)


ケースマイケル率いるローザスが新旧2作品を携えて日本ツアーを行った。その愛知公演を見る。1982年・作『ファーズ』と2013年・作『時の渦』が日を変えて上演された。二つの作品の間には30年という時が横たわっている。『ファーズ』のミニマリズムから『時の渦』のダイナミズムまでは実に大きな展開があるが、音楽の構造とムーヴメントの関係を作舞の基本構造として追求する姿勢は一貫している。ケースマイケルの出発点と今日の到達点を並置するものと本公演を位置づける言説が多く見られたのも今回特徴的だった。

ニューヨークでポストモダンダンスの洗礼を受けたケースマイケルがベルギーに戻り発表したのがこの『ファーズ』。スティーヴ・ライヒの楽曲を使った4つのパートから成っていて、『Violin  Phase(ヴァイオリン・フェイズ)』と『Come Out(カム・アウト)』はニューヨーク滞在中に、『Piano Phase(ピアノ・フェイズ)』と『Clapping Music(クラッピング・ミュージック)』は帰国後に新たに振り付けた。ケースマイケルにとっては『Asch』(80年)に続く2作目、その後世界中で百数十回公演され、今回の日本公演は発表から35年を数える。翌83年にローザス結成。以上が本作の基本情報だ。

ジャドソン教会派が展開したポストモダンダンスのラディカルで禁欲的な実験は80年代には活動の最盛期を過ぎていたが、ニューヨークにはジャドソンのもたらした自由な実験精神があふれていた。その息吹を浴びたケースマイケルは、そこに開かれた身体言語の地平に立って新しい景色を見たに違いない。ポストモダンダンスがヨーロッパに移植されるルートには二つあると理解している。一つはパリ・オペラ座のカロリン・カールソン、アンジェの国立振付センターのアルヴィン・ニコライ、さらにフランス各地のメゾン・ド・ラ・キュルチュールなどにアメリカからポストモダンダンス系の舞踊家たちが続々と講師として招かれたこと。これがフランスのヌーベル・ダンスを準備した。もう一つのルートがニューヨークに留学してポストモダンダンスの洗礼を直に受け、ヨーロッパに持ち帰って自身の表現形式を確立していった個々のアーティストの活動。ピナ・バウシュがそうであり、ケースマイケルも然りだ。バウシュはタンツ・テアターを独自の方法論をもって確立していった。一方ケースマイケルは音楽の構造をダンスのドラマトゥルギーに据える方法をとった。「ファーズ」はまさにその最初の形で、ミニマル・ミュージックの雄、スティーヴ・ライヒの音楽を得て、そこに生き生きとした生のリズムを吹き込んでいる。ミニマルであることが単に還元的で無機的であるのではなく、旧弊なモダンダンスの約束事を排した後のタブラ・ラサ、新しい地平を前にした清新な息吹を感じさせる作品だ。石井達郎さんがパンフレットの解説でローザスの官能性について触れられているが、おそらく旧来のモダンダンスとは違った意味でのナラティフの要素、歴史性の回復を兆すものと言っていいような気がする。昨年(2016)春に京都に来たトリシャ・ブラウン作品と比べると、その予期された美学への方向性はより納得して感じられるように思われる。

一曲目の「ピアノ・フェイズ」は二人のダンサーが壁前で横向きに並び、ユニゾンで腕を振り子のように振りながら体の向きを変えたり位置を変えたりする。ライヒの2台のピアノによる曲が次第に音列をずらしていくのと同時に、二人の振りもずれを生じ始め、一度は体の向きが正反対になるが、反復を続けるうちにふたたびユニゾンに戻る。曲が16分音符のずれを作っているというから16回の振りで元に戻るということになるか。そうした数理計算上の整合的な面白さもあるが、オフバランスの微かな揺らぎを振付に組み込んだり、ジェンダーを否定しない清楚なワンピースに白いソックスという衣装だったりするのも、これより後に続くローザスの魅力の一端を示すものだろう。二人のダンサーにはそれぞれに2方向から照明が当てられ、背後の壁にシルエットが2体ずつ映るが、そのうち1つずつが中央で重なり、動きがずれていくと同時にシルエットの重なりもずれる。音楽、身体、光と影(シルエット)、3つの要素でユニゾンとずれの時間列を紡いでゆく。壁前で長く踊った後、舞台中央に移動して踊り、さらに舞台前面まで出て来て踊る。それぞれの位置で照明の当たり方が変わり、壁前では平面的な並置の図と幾何学的な運動性が際立つが、前面では陰影が強く出て、少し位相が変わる。

2曲目「カム・アウト」は男性の声で「カム・アウト・ショーレム」と発声する短いフレーズがループするのに合わせて、並んだ二脚の椅子に腰かけた二人が腕のダンスをする。直線的なストロークと上体の向きの変化を素早く間髪入れずに繰り返し、感情を削ぎ落とすような禁欲的な雰囲気で続ける。この動きも同調とずれを主題にしているが、「ピアノ・フェイズ」のような微細なずれが徐々に拡大していくという変化ではなく、素早いテンポのユニゾンの中で瞬時に異なる動きが入り、そのたびに意外さや一瞬の違和感や、微かなエモーションを引き起こす。

3曲目の「ヴァイオリン・フェイズ」はケースマイケルのソロ。大きな円周に沿って動き、さらに円の中心に向けて半径を辿るように動く。動きはミニマルを強調したものではないが、幾何学の理をベースにおいた作品で、自らその理に則して踊るケースマイケルの思慮に富んだ表情が印象に残った。

最後の「クラッピング・ミュージック」はタイトルどおり手拍子によるリズムが反復される中、やはり壁前に二人が横向きに並び、踵を上げて爪先立ったり、膝を前に出したりする動きを反復、継続していくミニマリズムのダンス。手拍子の軽快なテンポに合わせた素早く細かい足のダンスである。衣装は白シャツにパンツ。足の動きがよく分かる。やはり二人の動きにはずれや相違が生じるが一定のテンポの中で再び同調、これを繰り返す。こちらも照明が凝っていて、最初は周囲が暗く、白い壁を背景に、敢えて足部分のみを照らし、フレームで切り取られた“絵”を見せる。しばらくして全体を照らす。内的な奥行きをつぶし、平面上でのミニマム――動きの単位から時間が構成されていくというコンセプトを照明が効果的に伝えていた。





●5月13日(土)
ローザス&イクトゥス『時の渦―Vortex Temporum(ヴォルテックス・テンポラム)』
@愛知県芸術劇場
振付:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル
出演:ローザス・ダンサーズ
音楽:ジェラール・グリゼー
演奏:アンサンブル・イクトゥス(生演奏)


ローザスでは音楽はバルトーク、ウェーベルンなど近代、現代のものが多く使われる。調整されたアンサンブルにではなく、無調整の音列や不協和音の中にダンスへの契機を見出すケースマイケルの才気、直観、理知の力はやはり卓越したものと言っていいだろう。

来日公演2つめのプログラムである今作はフランスの現代作曲家グリゼーの曲に振り付けたもので、まずアンサンブル・イクトゥスの生演奏から始まる。ピアノ、フルート、クラリネットのアルペジオのパッセージが躍動し、ビブラートのかからない弦の音が並走する。粒立つ音、はじけ飛ぶ音の運動と、音相互の遠近、強弱、対比。あらためて曲を聴くとその色彩感、濃やかな光のような躍動感がいきいきと印象づけられる。だが実際の舞台では床も周囲の壁も暗い色で統一され、より深く抽象度の高い時空の存在を想像させた。アンサンブル・イクトゥスのメンバーは最初のパートを終えて弦と菅の奏者が席を立って退き、しばらくピアノだけが演奏を続けるが、最後にピアニストも上昇するパッセージを颯爽と弾き上げるやいなや立ちあがり去っていく。
下手後方から7人のダンサーが現れる。ひとりひとり、閃きを得るように不定形なムーヴメントを動くが、それぞれの動線や全体の位置関係は天体の運行のようにある秩序のもとに司られているように見える。一階席からは気付かなかったが、床にはいくつかの円の軌跡が描かれていたようだ。ただそれが見えなくとも、中心を少しずつずらしながら、ダンサーが動き、時に走り、渦を巻くように遠く近く、大きく小さく、全体の構造を描き出していくのが分かる。ダンサーは一人ずつが一つの楽器の音に対応しているらしい。スコアの存在を指摘する解説がウェブ上に出ていたが、個々が独立して動きながら、全体は一つの関係性のもとに運行し、なお一人ひとりの身体にさざ波立つような瞬間的で即興的な動きの発露がある。ダンサーとともにミュージシャンも演奏しながら舞台に立ち、グランドピアノもぐるぐると渦巻いて移動する。全体が「時」というものの大きな運びの中に息づいていて、音もムーヴメントも、形に残らない瞬間の現れとして、渦巻く時の運びの中に存在する。

ダンスの動きは技巧的なものでは全くなく、またダンサーはステージの「額縁」を大きくはみ出して、舞台前面の両端にまで出てくる。額縁の中だけのイリュージョンを描くのでなく、現実と舞台を結び、世界の成り立ちのままにダンスもあろうとするケースマイケルの思想を見るような気がする。その虚飾なく自由な創造精神が感じられたのが嬉しかった。それぞれの時間、それぞれの軌跡、その構造と法則、関係性と瞬間の発露。精緻な構造と奥行きをもった宇宙を思わせる空間に生成しては消滅するムーヴメントを見ながら、「存在する」ということを巡る音楽家と舞踊家の思考に引き込まれていく。徐々に鎮まりゆく音と動きの最後の瞬間まで。