ダンスという仮象
~ヲミトルカイ 『家の無い庭』~
2019年4月6日 @角野邸
【蔵出しレビュー】
庭は人の手になる最も親密な創作物のひとつだが、その存在は両義的だ。自然と人工、配置と造形、プライベートとパブリック、内と外。囲われた小空間には美と秩序の完結したイメージが投影されるが、ひとたび放置すれば、たちまち野生が支配する。むしろ変化を内包し、自然の理に即して姿を変えていくことが庭の本来的な在り方であるのだろう。人が自らの理想を託す庭は、両義性のあわいに成り立つ仮象にすぎないのかもしれない。
今作は神戸市長田区の下町に大正時代に建造され、今は住む人のない民家で行われたサイトスペシフィックなダンス公演である。上演のほかにヲミトルカイのダンサーらによる3種類の屋内インスタレーションがあり、全体で一つの公演を構成している。観客は玄関から家に上がり、各部屋の展示に案内される。松縄春香による樹木をかたどり外の光を招き入れる切り絵。いはらみくによる動物のミニチュアを多数配したジオラマ。遠藤僚之介は完全暗転した部屋の中で微かなノイズを含んだ環境音を再生する。いずれも作り手が観察し妄想する「庭」のイメージ/実体の表現である。ダンスの上演はこれら3つに並列した山本和馬の構成・振付作品という位置づけで、この家の小さな坪庭で行われた。観客は家屋の2階から庭に面した縁側へ降り、ガラス窓を通して鑑賞する。窓の大きさが額縁となり、一つの画面を形作る。
開始時、庭石や植生に溶け込むように風景の一部となった山本和馬、いはらみくの姿があり、遠藤僚之介が自身の動線を引き込むように「画面」に入る。ほどなくして山本は庭を囲むブロック塀に上り、天辺を歩くと、そのまま塀の向こう側へ姿を消してしまう。早い段階での山本の不在は、その後もパフォーマンスを通じて通奏低音のように響き続ける。
遠藤といはらの水平に延ばした腕が繋がり、庭に一つの景が立ち上がる。ミラーリングやユニゾン、互いの接触点を移動させるコンタクトなど、同調と離散を重ね、風景の中に芽生えるダンスを提示していく。二人は向かい合って相手の首元に腕を回し、互いに引き寄せ合う。一方がくるりと向きを変えると、相手が背中から抱えるより早く、その身は地面に崩折れてしまう。こぼれる砂のように儚い二人のデュエット、そして周囲の環境を感受しながらすすむ各々の繊細なソロが、身体の境界を曖昧にし、移ろいゆく時間を可視化する。二人はそれぞれ背中で地面を感じ、石の表面や木肌の肌理に身を預ける。自我を消失し、環境に同化してゆく解体的な身体の、自在な物質感に目を見張らされる。
4人目のダンサー松縄春香は、しん、と透徹した空気を漂わせて庭に入ると、周囲を眺め、樹木に手を伸ばし、静かにその場を巡る。松縄の眼差しは庭を対象化する。環境と同化する遠藤やいはらの身体に対し、あくまで見る主体として現れた松縄は、ゆっくりと揺蕩いながら手数少なくソロを舞う。3人で地面の石を手に取り、中央の小山に向けて放ったり、足元の石を寄せながら轍を作ったりするくだりは、風景の変化や物質の風化、その形跡についての言及だろうか。遠藤と松縄のデュエットは、庭と親密な身体と、それらを対象化する身体によるダンスであり、自然に属する身体と人間の身体、見られる側と見る側、男性と女性のダンスでもある。異質なもの同士、位相を異にする主体どうしが時を縒り合わせながら、過ぎてゆく時間そのものを踊るようなデュエット。分節されない身体、刻まれることのない時間の中で、ただ互いのありようを触れ合わせているかのようなダンス。二人は重ねた腕を体の前方へ伸ばすが、さらにその腕の先を庭の境界の外へと向け、身体の実寸の限界を超えて、その先の何かへ届かせようとする。かりそめのダンスの行く先を問うているようでもある。やがて緊張は解かれ、それぞれの身体は、その場に崩れ、地面に同化してゆく。踊り続けていたいはらは動きを止め、記憶の中に固定される。人も自然も風景に取り込まれ、その風景もまた風化への予感を残して、パフォーマンスは終わる。
公演は昼と夜、時間帯を変えて行われたが、自然光のもとでの昼の上演がとくに素晴らしかった。午後の光と澄んだ空気、庭の土、石、樹木、それらの感触がガラス越しにも体感され、わずかな陽射しの傾きでパフォーマンス中の時間の経過を知る。庭を歩くダンサーの目に一瞬、陽の光が斜めに入り、眼球を透き通らせて見せたのが美しかった。
庭を巡る本作の着想は、東日本大震災の被災地を訪れた体験に基づくという。風景の喪失と、かつてそこにあったものの気配。圧倒的な不在の痕跡。風景はそれを形作った営みの去った後も、風景であり続けるのか。人はそこに何を見ているのだろう。この強烈に刻まれた不在と喪失の感覚を、山本たちは、神戸市長田区の、自らのダンスの根付く日常にパラフレーズしたのだ。見上げれば高層マンションも視界に入る、塀に囲まれた小さな民家の庭。かつて住んだ人が縁側から眺めたであろうはずの景色に、ダンサーたちは息を吹き込む。庭はここでは視線の対象たるパフォーマティブな仮象の別称だが、では視線の主体が失われたとき、庭はどこへゆくのか。そしてダンスは?と山本は問う。劇場でそれを欲する眼差しから解かれたとき、そのパフォーマティブな対象はそれでもダンスであり続けるだろうか。「家の無い庭」とは浮遊する仮象を巡る考察だ。かつてそこにあったものの痕跡と記憶が、視線と認識の制度への批判を含みながら、ダンスという仮象のゆくえを探している。
出演:ヲミトルカイ(いはらみく、遠藤僚之介、松縄春香、山本和馬)
舞台監督:米澤百奈
協力:ArtTheater dB KOBE