2024年9月20日金曜日

貞松・浜田バレエ団 創作リサイタル36

 

2024年915日(日)

貞松・浜田バレエ団 創作リサイタル36                   @神戸文化ホール


貞松・浜田バレエ団恒例の現代の振付家の作品に取り組む、毎年楽しみな創作リサイタル。今年は以下のトリプル・ビルだった。

 

1演目め、バランシン「ワルプルギスの夜」。聞き馴染みのある音楽と踊りの幸福な関係を味わう。赤紫色のトーンで衣装をそろえた女性ダンサーたちがシンメトリーな群舞の構図を作り秩序ある空間を形成、クラシック音楽との調和による真善美の天上世界が描き出される。バランシンの他の作品にも見られることだが、ここに一人の男性ダンサーが現れることで秩序と安定の構図に変化が起きる。たった一人の異性の登場が澄んだ水に一滴のインクが垂らされたような違和を生み、男女の(異なるジェンダー間の)パドドゥなど、踊りに変化と展開がもたらされる。5列目の平土間席で見たため心配だったが前方にお子様が多く視界は良好(失礼)、バレエのリアルな身体を至近距離で鑑賞した。昨日のデジタル神社の御利益か?

 

2演目め、カィエターノ・ソト『Malasangre』。「悪い血」を意味するタイトルの作品は、往年の女性歌手ラ・ルーペの陰も陽もある濃密な人生に因んでいる。ラテン・ミュージックがアタックで続々とかかる中、腰を落とした構えを基本にキレ、トメ、ハネをたっぷり効かせたエネルギッシュで都会的な振付が手数も多く繰り出される。ダンサーたちはバレエとは異なる動きのロジックを身体の芯で咀嚼し吐き出して旺盛に踊り、ノリの良さが伝わってくる。舞台のソデを上手から下手へ、下手から上手へと横方向に流れる移動の中でデュオ、トリオ、カルテット、あるいは全員が一列になっての動きなど、全体の構成はシンプル。手前と奥で水平の動線が重なるなどの工夫はあるが、そのほかの凝ったフォーメーションは用いない。結果、個々のダンサーのスキルとグルーブが前面に出る。ラテンの楽曲はすべてラ・ルーペ自身が歌っていると思われ、遠い昔に聞き覚えのあるポピュラーな楽曲も含まれている。独特の”はすっぱ”な歌声に波乱にとんだ人生の陰影が滲んでいる。床を覆う黒いちぎった紙片がステップのたびに舞い上がるほかは、舞台装置はなく、黒一色の背景とコントラストの強い照明のみ。衣装も男女とも黒。コテコテの世界観にダークな味わいが滲み、土の香りがする一方で、振付はマチュアで、もの凄く洗練された印象がある。成熟した大人の作品だ。

 

3演目め、アレクサンダー・エクマン『CACTI』。日本初演の本作、今年のパリ・パラリンピックのオープニングセレモニーの演出を担当して注目のエクマン作品とあって、東京からもたくさんの人が見に来ていた。16名のダンサーは彫刻か観葉植物のようなオブジェに見立てられており(タイトル「CACTI」はサボテンの意味)、各人が畳一枚分ほどの台座の上で静止している。冒頭では弦楽器の生音がノイジーな長音を引き伸ばしているが、弦楽四重奏で音楽を奏で始めた途端、オブジェだったダンサー達に一斉に動きが生まれ、ぞくぞくするようなスリリングなパフォーマンスが開始した。台座の上であれこれの動きやポーズを作るダンサーたち。弦楽四重奏の4人も演奏しながらパフォーマンスに加わる。やがて台座をバリケードのように立てたり、全員の台座を建造物のように組み上げたり、大胆な演出により舞台の景色が大きく変化していく。このほかにもダンスの発想を超えたシーンが次々と繰り出され、寸劇調のシーンが入るなど遊び心満載。また意外にも、といっては語弊があるが、音楽との関係にこだわりが見える。共演の弦楽生演奏のほかにも多彩な音楽が用いられ、ダンサーたちが交響曲を指揮する身振りをするなど、背景としての音楽というだけの位置づけではない、パフォーマンスとの直接的な関わり方が独特だ。造形性、演劇性、音楽性を想像力豊かに駆使するユニークな才能に出会った。実にプレイフルな舞台だった。

2024年8月30日金曜日

フランソワ・シェニョー & 麿赤児 『秘儀-GOLD SHOWER』

 

825日(日)

Kobe Rokko Meets Art × Artist in Residence KOBE 

フランソワ・シェニョー & 麿赤児 『秘儀-GOLD SHOWER

    2024年8月25日    @六甲の浮橋とテラス、新池(トレイルエリア)

 

構想・出演 フランソワ・シェニョー 麿赤児

音楽・出演 スティーヴ エトウ 井原季子

セノグラフィー 川俣正

≪六甲の浮橋とテラス――エクステンドブリッジ アンド テラス≫

キュレーター 森山未來 Artist in Residence Kobe(AiRK)

 

 

 

「神戸六甲ミーツ・アート2024 beyond」のオープニングパフォーマンスとして企画された公演。日本では2021年に世田谷パブリックシアターとびわ湖ホールで上演され大いに話題となった舞台作品『ゴールドシャワー』を、まったく異なる環境で再演しようというもので、タイトルも『秘儀―GOLD SHOWER』とあらためている。舞踏の創始者・土方巽に師事し、70年代から日本の舞台芸術を率いてきた大御所、麿赤児は黄色い髪を逆立てた異能の神として舞台に君臨する。対するダンス界の寵児フランソワ・シェニョーは輝くような肢体を晒し、性差を超えたクイアな身体像で観る者を魅了する。ゴールドシャワーとは放尿の隠語であり男性同士の性愛の交わりを意味する。オリジナルの舞台では水浴シーンなどもあり、二人は強烈な個性と存在感をまといながら、どこか滑稽味を帯びた乱交を繰り広げた。破天荒さでは前回の舞台が勝っているが、今回は神話的、幻想的な美しさ、二人の交誼の甘美さが一段と極まる舞台となった。

 

 

自然の池を舞台にしたサイトスペシフィックな上演に立ち会うことは特別な体験だ。現地にたどり着くには六甲ケーブルで急峻な山肌を登り、さらにバスを乗り継いでいかねばならない。猛暑に喘ぐ下界をよそに涼やかな大気のただよう六甲の山上に、木立に囲まれ、蓮の葉の浮かぶ池がある。このロケーションがすでに神秘的、特権的である。池には水上舞台が大小二つ。美術家の川俣正による制作物「六甲の浮橋とテラス」で、昨年作られた大(メイン)のテラスに加え、今年は小(サブ)が追って作られ、二つをつなぐ水面下の通路も設けられた、神話世界を思わせる幻想的なシチュエーションだ。岸からテラス(水上舞台)に渡る橋は花道となり、二人はここを通って登場する。メインのテラスには床を突き破って伸びる一本の樹木、背後には屏風。二人のミュージシャン、鳳笙奏者の井原季子と打楽器生活45年のスティーヴ エトウが演奏するのもこのメインのテラス上である。日没せまる時間帯、やがて夕闇が訪れて照明が入り、水面にテラスが逆さに映る光景は天上世界の再現と言っていい美しさだ。

 

 

舞踏とバレエ、東洋と西洋、異なる身体技法と文化的背景をもつ麿とシェニョーは、その身体像も対照的だ。天狗の面を着けて舞い踊る麿は男性原理を象徴し、美貌や華やかさ、しなやかさなど女神のそれとされる特性を帯びたシェニョーとコントラストをなす。二つの原理が引き合い、結び合う関係がエロスの体技によって惜しみなく展開されていく。麿は天狗の面を表裏逆さにして突き出た鼻を口にくわえており、男性同士の交わりを一種の転覆として暗示したとも読めるし、文字通り「面と向かう」ことで、自身の欲望と向き合う姿を示したとも言える。

 


力と能動を象徴する麿の身体像は、髪を逆立て、隈取りをした歌舞伎の異端、異形の身体にも通じる。対するシェニョーは神話世界の美と調和を体現したかのよう。伏した姿勢で上半身を起こし、夢の中の舟のようにしずしずと水中の橋を這いすすむ幻想的な光景には、思わず目を奪われた。水面から出たまあるい尻、大腿部のなだらかな傾斜。両性具有というより、性差を超越したあらたな身体イメージが観る者に眼の喜びとして提供される。


 

シェニョーはテクニックに裏打ちされたダンスにおいても高いクオリティを誇った。パーカッションの繰り出すリズムとともに身体各部位の筋肉を波立たせ、自由なスタイルの中に細やかな足遣いを見せる。全身をのけ反らせ、長い手足で天地を繋ぎ、フォルムからフォルム、形から形へとこだわりを見せながら、形に留まることなく音楽の流れにのっていく。オリンピアの勇者を誇るかと思えば、伏せた眼の瞬きひとつひとつに可憐な表情を宿し、どの瞬間も自身を解放して、技と身体と感覚のすべてを余すところなく舞台に捧げる。

 

 

花道に置かれたBOXはタブーを解禁する魔法の箱だろうか、ここに籠った二人は、化粧、接吻、衣装替え、シェニョーを紐で繋いで麿が操るなどのプレイを繰り出す。花道の上では愛の行為の極みとして交合の動作におよぶ。さらにシェニョーが麿の背におぶさり、舐めあい、水上の二つのテラスを舞台に、底知れぬ愛欲に身を投じる行為が続く。

 


二人の愛戯、性戯は倒錯というより、欲望にまっすぐ忠実で、罪よりも祝福であり、そのエロスと神々しさはほかならぬ愛欲の神々、神話の主人公たちにのみ成せるもの。権力や支配欲を排し、ただ対等に追求される快楽の遊戯であり、切実で、滑稽で、清々しくさえある。笙の音は夜の水面と呼応して玄妙な空気を醸し、大きなドラのようなパーカッションが極小の音から始まる長いシークエンスを奏でると、パフォーマンスは熱量を上げていく。

 

 

そんな中、シェニョーが歌う場面がある。フランスの古い世俗の歌謡だろうか。古来の物語や伝説を思わせるシェニョーの、西洋の美学と歴史の深い襞に裏打ちされた、懐かしさと気高さを湛えた無二の身体。間違いなく当代随一のキャラクターを備えたパフォーマーである。彼の、いや彼女の、いや、あらたな三人称指示語で示されるべきシェニョーの――身体像に対峙し得るのは世界広しといえど舞踏のカリスマ、麿赤児をおいて他にないということかもしれない。麿が応じて「ねんねこしゃんしゃりませ」と歌ったのにはやや興ざめではあったのだけれど。

 

 

愛欲を追い求める者たちの最大の願いは恍惚の中で死を迎えることである。麿の手により果てるシェニョー、その手で自らをも殺める麿。この結末によって、パフォーマンスは「物語」仕立ての作品として幕を閉じる。一夜の夢というにはあまりにゴージャスな夢からしばらく覚めぬまま、バスとケーブルを乗り継いで六甲の山を下りた。

 

2024年7月8日月曜日

『彫刻刀が刻む戦後日本――2つの民衆版画運動』展

 

72日(土)

「彫刻刀が刻む戦後日本 ― 2つの民衆版画運動」展 

―工場で、田んぼで、教室で、みんな、かつては版画家だった

                                                                                    @町田市立国際版画美術館

 


1章        中国木刻のインパクト 1947

2章        戦後版画運動 時代に即応する美術 1949

3章        教育版画運動と「生活版画」 1951

4章        ローカルへ グローバルへ 版画がつなぐネットワーク

5章        ライフワークと表現の追求

6章        教育版画運動の広がり 1950年代~90年代

 

 

社会運動と結びついた版画制作が運動として存在したことを知らなかった。各地に広がりアマチュアも参加したという。美術史で語られてこなかった「民衆のための美術」に光を当てる。あまりに興味深く、会期末に滑り込んだ。

 

農村、炭鉱、工場、都市、労働争議、血のメーデー事件、第五福竜丸事件などを題材とし、農民運動、労働運動、平和運動などの現場を活写。「民衆」という語に実体があった50年代、労働や生活が記号に媒介されず直接性を帯びていた時代の強いコントラストが画面に刻み付けられている。

 

小学校の図工の時間に木版を彫りバレンで刷った記憶があるが、あれも「教育版画運動」の一環だったのだろうか。彫刻刀で彫り込む丹念な作業は自分をみつめることにつながるように思う。市井の実践者たちも生活や社会を見つめ連帯をはぐくんだのだろう。組織としての運動が休止して以降の時代の項では、画面の緊張は緩み、絵画的になる。

 

版画を見ながらダンスのことを考えた。木版を彫り時間を刻む運動は、振りを重ねるダンスのストロークに通じている。彫刻Sculptureとダンスが似ていると思うことはあったが(ボリューム、素材/物質、空間性、フォルム)、振付と動きに注目すれば、例えば一昨日の鈴木ユキオ。先に「深々と」とつぶやいてしまったが、一振り一振りの連なりは深さというよりむしろ「面」を生んでいく。表面の彫琢である。そして版画が生むのはやはり平面と、構図と陰影、ではなかろうか。(カタログ完売につき個人の意見)

 

はるばる町田市立国際版画美術館まで出かけたわけだが、正史に書かれてこなかった民衆版画運動を紐解けば、その起こりは神戸に住む華僑の人々であると、なんと足元の中華街にルーツがあったことを知る。出品作の中には画面中の建物に「長田区役所」と描かれたものも、また阪神教育闘争との関わりを示すテキスト(キャプション表示だったか)もあった。神戸との縁は深いのだ。そして政治的であり社会運動であり闘争としての美術運動であること。この民衆版画運動の存在は、プロではない人々によって踊られる今日のダンスのもう一つの実践に大きな勇気を与えてくれるものとは言えないか。批評があまり対象としてこなかったところの、障害のある人や高齢者、子供、路上生活者など、社会の周縁に位置するとされる人々をその担い手とし、広く市民の参加をみる、今日も地域で実践されているコミュニティダンス。それこそが、もう一つの舞踊史をつくっているのだと。

 

2024年5月15日水曜日

アンサンブル・ゾネ『Fleeting Light ~つかの間の光~

 

<蔵出しレビュー>

気迫あふれるムーブメントに清新な空気  中村恩恵とのコラボレーションも興味深く


アンサンブル・ゾネ 『Fleeting Light ~つかの間の光~』

2010年227日   @神戸アートビレッジセンター


 

アンサンブル・ゾネの新作公演は全体に清新な空気が通されている印象がある。白いリノリウムを張った床、布で覆った壁、上方から射すライティングで硬質な空間が作り出され、岡本早未が腕を大きく使って空間を切り開くように現れる。上下とも白いシンプルな服でジェンダーの色を消し去り清々しい岡本は、最終場面でもソロをとり、今作の語り部であり先導者のような存在。続いてダンサーが現れ、それぞれの気迫あふれるムーブメントが白い空間を開拓していく。照明の効果で白い床に踊るダンサーの影が落ちる。光と動きと身体の重なりが甘さのない峻烈な空間を創出して秀逸である。

今公演は孤高とも思われたアンサンブル・ゾネの世界が、時代を生きる表現にほかならないことを示す内容だった。様々な形で重ねてきた音楽との即興セッションは、身体を常に動的に保ち、作品にも鋭敏で活き活きとした感覚を与えている。今回の共演者はウィーン在住の音楽家、内橋和久。加工した音源をライブで合わせ、直接対決ではなく環境に働きかけるタイプである。内橋の弾くギターと伊藤愛のソロによるシーンは、即興的な精彩に富み、それぞれの生身の音と身体によってこの場が生きられたと感じられた。

音楽との適度な距離感を得て、岡登志子の高い構築性をもった振付の魅力も存分に発揮されている。垣尾優がピタリと静止の利いた結晶のようなフォルムを決めていく。一方数回に渡る公演で岡本、山岡美穂、井筒麻也、糸瀬公二ら若手のメンバーが固定してきており、それぞれがカンパニーの語法を自身のものとして獲得し、集団に共通の基盤となっているように見受けられた。おそらくこのために、ストイックにも見える構成や純度の高いフォルムについても、ひたすら厳密に抽出したというより、むしろ個々の内発的な動きをカンパニーの作業を通してコミュニカティヴなものに練り上げ、共有可能な形に結実させているのだと納得されてくる。定番の群舞ユニゾンはこうした過程が文字どおり実践される場面と見てよいだろう。

さて、カンパニーの言語基盤が確かになったことで、ゲストダンサーに中村恩恵を迎えた意義はより明確になったと言えるかも知れない。周知の通り中村はネザーランド・ダンス・シアターに在籍した後、現在は日本を拠点に世界各地でキリアン作品のコーチにあたっている。キリアンの舞踊芸術について中村は、クラシック、グラハム、カニングハムといったダンスの主要なメソッドを習得した身体を前提としながら、作品においては暗部をもふくめた人間性の全体を捉えようとするものだと述べる。岡登志子はピナ・バウシュを輩出したフォルクヴァング芸術大学舞踊学科の出身、ドイツ表現主義の流れを汲んだ創作法を学んでいる。ドイツの系譜にある舞踊家との仕事は初めてという中村は、内発性を重視した岡の動きの起こし方を新鮮に受け止めたという。今回は全くダンサーとしての参加だが、上体の高い位置に意識の中心を設け、腕へ、下肢へと身体を合理的に配置していく構えは、舞台の上で他のダンサーとの相違を際立たせている。その内在した論理が、身体の奥底から掘り出してくるような岡の振付に、明晰でしなやかな解釈をもって応えていく。両者のデュオは腕のさりげないモチーフをユニゾンで踊るもので、独立した二つのモノローグとなっていた。ゾネの動きによる実存の探求と、中村の身体の論理性、それぞれのアプローチが人間性を巡って出会い、試行を重ねていくと、非常に興味深いコラボレーションが実現するのではと思われる。


(初出:音楽舞踊新聞)

2024年4月14日日曜日

立てないことを巡って

<蔵出しレビュー> 

金魚(鈴木ユキオ) 『言葉の先 The Point of Words』

2009年2月18日                    @アトリエ劇研



年明けから3月までのコンテンポラリーダンス公演のシーズンに、鈴木ユキオは4種類の公演のために関西に来て踊った。自身のカンパニー「金魚(鈴木ユキオ)」の自主公演の京都ツアー(2月18,19日)のほか、白井剛演出「blue Lion」へダンサーとして参加(2月13~15日)、「踊りに行くぜ!!」スペシャル公演においてバイオリン奏者とのデュオ作品「Love vibration」を上演2月21,22日)、日米振付家交換レジデンシープロジェクト参加(3月22日)と立て続けの登場である。首都圏を基盤にするアーティストにとってのアウェーで、ワークインプログレスやラフ・スケッチ的なアトリエ公演ではないそれぞれの完成形を披露したことになり、見る側には作品ごとの成功・不成功を云々する以上に、気鋭の踊り手の現在ある位置を広い角度から見極めることのできる絶好の機会だったと言える。トヨタコレオグラフィーアワードの最新の受賞者として鈴木ユキオへの期待は大きいはずだ。伸ばした髪、無駄をそぎ落とした肉体は禁欲的な求道者を思わせ「土方の再来」などと言わしめたりする一方、クールでストイックな風貌は新たなスターを求めて止まないマーケットの欲望にも合致しよう。そのような業界的事情はさておいても、現在のところ極めて刺激的で画期的なダンスであることに異論はない。舞踏に出自をもちコンテンポラリーダンスにエントリーされる彼の踊りは、同じく舞踏出身の伊藤キムが舞踏とコンテンポラリーの「融合」において貢献したのとは異なり、二つの領域の境界を限りなく接近させながらなお峻別するギリギリの縁を進むものだ。舞踏の理念から出発し、本質へと腑分けしていく鈴木の踊り手としての道筋は、見る者に対してもダンスの理論と実際の舞台とをつなぐ刺激的な思考を促すものである。


理念からの出発とは、室伏鴻と若手3人で組んだユニットKo&Edge Co.、とりわけ2006年大阪で上演された「DEAD 1+」を念頭に置いて述べている。銀色に塗り込められ、地面にまっ逆さまに突き立てられた3つの身体が衝撃を与えた舞台である。ユニットのひとりであった鈴木ユキオは他の2名とともに、神々しさと如何わしさのあい混じった身体となり、封じ込められたファロスのイメージと幾度となく繰り返される「倒れ」によって、運動の不可能性を律儀なまでに具現化した。これは立てないことを巡る考察でもあった。


およそ舞踊とは立つことを巡る技術と思考のうえに成り立っている。「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」との土方巽の言葉はあまりに多くを内包し、我々を惑わせ、惹きつける。立ちつつ崩れる、と言ったのは室伏鴻である(*1)。立つ、ということのなかに、立てない、は含まれ、今あるこの姿勢の内にも、立つ、は含まれている。身体を走る幾つものベクトル、せめぎあい、おそるべき可能性がひとつの身体に内包されている。硬直した倒れ、崩壊、四つん這いのケモノ、いずれもイメージの模りなのではなく、そうであり得るかもしれない身体の、異なる様態、無数の相の、いま、そこでの現前と見るべきなのではないのか。


「言葉の先」より一作品前にあたる「沈黙とはかりあえるほどに」を携えて京都に来たのは2007年9月である(京都芸術センター)。「DEAD 1+」のスタティックな佇まいから一転し、ひりひりと剥き出しの危機に晒された舞台の驚きは今も鮮明だ。足元が床に着地するそばから次々とおびやかされ、自らを追い立てる緊迫の舞台である。直立し安定しているその状態はまやかしだとでもいうように、自身の身体の外へと激しく引きちぎられ、放り出され、立つことの自明性がことごとく覆されていったのだった。


いっぽう「言葉の先」に顕著であるのは、動きの中途に差し挟まれる中断である。「沈黙とはかりあえるほどに」のすべてを投げ出すような苛烈さは沈静している代わりに、動きを堰き止め、つんのめるようなカウンターを喰らわせる。立つことの自明性への問い質しは、より微分され突き詰められた巧妙な方法で遂行される。振り上げようとした肘が鋭角に曲げられたまま中途でバウンドして行き場を失う。その先に予測された軌跡は去勢される。中断とは、疑うことだ。身体の道理、自然な気の流れ、当然の物理の法則に導かれるムーブメントの自明さに疑義を差し挟むのである。さしてみれば、鈴木ユキオの引き継いでいるものが理論に還元できない自然の摂理に即した身体、ましてや民族性や土俗や前近代に根ざした所与の歴史としての身体といった舞踏の思想的な価値ではなく、ひたすらアンチテーゼとしての、異議申し立てとしての、つまりはモダニズムの地平に現れる批評の運動としての舞踏であると理解されないだろうか。コンテンポラリーダンスとの接点を見出すとすれば、そのスタイリッシュな舞台の相貌に拠るというよりも、彼の中にあるモダニズムの理論に即したラディカルとも言える方向性が、既存のダンスの否定や越境を所以とするコンテンポラリーダンスの批評性(いまだ有効であるかはともかく)に符合する点だろう。


それにしても舞踏とは何だろうか。西欧近代の合理主義に対する暴力、エロス、異端と暗黒の美学、肉体の起爆力、そして祝祭性、あるいは身体を自然と捉え、場との交感や共振をはかるエコロジー的思想など、さまざまな価値を孕んで鬱蒼とした森のごとくダンスに隣接している。強烈なアフォリズムが掻き立てる特異なイメージは、かえって本質から我々を遠ざける。現在もっとも有効な視点を与えてくれるのは、舞踏の思想的な側面ではなく、身体と技術に関する理論からのアプローチであるように思われる。即ち、西欧近代の合理主義の体系というべきバレエが身体各部位の「統合」をはかる技術であるのに対し、舞踏の技術の核心は統合の解除であるとする見解である(*2)。重力に屈して崩れ、倒れる身体、あらゆる部位がそれぞればらばらに動いている舞踏に特有の身体の有り様とは、重力に抗して身体を立ち上げるバレエの技術の体系を対照項に置いた身体理論の批判的な実践とみることができる。これは「立つ」のなかに「立てない」が含まれるとして身体の倒れを提示する室伏鴻から、ブロンズ色のまっ逆さまの身体を経て、立つことの自明性をことごとく疑問に付さずにおかない鈴木ユキオまで、一貫して流れている批評性を理論的に裏付けるものだ。舞踏のアフォリズムと身体の理論をつなぎ、室伏を経由して鈴木ユキオの踊りに流れ込む線がここに見えて来るのではないだろうか。そして例えば伊藤キムが劇場で舞台と客席の構造をひっくり返したり、「階段主義」など劇場以外の場所で踊ったり、「裏キム」として夜のバーで妖しげなパフォーマンスをするなど、非日常の転覆力を自身の舞踏的価値としたことを想起すると、鈴木ユキオはあくまで身体と動きの構造の理論的な枠組みの内部にとどまり、ダンスが成立する/しないの際(きわ)=エッジをラディカルに追究する舞踏家であることが理解されてくるだろう。言葉の先とは、ダンスの表現形式を越えていく運動の中心のことでもあるだろう。


作品について言えば、ロック中心の選曲はケレン味たっぷりに聴かせるし、途中には蛇腹のホースとの絡みもあり、変化に富んだ身体の様相を引き出す演出は適切だ。とりわけ床をスクエアに照らし出した空間でのシーンが素晴らしく、光を受ける身体の感覚に伴い内省を深めてゆく鈴木の踊りは印象深い。共演者は3人。激しくストイックなトーンを彼らも同様にまとっている。しかしやはり本作品までについては、鈴木ユキオのダンスに議論の的は絞られると思う。


短期間に繰り返し彼の踊りを見てきて、独自の方法である「中断」が語彙として定着し、頻繁に使用され、馴染んでいる様子もまた同時に見とめられた。馴染んだ動きは踊る身体を自在にするが、その都度の批評の矢はやがて磨耗する。その少し手前に、現在の鈴木ユキオはいるようだ。「身体については、やり尽くしたと思っている。次に取り組むべきは空間だと思う。」今シーズン京都での最後のショーイングで、「言葉の先」の一部を踊った後に、鈴木は自らこう述べている(*3)。いずれクリシェと化していく前に、鈴木ユキオは次へ行こうとしている。 

(2月18,19日 アトリエ劇研)



*1 2007年3月9日「ジュネへ応答する8日間」ワークショップセッションにて

*2 稲田奈緒美「土方巽 絶後の身体」

*3 2009年3月22日、日米振付家交換レジデンシー・プロジェクトにおけるシンポジウムにて









2024年4月13日土曜日

KOBEリパブリックより 『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』



<蔵出しレポート>

神戸リパブリック KOBE Re:Public Art Project(KORPA)より 

2023年2月24日~26日            @神戸市内の喫茶店


作・演出 岡田利規

出演 片桐はいり



日本の現代演劇のホープ、岡田利規による本作は「喫茶店演劇」として知られ、これまでに大分、東京、横浜で上演されてきた。このたび神戸では4か所の喫茶店が会場に選ばれ、計5回の上演が行われた。そのうち以下の3公演を見ることが出来た。いずれも由緒ある元町中華街や元町商店街に位置し、この町のハイカラ文化を支えてきた昭和の香り高い老舗である; 

2月24日 喫茶しゅみ

2月25日 元町サントス

2月26日 アルファ本店


喫茶店演劇の出演者は一人。会場は実際に営業中の喫茶店の店内。観客は店の外からガラス越しに鑑賞する。神戸公演で配役されたのは俳優の片桐はいりだ。著名度の高さゆえだろう、各回とも店の前に黒山の人だかりができる人気ぶりだが、何が起こっているのか知らぬままに人が人を呼び群衆が生まれた側面もある。人は人が集まっている場所にこそ集まるわけだが、コロナ禍で集合と接触が徹底して避けられた時期を思うと、この光景のコントラストは強烈に映る。


一人芝居である本作では、窓際の席に案内された喫茶店の客が一杯のコーヒーを前に途方もない想像を繰り広げる。俳優の一人語りはスピーカーによって店の外に届けられる。店外にはモニターも設置されていて、テーブルを頭上から撮影するカメラが俳優の手元を映し出す。


「世界は、はじめ液体だった。」で始まる演劇は天地創造の壮大な物語。暗黒の液体を示すのが他でもない手元のコーヒーだ。片桐はいりはクリームを入れてスプーンでかき混ぜ、宇宙のはじまりの渦を作る。「やがて光が生まれた」「時間が生まれた」と繰り出される哲学的な語りは、片桐のリアリズムを超越した演技を得て、妙に説得力のあるドラマとなる。大勢の観客はスピーカーから届く物語に聞き入っている。俳優は語りと同時にシュガーポット、紙ナプキン、タバスコ、粉チーズなど、昔ながらの喫茶店ならもれなく卓上に置かれているアイテムを次々に手に取り、それらを配置し、宇宙の創生を「再現」していく。コーヒーの黒い液体や粉チーズやタバスコをまき散らしたテーブル上はあたかも抽象画のキャンバスとなり、これを頭上から捉えた映像がモニターに映し出される。外にいる観客はガラス越しの俳優の姿とモニターの「絵」を交互に眺めるが、実際にはそのどちらも視界に納めることのできなかった多くの人々がいたようだ。それでも群衆の数は増えこそすれ減ることはない。人が人を一目見たいと欲する思いはかくも強烈だ。演劇とは人の身体を見たい欲望を正当化するための手の込んだ遊戯ではないのか――このような考えが巡るのも、これが劇場ではなく、演劇とはゆかりのない場所での、通りがかりの人々を巻き込んでのイレギュラーな上演であったからに他ならない。


さて物語はといえば、語り手は世界に最初に現れた一族の末裔の最後の一人であり、現在の世界を統治する新興の一族の支配を不当と感じている。そして歴史の彼方に忘れ去られようとする自らの一族の尊厳を掛けて反撃の機会を窺っている。かように陰謀論めいた話ではあるが、俳優の語りを最初から聞いてきた者たちには、それが荒唐無稽な妄想どころか、彼女にこそ理があると思えてしまう。商店街のとある喫茶店で一杯のコーヒーを嗜むごく普通の日本人の脳内に、このような陰謀論が巡っているというシチュエーション。それを聞く者たちもやすやすと「真実」として受け取ってしまう危ない状況。俳優の姿を十分に見られない渇望こそが陰謀論への加担を促している。誠に不穏な、政治的な演劇である。本作は2015年の作だが、2023年現在の政治状況に見事なまでに合致した展開に唸らされるばかりだ。


見事な怪演ぶりを発揮した片桐はいりは、何かを床に落とす粗相をしたり、「すいません、ちょっとナプキンを」と店の人に恐縮しながら頼んだりと、演技の合間に「素(す)」の自分を晒す時があり、アクシデントとはいえ日常と演技の落差を見せて、これもまた演劇なるものの原理を思わせる瞬間だった。語りを終え、会計を済ませてドアから出てきた片桐は、大勢の観客に観劇の礼を述べて去って行った。その姿は現代を生きるごく普通の日本人女性と変わらない。


やがて人だかりは解けて町はいつもの賑わいに戻るが、商店街を行く人々の脳内には、他人には想像もつかない思想や妄想や奇妙な信仰や不穏な感情が渦巻いているのかもしれない。喫茶店演劇を見た人は、人の集まりである「町」や「社会」を支えていた所与の信頼が根底から揺さぶられる思いを抱いたことだろう。




KOBEリパブリックより 『TOUCHーふれるー』

<蔵出しレポート>

神戸リパブリック KOBE Re:Public Art Project(KORPA) より


2023年2月22日から3月19日まで開催された「KOBE Re:Public Art Project」(KORPA)は神戸市が観光誘客事業として主催したアートプロジェクトである。「パブリックアートをつくらずとも、パブリックにアートはすでにある」のスローガンが語るのは、新たに作っては廃棄する大型イベントの踏襲ではなく、地域に埋もれたものの価値を循環させる、ポストコロナの時代の経済や社会のあり方だ。キュレーターを務めた森山未來のしなやかな知性と出身地神戸への愛着が、新たな時代に即し地域に密着した様々な企画に反映していた。アーティストによるリサーチ、作品展示、交流イベント、AR体験など多彩なプログラムの中から、ここでは3つのパフォーマンス公演について報告する。ダンス、演劇、大道芸と形態は異なるものの、テーマである「神戸の街の再発見」をそれぞれのアプローチで活かしていた点が興味深い。地域アートのプロジェクトの例が多数ある中、パフォーミングアーツをプログラムすることで人々の交流や臨場感、参加の満足度を担保し、「物理的なアートに固執しない、新しい概念のパブリックアートの創出」に適う事例となったことにも注目したい。



『TOUCHーふれるー』

2023年2月24日            @旧住友倉庫、神戸


振付・演出・出演:三東瑠璃 大植真太郎、nouseskou

音楽:内田輝



コンテンポラリーダンスのアーティストによるダンスパフォーマンスが行われたのは新港町の旧住友倉庫。近代日本の貿易を支えてきた歴史的建造物で、大正15年に建てられたレトロスペクティブな雰囲気をもつ巨大倉庫である。内部は太く頑丈な角柱がグリッドに並ぶ広大な空間で、対比される人間の身体はいかにも小さく、通常のスケール感が麻痺する。その空間の魅力を引き出したのが本ダンス公演である。建物全体は幾つかの区画に分かれており、他のスペースでは本プロジェクトに参加中のアート作品の展示も行われていた。アートを見に来た人がふらりとパフォーマンスに立ち寄るといった緩やかな観覧が可能である。


作品『TOICHーふれる―』は2021年に振付家でダンサーの三東瑠璃が自身の主宰するカンパニー≪Co. Ruri Mito≫名義で立ち上げたプロジェクト。三東、大植真太郎、森山未來の顔ぶれでこれまで東京と横浜で上演している。今回、神戸では森山の出演はなく、nouseskou(山本晃)を加えた3名により上演された。初演時のテキストによれば「風」をメインテーマとし、「場所を限定せず移動し続け」、「留まらない、所有されないなど風の動きを読むような、風と共に動いていく作品」とある。そのたゆたうような、筋書のない行程に3人の気鋭のアーティストが臨んだ。


倉庫内には自然光が入らず、アクティングエリアには舞台照明家(三浦あさ子)の手によるライティングが施されている。ダンサーたちは照らし出された空間や照らされない一隅を自由に回遊する。観客はアクティングエリアの周囲を思いのままに歩きながら、列柱の間に姿を現わしたり、柱の影に消えたりするダンサーの動きを鑑賞する。ダンサーたちは緊張を保ちつつも急くことなく踊り、移動し、柱に身を寄せ、それぞれの居方、佇まいで途切れることのないパフォーマンスの時間を費やしている。時折エリアから退出して姿を見せなくなったと思うと、またいつの間にか戻ってきて、変わらぬ様子でパフォーマンスを継続する。巨大な空間の底をゆったりと行き来するその様子は深海に棲む生き物の生態を見るかのようである。


3人はそれぞれ個性をもったコンテンポラリーダンスのアーティストで、大植慎太郎はヨーロッパの名だたるバレエ団で活躍した経歴の持ち主、三東瑠璃はモダンダンスから出発し強烈な身体表象で見る人の度肝を抜く踊り手、nouseskou(山本晃)は京都のアンダーグラウンドのHIP HOPカルチャーがベースと、それぞれ異なる出自を持つ。三者とも自然素材のゆったりとしたデザインの衣装(YANTOR)を着ており、三東は赤、大植は麻色のベージュ、nouseskouは紺色の三色。堅牢な柱や天井のアーチを背景に三人が絡むと、象徴的なトリコロールがあいまって荘厳な宗教画を連想した。


パフォーマンスには3人の他に5人の黒子(金愛珠、秋田乃梨子、川崎萌々子、楠田東輝、小松菜々子)が登場する。白いシャツに黒いズボン姿で個性を消した彼女や彼らは、高さ2メートルを超えるパネルを移動させて壁や仕切りを作り、空間を可変的なものにしていく。一定の時間間隔で現れ、文脈を分断するかのように坦々と介入する彼や彼女らこそ、パフォーマンスの進行を振り付けていたのかもしれなかった。


もう一つ上演に加わった要素は内田輝による音楽である。ライブで演奏されるのは高音が艶やかなサキソフォーンと木製の鍵盤楽器のクラヴィコード。後者は大正琴やハープシコードに似た音色と鍵盤楽器ならではの華やかな響きが特徴的だ。音階が奏でられると音の飛沫が空間いっぱいに放出される極彩色のイメージでパフォーマンスを鮮やかに彩った。


さて、技術も舞踊言語も異なるダンサーの三人は興味深いことに、いずれも自らの得意とするテクニックの誇示や舞踊言語の使用を行わない。テクニックに依れば8時間の長大な時間をスペクタクルに脚色しつつ乗り切ることはできるはずだが、三人はそれを封印し、ただ風を受けるように空間に身体を馴染ませる。演技というより「棲息」に近い在りかたで時を過ごすのである。その試みは環境に感応する新たな身体の存在の様式を見出すことでもあった。それぞれの身体が時間の耐え方を模索し、互いの関係性の構築の仕方を探るのだ。三人は時に交差し、互いに触れたり絡まり合ったりリフトしたりと、身体による様々な関わりを生んでは解いていく。或いは接触を持たないにしても、空間のどこに相手が居るかを察知し、自身の配置を選択していくといった、偶発的で即興的、かつ配慮に満ちたパフォーマンス空間が現出していた。急くことなく、棲息のためのゆったりとしたテンポを保った8時間は、フィクションではない時間として、そこに居る・在る身体によって現実に生きられたのである。


技術や強度のアピール、丁々発止のやりとり、緩急、速度、ダイナミズム、スペクタクルへの志向は資本主義の発想に近しい。一方、この上演に現れていたのは柔らかさや緩さであり、パーソナルスペースの尊重、自然な流れや出来事を受け入れる態度、互いの存在や周囲への配慮である。コロナ禍を経て社会や経済がこれまでとは違ったフェーズに入りつつあると感じられる今日、パフォーマンスが体現したものは持続可能で環境に配慮した新たな社会の価値観に親しい。「風と共に動くような」生き方であり、人新世をキーワードとする本プロジェクト(KORPA)のコンセプトと深いところで響き合うパフォーマンスだったといえるだろう。


(この章、了)