2019年6月21日金曜日

社会的な身体のドキュメント ~村川拓也『瓦礫』劇評 再掲載


Dance Fanfare Kyoto 2013 参加作品

演劇 × ダンス


『瓦礫』

演出:村川拓也 

2013年7月7日(日)  @元・立誠小学校




  



何が人の身体を動かすかに興味があると言ったのはピナ・バウシュだが、「何」に相当するものをダンスでは多くの場合、「記憶」に求めてきたと言っていいのだろう。身体の内側に年月をかけて積み重なる記憶は、時に思わぬ距離から人の行動を方向付け、表現の源泉となる。ダンスを評して「からだの内側から出てくる動き」との言い方がしばしばされるが、動きをそのように結実させている記憶の存在を思うとき、たしかに人は深く納得するものである。この記憶というパーソナルな圏域で展開するダンス的思考に演劇的な想像性を引き入れると、身体はもう少し外からの視線で捉えられ、社会という中間領域が視界に入り始めるだろう。そこでは人の身体を動かす何かが新たに問い直されることになる。村川拓也・演出『瓦礫』は、こうした問いを誘発する作品であったと思う。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            



本作は関西で活動するダンサーらが自ら主催するフォーラム「Dance Fanfare Kyoto」において、「演劇×ダンス」と銘打った企画プログラムのひとつとして上演された。演劇の演出家とダンサーによる創作は、従来のようにジャンルの混合や越境自体を価値とするコラボレーションと異なり、ジャンルの壁をなくした更地で、身体を、また表現を、ゼロから思考しようとする。昨年の「We Dance Kyoto 2012」に続き、演劇人がダンサーを演出するという図式から、このように根本的な思考を促す作品が生まれたことに、とても刺激を受けた。



映像作家でもあり、これまでにいくつかの映画を作っている村川は、本作の舞台でドキュメンタリーの手法を用いている。3人の女性たちが舞台で演じているのは仕事の中のさまざまな身振りや動作、しかも開始後ほどなくして判ってくるのだが、これらはどうやら演技ではなく、実際に彼女らが従事している仕事の再現なのである。3人の出演者にはダンサーとしての表現は封じられている。代わりに仕事という現実の要請によって否応なく、必然的に遂行される動きというものが課されている。



じっと静止していた3人が不意にはじけるように動き出し、「おはようございまーす、おねがいしまーす」と、いまどきの女子に特有の歌うような抑揚で朝の挨拶を交わす。てきぱきと作業をこなす細やかな身振り手振りは、舞台に闊達なリズムを生んでいく。 飲食店のテーブルを整え、こまごまとした物のあれこれを所定の位置に並べている中間アヤカ。映画館で切符のもぎりや客の誘導、電話対応などにあたる野渕杏子。フィットネス体操のインストラクターだろうか、手本を示しながら生徒を教える倉田翠。それぞれの仕事ぶりは午前中の街の活気に通じ、彼女らが経済活動の一部に組み込まれていることが、ここでは喜ばしいものとして実感される。3人の動きは互いに交わらず、舞台を重層的に進んでゆく。その拡大した先に、社会という、より大枠のフィールドの存在を感じ取るのである。



一方で三人それぞれの動作や身振りは、実に詳細に再現される。見ている者は何ら作為のない労働の最中にある身体が、これほどに強い訴求力をもつことに驚かされることになる。中間アヤカがモノを運んだり持ち上げたり、スタスタと歩き回ったりする様子に作り事の余地は微塵もないが、ひとつひとつの身振りや動作は繊細で濃やかであり、あらゆる細部が見る者の視線を引きつける。野渕杏子では客との対話がリアルである。次回の上映は**時からです、ああそれはもう始まっていますよ、まだ来週もやっているので大丈夫ですよ、ええ、また是非お越し下さい、雨が降るから気をつけて。落ち着いた物腰と語り口、声の質感が、仕事の実際をありありと再現する。倉田翠の穏やかに語り掛けるテンション低めの口調も、現場に流れる特有の雰囲気を伝える。床上の低い位置でゆったりとストレッチの動きを続ける倉田は、舞台構成の中ではいわば通奏低音にあたる存在である。野渕は主に後景にいて、その語りと声の調子からして中音部を担う存在。そして繊細な手の動きと、何より作業の単純さの度合いにおいて、中間は本作の主旋律をなしていると言える。その無駄を排した動作の連なりは美しく、三者の動きの重なりには一種の詩学が宿っている。



忘れてならないのだが、中間、野渕、倉田の3人はダンサーであり、ここで従事している仕事はすべて副業、つまりバイトだ。生きるための労働であって、これを通しての自己実現は本来望むべくもない。彼女らが提供する労務に対しては賃金をもって報いられる。その限りにおいてダンサーとしてのアイデンティティは疎外されている。3人は自らの意思や欲求、感情や衝動によって自律的に動くのではなく、労務の必然に従って否応なく動作を導き出しているのであり、観客はそのように動くことを余儀なくされている身体を見ている。



ここで身体を動かすものは、たとえば経済活動の現場が求める「効率」という価値であるかも知れない。それは必ずしも強制を伴うものではないし、工業化の時代の労働者が置かれたような明快な搾取の構図のもとにあるわけでもない。彼女たちが置かれているのはグローバル化された資本主義社会におけるサービス産業の一端であり、給仕や接客といった末端にある労務である。3人には自らの状況を声高に訴え出るなどという様子はなく、むしろ淡々と、流れるように作業に従事している。だがその身体は、たしかに外にある価値により方向付けられ、その価値が要請してやまない作業を無駄なく効率的に遂行することを余儀なくされている。



効率の求めるところに従った3人の動きは、日々繰り返し、単純化され、習慣化されたルーティンワークである。ただ目的のために遂行される最小の動作の連なりだ。効率を外れた無駄な動きにこそグルーヴが生まれダンスが生まれると説くのは、コンテンポラリーダンスを支える身体観のひとつと言えるが、この快楽本位ともいえるコンテンポラリーな身体観に照らせば、効率に従ったルーティンワークの身体が美しいとは、逆説的というほかないだろう。グルーヴを価値の中心に置く快楽主義的なダンス観は、近代化の過程で要請された全体的で統制的な身体への批判として機能してきた。これはコンテンポラリーダンスの出現が、工業化社会を脱し、個々の身体が労働者から消費者のそれへと移行した時代に重なることと符牒する。規律訓練された従順な身体への批判としてのダンスする身体は、先般、風営法違反の過剰摘発に対する異議申し立ての論拠ともなった。「効率を外れたところにダンスがある」は今日現在も説得的である。その一方で、今、目の前の舞台で、効率に則った労働する身体を観客は美しいと感じ、強いリアリティを見出していることも確かである。それは今日の身体が置かれた現実が、コンテンポラリーダンスが出現した時代の楽観論と一線を画し、別のリアリティを抱え始めていることの示唆であるのだろうか。リーマン・ショック後の厳しい労働環境、広がる格差、深まる分断。ドキュメンタリーの手法は、個々の労働する身体をつぶさに捉えながら、その在り様を要請する状況へと、見る者の想像を促していく。舞台にあるのは、我々の身体が置かれた資本主義社会の断面であり、2013年現在のリアリティの在り処を示すドキュメントでもある。そこに私は現代の労働歌を聞く思いがする。



ところでバイト労働における3人の疎外のされ方というものは一様ではない。野渕杏子の場合、職場である映画館は台詞から察するにアート系のミニシアターであり、仕事を通じて多くの映像作品に触れることのできる環境にある。これはダンサーにとって必ずしも「生きるため」だけの労働とは言えないだろう。受付係として野渕が見せる気転、気配り、客へのウェルカムな対応には、彼女自身の仕事への自発性を見てよいのだろう。倉田翠に至っては、ストレッチ運動のインストラクターという仕事自体がダンサーの専門性を積極的に生かすものであり、この副業が倉田のダンサーとしてのアイデンティティを裏切るとは考えにくい。



野渕、倉田の二人に比して、飲食店ではたらく中間アヤカは労働によって最も疎外された存在である。中間がこの作品の主旋律であるとは、こうした意味からも言えることである。職場は定食屋のチェーン店らしく、中間層から下層にかけてのサラリーマンや労働者が訪れる店である。客の注文をとり、食事を運び、テーブルを片付けるといった、なんら付加価値のない単純作業に従事する中間。彼女の手さばきや身のこなしには、ルーティンワークならではの洗練と吹っ切れ感があり、また「原田さーん」と厨房の奥の同僚に呼びかける口調にも、どこか開き直ったような、微妙にぶっきらぼうな響きがある。そこに中間のかすかな抵抗を見ることも、或いは可能だろう。ただ中間がこのバイトに全く絶望しているかといえば、そうではない。  忙しさのピークを過ぎて遅い昼食をとる中間が、休憩を早く切り上げて仕事に戻る場面がある。「まだ食べ終わってないです」と主張しつつ、「でも、いいですよ」と上司か同僚かの要請に応じる中間には、業務のよりよい稼動に貢献しようとする意思があり、同時に静かに何かを堪えてもいる。この誠意と諦念との交じり合う場面は印象的だ。このとき他の二人も同時に休憩をとり、それぞれの職務から解かれ、束の間、自分に戻っている。置かれた状況は一様ではないながら、3人はそれぞれの位置を受け入れつつ、静かに尊厳を保っていると、私には思えた 。ここまで個別に進んできた3つの時間をここで同期させる演出は巧みであり、3人に寄せる共感と、あくまで引いた視点で現実を捉えようとする冷静な眼がある。



ダンサーたちの演技について村川自身は「ダンサーの中にある動きでも、(演出家である)私が与える動きでもない」ものと語っている。パーソナルな内的要因でも、絶対的な他者の力でもなく、中間領域にあって身体を外から動かし、若しくはそのように動くことを選択の余地なく方向付けているものは、確定できる人称を持った何者かというより、さまざまな主体が発する意思のベクトルが複合的に交差し作用し合う場、その営みの全体としての社会であり、当の身体の意思や欲望もここに組み込まれつつ、他の主体との関係性によって決定付けられる、そのような関係性そのもの、と本作で見てきた身体についてひとまずありていに結語することは出来るだろう。この社会というレベルにある身体に、労働という切り口を与えたところに村川独自の視点があり、パフォーマンスは具体的な相貌をもつことになる。(村川にはフェスティバル/トーキョー11公募プログラムに参加した『ツァイトゲーバー』という作品があり、身体障害者とその介助者の労働を取り上げている。この舞台を私は未見だが、選択肢の極めて限られた条件下で、そうせざるを得ない形で動きを導出される身体という点に、今作との共通項があるのだろう。)村川のドキュメンタリーという方法は、個々の具体的な労働の場面、つまり客への対応や上司、同僚との駆け引きといった現場レベルのアクションや身振りを照射しつつ、それらを包摂する産業社会、さらにその背後にある資本の存在をも浮き彫りにする。今日現在の身体が置かれた社会的、政治的状況の活写であり、社会的な身体の実相を映し出したドキュメントとなっている。



このドキュメンタリーの手法は、現実の身体の再現をダンサーに課す一方で、舞台演出の緻密さ、巧みさによっても特徴付けられ、現在を映し出すドキュメントが一編のパフォーマンス作品としての完成度を誇るに至っている。静止から動きに入る開始時や、3人の動きを同期させた場面のほか、3人それぞれの動きには時折ストップモーションが差し挟まれ、そのたびに見る者は小さく胸を突かれ、時間の異化を体感する。3人が黒い服を着ているのは、抽象化を施された身体であることを示すものだろう。こうしたフィクショナルな操作がこの舞台を社会的、政治的な状況への問題提起としてのみ読み取られることを回避させている。本稿冒頭でダンスの文脈から提示した動きの源泉についての根本的な問いは、この一元的ではない時間構造があってこそ問い得たといえる。



最後にどうしても触れなくてはならないのはタイトル『瓦礫』が示唆する震災後の風景である。作品中にあの震災と原発事故への直接の言及はない。だがこの舞台を今日現在の身体のドキュメントとして見たとき、全体をまとう控えめで抑制したトーンが強く印象に残るだろう。それにはこの現実を、拒絶するでも肯定するでもなく、糾弾でも積極的な関与でもなく、静かに見つめようとする表現者の態度が関わっていると思われる。「ダンサーの中にある動きでも、私が与える動きでもない」という村川の言葉には、アーティスティックに自らを表現することへの違和感が読み取れる。自律する身体の楽観論から遠く距離を置き、目の前で進みつつある事態をみつめ、思考するという生き方を、村川とダンサーたちは、余儀なくされるという形で選択しているように思われる。「いつもどおりでーす」とシフトに入る彼女たちの身体は、巻き戻すことの出来ない現実への諦観と静かな闘争を映し出している。



初出:Act24号



 




2019年6月15日土曜日

tuQmo  『道具とサーカス』

 


ART LEAP 2018

tuQmo ERIKA RELAX×池田精堂 

「道具とサーカス」 

3月13日(水)@神戸アートヴィレッジセンター



【蔵出しレビュー】


KAVCとアーティストが連携し、10か月の制作期間をおいて開催された展覧会。2018年から開始した30~40代のアーティストを対象とした「ART LEAP」という公募プログラムで、作家選定にあたっては公開プレゼンテーションが行われ、そこから選出されたのがパフォーマンスユニット「tuQmo」である。2018年度の審査にあたったのは美術評論家/詩人の建畠晢氏。


建畠氏の選定によるという点にも惹かれたが、今回の私のお目当ては期間中に何度か行われるポールダンサーERIKA RELAXによるパフォーマンスだった。ERIKA RELAXについては2017年1月に日置あつしがアトリエ劇研でおこなった公演に、ドラァグクイーンのフランソワ・アルデンテやダニエル・ジュゲムとともにゲスト出演していたのを見たことがある。ナイトクラブでのショーを主な活動の場とするアーティストたちの麗しく艶やかな出で立ち、見せ場の勘所を押さえたプロの芸能者の仕事ぶりに魅了されっぱなしだったのだが、その中にあってERIKAのポールダンスは、ショーの形式をとりながらも、一つの身体表現としての内的な追求があり、内容的にもピュアで詩的なイメージを伴うものだった。


「tuQmo」のもう一人、美術家の池田精道は、主に木や金属などの素材を用い、「もの」と「他者」の接点の在りようを考察する、と資料にある。今回、会場はKAVC内の3つの部屋を展示に使用しているが、パフォーマンスを行う地下のシアターには、部屋の中央に天井から木製のオブジェが吊り下げられている。三脚の丸椅子を横にしたような造形をモチーフにしたオブジェで、木肌を生かし、整い過ぎないラインを保ったそれは、作家の手による造形物であり、かつ用途をもったデザインの側面をもち、パフォーマンスのための装置でもある。観客席はなくオールスタンディング、壁際に立って鑑賞した。会場は暗く、オブジェの辺りにだけ暖かみのあるライティングが施されている。上演時間が来ると天井からERIKAの足が現れ、オブジェを伝い下りてきて、ポールダンスの技を生かした空中パフォーマンスが行われた。オブジェに身体の部位を掛け、からだの上下を逆さにしてポーズを作る。揺れるオブジェと一体化し、重力とのバランスをとる。途中で池田が現れ、オブジェを地上から引いて重量とのバランスを調節したようだった。会場が暗いのと、見る方向がよくなかったのか、このあたりの装置と操作のからくりをよく見極められなかったのだが。池田は吊り下げられたオブジェから木片の一部を引き抜き、部屋のもう一箇所に設置してある柱状のオブジェに差し込んでいった。柱のオブジェはこれによって一つの造形として完成するということのようだ。パフォーマンスは15分ほどで終了。


もう一つの小部屋にはモニターが一台置かれていて、木のオブジェとERIKAの絡み合う身体を至近距離で撮影した映像が映し出されている。呼吸が聞こえそうな近い位置で撮られた映像は、身体のどの部分を捉えているのか、どこからが身体でどこからがオブジェか、判別しがたい。身体と道具の境界が入り組み、自他の区分が曖昧になった状態から、身体とその拡張としての道具との関係を捉えようとするものに思われた。


 展示のメインと思われる一階の美術ギャラリーには、やはり木製の、シェルフが二種類。引出しを開けるとその中にも製作されたオブジェが入っていて、手をかたどったフィギュアと、それに握られる円筒のようなモノが引出しの開け閉めで揺れるように設計されていた。もう一方のシェルフでは、引出しを引くと声がする仕掛け。あとで資料を読んでわかったが、池田とERIKAがリサーチ中に交わした議論の録音だという。


10か月という制作期間には神戸に拠点を構える職人の仕事場を尋ねたり、造船所のドッグを訪れたりしてリサーチを重ね、神戸の町への関与を深めながら人と道具と身体の関わりを考察していったようである。その様子がレポート資料に残されていた。こうした地域の職人の所在を把握しアーティストと橋渡しするプロセスにKAVCがコーディネーターとして機能していることも見えた。リサーチの過程で「tuQmo」の二人の示す視点はとても興味深く、人と道具、身体とモノ、パフォーマンスと展示を相互に関連させ、KAVCのスペースを複数使ってコンセプトを展開していく意欲的な展覧であると見えた。ただ成果物である展示には空間的、物量的に、パフォーマンスには時間量的に、少々ボリューム不足、迫力不足を感じた。人が道具を使用してきた歴史、身体の拡張としての道具の可能性、パフォーマンスの場における身体と道具・装置・モノとののっぴきならない――パフォーマーの命を預けている――関係性へと、まだまだ視点を広げる余地はありそうだ。