2023年9月15日金曜日

Co.山田うん『In C』

2023年9月2日(土)            @ロームシアター京都 ノースホール


振付・演出・美術 山田うん

作曲 テリー・ライリー

作曲・音楽 ヲノサトル

衣装 飯嶋久美子

出演・共同振付 飯森沙百合 河内優太郎 木原浩太 黒田勇 須崎汐理 田中朝子 

        角田莉沙 西山友貴 長谷川暢 望月寛斗 山口将太朗 山根海音




音楽の緻密な解釈からダンスを立ち上げる山田うんは、ストラヴィンスキー『春の祭典』の振付をはじめ多くの力作を生んできた。音楽家の知見を得ながらスコアを読み込み、大人数のダンサーで構成する群舞の迫力は、日本のコンテンポラリーダンスの先頭を走る実力を誇っている。京都で公演を行うのは2018年1月の『モナカ』以来。作曲家・音楽家のヲノサトルがCo.山田うんの数々のマスターピースで音楽を担当しており、『モナカ』でも、今回の『In C』でも協働している。


『In C』はテリー・ライリーが1964年に発表したミニマル・ミュージックの歴史的名曲だ。53種のCコード(ハ長調)の非常にシンプルな旋律パターン(音型。すなわち音楽の最も短い構成部分)をミュージシャンが順番に演奏していくもので、作曲者による指示書に即する限り、パターンを何回演奏するか、どんな楽器を使用するか、何人で演奏するか(望ましい人数が示されてはいるものの)、などは演奏者に任されている。自由と即興性に開かれた楽曲であり、結果としての音楽の現れは無限の幅の中にあり得るということになろう。「In C」を用いてダンスのための音楽を、と山田うんの依頼を受けたヲノサトルの仕事は、この「開かれた」楽曲を「音源」として、ゲームのプレイのような演奏をたった一人でコンピューターのプログラミングによって実現すること。上演時には録音されたものを使うにせよ、音楽そのものは「脳内のヴァーチャルな合奏」であり、音型のインタープレイによって新しい景色を描き出すことであったという。


公演の当日パンフレットにはテリー・ライリーによる指示書と、制作にあたって書かれたヲノサトルのテキストが掲載されていて、いずれも興味深く読んだ。テリー・ライリーの「In C 演奏指示」は、多くの条件を演奏者の自由に委ねると同時に、互いの音を注意深く聴き合うことの重要性を述べている。パターン=音型の組み合わせから「ポリリズムのようなかけ合い」が生まれ、「面白いフレーズの塊が、浮かんでは消えていく」さまを想定しており、パターンへの移行を急いではいけないが留まり過ぎてもいけない、テンポは速すぎても遅すぎてもいけない。休んでもいいが再度参入する際には自分が全体の流れに与える影響を自覚せよ。そして一度か二度はユニゾンを目指そう、とも言っている。演奏の自由を謳いつつも、作曲者の脳内には理想の音楽の現れ方がイメージされていて、決して好き勝手に音を鳴らしてよいというものではなさそうだ。


一方、ヲノサトルは、先述の「インタープレイ」への興奮を語るとともに、ミニマル・ミュージックの音楽史ひいては文化史上の意味や位置づけに触れたうえで、あらためて「In C」の譜面を読み込む。そして自然倍音列に言及しつつ、ハ長調に還元された音の響きの中に、地上のさまざまな民族音楽に通じていく音階、旋律、音声、リズムの要素を見出している。アカデミックな思考を突き詰め理論へと閉じていく現代音楽から、環境音楽やノイズサウンド、ジャズやロック、あらゆるポピュラーミュージックとそれらが内包する身体性や場所性へ――その転換の契機としてミニマル・ミュージックを捉えている。山田うんも同じく当日パンフレットに自身のテキストを載せているが、山田は「In C」の音楽に現代を生きる私たちの社会の在り方を、すなわち個々が自由でありつつ共働し、雑多な振動が互いに影響し合い、崩壊と再生の繰り返しの中に人間の歴史と営みの大きな流れを見ようとしている。ポリリズムの調和を生み出す音楽に、人間社会の在りようと平和への希求、現代を生き抜く希望と覚悟を重ねるのである。


ダンス公演『In C』は、このヲノサトルの音楽観と山田うんの洞察が、作品のあらゆる部分に息づいた作品だ。冒頭の4分の4拍子の快活なリズムに足並みを揃えるダンサーたちのステップは、音型の反復・進行とともにズレや変異を生み、12名のユニゾンは分離・拡散、徐々に個々のパフォーマンスへとフォーカスが絞られてゆく。ダンサーたちはジェンダーの区別なく、みな太い眉、丸く赤い頬、ぺったりと塗り付けた黒い髪など誇張したメイクをしており、妖精とも道化とも何かの化身ともつかない、少しコミカルな味わいのキャラクターに造形されている。無論、配役はなく、匿名的でジェンダーレスな身体ではあるが、彼・彼女らの身体言語があくまでローカルであるために、完全に抽象化された無機質な存在ではなく、日常や、祭りや、現代の日本といった差異を含んだ具象的な身体として表象される。ソロ、デュオ、トリオと小さくフォーカスされる場面で、時に寸劇のような互いの絡みも見られるが、全体に物語はなく、エピソードの無数の集積が人の営みの堆積と歴史の大きな流れを形作っていくさまが描かれる。


ヲノサトルによる「In C」もまた、ミニマル・ミュージックの音型の重なりのうちに差異を多様に含んだ音楽として現れ、アフリカやアジアの民俗音楽を彷彿とさせる複雑で豊穣なポリリズムを生んでいく。抽象のようであって具象的、無機質のようでいて人の営みを思わせる本作の色調は、音楽、ダンスのみならず他の要素にも反映している。前述のメイク然り、イエロー、ブラウン、オークなど土色を思わせる衣装も然り。ダンサーたちがその陰に身を寄せたり、ばらばらに分解して移動させたりする美術のオブジェは、全体の部分としてのミニマルなブロックだが、遺跡が崩壊した瓦礫にも見える。瓦礫の中から零れ出てきたようなダンサーたちの踊りは、化石の時間から生命が解き放たれたかのようである。集積された人類史が音型の展開とともに語り直され、文化と歴史の壮大な流れを描き出そうとする舞台に、12人のローカルな身体が躍動する。


ここまで「ローカルな身体」と繰り返してきたが、ローカリティは山田うんの振付言語を読み解く際のキーワードと言っていいだろう。型をもたず、西洋化されず、既存のメソッドの洗礼を受けていないように見える山田の身体言語は、削ぎ落されずに保たれた日常性、土着性が顕著である。新体操出身でバレエや舞踏の訓練も受けている山田うんだが、彼女の舞踊言語のなかにそれら既存のジャンルに根ざしたテクニックや身体観の反映があるかといえば、そうとは言えず、特定の場所にルーツを辿ることが出来ない。さまざまなダンス・テクニックの経験によるハイブリッドな身体というよりは、日本人の、21世紀を生きる、もしくは戦後に開発された都市郊外をフィールドとして生きる、日常性・土着性を削ぎ落さずに残した、遊戯的に運用される身体であり、床や地面に親しく接し、体軸を抽象化しないままに立つ身体である。日本のコンテンポラリーダンスの一定程度がそのような身体性を示すと言えるが、山田うんが卓抜であるのは、そうした身体言語をアイデンティティの物語に回収せず、群舞の構成によるノン・プロットの舞踊形式に作り上げていく点だろう。身体のローカリティを保ったまま、音楽の構造に即した抽象的なダンス・パフォーマンスとして形式の洗練を極めるという、ダンスの創作の最北を歩んでいる。本作『In C』において、ベタ足でステップを踏み、軸を設定しないままに運用される身体が、ミニマル・ミュージックの反復と進行のなかで洗練の度を増しながら、筋力や可動域や機敏さを極めた運動性に還元されていく様子は、カンパニーの作品群の中でもひときわスリリングであり、山田の特質を顕わにしているように思われる。


分離と統合を繰り返し、クライマックスを迎えたと思えば再び始まるあらたなエピソード/個別のシーンの展開が、幾度も訪れる波のように反復し連続する。終わりかな、と思う間もなく次のパターンの音楽とダンスが始まり、終わりは全く予測せぬ間に切断として訪れる。ここに見て取れる「歴史性への展開」と「運動性への還元」の相克が、山田うんの振付を比類ないものにしている。ミニマルな音型に差異と身体性を聞き取ったヲノサトルとの共働が至った地平であることは間違いない。


2023年7月29日土曜日

mimacul 『あたたかな顔』



2023年7月22日(土)            @京都場

俳句 阿部青鞋

演出・構成・衣裳 増田美佳

出演・振付 神村恵 増田美佳

音楽 中村公

オブジェ キム・スミス・クラウデル

舞台監督・撮影 脇田友

翻訳 山口惠子 ブリジット・スコット

俳句翻訳アドバイザー 山本真也(ポストトーク・ゲスト)



自らも句を詠む増田美佳が俳句をスコアに見立てて踊ることを試みる。出演は増田のほか、スコアを用いてダンスを立ち上げるプロジェクトを継続中の神村恵。神村のプロジェクト『無駄な時間の記録』には増田も参加している。

 

今回の上演では阿部青鞋による俳句をスコアとして取り上げている。阿部の俳句は「手の甲」「中指」など、必ず身体のいずれかの部位を示す一語を含んでおり、からだへの眼差しをシャッフルするような感覚を呼ぶ。増田と神村は五十の句を選び、それぞれの解釈で一句ごとに短い振付に起こしている。

 

プロジェクターが壁に俳句の文字列を映し出すと、その投射を挟んで左右に並んだ増田と神村は、立ち位置をかえることなくその場で振付を動く。カシャ、カシャ、というプロジェクターの音とともに一句ごとに投射が切り替わり、そのたびに二人はそれぞれ短い振付を動いていく。一つの句が詠まれるごとに、二つの身体は異なる動きで応答するが、腕なら腕、爪なら爪と句ごとにフォーカスされるので、これを蝶番にして対の関係を保ちながら動きとイメージを提示していく。

 

五十の句に50の振付。全ての句の提示と振付の動き終えた後は、はじめに増田が、次に神村がそれらの振付を連続させてソロで動く。かるたをめくるように示された句と句、振付と振付の間に相互の関連はないので、それらを続けて動くと、ちょうどE.レイナーの『トリオA』のような振付の数珠状の平坦な連なりが生まれる。ソロの後はデュオ。振付を連ねて踊る線が二本、増田のそれと神村のそれが、各々振付の順序を変えたり、互いの振付を交換したりしながら、空間を広く使って動いていく。偶然のシンクロのように二人が同じ振付をユンゾンで動く瞬間もおとずれる。組み換えや構成のルールを変化させれば、俳句に対応した基本の振付がある限りダンスをいくらでも展開していけそうだった。

 

俳句は五七五の音に情景を詠み込む。限定された形式に内容をぎゅっと凝縮させた句もあるが、阿部青鞋の句は余白が多く、沢山のものを詠み込まない。増田いわく「スナップ写真を撮るように情景をサクッと切り取る」。そこから起こされる振付は増田、神村ともに1アクションか2アクション程度の簡素な動きで出来ている。だが、一つの句を解釈し、情景を想像し、意味を読み取って振付に起こしていく作業はそうそうサクッといくものではないらしい。余白の多い青鞋の言葉は真意を汲み取るには想像力を要し、ときに五七五の中に思いもよらない物や事を結び付けて詠んでいたりする。「ねちねちと」「こねくり回して」動きを作ったと二人はそれぞれに言う。簡素な振付の形が50個。これを組み合わせ連ねて“構成する”ことでダンスを踊ることが出来るが、ベースとなる振付そのものを生み出すには身体を駆使して動きをさがし、形をつくる作業を経なければならない。増田美佳の前作『カタストローク』は踊りの型を巡る思索だったが、連綿と受け継がれる「型」にも、それが成立し定形化するのに費やされた時間や作業の過程がある。また型には意味やイメージが内包されている。定形のバレエのパも、他のさまざまなメソッドも、オリジナルの意味を内在させている。記号というものがそもそもそうであるように。

 

ここでスコアを巡って二種類の時間があることがわかる。未知のダンスを探して未踏の地に踏み出す時間と、全体の想定のもと現在において部分を再現する時間。そのどちらにも阿部青鞋の俳句が存在する。創造を触発する言葉と、再現の契機となる言葉。スコアの定義とは、はて何だったろう?

 

上演は句の投射と振付の実演で坦々と始まり、振付ごとに身体の部位を意識させる動きを重ねた先、最後に訪れるのはスコアを外れて動きが自発的に展開していく時間だった。以前は染め物の工房だったという場の環境――コンクリートの床、木造の壁や天井や梁、光、空気、気温、オブジェ、観客の存在、そして上演の流れ、そうした条件の中でスコアなしで動きを選択していく。相手の手に自分の手を添え、そこにまた相手の手が置かれ、さらに応じ、互いの手が即興で応答し合う場面。その繊細な一手一手に引き付けられた。また背中合わせに立った二人の一方がゆっくりと前屈して相手を背中に載せる。足を宙に浮かせる相手の身体と支える自分と重力とのバランスは、無数に選択されうるフォルムと力学の関係性のあわいから、今ここの選択として現れた特別な瞬間だった。

 

スコアからダンスを立ち上げる神村の発想と、そこに共働する増田のこれまでの取り組みから派生した本作だが、俳句のもつイマジネーションの喚起力や読みの自由さはスコアを逸脱しており、スコアの概念を押し広げていくものであるように思われた。