2022年7月8日金曜日

鈴木ユキオプロジェクト『刻の花 トキノハナ/moments』

 71日(金)

鈴木ユキオプロジェクト

「刻の花 トキノハナ/ moments             @シアタートラム

 



 

コロナ禍を経て2年半ぶり、鈴木ユキオによる待望のカンパニー公演である。写真家、八木咲との共同を通して、瞬間を切り取る写真の特性に着想し、時間をモチーフとした2つの作品を発表した。


『刻の花 トキノハナ』は鈴木のソロ作品。「コロナ自粛中に、生活を切り取るように撮影」したという八木咲が共演する。舞台を奥と手前に分けた中ほどに紗幕がおりていて、八木の撮影した写真が投影される。東京郊外からさらに山奥の、鈴木が家族と生活し稽古場をもつ自然豊かな環境の中の、土の上の小さな草花などのささやかな風景が、ぽつりぽつりと間を置きながら映し出される。上手側には水を張った器、石や岩、木組みの椅子など、写真の風景にちなんだ自然物や古びた道具が置かれていて、その一隅に鈴木と八木が並んで腰をおろし、こちらに背を向け、紗幕に映し出される写真を見ている。そんなふうに始まったソロ・ダンスは鈴木の近年の踊りの充実が、あるマニエリスティックな至芸の領域に入りつつあることを思わせた。冒頭に鳴っていたピアノ曲はいつやら消え、やがて無音となるシーンで、水を打ったような観客の集中と、濃やかにストロークを刻み続ける鈴木の踊りが張り詰めた空気の中で対峙する時間など、実に得難い瞬間だった。コロナ禍を経て、リアルに身体と向き合う体験の換え難さをこれほどまでに感じたことはなかった。


肩と顎の距離を寄せて引き攣らせた独特の構えから動きが振り出され、絶え間なく時を刻む過程。独自の言語の熟練であり至芸とは言えども、その推移は予測不能の出来事の連なりだ。腕のストロークの連続の中に不意に小さく跳んだり、イレギュラーな動きの要素が介入したりする。それらが振り付けられているのか即興で放たれるのかは分からない。構造は消え、かつて自らへの批評として踊りをせき止めた「中断」は語彙に吸収される。振りと刻みは面を開き、空間に独自の肌理を生む。そう、深さに降りるのではなく表層を耕すストローク。その背後に膨大な日々の営みと稽古の積み重ね、思索の痕跡がある。家族をつくり、場所を構え、環境に身体を深く根ざして育まれた踊りである。「小さな環境でささやかな毎日」「特別なことは何もないけれどそこに差し込む光」「かけがえのないもの」「繊細で壊れやすいもの」と鈴木は記している。この控えめでつつましやかな言葉に、地を耕し、風雪に耐え、踊りを継いできた舞踏の先人たちの系譜を思う。


終盤に暗転し、終了かと思いきや、再び照明が入り、踊り続ける鈴木がいる。面を耕し続ける身体の営みに終わりはない。歴史を継ぎ、心身を投じ、生きることと同義の現れの、むしろ坦々とした表面に存在の凄みを見る。


    moments』ではやはり写真から得た発想を鈴木のソロとは別の形に展開する。8名のダンサーによる遊戯的な作品で、モチーフを様々に発展させた諸々のシーンで構成される。冒頭はひとりずつアップリケや漢字の一文字を施したオリジナルのTシャツを着て登場、それぞれのキャラクターを動きにしたようなソロ・シーンを披露していく。長身で朴訥とした感じの山田暁がこちらを振り向くとTシャツに「刻」の一文字。無論、鈴木ユキオの「刻の花」のパロディで、無表情の中の微かなギャグ味に笑いを押し殺した。安次嶺菜緒は張り詰めた空気をその身一つで完璧に統御、集中力が抜きんでていた。各人の名刺がわりのようなソロから少しずつ関係性を作っていく。途中衣装を変え、動きのモチーフも変わり、「個々の」「切り取った瞬間」を覗き見てフレームの内部に入っていくと、ミクロの世界がリアルへと転位し、人数を生かしたプレイフルな風景が次々と繰り広げられる、といった具合。白黒のギンガムチェックの衣装を着たダンサーらがゲームのように位置関係を変えていくシーンのワンダーランド感。フィクショナルだが、あくまで身体と動きの本質を追及した先の風景である。ダンサーは皆訓練が行き届いており、ソロ、デュオ、アンサンブルまで様々な形式、質感、語彙に難なく対応する。「個」や「瞬間」のモチーフを転がして着地点を定めない探索を作品の中でどこまでも推し進めていくような、作品そのものがタフで長い旅。気が付いたらこんなに遠くまできてしまった、と充実感と寂寥とが入り混じった感慨がやってきた。ダンスの未踏のフィールドはどこまでも広い。




振付/演出:鈴木ユキオ

出演:「刻の花」 鈴木ユキオ 八木咲

     moments」 安次嶺菜緒 赤城はるか 山田暁 小暮香帆 中村駿 西山友貴

         小谷葉月 阿部朱里

照明:筆谷亮也

サウンドデザイン:斉藤梅生

楽曲提供:前原秀俊

衣装:山下陽光(途中でやめる)

         


2022年7月5日火曜日

Co.Mito Ruri 『ヘッダ・ガーブレル』

 

630日(木)

Co. Ruri Mito 『ヘッダ・ガーブレル』                    @愛知県芸術劇場

 

 

 

 

イプセンの戯曲を原作とした舞踊作品。「人形の家」同様、近代化の過程でなお残る古い因習の中で生きる女性の葛藤する姿を描く。あらすじのみを押さえて観劇に臨んだが、岩波文庫の解説には「美しく魅力的な婦人」「暇で退屈だけれど自分では何をしたらいいのかわからない」「でも他人の成功には平成でいられない」「強そうで臆病」「望みが高いが平凡」「気位が高いくせに嫉妬深い」「複雑で矛盾した性格のヒロイン」などとある。上演史上は女ハムレットの異名もあり、各国の女優の意欲をそそる役であるようだ。すでにある物語を舞踊にするのは、ことにストーリーやドラマを表現しないことが主流となった今日のダンスにおいては、むしろチャレンジといえる。公演前にも戯曲を舞踊化する今作の試みに焦点を絞った対談がリリースされている。三東は原作のプロットを追うのではなく、主題の本髄を掴み取り、一人の女性の内面の動き、人間の精神のドラマとして立ち上げた。

 

主人公と自身を重ねた三東瑠璃の圧巻の身体、独特の言語によるコロスたちの集団ワーク、加えて今作では視覚に訴える濃密なイメージが映像を駆使して次々と投入される。記憶のフィルターを通した幻想的な映像には、男性(森山未來)との粘着的な関係が仄めかされ、主人公は関係性への執着と解放への希求との間で引き裂かれる。意識の底から掬い上げられたようなイメージは、懐かしさで人を縛りもすれば、存在を脅かしもする。エフェメラルな映像と舞台空間が重なり合い、映像の中の人物とリアルなダンサーの身体とが融合してシーンを形成する手法も新規な試みである。挿入されるテキスト(「それも愛だったのだろうか」などの文句が出てくる)の朗読がさらに重層的に記憶や幻想の描写を色濃くしてゆく。

 

特徴的なのは床に急勾配の傾斜をつけていることで、ダンサーにとっては大きな負荷となる。本作に先立つインタビューで三東は主人公ヘッダの「痛み」について語っているが、この負荷の大きい床で踊ることでその痛みを自らの身体で生きようとしたのにちがいない。見る側にとってこの急勾配は床面近く低めに推移する三東の動きを隈なく見るのに役立った。しなやかで敏捷で動物的な身体は配役以前の三東自身の踊りを他と区別するものとして認知されるが、可動域を超えるほどの背面の湾曲を何度も見せ、そのたびに生への渇望と痛みが三東を貫く様子は、主人公の苛烈な生が三東自身のそれとして現れ出るかのようだった。床からホリゾントまでが一枚のスクリーンになり映像が大きく投影されたり、勾配の天辺でダンサーらが動いていると、その群れから床を転げ落ちるように人物の映像が投射されたりするのも斬新だった。全体に縦のスケールが強調されており、そのことが叙述的であるより直観的に精神のドラマの強弱や高低を掴み出して提示するのに奏功していた。最後のドレスが床の底辺から引き上げられてゆくシーンも、美しくも凄絶。ヘッダの悲劇的な生の結末を象徴している。

 

共演のダンサーたちの動きはCo. Ruri Mitoに独特のもので、一人一人が固有の身体性を謳歌するコンテンポラリーダンスの思想とは異なる身体観による。最初にこのグループを見たのは2018年の『住処』@セッションハウスだったが、どのような影響関係のもとにこのような身体の扱いが生まれてくるのか全く見当がつかなかった。集まった複数の身体は有機的な群れになり、不思議な形で結び合い、重力に対し共同の力で抗する。互いを支え、ソリストの身体を支え、信頼で結びつき、献身的にタスクに殉じる。テクニックを備えたダンサーの身体がリズムによって自律的に動き出すといったダンスの作り方とは全く違っていて、身体がその物質性に依拠したまま相互に作用し合い、形状を結び、関係性を変化させてゆく。力の配分や位置関係は精密に振付・設計され、精度高く遂行されているように見えるが、たとえ重力やコンディションなどの誤差がイレギュラーな出来事を招いても、互いの間で吸収していくような、それ自体が呼吸する、中心のない集合体である。