2021年3月8日月曜日

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

 

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

3月5日(金) @ロームシアター京都 ノースホール

 

 

ホルツィンガーは1986年オーストリア、ウィーン生まれのダンサー・振付家。アムステルダムとウィーンを拠点に活動する。今回初めてその世界に触れたが、いかにもヨーロッパらしい肉体への執着・偏愛と濃厚な美学的アプローチに、悪趣味ともいえるサディスティックなパフォーマンスが合体し、唯一無二の過激でスキャンダラスな舞台が繰り広げられた。内容的にも時間の尺も膨大・長大(手元の時計では100分弱ほど)なボリュームがあり、そろそろ一息つかせてほしいと思うこちら側の耐性をよそに、さらにシーンを被せてくる。相当に感覚が刺激されるので、冗談ではなく観覧注意である。新型コロナウィルス感染拡大の影響でアーティストの来日が叶わず、上映会の形が取られたが、本来なら舞台で生のパフォーマンスを見たはずのもの。その場にいたらはたしてどのような感興を得たことであろうか。

 

タイトル『Apollon』はバランシンのバレエ・リュス時代の作品で、作曲はストラヴィンスキー。ギリシャ神話に材をとり、アポロと3人のミューズが登場する。「古典的なフォームの美しさが追求されたバランシンらしい振付」とプログラムにあるが、YouTubeで見るといわゆる古典バレエに対して斬新、清新な作風、かつ天上世界の清澄な雰囲気が「アポロ」のタイトルに相応しい。これをベースにしたホルツィンガーの挑戦は、一つにこのアポロ的な天上世界に対するディオニュソス的な陶酔を追究すること。さらに西洋美学の正統、アカデミズムに対する周辺的、大衆的、娯楽的な路線の対置、ハイアートとエンターテイメントを一緒に扱うことにあると見える。

 

大衆的なパフォーマンスの要素はサイドショーと言われる見世物に顕著だ。ホルツィンガーはニューヨークを旅し、コニー・アイランドで見たサーカスやエンターテイメントに大いに関心を持ったという。サーカスは今回入っていないが、サーカスの「隣で行われる」の意のサイドショーを取り上げている。本作の冒頭は長さ8センチの釘を自身の鼻の孔に差すというもので、ハンマーで少しずつ深く差し込んでゆき、パフォーマーのMCによれば頭蓋骨に到達させるのだという。また細長く膨らませた風船を飲み込むメニューでは、咽頭、呼吸器、食道、胃までを貫く風船のチューブが少しずつ口から入っていく。危険極まりない、きわどいショーである。ピンク色の風船チューブは男根を示唆してもいると思うが、そう、この作品はミューズの名のもとに6名の女性たちが欲望と背徳の限りを尽くすもので、女性の身体表象が大きな主題となっている。女性たちはほぼ全裸、アマゾネスという言葉があるが、エロスと野蛮が全方位的に開け放たれた身体である。腰に黒いベルトをしている者、スニーカーを履いている者、トゥシューズをつけて踊る者など、わずかな装身具が生まれたままの無垢の体と文化的に選択・武装された裸体との一線を保っている。チームはダンサーとサイドショーのアーティストが混在した編成で、ホルツィンガーの友人が多く参加、ショーのアーティストはその道のプロを呼んだという。そうだろう、とても素人の手出しできるものではない危険なもので、剣を飲むメニューなども含まれる。他にピアッシング、脱糞、腕詰め(指詰めならぬ)、自分の左右の鼻孔を通したストローで観客にカクテルを飲ませる、といった痛みや生理的な嫌悪を伴った悪徳、悪ふざけの数々。平行してランニングマシン、ダンベルなどを用いての身体の鍛錬も行われる。痛みと快楽の経験の場としての肉体礼賛であろう。

 

一方、美学的な表象としては、天上を描いた空と雲の背景画、雲の上を模したのであろうか舞台中央を大きく占める白いエアーマットレス、その中央にいる牛の等身大フィギュア、そして二人のダンサーによる左右対称のポーズ。二人はダンベル運動もすればバレエのポワントも見せ、舞台を縁取るようにシンメトリーの構図を作る。舞台で行われる行為の数々、表象、イメージの数々が縁取られて一幅の絵になる。牛は電動でうねるように動き、跨る女の身体も大いに翻弄される。同じく牛の背中に身を預けるもう一人の女は、尻をぴしゃりと叩かれて快楽の笑い声をあげる。牛は舞台上のシンボリックな存在で、獣性、欲望、怠惰、愚鈍、愚劣、下等を意味すると見える。白いエアマット上に寝そべりくつろぐ女たち。脱糞したものを食すという文字にするのもはばかられる行為に至るミューズたちである。おそらくは西洋美術史上の名画や神話の場面を参照しているのであろうと思われるシーンや構図が含まれ、私はこの方面に不案内なのだが、知識があればより楽しみや味わいが増すだろう。ちなみに西洋絵画の伝統では脂肪のたっぷりついた女性の尻のえくぼが美学のツボと聞くが、本作のほぼ裸体の6人は長く美しい脚、豊かな脂肪のついた腰や腹、たわわな乳房、なびかせる長い髪と、たしかに西洋美学のミューズを思わせる肉体を誇っている。贅肉一つついていない現代的なダンサーの身体とは異なる身体像である。

 

参照といえば、ポストトークでディレクターチームから、実際に見て取れた種々の引用について言及があったのは参考になった。西部劇のパロディは誰の目にも明らかだが、スターウォーズ、007、20世紀後半のアメリカ大衆文化も含めた様々なリファレンスに満ちた作品であったことが理解された。初めての鑑賞ではとにかく行為のショッキングなことに感覚の多くが持っていかれてしまうわけだが。それも含め、映像配信ではなく、劇場での上映会の形をとったディレクターチームの選択は正しかっただろう。これをパソコンの画面で情報として受け取ったのでは、全く「体験」にならなかっただろう。


演出:フロレンティナ・ホルツィンガー

製作:CAMPOアートセンター(ベルギー)

 

*映像は201710月にCAMPOによって撮影された

 

2021年3月7日日曜日

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADOR

 

32日(火)

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADORA   @元町映画館

  

モダンダンスの始祖として知られる伝説のダンサー、イサドラ・ダンカン(「イザドラ」が正しいと言われる)。映画ではダンカンについて多くを語らないが、彼女が二人の子どもを事故で亡くしており、その悲痛の中で亡き子どもたちに捧げて創作したソロダンス『母』をモチーフとして語り進む。物語は、この『母』を巡って、作品をそれぞれの関わり方で受け止める女性たちについての3つのオムニバスで成り立っている。互いに直接には関わらないが静かに呼び合う3つのエピソード。舞踊作品『母』には記譜が残されており、これを手に入れた振付師のアガトが丹念に読み込みながら振りに起こしていく様が、最初に描かれる。パリの街の寒色の風景の中、ひたむきに記譜に向き合う若き振付師の勤勉さ、創作にいそしむひたむきさが引き締まった空気を画面に与える。周辺的な話題というものが一切描かれないのも特徴的。アガトという人物や生活にまつわるあれこれなどには一切触れないのである。またダンスを描くのに、稽古場の熱気とか、身体のリアリティといった定形を用いず、記譜を読み、振りを起こし、その作業の中にイサドラ・ダンカンの魂をすくい上げようとする淡々として知的な取り組み方が、かえって新鮮だ。コロナの時代のダンス創作に相通じるものがある。今ここであること、一つの場所に集まること、生身の身体によって遂行されること、共同性の中で創作すること――上演芸術の条件と信じられてきた約束事が無効になって、なおダンスの真髄に触れようとする態度。アウラを介さない創造と受容。もう一つのダンスへのアプローチは可能なのである。


二つ目のエピソードは、『母』の公演を控えてリハーサルを重ねる振付師マリカとダンサー、マノンの対話と交流の日々。二人は親子なのか、と最初に思ったのだが、マリカには離れて暮らす二人の子がおり、マノンはそのマリカの寂しさ(彼女と子たちとの間にどのような関係の経緯があるのかは語られないが)をみつめる。マノンはダウン症であると思われ、いわゆる鍛え抜かれたダンサー然とした身体をもった踊り手ではない。そのことが映画を複層的にしている。マノンは誰かのケアを必要とする側と思われるが、実際には傍らのマリカを深い洞察によって思いやっている。母と娘に似ていながら、それとは違う関係性が一組の振付師とダンサーの関係に垣間見える。


3つ目は『母』の公演を見た観客のひとり、エルザの物語。観劇後の彼女の行動をつぶさに捉えていくが、やはり周辺の事情は一切語られない。拍手をし、劇場を出て、杖をつきながら街路を歩き、レストランに辿り着き、ひとり遅い夕食をとり、タクシーに乗り、夜も更けており、さらに杖をついて夜道を歩き、カギを開け、家に入り、鍵を所定の場所に置き、部屋着に着替える。なぜかこの行動の一部始終をカメラは追っていく。そして彼女の老いが見る者に切なく迫り、部屋に飾られた写真の少年は彼女の子であろうことが察せられる。喪失の中で重ねてきた彼女の月日が想像される。カーテンを開け、夜の街の景色を見るエルザの、遠い目、孤高の魂。かつては舞台に立った人であるのかと、ふと思った。


母になったことのない女性、現在母である女性、その傍らにある女性、そしてかつて母であった女性。年代も境遇もルーツも異なる4人の「母」を巡る思索が、イサドラから時を超えて遠く響き合いながら、静かなトーンで描かれる。余計なもののない物語、そして画面。それでも十分に、むしろたっぷりと語られるそれぞれの魂のドラマがある。



監督:ダミアン・マニヴェル

脚本:ダミアン・マニヴェル、ジュリアン・デュードネ

撮影:ノエ・パック

出演:アガト・ボニゼール、マノン・カルパンティエ、マリカ・リッジ、

エルザ・ウォリアストン