2018年3月16日金曜日

国内ダンス留学@神戸六期生 成果上演


310日(土)

国内ダンス留学@神戸6期生  NEWCOMER/SHOWCASE #6
成果上演              ArtTheater dB Kobe

メンター:余越保子


6期目を数えた国内ダンス留学@神戸が今年も8か月にわたる学びの日々終えて成果上演を迎えた。4つの上演枠を巡って振付家志望者が自作をプレゼンテーションし、選ばれた4作品が披露された。創作期間の5週間にメンターを務めたのは余越保子。まずは4作品の報告を上演順に記す。


・アラン・スナンジャ『Who is behind
出演 松縄春香 Alan Sinandja 五十嵐香里 友廣麻央 照屋仁美 川上瞳 合田昌宏 恵風(演奏、11日のみ) 奥田敏子(歌)

アフリカの民族舞踊をベースに、パーカションを中心とした音楽もアフリカンを使用、その種類も多彩に用いて場面を次々と展開してゆく盛沢山な20分間だった。新長田の人々がエキストラ出演して無名の群衆となり舞台を往来するのに対し、ダンス留学6期生の松縄春奈がアランとともに都市の生活と環境から疎外されるメイン・キャラクターを演じ、集団と個、都会と農村、先進国と途上国といった対比がドラマとして浮かび上がっていく。アランのアフリカン・ダンスの特徴ある小刻みのステップは空気を一変させて迫力があるが、彼と向き合ってデュオを踊る松縄も器用な踊り手ではないながら存在感があり、様々なアフリカン・ダンスの語彙に対応して臆することなく踊っていく。アラン自身の出自であるアフリカの踊りと太鼓のリズムが疎外された人間性の回復を示唆するようでもあり、大地を踏むという踊りの起源や農作業から踊りの所作へのつながりも見て取れる。ところが最後は悲劇の結末。単純な二項対立で収める気はない、アフリカ=自然・人類といったステレオタイプなど現代では通用しないということかもしれない。20分の持ち時間にこれだけの要素を投入し、社会批評を込めた複層的なドラマトゥルギーを組み立ててきた。つい内的になりがちな等身大のコンテンポラリーダンスとは異なる作風だ。


・宮脇有紀『Accord
出演 Kyall Shanks Maria de los Angeles Pais 植野晴菜 大谷萌々夏 宮脇有紀

独特の体の質感の追求と、4人のダンサーの関係の変化で見せる20分。具体的なドラマや内容設定をもたず、形式におけるチャレンジをみせたのは今回では宮脇のみだった。たわめられ、ゆがみを含みながら、なめらかに粘りをもって動いていく不定形のムーブメントは舞踏の人の動きとも少しテイストが違う。宮脇自身がこれを濃やかに動いていて、独自の身体語彙を生み出そうとする方向性は、他の3人とは位相を異にするもの。(これが日本のダンスに共有されている何かしらの文脈や問題意識と関係するものなのかどうか、確かなことは言えないが、或いはそうであるのかもしれない。)4人が二組のデュエットを踊ったり、その組み合わせを変えたりしていくが、編成を決して固定させず、流動的に次々と関係を変化させていくもので、ひとところのツボ、快感や納得にとどまらずに変化し続けようとする意図があっての動かし方。とても複雑なことをやろうとしている。中盤がすこし迷走気味だったが、それもコンセプトの抽象性ゆえだろうか。目指すところを高く持って、妥協なく進んでほしい。


・マイア・ハルター『still unnamed
出演 大谷萌々夏 松縄春香 Maia Halter

沖縄民謡「安里屋ユンタ」で幕開け、海が時とともに色を変えていくようにブルーの濃淡による照明が印象的。日本で出会った風景なのか。ここにマイアの西洋仕込みのダンスが重なり、異なる文化、複数の美意識の間を揺れてたゆたう心情を映し出した美しい作品。半ばから白いユニタード姿になった3人の女性ダンサーは三美神のごとく、調和と優美をダンスで体現していく。水/海の中というシチュエーションであるのか、ゆらめくような動きに照明が重要な役割を果たし、また布と衣もモチーフの一つになっていた。終盤に向けて低音のパーカッションがドライヴ感を増し、ヘッドバングして髪を振り女性性の対極的な面を露わにするマイアと、敢えて静かな松縄、大谷。内的世界を海の深さに重ねているようだ。踊りの語彙に新奇なものは感じなかったが、自身の世界観を存分に描き出していて、アランの作品に劣らず様々な要素を投入している。たくさんの素材が引出しの中に蓄えられていて、日常や旅や新長田での生活などで経験される全てがダンスへと注ぎ込まれるような振付と創作の日々を思わせる。見る側も彼女の世界にどっぷりと浸され、大変手応えのある鑑賞体験だった。


・カイル・シェンクス『Shared
出演 植野晴菜 宮脇有紀 Alan Sinandja Maria de los Angeres Pais Kyall Shanks

ユーモアとパロディ、ナンセンスと日常の裂け目を舞台の上に描き出した若者らしい才気にとんだ作品。冒頭は大きな袋からカラーボールを次々と取り出すという現実の作業を舞台上にのせたもので、メタ構造による異化を試みている。小道具をたくさん使い、キッチンやリビングのありふれた情景を異なる切り口で照らし出すもので、4人が家族写真のような絵図をつくって客席正面を向いてポーズするなど、シアトリカルな場面の作りも多用される。クローゼットから取り出されるギリシャ彫刻の頭部など、脈絡のないリファレンスが効果的になされたり、なぜかサングラスをしたカイルがクールな表情でワゴンを押していたり、細切れのイメージがコラージュのように構成され、舞台は謎めいていく。より長い尺の作品にして神話や古典を引用しながらこのパロディを織り上げていったら面白いことになりそうだ。カイルもまた自身が体の利くダンサーでもあり、彼の西洋舞踊をベースとしたコンテンポラリーなダンスとアランのアフリカンと、それぞれの踊りが並んだ場面は見どころの一つ。最後は全員リビングでお茶を入れ、くつろぎ始めてしまうというナンセンス。冒頭のカラーボールが舞台にぶちまけられて、破綻が祝祭的でもあるという世界のもう一つの真実=シュールレアリズムを示して終わる。方向性のはっきりと見て取れる作品。これは4作品に共通して言えることで、今年の特徴だった。メンターの役割によるところも大きいのかもしれない。




成果上演にあたってフライヤーや当日パンフレットに記されたメンター余越保子氏の文章がことのほか印象的だ。「ダンスは予定調和が叶わない縦横無尽な性癖を持ち、偶然、失敗、ハプニングをすべて飲み込んでしまいます」。ダンサーでいることと振付家であることとはマインドが異なることや、「わからなさを享受」すること、「意味や価値を保留することができる想像力」についても語られている。5週間の創作とリハーサルの日々、週に三日は互いの作品の合評に費やしたという。その合評とは「いったい何を表そうとしているのか」「ここをこうすればもっと良くなる」といった質問や助言ではなく、「何が、どのように、起こっていたのか」を言葉で発するワークであったという。これは大変興味深い方法であって、私事を言えば批評のワークショップで最初に言われたのが「(己が解釈や価値判断を披歴するのでなく)そこで何が起こったかを正確に伝えよ」であったし、そのことにいまだに四苦八苦しながらダンスを書くことに携わり続けている。「わからなさを享受する」「意味や価値を保留する」と語る余越氏だが、この日見た4作品は4作品とも非常にクリアな輪郭をもち、コンセプト、主題、素材の適用、ドラマ運び、シーン構成、いずれにも一本の芯が通っていた。「謎」という意味でのわからなさは残りつつも、作る過程を表現者自身の意志や動機に拠らず、外から客観視することが合評を通じて可能になったのかもしれない。


アフタートークの様子も掻い摘んで書いておくと、余越氏曰く、振付作品はどのように出来るか?作品を作るにあたって時間と空間を扱うが他の芸術と違うのは人間を使って作ること。頭の中にある思想を体を使って具現化する。自分の中にある動きを自分で動いて見せてもそれですぐに具現化するわけではなく、ダンサーを動かすには相当の言語能力が要求される。ここではニューヨークで自分も受けた育成システムを応用した。ダンスとは目で見たもののことであって、アイデアはただのアイデア。目の前に現れたものが作品である・・・合評会の手法はニューヨークでの育成システムの応用ということだろう。因みに余越氏は昨年の5期生のショーケースにおいてもアメリカの大学の舞踊課程で行われる振付家育成のプログラムについて言及していた。その経験を生かして現場を導く彼女は非常にプロフェッショナルな方法論をもった日本では貴重な振付家であり教育者といっていいだろう。


振付を行った留学生4人の言葉も様々に示唆に富んでいた。8か月間は長い旅のようで、チャレンジがあり創造がありタフな経験だった、It was hard, very very hard, difficult、そしてラッキーだったと話すのはアラン。メンバーはファミリーであり、母国の友人以上に絆を感じると感慨深げだった。新長田の町と人々のフレンドリーでオープンな雰囲気、dB側の寛容さとサポート、身近に劇場スタッフの仕事を見たこともいい経験だったと語るマイア。仲間で作り上げた成果上演の達成感と、課程の中で少しずつ自身の成長を感じ、気付いたら吸収していたと振り返るカイル。劇場を使いながらのクリエーションは他ではない経験で、ダンサーと常に一緒にいる状態で様々なことにトライできた、普通は絵になるのはある程度時間がかかるのだが、と宮脇。ダンス留学生には年ごとに特色があるが、今年は初めて海外からの受講生がいたこと、そしてメンター余越氏のナビゲートもあって、成果上演の作品自体も、すでに舞踊家としてのスタートの段階を過ぎて自身の舞踊言語を持った人たちによる中身の濃いものだった。そこで敢えて、質問してみた:ダンス留学を通じて学んだこと、とくにNEWCOMER/SHOWCASEの講師5人のリハーサルからテクニック上でも舞踊思想の面でも、なにか新しく得たものを今回の作品に生かしたといった点はあるか? 二人の人が答えてくれたが、いずれも「具体的にどのテクニックをどの場面に生かして、といったことを言うのは難しい。学びは継続的なもので、この先も変化し続けていく。」「実際には様々な条件、たとえば一緒に作る仲間から得るものも多くあり、この成果上演に向けた一か月の間にも変化し続けてきた。これからもそうだろう」といい、ピンポイントでこの技術を得るとか、この新しい考え方を採り入れる、といった限定的なことではなさそうだ。


ダンスの学びというものがすぐれて全人的な経験であり、この人格丸ごとをもって取り組んだ経験を通してのみ、人は本当に変化し、成長できるものなのだと強く感じるアフタートークだった。新長田の町や人々との関わり、町に移り住んで日常生活もここで送ること、内外から集まってきた志を同じくする仲間とどっぷりダンス漬けの日々を過ごすこと、その中で挑戦や創造やタフネスを乗り越えること。国内ダンス留学@神戸はこうした事柄が有機的に結びついた全体性の中にある。ダンス・テクニックのメニューを揃えることとは訳が違うのだ。その一方で、振付という行いには表現を人格や内的な意識から切り離し、自身の外に置いて客観視する眼も必要とされる。内的で全体的な経験と、外から見る眼の双方がダンスの現場を作っていくのだろう。






2018年3月15日木曜日

地点『正面に気をつけろ』


38日(木)

地点『正面に気をつけろ』              @アンダースロー、京都



作 松原俊太郎

演出 三浦基

音楽 空間現代

出演 安部聡子 石田大 小河原康二 久保田史恵 小林洋平 田中祐気 麻上しおり





地点の新作はブレヒトの未完の戯曲『ファッツァー』の翻案。これとは別にブレヒトの『ファッツァー』を構成した舞台は地点のレパートリーとしてすでに上演を重ねている。第一次世界大戦中の脱走兵が地下にこもり、来ることのない革命を同胞たちと夢見ながら、閉じ込められた空間で心理戦を強いられ、欲望と互いへの疑心が彼ら自身を追い詰め、次第に焦燥と敗北の色を深めていく。スリーピースバンド空間現代の図太く鋭い生演奏が弾丸よろしく音を撃ち込み、地点の役者たちのセリフまでもが銃弾のごとく打ち出されるスリリングこの上ない作品だ。今回『正面に気をつけろ』の劇作を行った松原俊太郎はこのシチュエーションを現代の日本に置き換えた。登場するのは英霊たちという設定だが、死んでいるのか死にきれずに彼岸と此岸の間をさまよい続けているのか。当日パンフレットによれば「やってきた者たち」とのこと。「まいったなあ!」で口火を切る台詞の反復と空間現代の相変わらず鋭く重い打音。第二次世界大戦の戦後処理を曖昧にしてきた日本の精神構造が、第二の戦後というべきか福島の原発事故「以後」の閉塞に重なり、二重の不条理な状況を、それ自体がマニフェストかアフォリズムであるかのような政治的かつ詩的にも聞こえる台詞群によって浮き彫りしていく。舞台の手前と奥を分けるように一筋の溝(三途の川?)が通っていて、女がひとり横たわる図はオフィーリアさながら。役者たちが川を渡って手前に出てくると間髪入れずにサイレンが響くのは放射能汚染区域の警報をなぞる。役者たちの発語と身体の緊密な連携にバンドの音が強烈なアクセントで介入し、濃密な観劇体験の中で危機感は高まるばかりである。折しも7回目の3.11を前に、現政権下で起きていると誰もが知っている不正、スキャンダル、崩壊寸前の社会規範と公正と民主主義、外交情勢の急展開等々に見舞われる日々、このままではやばい感が押し寄せる今の日本をそっくり映し出す。新しいメンバー二人を見たのは初めてだった。