2022年6月8日水曜日

展覧会 「ミニマル/コンセプチュアル」

529日(日)

展覧会

ミニマル/コンセプチュアル

ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術

@兵庫県立美術館

 

 

美術史上に思考の転換をもたらしたミニマリズムとコンセプチュアル・アートを、1967年デュッセルドルフに画廊を開いたフィッシャー夫妻が手掛けた展覧会を主軸に振り返る。昨年より川村記念美術館、愛知県美術館での開催を知るも見る機会を逃したと惜しく思っていたところ、足元の兵庫県美で行われているのを閉幕前日になって知り、最終日に駆け付けた。関心の所以はこの動向がポストモダンダンスの発生に深くかかわったものであること、また個人的には現代美術に多く触れた時期の美術界にこの思潮の余波があり、遠い歴史上の一トピックという以上に近しさを感じることである。順路の最初の部屋に展示されたカール・アンドレの『鉛と亜鉛のスクエア』の金属版の並びや『愛と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌』の144個の鉛の立方体は、もの派やその後の80年代の彫刻に通じるストイシズムと物質感を醸している。だが物質や物体としての作品はこの2作のほかは数えるほどしかなく(リチャード・ロングの柳の枝を床に平行に並べた『コンラート・フィッシャーのための彫刻』はその少ない例)、展示のほとんどが写真、スケッチ、描かれないキャンバス、指示書、あるいは手紙、展覧会の招待状、印刷物などの資料で構成されている。ソル・ルウィットの『ストラクチャー(正方形として1,2,3,4,5)』は三次元の物体だが素材と量塊を伴ったモノというよりは観念の立体化というに近い。それがそもそもミニマル/コンセプチュアルというものではあるか。文字情報が多く、キャプションを含めて「読む」ことに労力を費やす展覧会でもあった。それでも作家の思考の跡にこちらの感覚がカチっと嵌る快感がある。

感情を排し、禁欲的で規則的な表現と言われるが、たとえば河原温の日付を記したメモを途方もない年月の分だけ反復連続したインクの跡、とか、画廊主に宛ててその日の起床時間を記して送った絵葉書の何年分もの集積、などには、一定の作業を当該の期間中に一日も欠かすことなく延々と続けた、その静かで淡々とした行為の執拗さ、コンセプトを貫徹する熱量に驚く。行為はミニマルだが想像力は今日の人間が生まれる遥か以前からもう誰も生きてはいないはずの未来まで100万年に及ぶ遠大なものであったりする。これまで機会があれば目にしてきた日付を記した一幅のキャンバス≪Today≫は、その膨大で遠大な反復の中の一コマ、一片、一単位であったのだ。展覧会で一望して初めてコンセプトの全容に触れることができた。またハンネ・ダルボーフェンのペン書きされた賃金・給与リストやそのシリーズも、形は違うが数字というミニマルな単位の反復連続やそのバリエーションへの偏執的なまでの情熱、熱量に圧倒される。この作業に没頭する作家の「身体」が色濃く刻印されている。

 単位、規則性、原理への志向と表現のストイシズムの観点からは、他にリチャー・ロングとスタンリー・ブラウンにも惹かれた。この二人は展覧会の構成上、「歩くこと」と題したセクションにまとめられている。スタンリー・ブラウンによる、人間の踏む一歩と抽象的な距離の10㎞の関係を数理的に考察し、タイポグラフィを打ったインデックスカードに登録・集積した一連の作品も、ハンネ・ダルボーネンとの近さを感じさせる。この緻密で、簡素ながら論理的で、タイトで禁欲的な思考に美、もしくは詩が宿るぎりぎりの表現。柳の枝のインスタレーションで先述したリチャード・ロングは、草地に人の歩いた跡を一本の道=線と見做した写真を展示。ミニマルな志向を自然の環境や身体に結び付ける発想がイギリス人らしい。ベルント&ヒラ・ベッヒャーの写真、ブリンキー・パレルモのペイントに関しても、対象に形状の原型をみる姿勢を面白く思った。なぜかラインナップされているゲルハルト・リヒターや、フィールドワークに基づいたローター・バウムガルテン、「日常」のキーワードで展示されたギルバート&ジョージなどは、ナラティブの要素を引き込んでおり、展覧会の主題との関連に必然性を感じなかった。

 さて、ダンスとの関連では、一点だけビデオ作品にダンスへの接続を思わせる出品があった。モニターの中のモノクロの映像に男性がひとり、自身の脚を尺に、わずかに遠心力を使い、一投足ずつ向きや角度を変えながら振り出す動作を行っている。間をおかずに動作は続くがリズムやカウントはなく、音楽よりも建築的な発想による身体の数理の積み重ねであり、ここからたとえばトリシャ・ブラウンの『Accumulation』までの距離は近い。また、作家がデュッセルドルフのギャラリーまで出向かずとも現地での作品展示を可能にする「指示書」の発想は、近年、議論される振付の概念に関わる事項の一つといえる。美術のミニマリズムがポストモダンダンスの発生源であることはつとに語られているが、日本ではこうした数理・論理的思考による概念的(コンセプチュアル)なダンスの潮流は生まれなかったか、もしくは大きくならなかった。同時代の日本は舞踏の影響が圧倒的であったことがその理由の一つと言われる。だがダンス創作における、あるいは振付における論理思考、原理的思考の経験の欠如が、2020年代現在の日本のコンテンポラリーダンスの一部に見られる学校ダンスの延長のような集団性に依拠したナイーブな作舞や、浪花節的なナラティブに対し、無批判な状況を招いているように思える。