2020年12月24日木曜日

勅使川原三郎 佐東梨穂子 宮田まゆみ 『調べ――笙とダンスによる』

 


音と動きのテクスチャー

~勅使川原三郎 佐東梨穂子 宮田まゆみ 『調べ――笙とダンスによる』~レビュー


12月6日 @愛知県芸術劇場 小ホール



ダンスと音楽は親和性の高い芸術といわれるが、その多くは音楽に合わせてダンスを踊るというものだ。拍子をとってステップを踏み、旋律に感情をのせる。ベジャールは『ボレロ』の配役を「メロディ」と「リズム」と名付けた。ケースマイケルはバッハやバルトークの曲の構造を振付に応用する。だが本作では、要素を分析する西洋音楽とは別の回路で音楽とダンスの関係が結ばれる。3人の「呼吸家」が奏でる音とダンスは、風のざわめきや降り注ぐ光を思わせ、自らがその中に含み込まれる空間のトーンを作り出す。太古の人は音楽をこのように、場を満たす全体の気配と一体のものとして感じていたのだろうか。


最初に耳に届いて来たのは闇の中に紛れた一筋の糸のように繊細な笙の音である。わずかに照明の度合いが上がり、世界の目覚めを思わせると、闇に紛れていた勅使川原三郎が、続いて佐東利穂子が静かに舞いながら舞台前方に出てくる。長短の竹を組んだ笙という楽器の音には、天から差し込む光のような崇高さと、竹の感触を残したような複雑な響きがある。不協和音であるのかさえも定かではない音の重なりの中で、二人のダンサーは揺蕩いながら動く。かがめた身体が伸びあがり、腕が大きく軌跡を描いてゆくさまは二人のベーシックな身体語彙といえるが、その独特のテクスチャーが笙の響きとともに放たれると、空間は濃やかな質感で満たされる。二人はその質感の中を、空気を掻くように動き続ける。


笙の8つの演奏曲目はそのまま作品のドラマトゥルギーを構成する。はっきりと聞き分けられる曲調の変化は少ないが、動きに速度や勢いが出たり、静止したりする場面は、曲目の変わり目だったのだろう。無音の中で一人踊る佐東がいて、そこに再び笙の音が入るとき、新たな光がもたらされたように感じた場面。粒子のように降り注ぐ笙の音を浴びながら喜びの中で高揚する勅使川原の踊り。物語性のない本作で、こうした鮮やかな瞬間が印象に刻まれ、しかし同時に全体の流れの中に飲み込まれてゆく。気象の変化や季節の移り変わりのように訪れる舞台のトーンや質感の違いは、解説にあるように、それぞれの場を整える「調子」の曲にあたるものだっただろうか。黒い舞台を照らす、凍てついた白い照明は、冬、北、黒、水を象徴するという3曲目「盤渉調調子」のシーンであったのかもしれない。曲目の進行とともに音、ダンス、照明、空間が変化し続け、一見すると抽象的な空間に、様々な彩りや肌理、質感や抑揚が一体となった「調子」、「調べ」を奏でてゆく。


勅使川原と佐東の踊りの違いも興味深い。身体に軸と中心を設け、左右の腕を対象にかざす勅使川原は、秩序や調和や意志を志向するようにも見える。一方の佐東のうねるような動きは、非対称、流動、揺らぎを体現する。異なる二つの原理を象徴するようでもあり、単に勅使川原、佐東という個体差であるようにも思える。二人は時に近づき、時に遠ざかり、触れることのないデュエットを踊る。宮田まゆみ、勅使川原、佐東の三つの身体もまた、それぞれの音、それぞれのダンスを紡ぎながら、なお分かちがたく結び合い、それぞれの呼吸で場の質感を、彩りを、トーンを、肌理を、「調べ」を奏で続ける。そして自らもその肌理に包み込まれ、時を超えて生き続ける。


夜の訪れのように照明が落ちると、冒頭と同じ笙の一音が鳴り、やがて吹き込む息の音だけになって、舞台は闇に沈んでゆく。呼吸する者らのかそけき気配に永遠を見たような一瞬であった。


(鑑賞&レビュー講座 対象公演)



2020年12月16日水曜日

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING 記者発表

 


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRINGの記者発表が12月15日に催され、全プログラムが明らかになった。本来は本年2020年の10月に開催予定であったが、新型コロナウィルス感染拡大を受け、来年2月6日~3月28日に会期を延期した。今回はこの延期したフェスティバルについての発表である。内容はすでに一般にも公開されたので、ここでは記者発表での発言から印象的だったものを書き留めておく。なお、今回はオンラインで参加した。




今回は3名の共同ディレクターが運営する初回。リサーチ、上演、エクスチェンジの3つの軸で構成される点に注目した。過去10回が選び抜かれたキレのあるプログラム構成を誇ったとすれば、新体制ではコレクティブならではの複数の視点を生かし、周辺領域の知への幅広い関心や、足元の京都、関西のリソース再発見のプロセスを組み込んでいる。


Kansai Studies(カンサイ・スタディーズ)は建築ユニットdot architects(ドット・アーキテクツ)と演出家の和田ながらによるリサーチプログラム。琵琶湖の水にまつわる様々な事象をリサーチし、ウェブサイト、トーク、展示などで3年かけて発表していく。「コロナ流行の中、国境とか県境など境界線を意識する事が多いが、人間が引いた線をキャンセルできる視点を持ちたい。水の循環はそのガイドになる」と和田ながら氏。


上演プログラム「Shows」(ショウズ)でも小原真史が展示で参加。前世紀初頭、帝国主義国による博覧会での被植民者の展示を題材に、見られる身体の歴史を考える。身体を見る、エキゾチックな文化を眼差し、消費するなど現代の芸術と共通する点が多い、とディレクターの塚原氏。Kansai Studiesも合わせ、リサーチ&展示プログラムが充実したものになりそう。


コロナ感染の危機のもと、映像による参加も含まれるが、オンライン配信とせず上映会の形式をとった。これについて塚原氏は「作品は出来る限り決められた空間、画質、サイズで見ることとしたい」と述べる。パソコンやIT環境に左右され一定のクオリティが保てない鑑賞は避けたいとの判断だ。


関西のアーティストが入ることは予想されたが、この顔触れに新風を感じる。垣尾優はベテランだが前回の自作ソロで見せた独特の世界観に度肝を抜かれた。今回もソロにこだわる。自分の表現はシンプルでオーソドックスだが混沌としている。矛盾しているが体そのものである、と語る。ジャンルの境界や外へ向く横軸ではなく、縦の時間に関わるものだという。中間アヤカ『フリーウェイダンス』神戸、横浜に続く京都ではリ・クリエーションする。会見で自作を語る言葉が力強く、自身のやろうとしていることがより明確になっているのかなと見受けられる。


音遊びの会×いとうせいこう。言葉を音や声などより広く捉え、一人一人がいとう氏とセッションすることで、それぞれ存在の仕方が違うのだということが見えるようなパフォーマンスにしたい。一度リハーサルをしたがもうすぐにでも本番に入れそうな勢いであるという。障害のある人の参加は『劇団ティクバ+循環プロジェクト』以来。関西のダンスに通底する価値感だろう。


海外からはカナダ、オーストリア、タイ、インドネシア、カナダ。感染の状況では無事公演ができるか予断を許さないが、中止にせず何等かの形での参加を模索する方針という。3名のディレクターそれぞれ海外のフェスティバルに感じることは世界を同じ作品が回り、消費されている、それが開催地域とどうつながるかが見えないという疑問。作品のプロセスや背景が見えること、地域とフェスがどうつながるかを探ること、社会に受け止められ影響していくかを考えたい、とする。


コロナの影響による会期延期の事態に対しては、ディレクターチームであったからこそ出来ることをやっていこうと前向きになれた。世界各国のディレクターたち同業者とも定期的にミーティングして情報を共有し、プログラムにも影響している。配信ではなく上映会にしようとの決定もこうしたコミュニケーションからヒントを得た、と塚原氏。


前任者の橋本裕介氏からはKEX.の名称だけは受け継いでほしいと要望があった。そのほかは出来るだけ変えてくれと言われた。ディレクター3人で毎週2回ミーティングを行い、社会状況、背景などを話し合っている。3人だから色々なことが出てくる。ふつかることもあるがそのプロセスが面白い、それらを一つの言葉でまとめるのではなく、様々な視点で観客に提供したい。一つの定義より複数あることの自由さがある(塚原、ナップ、川崎)。