2019年7月26日金曜日

ローザス来日公演 『我ら人生のただ中にあって』


2019年5月19日   @東京芸術劇場 プレイハウス



【蔵出しレビュー】手元にある未発表原稿を掲載



東京芸術劇場プレイハウスのステージは奥行きがたっぷり深く、ほぼ正方形に近い形状で使用される。本来なら正面性のあるプロセニアム劇場とは違う場所で上演される作品なのかもしれない。2017年の初演は、ベルギー国内の使われなくなった工場か、それに似た場所だったと聞く。舞台上に装置は何もないが、床にはチョークで円や直線などの図形が描かれている。これについては開演前にロビーで販売していた写真集を見て知った。写真集を見ていなかったら1階客席からは気付かなかったかもしれない。2階席から見下ろして図形と実際のダンサーの動きの関係を確かめてみるのも面白かったろうと思う。


奥行きの深さ、天井の高さ、青み掛かった深い照明のトーン、チェリストのための一脚の椅子。それ以外に何もないがそれでもう完璧な深みをもった空間だ。チェリストのインディゴ・ブルーの服が空間のトーンに一層のニュアンスを添える。


バッハの無伴奏チェロ組曲は全6曲、さらにそれぞれが6つのピースをもつ。第一番ト長調なら、1.プレリュード、2.アルマンド、3.クーラント、4.サラバンド、5.メヌエット、6.ジーグ。曲によって5.メヌエットが、3番4番ではブーレになり、5番6番ではガヴォットになる。3番のブーレ、6番のガヴォットは有名で、リサイタルでは単独でアンコール曲として演奏されたりする。プレリュードは「前奏曲」だが、他はいずれも舞曲であることに、振付化される縁を感じる。


第1番はト長調、第2番はニ短調、第3番はハ長調・・・と曲ごとに異なる調整で作曲されている。短調は第2番と第5番だ。第一番はト長調ならではの透明な明るさのある曲調。第3番は華やかさがある。この二つは特に聴き易くポピュラーだ。いずれの組曲も一つの調整で統一された、互いにリズムの異なる6つのピースで構成されている。また第1番から第6番までの異なる調整は互いに関係し合っているともいわれ、組曲全体でひとつの秩序体系を形成しているという。こうした秩序立った形式性に魅かれて作品を作るのはケースマイケルの他の作品でも見られることで、フィボナッチ数列の応用など数理的な理論と音楽、ダンスの関係を探求する彼女の面目躍如といったところだろう。


ケースマイケルは第1番から第6番まで各曲が始まる前に舞台下手前に現れ、客席に向かって指で「I」、「II」、「III」…と曲の番号を示す。示し方にちょっとずつ指の形を工夫したサインが加わり、なにかしらの意味・符牒を込めているようにも見える。このダンス作品が何かしら宇宙のごとき構成体の一部に組み入れられるべきものであることを示そうとするかに思われた。そのことは、やはり各曲開始時、舞台奥の壁にデジタルな4桁の数字が映写される時にも感じた。これはJ.S,バッハの作品番号の提示だと後に知ったが、数字を打つ、ナンバリングするということは、世界の中の事物をある秩序のもとに整え、位置づけ、カタログ化することだ。第1番は「1007」と打たれ、以後一曲ごとに数字が増えていく。


第1番から第5番まではそれぞれを一人のダンサーが踊る。但し各曲とも2曲目のアルマンドはケースマイケルとのデュオになる。第1番は大柄な口髭のある男性ダンサー、第2番は色白の男性、第3番はショートヘアの女性、第4番はさらに大柄であごひげのある熊さん?みたいなダンサー。第5番はケースマイケル自身が踊り、第6番は5名全員で踊る。ただし少々変則的な部分があり、後に述べる。


ダンサーごとに持ち味が異なり、用いられる振付の語彙も異なる。第1番、第2番のダンサーたちがいずれもフロアへのフォールを含んだポストモダンな振付で動いていたのに比べ、第3番の女性ダンサーは精緻に音を取り、身体のポジションを正統に保ち、シャープな動きを見せていた。ただ第3番はチェロ組曲の中でも華やかさと圧倒的な盛り上がりを見せる曲だが、それに対してはちょっとお利巧に収まっている印象を受けた。音楽を詳細にアナリーゼした振付であるのだろうけれど、そしてハ長調からくる正統さと明朗さであるのだろうけれど、単に音から動きへ、では掬い上げきれない音楽の特質といったものはあるだろう。だがそうした「情」や「感」に拠った聞き方をするべき音楽ではバッハはないのだということでもあるだろうか。チェリストのジャン=ギアン・ケラスの解釈は、華美な演奏を志向してはいないものの、敢えて抑制した演奏というのでもない。軽快で、自在な弓捌きが見事で、母語を操るように弓を操る。かつ、技巧に拠るのではない、思慮深さのあるチェロ。第4番の男性ダンサー「熊さん」は床への自由落下を繰り返しながら音楽の節に応じていく。


全6曲に共通した振付要素があったことも記しておかなくてはいけない。各曲の2番目アルマンドはいずれもケースマイケルとのデュオであることは既に述べた。加えて、3番目クーラントはいずれのダンサーも軽快で躍動感ある動きを見せる。4番目サラバンドでは、音楽がゆったりとした拍子であることからだろう、床を使った動きを多用する。5番目メヌエット/ブーレ/ガヴォットでは、前進後退の歩みを音楽のリズムに合わせて行う。6曲目ジーグは各組曲の最後を締める華麗な音楽であり、踊りも躍動的なステップや、回転やターンなど「見せ場」的な要素を多く取り入れたダニナミックな振付となる。第3番の女性はギャロップ風のステップを見せていた。


もう一つ、振付について言うと、2曲目アルマンドのデュオではケースマイケルの振付はどの組曲もほぼ同じものだった、もしくは同じ部分をかなり多く含んでいた。もちろん曲が異なり相手のダンサーが異なるので全く同じデュオのピースを踊っているという印象はないが、それがかえって異なるものの中に埋め込まれた符牒を示すことになる。第4番のデュオでは「熊さん」とケースマイケルがともに客席に背を向け、ホリゾントに向かって踊る。客席からは同じ振付を背後から見ている図になる。


このように、6つのピースからなる6つの組曲という構成に、振付・構成・演出の上でいくつかの共通項を串差すように通し、さらにそれらを数学的・幾何学的に転移させながら、ダンスが音楽と空間の形式と秩序に応えようとしていることがわかる。


チェリストのジャン=ギアン・ケラスは楽曲ごとに椅子の位置を変える。第1番では舞台中央で客席に背中を向けて。2番では位置をずらし、客席に対し横向きに。3番は正面を向いて、といったように。舞台の景色に変化をつけるためと思って見ていたのだが、こうして振り返ってみると、空間的にも、本来正面性のない舞台において、観客が対象のダンサーに対してその都度異なる角度からの見え方を作り出すための操作と考えてよいのではないか。    


さて、ダンスはこのまま定形を保ち、バッハの組曲の構成に即して進行するかに見えたが、曲が進むにつれてこの形は変則的になり、作品としての展開を見せていて、なかなか一筋縄ではいかない。第3番の途中で演奏が突如途絶え、ダンスも中断、謎の沈黙・静止に入った。これはちょっとした脅かしやアクセントとしての中断というにはかなり長く、その中断、沈黙、静止の意味を見る者に否が応にも考えさせる。ハ長調の正統、明朗の只中に示された空白の中心であり、秩序ある構造の中心の無を、あるいは明朗・緻密な秩序に対するダンスの不可能性を、示唆するのだろうか。


また第4番ではやはり途中で演奏が途絶え、ダンスだけが続いていく。この楽曲を踊ったのは前述のように臥体の大きな髭の男性(熊さん)。チェロのパッセージに合わせてフォールダウンを繰り返す負荷の大きい動きをしていたが、音のない場面でも踊り込んでいったその果てに、上手袖でこちらに背を向け、身を横たえる。音楽に対してダンスは、身体という実体を抱えている限り、完全な応答は不可能であるのだと、横たわるダンサーの身体は無言で語っていたのだろうか。


チェロは第5番の演奏に入るが、先の「熊さん」はその冒頭を少し踊ってから退いた。楽曲ごとに一人のダンサーが躍るという形態に変化が加わったわけだ。第五番のダンサーとして現れたのはケースマイケルだった。この第5番にはそれまでの4曲とはこれまた異なる変化があり、まずダンスなしでチェロの演奏のみの時間帯がある。照明が落ち、下手サイドからの灯り一つが上手寄りにいるチェリストを照らす。その光にケールマイケルも照らされて踊る。ケースマイケルはしかし光の外に出て、ほとんど姿を見て取れない闇の中で踊り続ける。

つまり第3番は演奏と踊りの中断、

第4番は演奏なしのダンスのみ、

第5番はダンスなしの演奏のみ、の時間帯が挟まれているというわけである。

こうした演出・構成の仕掛けは効果的だった。聞こえない音楽を聴き、見えないダンスを想像する。それはまた、それぞれの曲を振付家がどのような言語に変換しダンサーがどう対応して踊るかにのみ焦点を絞るのではなく、組曲全体の構成、バッハの音楽の構造自体に意識を向け、演奏が、またダンスがある箇所で欠損することで、音世界の完全性(ダンスには決して体現しえない)が逆説的に印象付けられる。


第6番はダンサー5名全員が出て来て、各々のソロの動きを再び踊ったりなどする。個人的に注目したいガヴォットは、やはり5人が並んで前進後退のステップを曲のリズムとともに繰り返し、ステージの奥へ手前へと動く、というもの。本作の規則・形態に則ったとはいえ、うーん、こうなるか、そうか。

しかし最後のジーグは5人入り乱れての蝶の舞のような乱舞となった。チェロが最後の音を鳴らし終えた瞬間、余韻もなくパっと照明が落ちたのがかっこよすぎた。



ダンスについて一点言及しておくとすれば、本作に見られた振付言語は、主に現在のコンテンポラリーダンスを形作っている主要な言語と言っていいだろう。すなわちリリーステクニクを中心とした自由落下、遠心力を用いた回転、ステップ、コンタクト(触れないコンタクト含め)など、重力や空間と対話する身体から繰り出される、自由度の高い動きである。前回の来日時にプログラムされた『FASE』が、ケースマイケルがニューヨークでポストモダンダンスの洗礼を受け、ヨーロッパに戻って間もない時期に作られら作品で、まさにポストモダンダンス色を感じさせたとすれば、今回の来日公演は本作『我ら人生のただ中に会って』、もう一方のプログラム『A Love Supreme』も、ダンス・クラシック、モダンダンス、ポストモダンダンスを経てコンテンポラリーダンスと呼ばれるダンスの今日現在の熟成した言語を示しているのだと言えるだろう。より演劇的に、あるいはヴィジュアル・アートとの混交を深める方向にある今日のパフォーミングアーツにおいて、ダンスそのものの追求を続けるケースマイケル。また『A Love Supreme』がジョン・コルトレーンへの、『我ら人生のただ中にあって』がバッハへの、大いなる/切なる応答として作られたダンスであることは肝要な点だろう。ジャズに対するアプローチと、バロック/古典音楽に対するそれとの違いもさらに考えていきたい。