2016年2月29日月曜日

Monochrome Circus 『HAIGAFURU Ash is Falling』

書きそびれたレビューのためのアーカイブ1

Monochrome Circus
『HAIGAFURU   ASH IS FALLING』
2015年1月17日(土) @京都芸術センター フリースペース

振付・演出:坂本公成
演出助手:森裕子
出演:合田有紀、佐伯有香、野村香子、森裕子、渡邉尚
作曲:山中透
照明デザイン:藤本隆行


三好達治による詩『灰が降る』をサブテクストに世紀を隔ててなお人類を翻弄し続ける「核」の問題、文明の孕む問題、その中での身体とダンスの未来を考察した作品。
日本―フィンランドのコラボレーション作品として、日―フィン4都市で上演し好評を博した同作品をMonochrome Circusのダンサーに委嘱。ヴァージョン・アップして京都初演を行います。
――――公演フライヤーより


2011年3月11日の東日本大震災に伴う福島第一原発事故を受けて、坂本公成が核と人類を巡る黙示録的な主題に正面から取り組んだ作品だ。コンテンポラリーダンス作品の中で3.11以来私たちが向き合わざるを得なくなった現実を、心情的レベルを超えてこのように明確に主題化した例が他にあるだろうか。東北の被災地へ芸術面からの復興支援で訪れるダンスアーティストや関係者は多い。被災地に伝わる伝統芸能を復興の精神的な足掛かりにしようと立ち上げられた「習いにいくぜ‼」のプロジェクトなど、ダンスというジャンル特性を生かした貢献には大きな意義があり、私自身敬意を払っているつもりであるし、何かの形でコミットしていけたらと思う。芸術のもつ社会的な機能は苦境に直面する場においてこそ発揮されるべきだろう。だがこうした直接的な支援の活動が続々報告される一方で増してくるのは、アーティストはなにより、表象によって時代に応えるべきではないのかという思いだ。あの震災と原発事故をどう受け止め、それ‘以後’をどう生きるのかを、表象活動を通じて思考することが表現に携わる者の絶対に放棄してはならないはたらきではないか。「まるで失語症に陥ったかのよう」と述べた人がいたが、コンテンポラリーダンスから3.11に言及する作品が出てこない中、坂本公成による本作『HAIGAFURU/ASH IS FALLING』は、原発事故と放射能汚染の問題を主題化した、少なくとも関西で見ることのできる現在ほとんど唯一のダンス作品といっていいだろう。本作は2012年、JCDNとフィンランドのダンスセンター、ZODIZCの共同企画により、フィンランドで滞在制作されたものである。フィンランド国内で公演を行ったのち、鳥取「鳥の演劇祭」、KAAT神奈川芸術劇場でも上演された。今回はこれを坂本自らが主宰するカンパニー「Monochrome Circus」のダンサーとともにあらたなヴァージョンとして上演する。

本作を作るにあたって坂本がサブテクストとした詩人の三好達治による『灰が降る』。「灰が降る灰が降る 成層圏から灰が降る」のフレーズで始まり、後半には「それから六千五百年 地球は眠っているだろう」と唄う。先に3.11‘以後’と時代を区分して述べたが、本詩はもともとヒロシマ、ナガサキを受けて書かれ、核と放射能の脅威が世紀を超えて人間に重くのしかかる悲劇をむしろ淡々とした調子でうたったものである。この詩を傍らにした坂本の創作は、福島/フクシマの原発事故もまた、人類にとっての、文明史的な、六千五百年という時間のスパンをもって対するほかない出来事であるとの認識のもとにある。被爆国の日本が核の平和利用の名のもと原発によるエネルギー政策を推進してきた事実。地方への原発の押しつけ、安全神話の欺瞞、核は現在の人間の英知によってはコントロール不可能な対象であること、廃炉に40年、使用済み核燃料の最終処分に途方もない年月を要すること。これだけの重大事故を経験しても原発廃止を選択しない日本という国家。フクシマがあらわにした現実に向き合うほど、暗澹たる気持ちに襲われる。

『HAIGAFURU/ASH IS FALLING』は、こうした状況に置かれての坂本自身の苦悩を映し出すかのような舞台だった。カンパンニーの技法の中心であるコンタクト・インプロヴィゼーションは、ここでは完全に封印されている。個の身体と身体の間のリアルな力の交換から関係性を築いていくコンタクト・インプロヴィゼーションが内包する価値観は、億年単位の時間に置かれる主題に対し無力であるとの判断からだろう。この、カンパニーにとっての代名詞ともいえる技法を「封印」した事実が、何より坂本の抱く危機感を伝えているように思う。実際の舞台はコンタクトインプロ以外のモノクロームサーカスならではの身体言語を存分に用いつつ、人類の受難の表象を提示していくといったものだった。冒頭ではろうそくの灯を手にしたダンサーたちが暗い客席に現れ、口々に「Ash is falling」と囁きながらステージフロアへ降りていく。客席前面で裸電球が大きく振り子状に揺れる。この後、舞台ではLED照明が駆使されることになるが、ろうそく、電灯、LEDの提示は文明の発展段階を示しているという。人類の英知へのせめてもの希望を託そうというのだろうか。

作品の構造は極めて明快だ。演技するフロアの最奥から客席手前までの距離を、5名のダンサーたちが横一列の隊形を保ったまま、寄せては返す波のごとく行ったり来たり、行き来を繰り返す。そのシンプルな反復の内からドラマを浮かび上がらせる。

フロアに降りた5人は床上を腹這いになり、もがくように前進してくる。陸地へ辿り着こうと死力を尽くす難民を思わせるその様子は、危機に晒され喘ぐような苦汁を湛え、半裸の姿は剥き出しになった人体そのものだ。崩れ落ちる身体、引き攣れたポーズ。横臥した体側から手足を泳がせ、捩れた手足を差し出しながら床上をでんぐり返って進むなど、フロアムーブメントの様々な応用が歪(いびつ)に展開する。なかでも行き来する距離の中ほどで5人が揃って傾斜をつけ倒立するシーンは強く印象に刻まれる。5つの身体が等間隔で記念碑か墓標のように立ち並び、一体ずつスポットライトに照らし出される光景は、核の閃光を浴びる人類のイメージであり、高度のテクノロジーがもつある種の美しさと破滅への予兆を孕んで極めて象徴的だ。5体の倒立はゆっくり崩れ、スポットライトの中で胎児のように身を丸める。5つのライトがフェイドアウトしても、音を奏でるオルガンの一音が音質のみを変えて響き続けている。

再び照明が入って以降は、この寄せては返す波の往復という大枠の構造のうえに、核に晒され、ゼロと化した歴史の果てに、歪んだ人類のあってはならない歩みが始まるという〝もう一つの”叙事詩が描き出される。大きく身を反らせ、高々と足を上げ、身体の可動域いっぱいの運動性を増したフロアムーブメントによる何度かの往復のあと、ダンサーたちはそれぞれ服を着る。そしてここからいよいよ床から立ちあがってのムーブメントが展開される。重力への意識と反動、遠心力や張力を生かしたモノクロームサーカスならではの動きが次第に熱を帯びていく。最後のシーンはとりわけ示唆的だ。一切の色彩を失ったステージに女性3名のみが起き上がり、茨木のり子の詩『おやすみなさい、大男』のテキストが、やはり3か国語で読まれる。「どこか間違っている」「大切なのはごくわずかです」などのフレーズを含んだ文明批判の詩であることがわかる。女たちが立ち上がり、こちらに背を向け、新たな出発を仄めかし、暗転して終わる。

藤本隆行デザインによるLED照明、山中透による音楽は、廃校を利用した京都芸術センターのフリースペースにスケール感のある空間を創出する。宇宙を思わせる電波音がやがて波音に変わる冒頭は、東北の震災と津波を思い起こさせると同時に、人類の帰し方を想起させるようでもある。LEDライトが激しく点滅し、ノイズの重厚な重なりの奥に人の叫び声が混じり、壊滅的なカタストロフィのイメージが立ち上げられる。藤本はフィンランドのレジデンス制作時から参加するチームの一人。LEDライトは対象をベタに照らし出すことがなく、赤青緑の原色もストロボ点滅も繊細で抽象度が高く、受苦の人体の生々しさを主題のもつ普遍的な時間のスケールに繋げる。山中は今公演のためにあらたな作曲も加えたという。空間の密度を上げる重厚なノイズ、そこに重なる波の音や人の叫び声が3.11を具体的に想起させる一方、レクイエムのような響きの箇所は荘厳さを感じさせる。後半の凍えるような低音部のリフレインにはシベリウスを連想させる響きがある。テクノロジーに基づいた音響の構成が作品の謳うテーマの普遍性と、言ってよければ宗教的な色調を舞台に与え、微かな救済の兆しを見るようにも思われてくる。

アフタートークの内容を記しておくと、フィンランドで制作した初演ヴァージョンと今回では内容的に大きく違う点はない。ただフィンランドは建設中の核廃棄物処理施設オンカロを抱える国であり、現地のオーディションで選んだダンサーたちと創作を通して核をめぐる話をたくさんしたという。金髪のダンサーたちとの作業の「国際性」は、原発事故が突き付ける問題を日本という枠を超え、地球規模で捉えざるを得ないと感じさせたという。日本を離れて制作することで、原発事故に右往左往する日本という国(の愚かさ)を外から見ることにもなった。また藤本によれば、現地での会場は工場跡の廃墟で天井が高く客席は遠い。そうした条件が作品のもつスケール感やデザインを方向づけた。今回は黒髪のダンサーたち、舞台と客席が近いことなどが、より当事者であることを感じさせたという。フィンランドでの滞在制作が3.11を人類の受難という概念に繋げたと言ってよいようだ。

ところでこのフィンランド制作版を、それ以前に坂本が鳥取のコミュニティダンスチーム「とりっとダンス」と共に作った作品『それから六千五百年 地球は寝ているだろう』と対比してみると興味深い。こちらは鳥取で滞在制作され、2012年3月11日、JCDN主催「踊りに行くぜ‼ セカンド」の一演目として京都で上演された。3.11からちょうど一年後という日付だが、この前年の9月にすでに鳥取の「鳥の劇場演劇祭」で初演されている。あの震災と原発事故の後、約半年後には作品が作られていたわけである。『HAIGAFURU』で用いられたいくつかのモチーフは『それから六千五百年・・・』にすでに現れている。タイトルが三好達治の詩『灰が降る』の一節から採られているのも同様であるし」、波の音、ろうそくの灯もすでに出現している。同じ主題、同じモチーフによる創作にコミュニティ・ダンス、国際共同制作、自身のカンパニーへの委嘱と、3つの体制でそれぞれ取り組んできたことになる。この中で最初の取り組みとなる『それから六千五百年・・・』は、震災と原発事故の直後の混乱や不安が鳥取という被災地から離れた地域でも切迫感を持って受け止められるといった状況下で生まれた。生と死、受け渡されていく命を巡るさまざまなインスピレーションに満ちたコミュニティ・ダンスの秀作だが、一般市民である「とりっとダンス」のメンバーたちとの創作には、今ここに立って生きていることの手応えと、生き延びるための連帯をメッセージとして含んでいたと思う。そのことは、この希望の見えない光景を描く作品の後半に、谷川俊太郎の詩『生きる』をダンサーたちが口々に発語するシーンからも届いた。教科書にも載る谷川のこの詩は、一般の人々が自身にとっての「生きる」とは何かを綴りインターネット上で連作したことでも知られる。この詩のもつ力が、不安のさなかに作られたコミュニティ・ダンスに力とモチベーションを与えたのだ。

さて、コミュニティ・ダンスが人々の連帯と生きることの手応えを感じさせたとすれば、今回のカンパニーによる上演は原発事故から4年という年月を経て、むしろ苦悩の色を濃くしている。原子炉3号機4号機の放射能漏れを巡る対応にせよ廃炉への道のりにせよ、状況は時間の経過とともにますます混迷の度を深めている。希望を見出すことのできない重い現実を投影した作品を、今回坂本は、自らのカンパニーに振り付けた。自身の苦悩を、身体言語を同じくする、全幅の信頼を置くカンパニーのダンサーたちに預けたのだ。コンタクト・インプロヴィゼーションは封印したものの、本作の振付はMonochrom Circusの日常的に訓練している身体言語であり、床上の動き、立ちの姿勢での動き、いずれも普段のボディ・ワークに即したものである。ダンサー達は動きを引き受け、振付の意図を自らの意志に重ね、各々が獲得している身体言語に存分に語らせるのである。5人のダンサーは横一列に位置し、同時に同じ動きをするものの、それぞれの身体の咀嚼によってアウトプットのされ方は個別的であり、5人で動きをきっちりと揃えるといったことはしない。むしろひとりひとりが自立した表現者として振付を動いており、危機を生きる主体としての身体で踊る。それぞれの解釈の深度が強くしなやかな動きににじみ出るような、深々と使った身体による見事なパフォーマンスだった。表現者がカンパニーを持つことの意味を考えさせられた。