2021年3月7日日曜日

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADOR

 

32日(火)

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADORA   @元町映画館

  

モダンダンスの始祖として知られる伝説のダンサー、イサドラ・ダンカン(「イザドラ」が正しいと言われる)。映画ではダンカンについて多くを語らないが、彼女が二人の子どもを事故で亡くしており、その悲痛の中で亡き子どもたちに捧げて創作したソロダンス『母』をモチーフとして語り進む。物語は、この『母』を巡って、作品をそれぞれの関わり方で受け止める女性たちについての3つのオムニバスで成り立っている。互いに直接には関わらないが静かに呼び合う3つのエピソード。舞踊作品『母』には記譜が残されており、これを手に入れた振付師のアガトが丹念に読み込みながら振りに起こしていく様が、最初に描かれる。パリの街の寒色の風景の中、ひたむきに記譜に向き合う若き振付師の勤勉さ、創作にいそしむひたむきさが引き締まった空気を画面に与える。周辺的な話題というものが一切描かれないのも特徴的。アガトという人物や生活にまつわるあれこれなどには一切触れないのである。またダンスを描くのに、稽古場の熱気とか、身体のリアリティといった定形を用いず、記譜を読み、振りを起こし、その作業の中にイサドラ・ダンカンの魂をすくい上げようとする淡々として知的な取り組み方が、かえって新鮮だ。コロナの時代のダンス創作に相通じるものがある。今ここであること、一つの場所に集まること、生身の身体によって遂行されること、共同性の中で創作すること――上演芸術の条件と信じられてきた約束事が無効になって、なおダンスの真髄に触れようとする態度。アウラを介さない創造と受容。もう一つのダンスへのアプローチは可能なのである。


二つ目のエピソードは、『母』の公演を控えてリハーサルを重ねる振付師マリカとダンサー、マノンの対話と交流の日々。二人は親子なのか、と最初に思ったのだが、マリカには離れて暮らす二人の子がおり、マノンはそのマリカの寂しさ(彼女と子たちとの間にどのような関係の経緯があるのかは語られないが)をみつめる。マノンはダウン症であると思われ、いわゆる鍛え抜かれたダンサー然とした身体をもった踊り手ではない。そのことが映画を複層的にしている。マノンは誰かのケアを必要とする側と思われるが、実際には傍らのマリカを深い洞察によって思いやっている。母と娘に似ていながら、それとは違う関係性が一組の振付師とダンサーの関係に垣間見える。


3つ目は『母』の公演を見た観客のひとり、エルザの物語。観劇後の彼女の行動をつぶさに捉えていくが、やはり周辺の事情は一切語られない。拍手をし、劇場を出て、杖をつきながら街路を歩き、レストランに辿り着き、ひとり遅い夕食をとり、タクシーに乗り、夜も更けており、さらに杖をついて夜道を歩き、カギを開け、家に入り、鍵を所定の場所に置き、部屋着に着替える。なぜかこの行動の一部始終をカメラは追っていく。そして彼女の老いが見る者に切なく迫り、部屋に飾られた写真の少年は彼女の子であろうことが察せられる。喪失の中で重ねてきた彼女の月日が想像される。カーテンを開け、夜の街の景色を見るエルザの、遠い目、孤高の魂。かつては舞台に立った人であるのかと、ふと思った。


母になったことのない女性、現在母である女性、その傍らにある女性、そしてかつて母であった女性。年代も境遇もルーツも異なる4人の「母」を巡る思索が、イサドラから時を超えて遠く響き合いながら、静かなトーンで描かれる。余計なもののない物語、そして画面。それでも十分に、むしろたっぷりと語られるそれぞれの魂のドラマがある。



監督:ダミアン・マニヴェル

脚本:ダミアン・マニヴェル、ジュリアン・デュードネ

撮影:ノエ・パック

出演:アガト・ボニゼール、マノン・カルパンティエ、マリカ・リッジ、

エルザ・ウォリアストン