6月30日(木)
Co. Ruri Mito 『ヘッダ・ガーブレル』 @愛知県芸術劇場
イプセンの戯曲を原作とした舞踊作品。「人形の家」同様、近代化の過程でなお残る古い因習の中で生きる女性の葛藤する姿を描く。あらすじのみを押さえて観劇に臨んだが、岩波文庫の解説には「美しく魅力的な婦人」「暇で退屈だけれど自分では何をしたらいいのかわからない」「でも他人の成功には平成でいられない」「強そうで臆病」「望みが高いが平凡」「気位が高いくせに嫉妬深い」「複雑で矛盾した性格のヒロイン」などとある。上演史上は女ハムレットの異名もあり、各国の女優の意欲をかきたてる役であるようだ。すでにある物語を舞踊に起こすのは、ことにストーリーやドラマを表現しないことのほうが主流となった今日のダンスにおいては、むしろチャレンジといえる。公演前にも戯曲を舞踊化する今作の試みに焦点を絞った対談がリリースされている。三東は原作のプロットを追うのではなく、主題の本髄を掴み取り、一人の女性の内面の動き、人間の精神のドラマとして立ち上げた。
主人公と自身を重ねた三東瑠璃の圧巻の身体、独特の振付言語によるコロスたちの集団ワーク、加えて今作では視覚に訴える濃密なイメージが映像を駆使して次々と投入される。記憶のフィルターを通した幻想的な映像には、男性(森山未來)との粘着的な関係が仄めかされ、主人公は関係性への執着と解放への希求との間で引き裂かれる。意識の底から掬い上げられたようなイメージは、懐かしさで人を縛りもすれば、存在を脅かしもする。エフェメラルな映像と現実の舞台空間が重なり合い、映像の中の人物とリアルなダンサーの身体とが融合してシーンを形成する手法も新規な試みといえる。挿入されるテキスト(「それも愛だったのだろうか」などの文句を含む)の朗読がさらに重層的に記憶や幻想の描写を色濃くしてゆく。
特徴的なのは舞台の床に急勾配の傾斜をつけていることで、ダンサーにとっては動くうえで大きな負荷となる。本作に先立つインタビューで三東は主人公ヘッダの「痛み」について語っているが、この負荷の大きい床で踊ることでその痛みを自らの身体で引き受け生きようとしたのにちがいない。見る側にとってこの急勾配は床面近く低めに推移する三東の動きを隈なく見て取るのに役立った。しなやかで敏捷で動物的な身体は配役以前の三東自身の踊りを他の身体と区別する。可動域を超えるほどの背面の反りを何度も見せ、そのたびに生への渇望と痛みが三東を貫く様子は、主人公の苛烈な生が三東自身のそれとなって現れ出るかのようだった。床からホリゾントまでが一枚のスクリーンと見なされ映像が大きく投影されたり、勾配の天辺あたりでダンサーらが動いていると、その群れから床を転げ落ちるように人物の映像が投射されたりするのも斬新だった。全体に縦方向のスケールが強調されており、そのことが叙述的であるより直観的に精神のドラマの強弱や高低を掴み出して提示するのに奏功していた。ドレスが床の底辺から天井へと引き上げられてゆく最後のシーンも、美しくも凄絶。ヘッダの悲劇的な生の結末を象徴している。
共演のダンサーたちの動きはCo. Ruri Mitoに見られる独特のもので、一人一人が固有の身体性を謳歌するコンテンポラリーダンスの思想とは異なる身体観による。最初にこのグループを見たのは2018年の『住処』@セッションハウスだったが、舞踊史上のどのような影響関係のもとにこのような身体の扱いが生まれてくるのか全く見当がつかなかった。身を寄せて集まった複数の身体は有機的な群れになり、不思議な形で結び合い、重力に対し共同の力で抗する。互いを支え、ソリストの身体を支え、信頼で結びつき、献身的にタスクに殉じる。テクニックを備えたダンサーの身体がリズムとカウントで自律的に動き出すといったダンスの作り方とは全く違っていて、身体がその物質性に依拠したまま相互に作用し合い、形状を結び、関係を変化させてゆく。力の配分や位置関係は精密に振付・設計され、精度高く遂行されているように見えるが、たとえ重力やコンディションなどの誤差がイレギュラーな出来事を招いても、互いの連携の間で吸収していくような、それ自体が呼吸する、中心のない集合体である。