2023年7月22日(土) @京都場
俳句 阿部青鞋
演出・構成・衣裳 増田美佳
出演・振付 神村恵 増田美佳
音楽 中村公
オブジェ キム・スミス・クラウデル
舞台監督・撮影 脇田友
翻訳 山口惠子 ブリジット・スコット
俳句翻訳アドバイザー 山本真也(ポストトーク・ゲスト)
自らも句を詠む増田美佳が俳句をスコアに見立てて踊ることを試みる。出演は増田のほか、スコアを用いてダンスを立ち上げるプロジェクトを継続中の神村恵。神村のプロジェクト『無駄な時間の記録』には増田も参加している。
今回の上演では阿部青鞋による俳句をスコアとして取り上げている。阿部の俳句は「手の甲」「中指」など、必ず身体のいずれかの部位を示す一語を含んでおり、からだへの眼差しをシャッフルするような感覚を呼ぶ。増田と神村は五十の句を選び、それぞれの解釈で一句ごとに短い振付に起こしている。
プロジェクターが壁に俳句の文字列を映し出すと、その投射を挟んで左右に並んだ増田と神村は、立ち位置をかえることなくその場で振付を動く。カシャ、カシャ、というプロジェクターの音とともに一句ごとに投射が切り替わり、そのたびに二人はそれぞれ短い振付を動いていく。一つの句が詠まれるごとに、二つの身体は異なる動きで応答するが、腕なら腕、爪なら爪と句ごとにフォーカスされるので、これを蝶番にして対の関係を保ちながら動きとイメージを提示していく。
五十の句に50の振付。全ての句の提示と振付の動き終えた後は、はじめに増田が、次に神村がそれらの振付を連続させてソロで動く。かるたをめくるように示された句と句、振付と振付の間に相互の関連はないので、それらを続けて動くと、ちょうどE.レイナーの『トリオA』のような振付の数珠状の平坦な連なりが生まれる。ソロの後はデュオ。振付を連ねて踊る線が二本、増田のそれと神村のそれが、各々振付の順序を変えたり、互いの振付を交換したりしながら、空間を広く使って動いていく。偶然のシンクロのように二人が同じ振付をユンゾンで動く瞬間もおとずれる。組み換えや構成のルールを変化させれば、俳句に対応した基本の振付がある限りダンスをいくらでも展開していけそうだった。
俳句は五七五の音に情景を詠み込む。限定された形式に内容をぎゅっと凝縮させた句もあるが、阿部青鞋の句は余白が多く、沢山のものを詠み込まない。増田いわく「スナップ写真を撮るように情景をサクッと切り取る」。そこから起こされる振付は増田、神村ともに1アクションか2アクション程度の簡素な動きで出来ている。だが、一つの句を解釈し、情景を想像し、意味を読み取って振付に起こしていく作業はそうそうサクッといくものではないらしい。余白の多い青鞋の言葉は真意を汲み取るには想像力を要し、ときに五七五の中に思いもよらない物や事を結び付けて詠んでいたりする。「ねちねちと」「こねくり回して」動きを作ったと二人はそれぞれに言う。簡素な振付の形が50個。これを組み合わせ連ねて“構成する”ことでダンスを踊ることが出来るが、ベースとなる振付そのものを生み出すには身体を駆使して動きをさがし、形をつくる作業を経なければならない。増田美佳の前作『カタストローク』は踊りの型を巡る思索だったが、連綿と受け継がれる「型」にも、それが成立し定形化するのに費やされた時間や作業の過程がある。また型には意味やイメージが内包されている。定形のバレエのパも、他のさまざまなメソッドも、オリジナルの意味を内在させている。記号というものがそもそもそうであるように。
ここでスコアを巡って二種類の時間があることがわかる。未知のダンスを探して未踏の地に踏み出す時間と、全体の想定のもと現在において部分を再現する時間。そのどちらにも阿部青鞋の俳句が存在する。創造を触発する言葉と、再現の契機となる言葉。スコアの定義とは、はて何だったろう?
上演は句の投射と振付の実演で坦々と始まり、振付ごとに身体の部位を意識させる動きを重ねた先、最後に訪れるのはスコアを外れて動きが自発的に展開していく時間だった。以前は染め物の工房だったという場の環境――コンクリートの床、木造の壁や天井や梁、光、空気、気温、オブジェ、観客の存在、そして上演の流れ、そうした条件の中でスコアなしで動きを選択していく。相手の手に自分の手を添え、そこにまた相手の手が置かれ、さらに応じ、互いの手が即興で応答し合う場面。その繊細な一手一手に引き付けられた。また背中合わせに立った二人の一方がゆっくりと前屈して相手を背中に載せる。足を宙に浮かせる相手の身体と支える自分と重力とのバランスは、無数に選択されうるフォルムと力学の関係性のあわいから、今ここの選択として現れた特別な瞬間だった。
スコアからダンスを立ち上げる神村の発想と、そこに共働する増田のこれまでの取り組みから派生した本作だが、俳句のもつイマジネーションの喚起力や読みの自由さはスコアを逸脱しており、スコアの概念を押し広げていくものであるように思われた。