2024年4月13日土曜日

『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』



<蔵出しレポート>

神戸リパブリック KOBE Re:Public Art Project(KORPA)より 

2023年2月24日~26日            @神戸市内の喫茶店


作・演出 岡田利規

出演 片桐はいり



日本の現代演劇のホープ、岡田利規による本作は「喫茶店演劇」として知られ、これまでに大分、東京、横浜で上演されてきた。このたび神戸では4か所の喫茶店が会場に選ばれ、計5回の上演が行われた。そのうち以下の3公演を見ることが出来た。いずれも由緒ある元町中華街や元町商店街に位置し、この町のハイカラ文化を支えてきた昭和の香り高い老舗である; 

2月24日 喫茶しゅみ

2月25日 元町サントス

2月26日 アルファ本店


喫茶店演劇の出演者は一人。会場は実際に営業中の喫茶店の店内。観客は店の外からガラス越しに鑑賞する。神戸公演で配役されたのは俳優の片桐はいりだ。著名度の高さゆえだろう、各回とも店の前に黒山の人だかりができる人気ぶりだが、何が起こっているのか知らぬままに人が人を呼び群衆が生まれた側面もある。人は人が集まっている場所にこそ集まるわけだが、コロナ禍で集合と接触が徹底して避けられた時期を思うと、この光景のコントラストは強烈に映る。


一人芝居である本作では、窓際の席に案内された喫茶店の客が一杯のコーヒーを前に途方もない想像を繰り広げる。俳優の一人語りはスピーカーによって店の外に届けられる。店外にはモニターも設置されていて、テーブルを頭上から撮影するカメラが俳優の手元を映し出す。


「世界は、はじめ液体だった。」で始まる演劇は天地創造の壮大な物語。暗黒の液体を示すのが他でもない手元のコーヒーだ。片桐はいりはクリームを入れてスプーンでかき混ぜ、宇宙のはじまりの渦を作る。「やがて光が生まれた」「時間が生まれた」と繰り出される哲学的な語りは、片桐のリアリズムを超越した演技を得て、妙に説得力のあるドラマとなる。大勢の観客はスピーカーから届く物語に聞き入っている。俳優は語りと同時にシュガーポット、紙ナプキン、タバスコ、粉チーズなど、昔ながらの喫茶店ならもれなく卓上に置かれているアイテムを次々に手に取り、それらを配置し、宇宙の創生を「再現」していく。コーヒーの黒い液体や粉チーズやタバスコをまき散らしたテーブル上はあたかも抽象画のキャンバスとなり、これを頭上から捉えた映像がモニターに映し出される。外にいる観客はガラス越しの俳優の姿とモニターの「絵」を交互に眺めるが、実際にはそのどちらも視界に納めることのできなかった多くの人々がいたようだ。それでも群衆の数は増えこそすれ減ることはない。人が人を一目見たいと欲する思いはかくも強烈だ。演劇とは人の身体を見たい欲望を正当化するための手の込んだ遊戯ではないのか――このような考えが巡るのも、これが劇場ではなく、演劇とはゆかりのない場所での、通りがかりの人々を巻き込んでのイレギュラーな上演であったからに他ならない。


さて物語はといえば、語り手は世界に最初に現れた一族の末裔の最後の一人であり、現在の世界を統治する新興の一族の支配を不当と感じている。そして歴史の彼方に忘れ去られようとする自らの一族の尊厳を掛けて反撃の機会を窺っている。かように陰謀論めいた話ではあるが、俳優の語りを最初から聞いてきた者たちには、それが荒唐無稽な妄想どころか、彼女にこそ理があると思えてしまう。商店街のとある喫茶店で一杯のコーヒーを嗜むごく普通の日本人の脳内に、このような陰謀論が巡っているというシチュエーション。それを聞く者たちもやすやすと「真実」として受け取ってしまう危ない状況。俳優の姿を十分に見られない渇望こそが陰謀論への加担を促している。誠に不穏な、政治的な演劇である。本作は2015年の作だが、2023年現在の政治状況に見事なまでに合致した展開に唸らされるばかりだ。


見事な怪演ぶりを発揮した片桐はいりは、何かを床に落とす粗相をしたり、「すいません、ちょっとナプキンを」と店の人に恐縮しながら頼んだりと、演技の合間に「素(す)」の自分を晒す時があり、アクシデントとはいえ日常と演技の落差を見せて、これもまた演劇なるものの原理を思わせる瞬間だった。語りを終え、会計を済ませてドアから出てきた片桐は、大勢の観客に観劇の礼を述べて去って行った。その姿は現代を生きるごく普通の日本人女性と変わらない。


やがて人だかりは解けて町はいつもの賑わいに戻るが、商店街を行く人々の脳内には、他人には想像もつかない思想や妄想や奇妙な信仰や不穏な感情が渦巻いているのかもしれない。喫茶店演劇を見た人は、人の集まりである「町」や「社会」を支えていた所与の信頼が根底から揺さぶられる思いを抱いたことだろう。