<蔵出しレビュー>
金魚(鈴木ユキオ) 『言葉の先 The Point of Words』
2009年2月18日 @アトリエ劇研
年明けから3月までのコンテンポラリーダンス公演のシーズンに、鈴木ユキオは4種類の公演のために関西に来て踊った。自身のカンパニー「金魚(鈴木ユキオ)」の自主公演の京都ツアー(2月18,19日)のほか、白井剛演出「blue Lion」へダンサーとして参加(2月13~15日)、「踊りに行くぜ!!」スペシャル公演においてバイオリン奏者とのデュオ作品「Love vibration」を上演2月21,22日)、日米振付家交換レジデンシープロジェクト参加(3月22日)と立て続けの登場である。首都圏を基盤にするアーティストにとってのアウェーで、ワークインプログレスやラフ・スケッチ的なアトリエ公演ではないそれぞれの完成形を披露したことになり、見る側には作品ごとの成功・不成功を云々する以上に、気鋭の踊り手の現在ある位置を広い角度から見極めることのできる絶好の機会だったと言える。トヨタコレオグラフィーアワードの最新の受賞者として鈴木ユキオへの期待は大きいはずだ。伸ばした髪、無駄をそぎ落とした肉体は禁欲的な求道者を思わせ「土方の再来」などと言わしめたりする一方、クールでストイックな風貌は新たなスターを求めて止まないマーケットの欲望にも合致しよう。そのような業界的事情はさておいても、現在のところ極めて刺激的で画期的なダンスであることに異論はない。舞踏に出自をもちコンテンポラリーダンスにエントリーされる彼の踊りは、同じく舞踏出身の伊藤キムが舞踏とコンテンポラリーの「融合」において貢献したのとは異なり、二つの領域の境界を限りなく接近させながらなお峻別するギリギリの縁を進むものだ。舞踏の理念から出発し、本質へと腑分けしていく鈴木の踊り手としての道筋は、見る者に対してもダンスの理論と実際の舞台とをつなぐ刺激的な思考を促すものである。
理念からの出発とは、室伏鴻と若手3人で組んだユニットKo&Edge Co.、とりわけ2006年大阪で上演された「DEAD 1+」を念頭に置いて述べている。銀色に塗り込められ、地面にまっ逆さまに突き立てられた3つの身体が衝撃を与えた舞台である。ユニットのひとりであった鈴木ユキオは他の2名とともに、神々しさと如何わしさのあい混じった身体となり、封じ込められたファロスのイメージと幾度となく繰り返される「倒れ」によって、運動の不可能性を律儀なまでに具現化した。これは立てないことを巡る考察でもあった。
およそ舞踊とは立つことを巡る技術と思考のうえに成り立っている。「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」との土方巽の言葉はあまりに多くを内包し、我々を惑わせ、惹きつける。立ちつつ崩れる、と言ったのは室伏鴻である(*1)。立つ、ということのなかに、立てない、は含まれ、今あるこの姿勢の内にも、立つ、は含まれている。身体を走る幾つものベクトル、せめぎあい、おそるべき可能性がひとつの身体に内包されている。硬直した倒れ、崩壊、四つん這いのケモノ、いずれもイメージの模りなのではなく、そうであり得るかもしれない身体の、異なる様態、無数の相の、いま、そこでの現前と見るべきなのではないのか。
「言葉の先」より一作品前にあたる「沈黙とはかりあえるほどに」を携えて京都に来たのは2007年9月である(京都芸術センター)。「DEAD 1+」のスタティックな佇まいから一転し、ひりひりと剥き出しの危機に晒された舞台の驚きは今も鮮明だ。足元が床に着地するそばから次々とおびやかされ、自らを追い立てる緊迫の舞台である。直立し安定しているその状態はまやかしだとでもいうように、自身の身体の外へと激しく引きちぎられ、放り出され、立つことの自明性がことごとく覆されていったのだった。
いっぽう「言葉の先」に顕著であるのは、動きの中途に差し挟まれる中断である。「沈黙とはかりあえるほどに」のすべてを投げ出すような苛烈さは沈静している代わりに、動きを堰き止め、つんのめるようなカウンターを喰らわせる。立つことの自明性への問い質しは、より微分され突き詰められた巧妙な方法で遂行される。振り上げようとした肘が鋭角に曲げられたまま中途でバウンドして行き場を失う。その先に予測された軌跡は去勢される。中断とは、疑うことだ。身体の道理、自然な気の流れ、当然の物理の法則に導かれるムーブメントの自明さに疑義を差し挟むのである。さしてみれば、鈴木ユキオの引き継いでいるものが理論に還元できない自然の摂理に即した身体、ましてや民族性や土俗や前近代に根ざした所与の歴史としての身体といった舞踏の思想的な価値ではなく、ひたすらアンチテーゼとしての、異議申し立てとしての、つまりはモダニズムの地平に現れる批評の運動としての舞踏であると理解されないだろうか。コンテンポラリーダンスとの接点を見出すとすれば、そのスタイリッシュな舞台の相貌に拠るというよりも、彼の中にあるモダニズムの理論に即したラディカルとも言える方向性が、既存のダンスの否定や越境を所以とするコンテンポラリーダンスの批評性(いまだ有効であるかはともかく)に符合する点だろう。
それにしても舞踏とは何だろうか。西欧近代の合理主義に対する暴力、エロス、異端と暗黒の美学、肉体の起爆力、そして祝祭性、あるいは身体を自然と捉え、場との交感や共振をはかるエコロジー的思想など、さまざまな価値を孕んで鬱蒼とした森のごとくダンスに隣接している。強烈なアフォリズムが掻き立てる特異なイメージは、かえって本質から我々を遠ざける。現在もっとも有効な視点を与えてくれるのは、舞踏の思想的な側面ではなく、身体と技術に関する理論からのアプローチであるように思われる。即ち、西欧近代の合理主義の体系というべきバレエが身体各部位の「統合」をはかる技術であるのに対し、舞踏の技術の核心は統合の解除であるとする見解である(*2)。重力に屈して崩れ、倒れる身体、あらゆる部位がそれぞればらばらに動いている舞踏に特有の身体の有り様とは、重力に抗して身体を立ち上げるバレエの技術の体系を対照項に置いた身体理論の批判的な実践とみることができる。これは「立つ」のなかに「立てない」が含まれるとして身体の倒れを提示する室伏鴻から、ブロンズ色のまっ逆さまの身体を経て、立つことの自明性をことごとく疑問に付さずにおかない鈴木ユキオまで、一貫して流れている批評性を理論的に裏付けるものだ。舞踏のアフォリズムと身体の理論をつなぎ、室伏を経由して鈴木ユキオの踊りに流れ込む線がここに見えて来るのではないだろうか。そして例えば伊藤キムが劇場で舞台と客席の構造をひっくり返したり、「階段主義」など劇場以外の場所で踊ったり、「裏キム」として夜のバーで妖しげなパフォーマンスをするなど、非日常の転覆力を自身の舞踏的価値としたことを想起すると、鈴木ユキオはあくまで身体と動きの構造の理論的な枠組みの内部にとどまり、ダンスが成立する/しないの際(きわ)=エッジをラディカルに追究する舞踏家であることが理解されてくるだろう。言葉の先とは、ダンスの表現形式を越えていく運動の中心のことでもあるだろう。
作品について言えば、ロック中心の選曲はケレン味たっぷりに聴かせるし、途中には蛇腹のホースとの絡みもあり、変化に富んだ身体の様相を引き出す演出は適切だ。とりわけ床をスクエアに照らし出した空間でのシーンが素晴らしく、光を受ける身体の感覚に伴い内省を深めてゆく鈴木の踊りは印象深い。共演者は3人。激しくストイックなトーンを彼らも同様にまとっている。しかしやはり本作品までについては、鈴木ユキオのダンスに議論の的は絞られると思う。
短期間に繰り返し彼の踊りを見てきて、独自の方法である「中断」が語彙として定着し、頻繁に使用され、馴染んでいる様子もまた同時に見とめられた。馴染んだ動きは踊る身体を自在にするが、その都度の批評の矢はやがて磨耗する。その少し手前に、現在の鈴木ユキオはいるようだ。「身体については、やり尽くしたと思っている。次に取り組むべきは空間だと思う。」今シーズン京都での最後のショーイングで、「言葉の先」の一部を踊った後に、鈴木は自らこう述べている(*3)。いずれクリシェと化していく前に、鈴木ユキオは次へ行こうとしている。
(2月18,19日 アトリエ劇研)
*1 2007年3月9日「ジュネへ応答する8日間」ワークショップセッションにて
*2 稲田奈緒美「土方巽 絶後の身体」
*3 2009年3月22日、日米振付家交換レジデンシー・プロジェクトにおけるシンポジウムにて
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