8月25日(日)
Kobe Rokko Meets Art × Artist in Residence KOBE
フランソワ・シェニョー & 麿赤児 『秘儀-GOLD
SHOWER』
2024年8月25日 @六甲の浮橋とテラス、新池(トレイルエリア)
構想・出演 フランソワ・シェニョー 麿赤児
音楽・出演 スティーヴ エトウ 井原季子
セノグラフィー 川俣正
≪六甲の浮橋とテラス――エクステンドブリッジ アンド
テラス≫
キュレーター 森山未來 Artist in Residence Kobe(AiRK)
「神戸六甲ミーツ・アート2024 beyond」のオープニングパフォーマンスとして企画された公演。日本では2021年に世田谷パブリックシアターとびわ湖ホールで上演され大いに話題となった舞台作品『ゴールドシャワー』を、まったく異なる環境で再演しようというもので、タイトルも『秘儀―GOLD SHOWER』とあらためている。舞踏の創始者・土方巽に師事し、70年代から日本の舞台芸術を率いてきた大御所、麿赤児は黄色い髪を逆立てた異能の神として舞台に君臨する。対するダンス界の寵児フランソワ・シェニョーは輝くような肢体を晒し、性差を超えたクイアな身体像で観る者を魅了する。ゴールドシャワーとは放尿の隠語であり男性同士の性愛の交わりを意味する。オリジナルの舞台では水浴シーンなどもあり、二人は強烈な個性と存在感をまといながら、どこか滑稽味を帯びた乱交を繰り広げた。破天荒さでは前回の舞台が勝っているが、今回は神話的、幻想的な美しさ、二人の交誼の甘美さが一段と極まる舞台となった。
自然の池を舞台にしたサイトスペシフィックな上演に立ち会うことは特別な体験だ。現地にたどり着くには六甲ケーブルで急峻な山肌を登り、さらにバスを乗り継いでいかねばならない。猛暑に喘ぐ下界をよそに涼やかな大気のただよう六甲の山上に、木立に囲まれ、蓮の葉の浮かぶ池がある。このロケーションがすでに神秘的、特権的である。池には水上舞台が大小二つ。美術家の川俣正による制作物「六甲の浮橋とテラス」で、昨年作られた大(メイン)のテラスに加え、今年は小(サブ)が追って作られ、二つをつなぐ水面下の通路も設けられた、神話世界を思わせる幻想的なシチュエーションだ。岸からテラス(水上舞台)に渡る橋は花道となり、二人はここを通って登場する。メインのテラスには床を突き破って伸びる一本の樹木、背後には屏風。二人のミュージシャン、鳳笙奏者の井原季子と打楽器生活45年のスティーヴ エトウが演奏するのもこのメインのテラス上である。日没せまる時間帯、やがて夕闇が訪れて照明が入り、水面にテラスが逆さに映る光景は天上世界の再現と言っていい美しさだ。
舞踏とバレエ、東洋と西洋、異なる身体技法と文化的背景をもつ麿とシェニョーは、その身体像も対照的だ。天狗の面を着けて舞い踊る麿は男性原理を象徴し、美貌や華やかさ、しなやかさなど女神のそれとされる特性を帯びたシェニョーとコントラストをなす。二つの原理が引き合い、結び合う関係がエロスの体技によって惜しみなく展開されていく。麿は天狗の面を表裏逆さにして突き出た鼻を口にくわえており、男性同士の交わりを一種の転覆として暗示したとも読めるし、文字通り「面と向かう」ことで、自身の欲望と向き合う姿を示したとも言える。
力と能動を象徴する麿の身体像は、髪を逆立て、隈取りをした歌舞伎の異端、異形の身体にも通じる。対するシェニョーは神話世界の美と調和を体現したかのよう。伏した姿勢で上半身を起こし、夢の中の舟のようにしずしずと水中の橋を這いすすむ幻想的な光景には、思わず目を奪われた。水面から出たまあるい尻、大腿部のなだらかな傾斜。両性具有というより、性差を超越したあらたな身体イメージが観る者に眼の喜びとして提供される。
シェニョーはテクニックに裏打ちされたダンスにおいても高いクオリティを誇った。パーカッションの繰り出すリズムとともに身体各部位の筋肉を波立たせ、自由なスタイルの中に細やかな足遣いを見せる。全身をのけ反らせ、長い手足で天地を繋ぎ、フォルムからフォルム、形から形へとこだわりを見せながら、形に留まることなく音楽の流れにのっていく。オリンピアの勇者を誇るかと思えば、伏せた眼の瞬きひとつひとつに可憐な表情を宿し、どの瞬間も自身を解放して、技と身体と感覚のすべてを余すところなく舞台に捧げる。
花道に置かれたBOXはタブーを解禁する魔法の箱だろうか、ここに籠った二人は、化粧、接吻、衣装替え、シェニョーを紐で繋いで麿が操るなどのプレイを繰り出す。花道の上では愛の行為の極みとして交合の動作におよぶ。さらにシェニョーが麿の背におぶさり、舐めあい、水上の二つのテラスを舞台に、底知れぬ愛欲に身を投じる行為が続く。
二人の愛戯、性戯は倒錯というより、欲望にまっすぐ忠実で、罪よりも祝福であり、そのエロスと神々しさはほかならぬ愛欲の神々、神話の主人公たちにのみ成せるもの。権力や支配欲を排し、ただ対等に追求される快楽の遊戯であり、切実で、滑稽で、清々しくさえある。笙の音は夜の水面と呼応して玄妙な空気を醸し、大きなドラのようなパーカッションが極小の音から始まる長いシークエンスを奏でると、パフォーマンスは熱量を上げていく。
そんな中、シェニョーが歌う場面がある。フランスの古い世俗の歌謡だろうか。古来の物語や伝説を思わせるシェニョーの、西洋の美学と歴史の深い襞に裏打ちされた、懐かしさと気高さを湛えた無二の身体。間違いなく当代随一のキャラクターを備えたパフォーマーである。彼の、いや彼女の、いや、あらたな三人称指示語で示されるべきシェニョーの――身体像に対峙し得るのは世界広しといえど舞踏のカリスマ、麿赤児をおいて他にないということかもしれない。麿が応じて「ねんねこしゃんしゃりませ」と歌ったのにはやや興ざめではあったのだけれど。
愛欲を追い求める者たちの最大の願いは恍惚の中で死を迎えることである。麿の手により果てるシェニョー、その手で自らをも殺める麿。この結末によって、パフォーマンスは「物語」仕立ての作品として幕を閉じる。一夜の夢というにはあまりにゴージャスな夢からしばらく覚めぬまま、バスとケーブルを乗り継いで六甲の山を下りた。