5月11日(金)
秋津さやか『Blind piece』 @京都芸術センター
構想・振付:秋津さやか
照明:今村達紀 音楽:アルフレド・ジェノベシ
振付・出演:合田有紀 中間アヤカ 西岡樹里 野村香子 山本和馬
本作は2015年に『踊りに行くぜ? II』の神戸公演のプログラムとしてダンスボックスで初演され、昨年夏に改訂版が京都で行われたシリーズで、今回はそれに続く第三のヴァージョンとなる。タイトルから分かるように、作品は観客に対し、上演中たびたび目を閉じるよう要請する。目を閉じて広がる想像と、再び目を開いた時に見える景色とのギャップに、何らかの創造的なインスピレーションが得られることを意図している。これを基本のコンセプトとしつつ、作品はヴァージョンごとに変貌をとげてきた。とくにプロセニアムの舞台で上演した初演時と、京都で行った2つめのヴァージョンでは、作品の印象は大きく変わった。プロセニアム形式では、観客は通常通り客席に座ったままアナウンスにより目を閉じたり開けたりしながら視界を操作することで、舞台上のダンスの進行を断ち、眼にしたイメージを切り取られた「絵」として印象に刻んでゆくことになる。初演のダンサーは中間アヤカ、西岡樹里、山本和馬の3名。眼を閉じて開けるたびに異なる配置をみせる3者の踊りが、ミニマムな遊戯性を宿したトリオという形式の原型を思わせ、それはそれで魅力的な作品だった。ただ、目を閉じることで得られる鑑賞上の効果といったものは、あまり明瞭には浮き上がってこなかった。暗転による場面転換とさしたる違いがなかったように思う。
2017年夏に実施された2つめのヴァージョンでは、上演の形態は全く変わった。まず場所の違いが大きい。京都の繁華街にある小規模のビル「FORUM KYOTO」は、ポストモダン風にデザインされた、全体にシンプルで開放感のある設計。建物中心部の吹き抜けを囲いのない階段が貫き、各階は仕切りのないフロアになっている。壁面は大きなガラ張りで、上層階からは京都を囲む山並みと広い空が見える。パフォーマンスはこの3階か4階あたりの小さなフロアを使って行われた。壁沿いに椅子を並べた客席は10席もあっただろうか、観客どうしで顔を見合うほどの小さな空間だ。
ダンサーは初演時の3名に合田有紀、野村香子を加えた5名。回ごとに組み合わせを変えて3名ずつ、それにガイド役が一人入る。ガイドによる「目を閉じてください」「目を開けて下さい」の指示に従い鑑賞が始まると、ダンサーは観客が囲むフロアで踊りながら各々言葉を発していく。この言葉の介入が初演とのもう一つの大きな違いだ。内容はダンサーにより異なるが、いずれもダンサー自身の個人的な記憶を辿るもので、幼少の頃の印象に残ったふとした出来事や風景を具体的に描写する。ダンサーたちは交互に、およそ2~3つのセンテンスずつ言葉を発し、それぞれが語る3つの記憶の情景が同時進行していく。
さらにもう一点の相違は、目を閉じている時、ダンサーが不意に鑑賞者の体に触れてくる瞬間があることだ。最初は膝にそっと手のひらで触れられる程度、それが目を閉じる/開ける、を繰り返すにつれ、少しずつ身体的な関与の度合いを増していく。私が鑑賞した回では、子供時代の習字の思い出が語られる時、眼を閉じた私の手にダンサーが自分の髪の束を握らせるということがあった。語りにあった毛筆のふさふさとした感触を自身の毛髪で伝えてきたのだ。触れてくるダンサーが3人のうちの誰なのかは、基本的には分からない。そこも謎めいている。やがて眼を閉じたまま手を引かれ椅子から立ち上がりフロアの中心に導かれるといったことも起こる。ガイドの指示により目を開けると、他の鑑賞者たちも同じ空間に立っていて、思いもよらない状況に自分が置かれていたことに気付かされる。目を閉じて想像している情景と、眼を開いた時に飛び込んでくる現実の景色の落差が、驚きではあるが不快なものではなく、感覚の飛躍の体験として面白い。そして言葉が掻き立てるイメージと、ダンサーたちの語る声、親密な接触、手を引かれる見えない相手への不安と信頼の入り混じった心持、それらすべてがガラスの向こうの京都の空を借景としながら、柔らかく繊細な空気感の中で運ばれ、ダンサーたちの持つピュアな雰囲気もあいまって、五感のすべてをもって歓待されているような不思議な鑑賞体験だった。
さて、第三のヴァージョンとなった今回は京都芸術センターの旧教室を会場に選び、語る言葉も小学校時代に因んだノスタルジックなものになった。板張りの床、黒板、木枠の窓のある教室に、椅子がロの字に並べられている。鑑賞者は今回も互いに近い距離にある。ガイド(所見の日は中間アヤカ)に導かれて教室に入り、椅子に腰かけ、目を閉じ、ダンサー3名(この日は西岡樹里、野村香子、山本和馬)の語りに耳を傾ける。各々の記憶に因んだ語りは前回同様、場面を具体的に描写するもので、内容はやはり極めて個人的なものである。たとえば(正確にこの通りではないかもしれないが)、野村は学校の裏庭の茂みにみつけたカラスウリを採ろうとフェンスの隙間から手を伸ばしている様子、山本は雪国の小学校のそり遊びにまつわる一部始終、西岡は教室で先生に課題を提出する場面や、忘れ物を取りに戻った教室に射す夕方の光の印象といったように、いずれも日常の中に生じた他愛のない出来事や風景の記憶である。それらを感情や心理状態、価値判断などに関わる言葉は交えず、見たもの、経験したことの細部を描き出すように語ることで、聞く側に情景を具体的にイメージさせる。決して演劇調の抑揚や強弱、ドラマチックな感情移入などを伴うことなく、むしろ淡々とした口調で語られていく。三人が交替に語りながら同時進行していくのも前回同様である。
ダンスはといえば、語る言葉をそのまま身体に置き換えていくような動きで、マイム的な要素も入るが説明的ではなく、仕草とダンスの曖昧な境界を漂う、はかなげな動き。幼い頃に誰もが体験した世界との身体的なつながりを思わせるような、親密で、言語化以前の、フォルムにならない動きを見せている。これもトリオで踊った初演時とは大きく異なる点である。ダンスを見、言葉を聞き、眼を閉じ、鑑賞者はダンサーたちのごくパーソナルな記憶が掻き立てるイメージを受けて、自身の中で膨らませていく。
今回も目を閉じていると不意にダンサーが膝に触れる時があり、手を引いてパフォーマンス・エリアに誘い出されたり、再び椅子に腰かけるよう誘導されたりした。さらにダンサーの両手がこちらの両手をとり、大きな円を描くように動かされたのは、イメージの中で一緒にダンスを踊る試みだったのだろうか。最後に目を閉じたままフロアに立っていると音楽が流れてきて、思わず体を揺らしたくなった。他の鑑賞者たちも一緒に立っていたはずだから、この状況を外から見れば、鑑賞者たちによるこの場限りのダンスが生まれていたのかもしれない。目を閉じて鑑賞する側である限り、全体を眺めることは不可能で、最後に目を開けてしまえば、生まれていたかもしれないダンスは幻と消えている。
ダンスを見る=「眼差す」という行為には、踊り手に視線を一方的に差し向ける能動性があり、ときに対象への攻撃性、暴力性を含むこともある。ところが『BLIND PIECE』ではその一方向性が様々に攪乱される。目を閉じることによって眼差しの一方向性は反故にされ、そこに言葉を聞き、身体への接触を受けるという、ダンサーの側からの聴覚や触覚へのはたらきかけがあり、鑑賞行為における受動性という側面が開かれる。このとき鑑賞者は、客席に座ってダンスを眼差す“マス”としての観客から、この場に身を置く一人の参加者へと移行し、パフォーマンスとの直截的な関与を引き受け(引き入れられ)、気が付けば演じる側と同じ平面に立っている。このように、ここでは見る側、演じる側の境界が曖昧にされている。
目を閉じたり開けたりする操作は、上演の一元的な時間進行を分断し、過去の記憶の風景と現在この場所の景色とを脈絡なく接続させる。複数のダンサーの記憶の語りが輻輳し、異なる時間が切り替わりながら、鑑賞者にとっては他者のそれであるイメージをコラージュ的に掻き立てていく。作品はこうした記憶、感覚、認識についての異なる段階を体験するために仕掛けられた、特異な形の観客参加型パフォーマンスといっていいだろう。ここではダンサーのごく個人的な記憶が、鑑賞者一人ひとりの身体性に受け止められ、移植されることが目論まれている。繊細でひそやかな、極めてパーソナルな記憶が、別の誰かの身体に経験し直される試みだ。
秋津さやか『Blind piece』 @京都芸術センター
構想・振付:秋津さやか
照明:今村達紀 音楽:アルフレド・ジェノベシ
振付・出演:合田有紀 中間アヤカ 西岡樹里 野村香子 山本和馬
本作は2015年に『踊りに行くぜ? II』の神戸公演のプログラムとしてダンスボックスで初演され、昨年夏に改訂版が京都で行われたシリーズで、今回はそれに続く第三のヴァージョンとなる。タイトルから分かるように、作品は観客に対し、上演中たびたび目を閉じるよう要請する。目を閉じて広がる想像と、再び目を開いた時に見える景色とのギャップに、何らかの創造的なインスピレーションが得られることを意図している。これを基本のコンセプトとしつつ、作品はヴァージョンごとに変貌をとげてきた。とくにプロセニアムの舞台で上演した初演時と、京都で行った2つめのヴァージョンでは、作品の印象は大きく変わった。プロセニアム形式では、観客は通常通り客席に座ったままアナウンスにより目を閉じたり開けたりしながら視界を操作することで、舞台上のダンスの進行を断ち、眼にしたイメージを切り取られた「絵」として印象に刻んでゆくことになる。初演のダンサーは中間アヤカ、西岡樹里、山本和馬の3名。眼を閉じて開けるたびに異なる配置をみせる3者の踊りが、ミニマムな遊戯性を宿したトリオという形式の原型を思わせ、それはそれで魅力的な作品だった。ただ、目を閉じることで得られる鑑賞上の効果といったものは、あまり明瞭には浮き上がってこなかった。暗転による場面転換とさしたる違いがなかったように思う。
2017年夏に実施された2つめのヴァージョンでは、上演の形態は全く変わった。まず場所の違いが大きい。京都の繁華街にある小規模のビル「FORUM KYOTO」は、ポストモダン風にデザインされた、全体にシンプルで開放感のある設計。建物中心部の吹き抜けを囲いのない階段が貫き、各階は仕切りのないフロアになっている。壁面は大きなガラ張りで、上層階からは京都を囲む山並みと広い空が見える。パフォーマンスはこの3階か4階あたりの小さなフロアを使って行われた。壁沿いに椅子を並べた客席は10席もあっただろうか、観客どうしで顔を見合うほどの小さな空間だ。
ダンサーは初演時の3名に合田有紀、野村香子を加えた5名。回ごとに組み合わせを変えて3名ずつ、それにガイド役が一人入る。ガイドによる「目を閉じてください」「目を開けて下さい」の指示に従い鑑賞が始まると、ダンサーは観客が囲むフロアで踊りながら各々言葉を発していく。この言葉の介入が初演とのもう一つの大きな違いだ。内容はダンサーにより異なるが、いずれもダンサー自身の個人的な記憶を辿るもので、幼少の頃の印象に残ったふとした出来事や風景を具体的に描写する。ダンサーたちは交互に、およそ2~3つのセンテンスずつ言葉を発し、それぞれが語る3つの記憶の情景が同時進行していく。
さらにもう一点の相違は、目を閉じている時、ダンサーが不意に鑑賞者の体に触れてくる瞬間があることだ。最初は膝にそっと手のひらで触れられる程度、それが目を閉じる/開ける、を繰り返すにつれ、少しずつ身体的な関与の度合いを増していく。私が鑑賞した回では、子供時代の習字の思い出が語られる時、眼を閉じた私の手にダンサーが自分の髪の束を握らせるということがあった。語りにあった毛筆のふさふさとした感触を自身の毛髪で伝えてきたのだ。触れてくるダンサーが3人のうちの誰なのかは、基本的には分からない。そこも謎めいている。やがて眼を閉じたまま手を引かれ椅子から立ち上がりフロアの中心に導かれるといったことも起こる。ガイドの指示により目を開けると、他の鑑賞者たちも同じ空間に立っていて、思いもよらない状況に自分が置かれていたことに気付かされる。目を閉じて想像している情景と、眼を開いた時に飛び込んでくる現実の景色の落差が、驚きではあるが不快なものではなく、感覚の飛躍の体験として面白い。そして言葉が掻き立てるイメージと、ダンサーたちの語る声、親密な接触、手を引かれる見えない相手への不安と信頼の入り混じった心持、それらすべてがガラスの向こうの京都の空を借景としながら、柔らかく繊細な空気感の中で運ばれ、ダンサーたちの持つピュアな雰囲気もあいまって、五感のすべてをもって歓待されているような不思議な鑑賞体験だった。
さて、第三のヴァージョンとなった今回は京都芸術センターの旧教室を会場に選び、語る言葉も小学校時代に因んだノスタルジックなものになった。板張りの床、黒板、木枠の窓のある教室に、椅子がロの字に並べられている。鑑賞者は今回も互いに近い距離にある。ガイド(所見の日は中間アヤカ)に導かれて教室に入り、椅子に腰かけ、目を閉じ、ダンサー3名(この日は西岡樹里、野村香子、山本和馬)の語りに耳を傾ける。各々の記憶に因んだ語りは前回同様、場面を具体的に描写するもので、内容はやはり極めて個人的なものである。たとえば(正確にこの通りではないかもしれないが)、野村は学校の裏庭の茂みにみつけたカラスウリを採ろうとフェンスの隙間から手を伸ばしている様子、山本は雪国の小学校のそり遊びにまつわる一部始終、西岡は教室で先生に課題を提出する場面や、忘れ物を取りに戻った教室に射す夕方の光の印象といったように、いずれも日常の中に生じた他愛のない出来事や風景の記憶である。それらを感情や心理状態、価値判断などに関わる言葉は交えず、見たもの、経験したことの細部を描き出すように語ることで、聞く側に情景を具体的にイメージさせる。決して演劇調の抑揚や強弱、ドラマチックな感情移入などを伴うことなく、むしろ淡々とした口調で語られていく。三人が交替に語りながら同時進行していくのも前回同様である。
ダンスはといえば、語る言葉をそのまま身体に置き換えていくような動きで、マイム的な要素も入るが説明的ではなく、仕草とダンスの曖昧な境界を漂う、はかなげな動き。幼い頃に誰もが体験した世界との身体的なつながりを思わせるような、親密で、言語化以前の、フォルムにならない動きを見せている。これもトリオで踊った初演時とは大きく異なる点である。ダンスを見、言葉を聞き、眼を閉じ、鑑賞者はダンサーたちのごくパーソナルな記憶が掻き立てるイメージを受けて、自身の中で膨らませていく。
今回も目を閉じていると不意にダンサーが膝に触れる時があり、手を引いてパフォーマンス・エリアに誘い出されたり、再び椅子に腰かけるよう誘導されたりした。さらにダンサーの両手がこちらの両手をとり、大きな円を描くように動かされたのは、イメージの中で一緒にダンスを踊る試みだったのだろうか。最後に目を閉じたままフロアに立っていると音楽が流れてきて、思わず体を揺らしたくなった。他の鑑賞者たちも一緒に立っていたはずだから、この状況を外から見れば、鑑賞者たちによるこの場限りのダンスが生まれていたのかもしれない。目を閉じて鑑賞する側である限り、全体を眺めることは不可能で、最後に目を開けてしまえば、生まれていたかもしれないダンスは幻と消えている。
ダンスを見る=「眼差す」という行為には、踊り手に視線を一方的に差し向ける能動性があり、ときに対象への攻撃性、暴力性を含むこともある。ところが『BLIND PIECE』ではその一方向性が様々に攪乱される。目を閉じることによって眼差しの一方向性は反故にされ、そこに言葉を聞き、身体への接触を受けるという、ダンサーの側からの聴覚や触覚へのはたらきかけがあり、鑑賞行為における受動性という側面が開かれる。このとき鑑賞者は、客席に座ってダンスを眼差す“マス”としての観客から、この場に身を置く一人の参加者へと移行し、パフォーマンスとの直截的な関与を引き受け(引き入れられ)、気が付けば演じる側と同じ平面に立っている。このように、ここでは見る側、演じる側の境界が曖昧にされている。
目を閉じたり開けたりする操作は、上演の一元的な時間進行を分断し、過去の記憶の風景と現在この場所の景色とを脈絡なく接続させる。複数のダンサーの記憶の語りが輻輳し、異なる時間が切り替わりながら、鑑賞者にとっては他者のそれであるイメージをコラージュ的に掻き立てていく。作品はこうした記憶、感覚、認識についての異なる段階を体験するために仕掛けられた、特異な形の観客参加型パフォーマンスといっていいだろう。ここではダンサーのごく個人的な記憶が、鑑賞者一人ひとりの身体性に受け止められ、移植されることが目論まれている。繊細でひそやかな、極めてパーソナルな記憶が、別の誰かの身体に経験し直される試みだ。