2018年7月9日月曜日

O.F.C.『カルミナ・ブラーナ』


616日(土)

O.F.C.『カルミナ・ブラーナ』
合唱舞踊劇 独唱・合唱と管弦楽とバレエによる世俗カンタータ           @東京文化会館
                            
作曲:C.オルフ                  

演出・振付:佐多達枝

指揮:坂入健司郎
ソプラノ:澤江衣里  テノール:中嶋克彦  バリトン:加耒徹

ダンサー:酒井はな  浅田良和  三木雄馬  

管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
児童合唱:すみだ少年少女合唱団
コロス・合唱:オルフ祝祭合唱団






合唱と管弦楽に舞踊が加わった、言わずと知れた世俗カンタータの壮大かつ祝祭的な舞台。だがそのスペクタクル性にものを言わせることなく、形式の尊重の上に創造の自由を開花させた、端正で理性を感じる舞台だった。黒服の合唱団は舞台の左右を占め、身振りが振り付けられていて、コロスの役割を担う。通路より右側のウィング前方の客席で見たが、オーケストラ・ピットからの音と、間近にいる上手側の合唱の歌声とがわずかにずれて届いてくる。それも生オケ・生うたによるライブならではの味わいだった。少年少女合唱団が途中、白い服で登場した。前面のオケ・ピット、合唱団/コロスの左右対称の配置、そして中央に展開するバレエ。最終シーンの酒井はなを頂点とした階層的なフォーメーションが、東京文化会館の大ホールという典型的なプロセニアムの舞台でダイナミックに展開し、近代劇場のもつ求心的な力で観客を引き込んだ。 



佐多達枝は日本の創作バレエの第一線で長く活躍してきた大ベテランの振付家だが、コンテンポラリーダンスとの接点は多くはない。不覚にも私自身は今年3月の「another BATIK」に提供した『子どもたちの歌う声がきこえる』が初見だった。今回はそれに続いての佐多作品の鑑賞で、プログラムに掲載された高橋森彦氏の解説を導きとして見た。「運命の女神よ」と歌う曲の迫力に拮抗して、舞踊がスケール大きく展開する。動きには古典を離れた創意があるが、ダンスの形式を大きく外れることなく王道を行く。高い抽象性をもった振付は、マイムを用いず、ステップの組み合わせと群舞のフォーメーションにより構成されている。西洋舞踊の身体理論と、舞踊言語への信頼に基づいた振付による作舞で、情緒に流されず、舞踊の理念と美学がしっかりとした文法のもとに体現されている、と感じた。舞踊言語への信頼とは、舞台を流れる時間のあらゆる瞬間を振付言語で表現することが可能であり、そうするのだという意志と確信に裏打ちされているということだろう。



唐突かもしれないが、たとえば法律の文言になぞらえてみる。人間の構成する社会のあらゆる局面を、法の理念が行き渡り支配し、尊厳、権利義務、関係性のあり方の全てが論理的に規定され、これが言語で表現される。憲法でも、(改正前の)教育基本法でも、最近では劇場法の前文などでも、読むごとに胸をうつものがあるが、その厳格で理詰めでとっつきにくいと思われがちな法文の文言によってこそ、崇高な理想や幸福追求の理念、未来の同胞へ託す思いが熱く気高くうたい上げられる。佐多達枝という人の作舞には、これによく似た、理念と美学を体現する舞踊言語の高み、それを裏打ちする理論と形式の尊重があるように思われる。あらゆる事物や精神を振付言語で表現し得るとする、ダンスへの信頼だ。日本のモダンダンスは花鳥風月に流れたと山野博大氏が説いておられるが、ここでは抒情や風景の明媚な描写とは一線を画した舞踊芸術の至高の精神が志向されていると言ってよいだろう。



「カルミナ・ブラーナ」は今年2月に石井潤・振付による舞台を京都で見た。第二幕、酒場の場面を文字通り具象的に演出し、キャラクター・ダンスも登場するポピュラリティのある楽しい舞台だった。もちろん運命の女神が登場する冒頭と最終場面は出演者総出となり大迫力であった。石井潤追悼公演として上演され、かつてメイン・キャラクターを踊った寺田みさこ、及び中村美佳が振付指導をつとめた。佐多振付・演出ではダンサーは男女とも薄いベージュの衣装で統一され、具象性は排される。円形の配置、3つの分割した景の同時並行の展開など構成的で合理的なフォーメーション。個々のボキャブラリーはポワントにこだわらず、自由闊達で創意に満ちる。歌のソリストがバリトン、テノール、ソプラノと登場するが、特にバリトン独唱と男性ダンサーのソロがコラボする場面は印象深い。男性ダンサー陣は群舞も含めて躍動感に溢れ、見応えがあった。女性陣もしなやかで素晴らしかった。



振付言語と形式ということをことさらに言うのは、コンテンポラリーダンスのアーティストの中に、これを意識した仕事が見受けられると思うからだ。佐多達枝を踊ったBATIKはもちろん、群舞の振付・構成に卓抜した力と才気をみせる山田うん、マーラーに振り付けているきたまり。コンテンポラリーの様々な逍遥を経て、舞踊言語の新しいスタンダードを確立したいという欲求が個人レベルを超えて渦巻いているのだろうか。これは仮定に過ぎないが、検証のためにも、本来のスタンダードをしっかり見ておきたいと思った次第だ。