2020年9月3日木曜日

室内オペラ『サイレンス』

アレクサンドル・デスプラ、アンサンブル・ルシリン 

2020年1月18日 @ロームシアター京都 サウスホール



【蔵出しレビュー】


川端康成の短編「無言」をテキストにした小編成のオペラ。原作は幽霊の話が出てくる怪談と紹介される例が多いようだが、病で言葉を失い、読み書き、会話の手段を絶たれた老作家と、その世話をし、他者との意思疎通を作家に変わって引き受けている長女の富子、老作家を見舞いに訪れる後輩の作家、三田の3人によるやりとりが本題である。物語の前後には三田とタクシー運転手との会話が配され、鎌倉から逗子までの見舞いの道中には、トンネルに女の幽霊が現れるという言い伝えが話題となる。老作家を尋ねるエピソード本編と前後の幽霊の話題は直接の関連はないのだが、言葉を失う経験について思索を巡らすうちに、意志や欲望、表現や伝達の主体としての人間という根拠が揺らぎ、危うさが滲み増していく物語にとって、幽霊の話は、確証のなさや不安、畏れのトーンをなして、物語の全編を覆っている。


「室内オペラ」と冠されているのは「室内楽」に対応しているのだろう、演奏を担当する器楽アンサンブルはフルート3人、弦楽器3人、クラリネット3人、パーカッション1人という小編成で、出演者もバリトンとソプラノのみ、これにナレーション担当の俳優ロラン・ストケールが加わる。ストケールはほかにタクシー運転手の役をこなし、後半では、背もたれがこちらに向けられているため姿は見えないが、老作家の役を担って椅子に身を沈めている。音楽の「アンサンブル・ルシリン」はステージ後方に横一列に並んで演奏する。音が鳴り始めるとすぐにストケールが現われ、語り始める。台詞はフランス語、舞台の左右にスクリーンがあり、日本語字幕が縦書きで投影される。原作を読まずに臨んだが、俳優のナレーションは小説の地の文にあたるのだろう。


三田役の歌手、ロマン・ポクレーは登場後、第一声をファルセットで歌い出し、通常のオペラ歌手のイメージからかけ離れていることに少し戸惑った。あれ、この人、バリトンではなかった?と。低音を響かせて物語世界の底を固め、ゆるぎない存在感をアピールするといった役どころとは異なる三田という人物像が、いわゆるベルカントではない裏声(=虚?)の唱法によって映し出される。ビブラートは控え目、そしてファルセットから実声へとシームレスに移行する声は、思慮深く、少し懐疑的な内面や思考のはたらきを抑制的に語り出し、言葉を発しなくなった先輩作家の境遇や意思の在り処、それらの伝達のされ方の謎を巡ってモノローグを連ねる。その思索の中に言葉や記号、音や文字について語るくだりがあり、水やお茶が欲しいのならせめて「ミ」や「チ」と示してはどうなのだ、カタカナで、などと吐露するのだが、こうした台詞は全て作曲のアレクサンドル・デスプラにより歌唱化されている、つまり音程とリズムが与えられ、分節化されている。面白いのは歌唱と演奏がわりと即物的な同期をみせることで、フランス語の歌詞の中で日本語のまま「カタカナ」と発語されると、パーカッションが「タタタタ」と叩いて応じる。「catacana(カタカナ)」タタタタ。こんな具合。


音楽について気付いたことをもう少し言えば、フルートはフルートの管の、弦楽器は弦の、鳴る音そのものの飾り気のない手触りが客席に直接届いてくるような演奏だった。音の物質性というのか、テクニックにより増幅されることのない音は、楽器本来が持っている素朴な質感を伝える。昨年12月にアルディッティ弦楽四重奏団と小㞍健太の共演を鑑賞した折にも、弦楽器の可能性をとことん追求するような音楽に「現代性」を見たと感じたが、今回の音楽も同じ方向性にあるように思われた。モノとして物理的な装置としての楽器と、そこから生まれる音の質感―ー摩擦や振動が空気を震わせる音そのものの物質性を尊重した演奏であると感じた。これはコンテンポラリーダンスが身体そのものを提示する態度にも通じるように思う。とはいえ、まるで無味乾燥な音楽というのではない。「カタカナ」「タタタタ」と、かかとを上げて弾むような機智に富んだ音楽性は、遊び心の表れでもあり、かつ本作の主題である言葉と表現をめぐる意識を、作品の始めの段階で喚起するものでもあったろう。


音の物質性を重視する方向性は歌い手の声についても言えるように思う。バリトンのポクレーについては先に述べたが、半ばに登場する富子訳のソプラノ、ジュディット・ファーも、やはりビブラートを控え目にした、喉の太さからそのまま出てくるような声の太さ、マットな質感が最初に印象付けられた。老作家と富子の住む家には「明白で絶対的なわびしさ」があると叙述されるように、ベルカント唱法による華麗さや過剰さはここには無用というわけだろう。病の父への見舞い客と、彼を迎える家の長女という間柄で交わされるバリトンとソプラノのやりとりは、形式的なあいさつ、節度ある会話から、少しずつ話の核心に踏み込んでいく。言葉を発しない父に代わってその意思を三田に伝える富子は、三田への歓迎やもてなしの意を表する。「お酒を差し上げなさいと父が申しております」、「では一杯だけ」といったやりとりにも、礼節とともに凛とした緊張感があり、老作家の病状はどうか、意思や感情は健在であるか、その表現や伝達がどこまで可能であるのかなど「実際のところ」に踏み入ろうとする三田の欲求と踏みとどまろうとする節度、あるいは富子の側からはたらいている牽制といった、実に微妙で繊細な、ぎりぎり成り立っているような対話を、二人の虚飾のない歌唱が重ねていく。そもそも老作家と三田の直截的な対話が封され、富子を挟んで意思の疎通が図られるシチュエーション自体が、目上の者に直にものを申さない礼儀やしきたり、作法の様式性に通じているとも言え、日本文化に深く根付いたふるまいの美意識、一種のスノビズムとして、西洋人の作り手たちが川端康成のテキストに見出したものかもしれない。


いわゆる「盛り」のない、虚飾や増幅を避けた歌唱は、このような抑制的で儀礼的なふるまいのためだけにあるのではない。声の物質性を尊重した唱法は、聴く人を思慮深くし、ものごとの本質へと下りてゆく態度へと促す。三田と富子の対話の核心はむしろ、書くことをめぐる、表現や創作をめぐる哲学的とも言えるやりとりにある。ある狂気に冒された作家による、書かれることのない物語についての逸話が、象徴的に語られる。書けない作家は白紙のままの紙を母親に渡し、「自分の書いた物語」を読んでくれとせがむのだという。母は何も書かれていない紙を手に、その場で即興で仕立てた物語を聞かせる。そんな読み聞かせが繰り返されるうちに、いったいどちらが作者であるのかが定かでなくなってくる。存在しない物語を即興で語るのは母であるが、書くことを欲望し、読み聞かせを所望する息子の存在なくしては語られることのないはずの物語なのである。「母の読める」と題される老作家の代表作の一つだというこの逸話にならい、言葉を失い沈黙する父に代わって富子が創作を続けてはどうかとの考えが三田の口から語られる。しかしこれは老作家を生かすことでもあり、葬ることでもありうる、非常にデリケートで、ある意味危険な発想といえる。何より、「(先生の)聖なる沈黙を侵すことではないのか」。三田はこの「立ち行った」「差し出がましい」危険な考えを口にしつつ、「無言ほど美しい、豊かなものはない」ともモノローグする。このくだりは本作の主題に肉迫する場面であり、タイトル『サイレンス』、原作「沈黙」の所以となっている。


この見舞いの場面の音楽は、控え目で抑制的なトーンをつくり、アンサンブルの低めの響きが素晴らしい。主旋律(メロディ)、フレーズ、ハーモニーといった概念は打ち捨てられていて、各楽器から発する単音が重なり、音の層を作る。不協和音はもはやデフォルト。デスプラとアンサンブル・ルシリンにおいては「協」「不協」の区別など存在しないのだ。弦楽器はバイオリンの他にチェロが一台。クラリネットの一人はバスクラを吹く(楽器は色々と持ち替えていた?)。そうして低音部が作られる。加えてチェロがピチカートでバリトンの歌唱のタンギングと音程に随伴していくのが面白い。台詞を分節し音程とリズムを与えて歌唱化し、それをさらにチェロがなぞり、ピチカートのほか、ときにはボーイングで歌と同期(ユニゾン)するのである。富子との対話では歌唱のピッチが幾分か上がり、音の全体が透明な緊張を帯びる。とくに対話が核心部分に入り、二人の意思の微妙な食い違いや軋轢の生じる中で、一瞬の高揚により富子がひときわ高音で張らせる声の鋭く閃くような印象は鮮烈だった。また三田が暇を乞い、老作家宅を辞する際の挨拶の場面で、バリトン、ソプラノとも一段と低音で交わす歌声のやりとりも、大変に印象的だった。圧倒的な表現というのではないが、歌、音楽、テキスト、どれもオーソドックスな分野でありながら現代にアップデートされた洗練きわまる舞台作品。衣装デザインはファッション界の著名なデザイナーによるものだったが、こちらがうっかりしていたこともあり、特に注目しなかった。映像は、幽霊を思わせる女性のシルエットや、終始椅子の背をこちらに向けてその向こうにいることになっている老作家の、目元をアップで映したりするなど。



原作:川端康成「無言」

台本、作曲、指揮:アレクサンドル・デスプラ

台本、演出、音楽監督、ビデオ演出:ソルレイ

舞台美術:シャルル・シュマン

衣装:ピエールパオロ・ピッチョーリ

演奏:アンサンブル・ルシリン

バリトン(三田):ロマン・ボクレー

ソプラノ(富子):ジュディット・ファー

語り:ロラン・ストケール(コメディーフランセーズ)