音と動きのテクスチャー
~勅使川原三郎 佐東梨穂子 宮田まゆみ 『調べ――笙とダンスによる』~レビュー
12月6日 @愛知県芸術劇場 小ホール
ダンスと音楽は親和性の高い芸術といわれるが、その多くは音楽に合わせてダンスを踊るというものだ。拍子をとってステップを踏み、旋律に感情をのせる。ベジャールは『ボレロ』の配役を「メロディ」と「リズム」と名付けた。ケースマイケルはバッハやバルトークの曲の構造を振付に応用する。だが本作では、要素を分析する西洋音楽とは別の回路で音楽とダンスの関係が結ばれる。3人の「呼吸家」が奏でる音とダンスは、風のざわめきや降り注ぐ光を思わせ、自らがその中に含み込まれる空間のトーンを作り出す。太古の人は音楽をこのように、場を満たす全体の気配と一体のものとして感じていたのだろうか。
最初に耳に届いて来たのは闇の中に紛れた一筋の糸のように繊細な笙の音である。わずかに照明の度合いが上がり、世界の目覚めを思わせると、闇に紛れていた勅使川原三郎が、続いて佐東利穂子が静かに舞いながら舞台前方に出てくる。長短の竹を組んだ笙という楽器の音には、天から差し込む光のような崇高さと、竹の感触を残したような複雑な響きがある。不協和音であるのかさえも定かではない音の重なりの中で、二人のダンサーは揺蕩いながら動く。かがめた身体が伸びあがり、腕が大きく軌跡を描いてゆくさまは二人のベーシックな身体語彙といえるが、その独特のテクスチャーが笙の響きとともに放たれると、空間は濃やかな質感で満たされる。二人はその質感の中を、空気を掻くように動き続ける。
笙の8つの演奏曲目はそのまま作品のドラマトゥルギーを構成する。はっきりと聞き分けられる曲調の変化は少ないが、動きに速度や勢いが出たり、静止したりする場面は、曲目の変わり目だったのだろう。無音の中で一人踊る佐東がいて、そこに再び笙の音が入るとき、新たな光がもたらされたように感じた場面。粒子のように降り注ぐ笙の音を浴びながら喜びの中で高揚する勅使川原の踊り。物語性のない本作で、こうした鮮やかな瞬間が印象に刻まれ、しかし同時に全体の流れの中に飲み込まれてゆく。気象の変化や季節の移り変わりのように訪れる舞台のトーンや質感の違いは、解説にあるように、それぞれの場を整える「調子」の曲にあたるものだっただろうか。黒い舞台を照らす、凍てついた白い照明は、冬、北、黒、水を象徴するという3曲目「盤渉調調子」のシーンであったのかもしれない。曲目の進行とともに音、ダンス、照明、空間が変化し続け、一見すると抽象的な空間に、様々な彩りや肌理、質感や抑揚が一体となった「調子」、「調べ」を奏でてゆく。
勅使川原と佐東の踊りの違いも興味深い。身体に軸と中心を設け、左右の腕を対象にかざす勅使川原は、秩序や調和や意志を志向するようにも見える。一方の佐東のうねるような動きは、非対称、流動、揺らぎを体現する。異なる二つの原理を象徴するようでもあり、単に勅使川原、佐東という個体差であるようにも思える。二人は時に近づき、時に遠ざかり、触れることのないデュエットを踊る。宮田まゆみ、勅使川原、佐東の三つの身体もまた、それぞれの音、それぞれのダンスを紡ぎながら、なお分かちがたく結び合い、それぞれの呼吸で場の質感を、彩りを、トーンを、肌理を、「調べ」を奏で続ける。そして自らもその肌理に包み込まれ、時を超えて生き続ける。
夜の訪れのように照明が落ちると、冒頭と同じ笙の一音が鳴り、やがて吹き込む息の音だけになって、舞台は闇に沈んでゆく。呼吸する者らのかそけき気配に永遠を見たような一瞬であった。
(鑑賞&レビュー講座 対象公演)