2016年3月19日土曜日

下村唯のライブパフォーマンス

書きそびれたレビューのためのアーカイブ 3

2015年1月22日(木)
casa carina rosa
@space eauuu (スペース・オー)

Live:
sleepland
Kazuto Yokokara
村上裕
Jomyak + 下村唯


ダンサーの下村唯が神戸は元町の雑居ビル3階にある音楽スペースでライブ・パフォーマンスを行った。プログラムにはアンビエントとかエレクトロニカといわれるジャンルのミュージシャンが並んでいる。この手の音楽にはとんと疎く、ライブで聞くのはめったにない体験。すべてのミュージシャンがITツールを駆使して一人で音を操作し、サンプルを何重にもコラージュしながら、一方でギターを弾いたりキーボードをいじったり。音質、音量を適宜変化させつつ。今にも踊り出したくなるようなダンスミュージックではなく、心地よい眠気を誘うタイプの音楽、だが聴く人は飲み物片手にほとんど集中していた様子。

この日、踊りで参加したは下村のみ。キーボード・プレイヤーとのコラボだ。普段着にパーカを羽織った身なりで気負いなく現れ、タップダンスから入って、ほぼ即興で行為を繋いでいく。とても面白かった。ポケットにパフォーマンスのアイデアがたくさん詰まっていて、自然な流れでそこから取り出してくる。幕の内弁当を食べるみたいに、次はこれ、次はこちらと気まぐれに箸を運ぶのに似て。あるいはハム・エッグでも食べるくらいの気安さで。パーカのフード、靴下、身に着けていたキーホルダーなども小道具にしながら、オーディエンスのいるフロアも含めてスペース全体を使って進めていくが、終盤には聴衆の一人に狙いを定め、目力をぐっとあげて接近、カジュアルな感じで進んできたパフォーマンスがここで一気に熱く濃い時間になる。そのまま愛の行為に持ち込むかと思いきや、ふいっと眼差しの緊縛を解いて、全体的にはさらりと踊った気のおけないライブだった。
国内ダンス留学OB,OG,現役3期生、ダンスボックスタッフも見に来ていたが、この日はダンサーvs.批評家の関係はオフ。若きダンス人らと談笑のひととき。

MuDA Exhibition スペシャル・パフォーマンス

書きそびれたレビューのためのアーカイブ 2


MuDA
『MuDA Exhibition
 SPECIAL PERFORMANCE』
2015年1月17日 @江之子島文化芸術創造センター、大阪

作・演出:MuDA
ダンス・振付:Quick、内田和成、三重野龍、出川晋、CHIBIGUTS、
田崎洋輔、福島駿、渋谷陽菜
サウンドデザイン・DJ:山中透
空間デザイン:井上信太


開催中の個展の日程の一日を割いて行われたスペシャル・パフォーマンス。展示会場の一部に細長い通路状の空間を仕立てて演技スペースに。両側に客席用パイプ椅子が並び、観客は30~40名といったところ。

頭髪の片側を剃り上げ、もう片側を長く伸ばした独特の風貌の人がリーダーのQuick。ダンサーは他に7名、みな白塗りにボディペインティングを施し、その皮膚の内側にカオティックなエネルギーを湛えている。

パフォーマンスは集団としてのMuDAの基本となるボディ・ワークを順次披露していくような構成。床上で瞬時に身を返す、或いは地べたをもんどりうつ。単発的だが負荷の高い動作を、ダンサーたちは一列になって訓練の手順を踏むように順繰りに行っていく。だが、内容はまったく淡々としたものではない。どの動作・行為にも、それを行うのに必要とされる以上の強い負荷がかけられ、唸り声や呻き声を伴いながら、ものすごいボルテージをもって実行される。自らを食い破るばかりの暗いエネルギーで身がのたうつ様は、獰猛な獣のようでもあり、肩をぶつけ合っての一対一の格闘などは闘牛を思わせたりもする。一斉に空中に跳び上がり、膝を折った姿勢をとってそのまま落下し倒れ込むと、床に打ち付けられるからだの音が肉体の重量感、量塊感を強調する。円陣を組み、まじないのような言葉を唱和すれば、高揚とともに集団の生む求心的な圧力が誇示される。パフォーマンスは過激で容赦がないが、進行は統率されており、若き男性集団のもつ儀式性の中で、身体の過剰な力が垂直に立ち上がっていく。卑近な例だが、硬派の応援団とか政治的右派にみる、儀礼的な関係の尊重と力の誇示を旨とする集団の身振り、行為といったものに通じる。

無骨なる男どもの肉体のぶつかり合いといえばcontact Gonzoがその先鋒だが、力の発現や関係の生成においてGonzoは水平的、MuDAは垂直的。Gonzoが多くを環境にゆだね、定点のない関係性と成り行きの不確かさを特徴とするのに対し、MuDAは力と統率によってパフォーマンス空間を支配し、ファロス的な求心力と儀式の美学で世界を構築する。会場エントランスのモニターには、いずこかの神社の境内で演じられたパフォーマンスの映像がかかっていた。神霊のための儀礼の空間とはいかにもMuDAにふさわしい。Gonzoなら雑踏や郊外の原っぱ、あるいは山や森や川原だろう。そうしたわけで方向性では両者は対照的だが、関西を拠点にする彼らは互いに交流もあり(塚原悠也がディレクションしたKobe-Asia Contemporary Dance Festival 2013にQuickが出演など)、この日もcontact Gonzoを経験しているダンサーが出演していた。

MuDAの過剰に荒ぶる力は、ともすれば自虐や自滅へと向かうが、これを肉体の酷使や行為の反復を通して昇華し、気化熱の放出の瞬間のように、ある宇宙的な、広大な普遍へたどり着くことを集団は目指している。今回に限らず作品中にたびたびQuickによってアジテーションされるのが、「あらゆる物質の最終形態は鉄である」という、それ自体は多分にいかがわしい独自のテーゼだ。もちろんフィクションとしての世界観だが、鉄のもつ特別の硬度や重量感はなるほどMuDAの志向する身体のイメージにふさわしい。その独自の哲学はサブカルチャー的B級色を帯びてもいて、ボルテージを上げていくほどパロディ色を濃くする。確信犯なのか自覚的であるのか、ちょっと見ていて判断がつかない。今この時代に、垂直的な力の誇示という表象の選択が、どのような思考によってなされているのだろう。たとえば室伏鴻と3人の若き舞踏手による「Ko & Edge Co.」では、男性性の無効化という形での批評が展開されたのだったが。

パフォーマンスは終盤に向けていっそう過激に、過酷になる。通路の両端から互いに全力で疾走してきて中央で衝突する。ラグビーのスクラムのように7名が前屈した姿勢で体を密着させ、エネルギーを充満させながら一塊となって押し合う。脈絡なく全力で遂げられていく行為は、重力に屈する肉体の重みと存在自体の重さ――むしろ卑小さ――を露わにする。そのアンビバレンツを生きる者らの呻きや怒号が今も聞こえるようだ。

2016年2月29日月曜日

Monochrome Circus 『HAIGAFURU Ash is Falling』

書きそびれたレビューのためのアーカイブ1

Monochrome Circus
『HAIGAFURU   ASH IS FALLING』
2015年1月17日(土) @京都芸術センター フリースペース

振付・演出:坂本公成
演出助手:森裕子
出演:合田有紀、佐伯有香、野村香子、森裕子、渡邉尚
作曲:山中透
照明デザイン:藤本隆行


三好達治による詩『灰が降る』をサブテクストに世紀を隔ててなお人類を翻弄し続ける「核」の問題、文明の孕む問題、その中での身体とダンスの未来を考察した作品。
日本―フィンランドのコラボレーション作品として、日―フィン4都市で上演し好評を博した同作品をMonochrome Circusのダンサーに委嘱。ヴァージョン・アップして京都初演を行います。
――――公演フライヤーより


2011年3月11日の東日本大震災に伴う福島第一原発事故を受けて、坂本公成が核と人類を巡る黙示録的な主題に正面から取り組んだ作品だ。コンテンポラリーダンス作品の中で3.11以来私たちが向き合わざるを得なくなった現実を、心情的レベルを超えてこのように明確に主題化した例が他にあるだろうか。東北の被災地へ芸術面からの復興支援で訪れるダンスアーティストや関係者は多い。被災地に伝わる伝統芸能を復興の精神的な足掛かりにしようと立ち上げられた「習いにいくぜ‼」のプロジェクトなど、ダンスというジャンル特性を生かした貢献には大きな意義があり、私自身敬意を払っているつもりであるし、何かの形でコミットしていけたらと思う。芸術のもつ社会的な機能は苦境に直面する場においてこそ発揮されるべきだろう。だがこうした直接的な支援の活動が続々報告される一方で増してくるのは、アーティストはなにより、表象によって時代に応えるべきではないのかという思いだ。あの震災と原発事故をどう受け止め、それ‘以後’をどう生きるのかを、表象活動を通じて思考することが表現に携わる者の絶対に放棄してはならないはたらきではないか。「まるで失語症に陥ったかのよう」と述べた人がいたが、コンテンポラリーダンスから3.11に言及する作品が出てこない中、坂本公成による本作『HAIGAFURU/ASH IS FALLING』は、原発事故と放射能汚染の問題を主題化した、少なくとも関西で見ることのできる現在ほとんど唯一のダンス作品といっていいだろう。本作は2012年、JCDNとフィンランドのダンスセンター、ZODIZCの共同企画により、フィンランドで滞在制作されたものである。フィンランド国内で公演を行ったのち、鳥取「鳥の演劇祭」、KAAT神奈川芸術劇場でも上演された。今回はこれを坂本自らが主宰するカンパニー「Monochrome Circus」のダンサーとともにあらたなヴァージョンとして上演する。

本作を作るにあたって坂本がサブテクストとした詩人の三好達治による『灰が降る』。「灰が降る灰が降る 成層圏から灰が降る」のフレーズで始まり、後半には「それから六千五百年 地球は眠っているだろう」と唄う。先に3.11‘以後’と時代を区分して述べたが、本詩はもともとヒロシマ、ナガサキを受けて書かれ、核と放射能の脅威が世紀を超えて人間に重くのしかかる悲劇をむしろ淡々とした調子でうたったものである。この詩を傍らにした坂本の創作は、福島/フクシマの原発事故もまた、人類にとっての、文明史的な、六千五百年という時間のスパンをもって対するほかない出来事であるとの認識のもとにある。被爆国の日本が核の平和利用の名のもと原発によるエネルギー政策を推進してきた事実。地方への原発の押しつけ、安全神話の欺瞞、核は現在の人間の英知によってはコントロール不可能な対象であること、廃炉に40年、使用済み核燃料の最終処分に途方もない年月を要すること。これだけの重大事故を経験しても原発廃止を選択しない日本という国家。フクシマがあらわにした現実に向き合うほど、暗澹たる気持ちに襲われる。

『HAIGAFURU/ASH IS FALLING』は、こうした状況に置かれての坂本自身の苦悩を映し出すかのような舞台だった。カンパンニーの技法の中心であるコンタクト・インプロヴィゼーションは、ここでは完全に封印されている。個の身体と身体の間のリアルな力の交換から関係性を築いていくコンタクト・インプロヴィゼーションが内包する価値観は、億年単位の時間に置かれる主題に対し無力であるとの判断からだろう。この、カンパニーにとっての代名詞ともいえる技法を「封印」した事実が、何より坂本の抱く危機感を伝えているように思う。実際の舞台はコンタクトインプロ以外のモノクロームサーカスならではの身体言語を存分に用いつつ、人類の受難の表象を提示していくといったものだった。冒頭ではろうそくの灯を手にしたダンサーたちが暗い客席に現れ、口々に「Ash is falling」と囁きながらステージフロアへ降りていく。客席前面で裸電球が大きく振り子状に揺れる。この後、舞台ではLED照明が駆使されることになるが、ろうそく、電灯、LEDの提示は文明の発展段階を示しているという。人類の英知へのせめてもの希望を託そうというのだろうか。

作品の構造は極めて明快だ。演技するフロアの最奥から客席手前までの距離を、5名のダンサーたちが横一列の隊形を保ったまま、寄せては返す波のごとく行ったり来たり、行き来を繰り返す。そのシンプルな反復の内からドラマを浮かび上がらせる。

フロアに降りた5人は床上を腹這いになり、もがくように前進してくる。陸地へ辿り着こうと死力を尽くす難民を思わせるその様子は、危機に晒され喘ぐような苦汁を湛え、半裸の姿は剥き出しになった人体そのものだ。崩れ落ちる身体、引き攣れたポーズ。横臥した体側から手足を泳がせ、捩れた手足を差し出しながら床上をでんぐり返って進むなど、フロアムーブメントの様々な応用が歪(いびつ)に展開する。なかでも行き来する距離の中ほどで5人が揃って傾斜をつけ倒立するシーンは強く印象に刻まれる。5つの身体が等間隔で記念碑か墓標のように立ち並び、一体ずつスポットライトに照らし出される光景は、核の閃光を浴びる人類のイメージであり、高度のテクノロジーがもつある種の美しさと破滅への予兆を孕んで極めて象徴的だ。5体の倒立はゆっくり崩れ、スポットライトの中で胎児のように身を丸める。5つのライトがフェイドアウトしても、音を奏でるオルガンの一音が音質のみを変えて響き続けている。

再び照明が入って以降は、この寄せては返す波の往復という大枠の構造のうえに、核に晒され、ゼロと化した歴史の果てに、歪んだ人類のあってはならない歩みが始まるという〝もう一つの”叙事詩が描き出される。大きく身を反らせ、高々と足を上げ、身体の可動域いっぱいの運動性を増したフロアムーブメントによる何度かの往復のあと、ダンサーたちはそれぞれ服を着る。そしてここからいよいよ床から立ちあがってのムーブメントが展開される。重力への意識と反動、遠心力や張力を生かしたモノクロームサーカスならではの動きが次第に熱を帯びていく。最後のシーンはとりわけ示唆的だ。一切の色彩を失ったステージに女性3名のみが起き上がり、茨木のり子の詩『おやすみなさい、大男』のテキストが、やはり3か国語で読まれる。「どこか間違っている」「大切なのはごくわずかです」などのフレーズを含んだ文明批判の詩であることがわかる。女たちが立ち上がり、こちらに背を向け、新たな出発を仄めかし、暗転して終わる。

藤本隆行デザインによるLED照明、山中透による音楽は、廃校を利用した京都芸術センターのフリースペースにスケール感のある空間を創出する。宇宙を思わせる電波音がやがて波音に変わる冒頭は、東北の震災と津波を思い起こさせると同時に、人類の帰し方を想起させるようでもある。LEDライトが激しく点滅し、ノイズの重厚な重なりの奥に人の叫び声が混じり、壊滅的なカタストロフィのイメージが立ち上げられる。藤本はフィンランドのレジデンス制作時から参加するチームの一人。LEDライトは対象をベタに照らし出すことがなく、赤青緑の原色もストロボ点滅も繊細で抽象度が高く、受苦の人体の生々しさを主題のもつ普遍的な時間のスケールに繋げる。山中は今公演のためにあらたな作曲も加えたという。空間の密度を上げる重厚なノイズ、そこに重なる波の音や人の叫び声が3.11を具体的に想起させる一方、レクイエムのような響きの箇所は荘厳さを感じさせる。後半の凍えるような低音部のリフレインにはシベリウスを連想させる響きがある。テクノロジーに基づいた音響の構成が作品の謳うテーマの普遍性と、言ってよければ宗教的な色調を舞台に与え、微かな救済の兆しを見るようにも思われてくる。

アフタートークの内容を記しておくと、フィンランドで制作した初演ヴァージョンと今回では内容的に大きく違う点はない。ただフィンランドは建設中の核廃棄物処理施設オンカロを抱える国であり、現地のオーディションで選んだダンサーたちと創作を通して核をめぐる話をたくさんしたという。金髪のダンサーたちとの作業の「国際性」は、原発事故が突き付ける問題を日本という枠を超え、地球規模で捉えざるを得ないと感じさせたという。日本を離れて制作することで、原発事故に右往左往する日本という国(の愚かさ)を外から見ることにもなった。また藤本によれば、現地での会場は工場跡の廃墟で天井が高く客席は遠い。そうした条件が作品のもつスケール感やデザインを方向づけた。今回は黒髪のダンサーたち、舞台と客席が近いことなどが、より当事者であることを感じさせたという。フィンランドでの滞在制作が3.11を人類の受難という概念に繋げたと言ってよいようだ。

ところでこのフィンランド制作版を、それ以前に坂本が鳥取のコミュニティダンスチーム「とりっとダンス」と共に作った作品『それから六千五百年 地球は寝ているだろう』と対比してみると興味深い。こちらは鳥取で滞在制作され、2012年3月11日、JCDN主催「踊りに行くぜ‼ セカンド」の一演目として京都で上演された。3.11からちょうど一年後という日付だが、この前年の9月にすでに鳥取の「鳥の劇場演劇祭」で初演されている。あの震災と原発事故の後、約半年後には作品が作られていたわけである。『HAIGAFURU』で用いられたいくつかのモチーフは『それから六千五百年・・・』にすでに現れている。タイトルが三好達治の詩『灰が降る』の一節から採られているのも同様であるし」、波の音、ろうそくの灯もすでに出現している。同じ主題、同じモチーフによる創作にコミュニティ・ダンス、国際共同制作、自身のカンパニーへの委嘱と、3つの体制でそれぞれ取り組んできたことになる。この中で最初の取り組みとなる『それから六千五百年・・・』は、震災と原発事故の直後の混乱や不安が鳥取という被災地から離れた地域でも切迫感を持って受け止められるといった状況下で生まれた。生と死、受け渡されていく命を巡るさまざまなインスピレーションに満ちたコミュニティ・ダンスの秀作だが、一般市民である「とりっとダンス」のメンバーたちとの創作には、今ここに立って生きていることの手応えと、生き延びるための連帯をメッセージとして含んでいたと思う。そのことは、この希望の見えない光景を描く作品の後半に、谷川俊太郎の詩『生きる』をダンサーたちが口々に発語するシーンからも届いた。教科書にも載る谷川のこの詩は、一般の人々が自身にとっての「生きる」とは何かを綴りインターネット上で連作したことでも知られる。この詩のもつ力が、不安のさなかに作られたコミュニティ・ダンスに力とモチベーションを与えたのだ。

さて、コミュニティ・ダンスが人々の連帯と生きることの手応えを感じさせたとすれば、今回のカンパニーによる上演は原発事故から4年という年月を経て、むしろ苦悩の色を濃くしている。原子炉3号機4号機の放射能漏れを巡る対応にせよ廃炉への道のりにせよ、状況は時間の経過とともにますます混迷の度を深めている。希望を見出すことのできない重い現実を投影した作品を、今回坂本は、自らのカンパニーに振り付けた。自身の苦悩を、身体言語を同じくする、全幅の信頼を置くカンパニーのダンサーたちに預けたのだ。コンタクト・インプロヴィゼーションは封印したものの、本作の振付はMonochrom Circusの日常的に訓練している身体言語であり、床上の動き、立ちの姿勢での動き、いずれも普段のボディ・ワークに即したものである。ダンサー達は動きを引き受け、振付の意図を自らの意志に重ね、各々が獲得している身体言語に存分に語らせるのである。5人のダンサーは横一列に位置し、同時に同じ動きをするものの、それぞれの身体の咀嚼によってアウトプットのされ方は個別的であり、5人で動きをきっちりと揃えるといったことはしない。むしろひとりひとりが自立した表現者として振付を動いており、危機を生きる主体としての身体で踊る。それぞれの解釈の深度が強くしなやかな動きににじみ出るような、深々と使った身体による見事なパフォーマンスだった。表現者がカンパニーを持つことの意味を考えさせられた。

2015年2月18日水曜日

国内ダンス留学3期生ショーイング公演


1月11日(日)

@Art Theater dB神戸

 

ダンスボックスが主催する国内ダンス留学3期生によるショーイング公演。7月末からの学びの期間、10月からの創作の期間を経ての成果を問う。振付家コースの4名による4作品にダンサーコースの4名が出演(一部にゲストダンサーあり)、これに制作者コース1名を加えた9名のメンバーが留学期間中最大のヤマ場を迎えるわけである。ここから2作品が選出され、3月の最終成果上演に向けて1時間のフルレングス作品に作り直されることになる。私は一昨年(一期)、昨年(二期)に続き、今年も選考委員を務める機会をいただいた。毎年のことながら、選考会は互いのダンス観を戦わせる真剣な議論の場となり、舞台の見方、作品の価値の見出し方、評価の軸の立て方について、さまざまな立場にある委員諸氏の広範な知見に触れることとなる。また意見の異なる人を説得する言葉の力が試される場ともなる。毎回目からウロコを落とされ、卓見に唸らされる一方、自らの言葉の脆弱さ、論拠の不明瞭さを突き付けられることしきりである。もちろん最終決定は様々な議論の末に全員の納得を得たうえで至ったものである。以下に選考委員間での議論、そして結果発表後の打ち上げの席で振付家コースの4名とそれぞれ話した内容も織り交ぜて、作品を振り返ってみる。


 

 

ショーイング・プログラム(上演順):

 

上野愛美 『under』

小堀結香 『月に置いたら?』

塚田亜美 『しらない。』

長屋耕太 『余白に満ちたかはたれどき』

 

選考作品は、上野愛美、長屋耕太の二作品に決定。

ダンサー奨励賞は貫渡千尋。

 

 

 

上野愛美・振付『under』はコンテンポラリーダンスの文脈をよく理解しており、その価値に即した作品といえる。選考の場でも多くの委員が推し、最初に選出が決まった。客入れの時間からすでに舞台ではダンサー5名が散在し、表情も姿勢も変えずにそれぞれ静かに歩を進めている。ヨハン・シュトラウスのよく知られたワルツが鳴って開演となるが、先ほどからの‘冷えた’身体の歩みは続行し、祝祭的な音楽との奇妙な対照をつくる。このコントラストをいわば作品の‘地’として、そこから不意に裂け目がのぞくようにダンサーの身体から奇妙な動きがこぼれ出てくるというのが作品の基本の構造だ。あるところで不意にお尻を細かく震わせる者が現れたかと思うと、伊藤キムばりのいびつで不穏なうねりを見せる者、何かの合図か記号なのか指先で何かを指し示しながらグルグルと旋回する者、あるいは四つん這いになって床を片手でチョップする者、とか。なんとも説明のつかない謎の動きが、相変わらず温度を感じさせずに歩みを続ける身体から突如ほころびのように現れ出る。それらはただドロドロうねうねとその場まかせに不定形に動くのではなくて、どれもしっかりと作られたムーブメント、しかもダンサーの持ち味を引き出すようにそれぞれ個別に、丁寧に振付けられている。また‘地’にあたる冷えた歩みも周到に作られていて、ランダムな5人の動きが時折一列に並び、3対2、4対1などのフォーメーションを形っては、また静かにバラけていく。こうした基本の構図が起承転結なく一定のテンションで進むので、作品としてのメリハリに欠けるという意見も出たが、むしろ意図されたメリハリのなさと考えられる。作品の中で何を表し訴えるのか、その構図が最後まで明瞭でブレがなく、身体を説明しがたいいびつなものと捉える批評的な視点も秀逸。才気を感じさせる作品だ。

 

小堀結香・構成・振付『月に置いたら』は一個のソファをめぐり一対の男女が動きを繰り広げる。それぞれの動きが合理的な連携をつくり、場面ごとの細かい動きの処理にセンスも感じられてよくまとまった佳作だが、作品世界が設定以上に広がりをもたず、ウェルメイドな作品にとどまってしまった。私は小堀さんの作品を以前に一度見ている。自身の身体性に密着した独特のムーブメントが魅力的なソロで、ちょっと奇抜な妄想も含め、新人ながらすでに自分の世界を持った人との印象を刻まれたのだったが、今回‘巧くまとめた’感が強かったのは、ジャッジを意識したのか、或いは他人に振り付ける責任感もあったのかもしれない。打ち上げの席で話すなかで何度も「デュオは難しい」と呟いていた。そう、今回デュエットを振付けたのは小堀さんのみ。3人以上を振付けるのとは根本的に異なる作業であったことは想像に難くなく、動きやフォーメーションの配置・構成では済まない、人と人の関係性に深く踏み入った考察と、相応の動きのアウトプットが要請されるところだろう。実は選考の場でもこの点に話が及んだ。自身の経験も反映させながら、そしてダンサーの身体から動きを引き出しながら、よりリアリティのある関係性の描写が可能だっただろうと。振付家自身による作品テキストを読む限り、どうも男女の濃密な関係に踏み入ることを避けようとするフシも感じられる。で、実際はどんな関係を意図したの?と本人に尋ねてみたら、いわく「親子」。一瞬リアクションに戸惑ったが、たしかにタイトルからも、人の関係性の深みというより、もう少し冴え冴えとしたファンタジーをイメージしているようにも受け取れる。その想像力の冒険を見てみたい。いずれにせよ、一期から見渡してもデュオを作った人は少なく(一期に2作あったがいずれも女性デュオ)、難しい挑戦だったことと思われる。バレエなら確立された形式が官能や感情の横溢を可能にしている。コンテンポラリーダンスでは言語を自ら開拓するところから始まるわけだが、記憶に残るデュオの秀作はあって、岩淵多喜子『Be』、砂連尾理+寺田みさこの『明日はきっと晴れるでしょ』をはじめとする作品群、セレノグラフィカの『ファスナハト』、最近では高木貴久恵がDance Fanfare Kyoto 2013で発表した『夢見る装置』も印象深い。本作『月に置いたら』もその都度ダンサーの身体と対話しながら再創作を重ねて、コンテンポラリーダンスの愛されるデュオ作品に育っていったら素敵だろう。

 

塚田亜美・振付『しらない。』。日々大量に流される情報と、そのほんの一部しか受け取っていない自分、出来事の表層ばかりで真実を知らぬままに送る日々。そのギャップや焦燥感、渇望感(本人の言葉では‘コンプレックス’)を動機とした作品だ。コンプレックスとはいえ自らを卑小に感じるというより、目の前に広がる知るべき世界のダイナミズムに圧倒されつつ向き合おうとする前向きなトーンも作品テキストからは感じられる。実際の舞台はこうした心情を説明的に描いていくのではなく、情報と身体との関わりを直観的に捉えたアクションで構成している。大量の新聞紙の山から人が出てきたり、その一枚をホリゾントの壁に叩きつけたり、手にした新聞の一部を読み上げたり、‘山’をカオティックに掻き混ぜ、果てに次々と舞台下に落としていったり。また途中で上演当日のTVニュースが音声で流れたりする。この作品は評価が分かれた。厳しい意見は、情報といった場合2015年の今日、新聞はないだろうというもの。グローバルなIT社会において新聞はいかにもアナクロではある。また、情報の内容がどこまで当人にとって切実な問題であるかが不明だという意見。ニュースを内容ではなく当日のアナウンスという事実のみで使用したことや、新聞紙を媒体の機能でなくモノとして扱っていることなどが指摘された。一方、この作品を押す意見では、社会について見る側にも考えさせてくれる点や、あくまで身体で表現しようとする姿勢がある点が挙げられた。実は私もこの立場だ。塚田さんの作品には、このダンス留学の学びの期間にさまざまなボディ・ワークを体験したことの反映が感じられた。スポットライトの中に3人が身体を密着させてうごめいているシーンなどはアメリカのポストモダンダンスのシモーヌ・フォルティのワークを実践した授業の応用にも見える。物質としての新聞紙や重力の影響を受けた身体が剥き出しにされていくアクションは、ポストモダンダンス以降今日に至るまでダンスが問い続けてきた本質に触れている。情報社会をネットでなく新聞で表現したことは、要はリサーチの問題で、今後新たに情報空間というモチーフを立てた場合にも、塚田氏はおそらくこれにあくまで身体の作業を通して取り組んでくるだろうという信頼がある・・・こういった論旨を選考の場で十分に展開し切れなかった私は、ひたすら「身体で表現」「からだで」「からだが」と繰り返す自分の言葉が、次第に‘からだイデオロギー’めいてくるのをリアルタイムで感じていた。いやはや。打ち上げの席で塚田さんともたくさん話をした。3歳からバレエを始め、中学、高校と創作ダンス部に所属、王道のダンス人生を歩む中で身に着けてきたダンス・コードは大学でポストモダン系の教官と出会い、いったん解除、そしてこのダンス留学では現在マーケットの第一線で活躍する講師たちに学び、さらに多様な表現方法に出会ったわけである。『しらない。』だからこそ知りたい、と語る本作は、彼女がいままさに経験しつつあるダンス人生の行程を重ね合わせたもの、との深読みも出来そうだ。

 

長屋耕太・振付『余白に満ちたかはたれどき』については、私は随分突っ込ませてもらった。振付者には表現したい明確なイメージがあって、これを従来のダンス言語とは異なる方法を用いて舞台化しようと試みている。そのイメージとは、まことに繊細で儚いが、長屋氏本人の胸の内では大切に暖められ、確かな像を結んでいるようだ。タイトルにある「かはたれどき」、たそがれどきともまた違った、これから夜明けを迎える、未明というよりまだ早い時間、その独特の陰影や空気。そんな形にならない感覚をダンスの創作のモチーフとした。舞台はほぼ暗闇や半闇の中で進む。闇に灯る小さな豆電球やランプ、細かく繰り返される暗転とシーンの切り替え。ダンサーの存在はホリゾントに映るシルエットだったり、暗い照明の中にかろうじて見とめられる人影だったりする。形にならないもの、触れ得ないものをモチーフとし、身体以外の要素に多くを負ったこの舞台をダンス留学の成果と見ることには、当初私には躊躇があった。参照した葛飾応為(葛飾北斎の娘)の浮世絵「夜桜美人図」は、暗がりの中に描かれた蛍や灯篭など種類の異なる灯り・光の取り合わせの妙と、やがて訪れる夜明けへの予感に満ちた絵だが、これを舞台化するのに照明と暗闇でというのでは、あまりに‘まんま’ではないかと感じたのだ。その独特の感覚を身体言語化するのがダンスだろう、というのがここでの私の立場で、それでいうと語彙に乏しく、選択された方法もイメージに届いていないとの判断である。一方、本作を強力に推す意見では、この舞台を狭義のダンスから解き放ち、より広範なパフォーマンス作品としての可能性を見て取っている。特に「全裸で上演してみたら面白いだろう」との提案は、「身体」と「動き」の三次元的・言語的な展開とは異なるアプローチを示唆するもので、これには私のみならず他の委員も目を見開かされた。そして振付者の中に明確なイメージがあり、それに表現が追いついていないというのは、むしろポテンシャルの高さを示すのではとの幾分レトリカルな説得を受け、というか論破され、本作の選考に同意した次第。確かに、より大きなチャレンジを要する作品を選考することはひとつのメッセージにもなり得る。打ち上げで長屋さん本人と話をしながら、彼が昨年12月のアイザック・イマニュエルのレジデンス・ショーイングに自ら乞うて出演していたことを思い出し、ああそうかと、ここで何かが腑に落ちた。イマニュエルのそれは、人の存在の痕跡とか不在といったテーマを、風景、気象、空気、気配など、重力に支配されない要素によって浮かび上がらせようとするパフォーマンス。三次元的な空間ではなく、「環境」や「時間」のフィクショナルな配置を目論む舞台だ。これを参照すると長屋氏の目指すものが見えてくる気がする。あるいは白井剛とかdotsの桑折現にも通じるかもしれない。3月の最終成果上演に向けて彼はどんなアプローチをしてくるだろう。楽しみに待ちたい。