2018年5月31日木曜日

BLIND PIECE PROJECT


5月11日(金)

秋津さやか『Blind piece』 @京都芸術センター



構想・振付:秋津さやか
照明:今村達紀  音楽:アルフレド・ジェノベシ
振付・出演:合田有紀 中間アヤカ 西岡樹里 野村香子 山本和馬




本作は2015年に『踊りに行くぜ? II』の神戸公演のプログラムとしてダンスボックスで初演され、昨年夏に改訂版が京都で行われたシリーズで、今回はそれに続く第三のヴァージョンとなる。タイトルから分かるように、作品は観客に対し、上演中たびたび目を閉じるよう要請する。目を閉じて広がる想像と、再び目を開いた時に見える景色とのギャップに、何らかの創造的なインスピレーションが得られることを意図している。これを基本のコンセプトとしつつ、作品はヴァージョンごとに変貌をとげてきた。とくにプロセニアムの舞台で上演した初演時と、京都で行った2つめのヴァージョンでは、作品の印象は大きく変わった。プロセニアム形式では、観客は通常通り客席に座ったままアナウンスにより目を閉じたり開けたりしながら視界を操作することで、舞台上のダンスの進行を断ち、眼にしたイメージを切り取られた「絵」として印象に刻んでゆくことになる。初演のダンサーは中間アヤカ、西岡樹里、山本和馬の3名。眼を閉じて開けるたびに異なる配置をみせる3者の踊りが、ミニマムな遊戯性を宿したトリオという形式の原型を思わせ、それはそれで魅力的な作品だった。ただ、目を閉じることで得られる鑑賞上の効果といったものは、あまり明瞭には浮き上がってこなかった。暗転による場面転換とさしたる違いがなかったように思う。




2017年夏に実施された2つめのヴァージョンでは、上演の形態は全く変わった。まず場所の違いが大きい。京都の繁華街にある小規模のビル「FORUM KYOTO」は、ポストモダン風にデザインされた、全体にシンプルで開放感のある設計。建物中心部の吹き抜けを囲いのない階段が貫き、各階は仕切りのないフロアになっている。壁面は大きなガラ張りで、上層階からは京都を囲む山並みと広い空が見える。パフォーマンスはこの3階か4階あたりの小さなフロアを使って行われた。壁沿いに椅子を並べた客席は10席もあっただろうか、観客どうしで顔を見合うほどの小さな空間だ。

ダンサーは初演時の3名に合田有紀、野村香子を加えた5名。回ごとに組み合わせを変えて3名ずつ、それにガイド役が一人入る。ガイドによる「目を閉じてください」「目を開けて下さい」の指示に従い鑑賞が始まると、ダンサーは観客が囲むフロアで踊りながら各々言葉を発していく。この言葉の介入が初演とのもう一つの大きな違いだ。内容はダンサーにより異なるが、いずれもダンサー自身の個人的な記憶を辿るもので、幼少の頃の印象に残ったふとした出来事や風景を具体的に描写する。ダンサーたちは交互に、およそ2~3つのセンテンスずつ言葉を発し、それぞれが語る3つの記憶の情景が同時進行していく。

さらにもう一点の相違は、目を閉じている時、ダンサーが不意に鑑賞者の体に触れてくる瞬間があることだ。最初は膝にそっと手のひらで触れられる程度、それが目を閉じる/開ける、を繰り返すにつれ、少しずつ身体的な関与の度合いを増していく。私が鑑賞した回では、子供時代の習字の思い出が語られる時、眼を閉じた私の手にダンサーが自分の髪の束を握らせるということがあった。語りにあった毛筆のふさふさとした感触を自身の毛髪で伝えてきたのだ。触れてくるダンサーが3人のうちの誰なのかは、基本的には分からない。そこも謎めいている。やがて眼を閉じたまま手を引かれ椅子から立ち上がりフロアの中心に導かれるといったことも起こる。ガイドの指示により目を開けると、他の鑑賞者たちも同じ空間に立っていて、思いもよらない状況に自分が置かれていたことに気付かされる。目を閉じて想像している情景と、眼を開いた時に飛び込んでくる現実の景色の落差が、驚きではあるが不快なものではなく、感覚の飛躍の体験として面白い。そして言葉が掻き立てるイメージと、ダンサーたちの語る声、親密な接触、手を引かれる見えない相手への不安と信頼の入り混じった心持、それらすべてがガラスの向こうの京都の空を借景としながら、柔らかく繊細な空気感の中で運ばれ、ダンサーたちの持つピュアな雰囲気もあいまって、五感のすべてをもって歓待されているような不思議な鑑賞体験だった。



さて、第三のヴァージョンとなった今回は京都芸術センターの旧教室を会場に選び、語る言葉も小学校時代に因んだノスタルジックなものになった。板張りの床、黒板、木枠の窓のある教室に、椅子がロの字に並べられている。鑑賞者は今回も互いに近い距離にある。ガイド(所見の日は中間アヤカ)に導かれて教室に入り、椅子に腰かけ、目を閉じ、ダンサー3名(この日は西岡樹里、野村香子、山本和馬)の語りに耳を傾ける。各々の記憶に因んだ語りは前回同様、場面を具体的に描写するもので、内容はやはり極めて個人的なものである。たとえば(正確にこの通りではないかもしれないが)、野村は学校の裏庭の茂みにみつけたカラスウリを採ろうとフェンスの隙間から手を伸ばしている様子、山本は雪国の小学校のそり遊びにまつわる一部始終、西岡は教室で先生に課題を提出する場面や、忘れ物を取りに戻った教室に射す夕方の光の印象といったように、いずれも日常の中に生じた他愛のない出来事や風景の記憶である。それらを感情や心理状態、価値判断などに関わる言葉は交えず、見たもの、経験したことの細部を描き出すように語ることで、聞く側に情景を具体的にイメージさせる。決して演劇調の抑揚や強弱、ドラマチックな感情移入などを伴うことなく、むしろ淡々とした口調で語られていく。三人が交替に語りながら同時進行していくのも前回同様である。

ダンスはといえば、語る言葉をそのまま身体に置き換えていくような動きで、マイム的な要素も入るが説明的ではなく、仕草とダンスの曖昧な境界を漂う、はかなげな動き。幼い頃に誰もが体験した世界との身体的なつながりを思わせるような、親密で、言語化以前の、フォルムにならない動きを見せている。これもトリオで踊った初演時とは大きく異なる点である。ダンスを見、言葉を聞き、眼を閉じ、鑑賞者はダンサーたちのごくパーソナルな記憶が掻き立てるイメージを受けて、自身の中で膨らませていく。

今回も目を閉じていると不意にダンサーが膝に触れる時があり、手を引いてパフォーマンス・エリアに誘い出されたり、再び椅子に腰かけるよう誘導されたりした。さらにダンサーの両手がこちらの両手をとり、大きな円を描くように動かされたのは、イメージの中で一緒にダンスを踊る試みだったのだろうか。最後に目を閉じたままフロアに立っていると音楽が流れてきて、思わず体を揺らしたくなった。他の鑑賞者たちも一緒に立っていたはずだから、この状況を外から見れば、鑑賞者たちによるこの場限りのダンスが生まれていたのかもしれない。目を閉じて鑑賞する側である限り、全体を眺めることは不可能で、最後に目を開けてしまえば、生まれていたかもしれないダンスは幻と消えている。



ダンスを見る=「眼差す」という行為には、踊り手に視線を一方的に差し向ける能動性があり、ときに対象への攻撃性、暴力性を含むこともある。ところが『BLIND PIECE』ではその一方向性が様々に攪乱される。目を閉じることによって眼差しの一方向性は反故にされ、そこに言葉を聞き、身体への接触を受けるという、ダンサーの側からの聴覚や触覚へのはたらきかけがあり、鑑賞行為における受動性という側面が開かれる。このとき鑑賞者は、客席に座ってダンスを眼差す“マス”としての観客から、この場に身を置く一人の参加者へと移行し、パフォーマンスとの直截的な関与を引き受け(引き入れられ)、気が付けば演じる側と同じ平面に立っている。このように、ここでは見る側、演じる側の境界が曖昧にされている。

目を閉じたり開けたりする操作は、上演の一元的な時間進行を分断し、過去の記憶の風景と現在この場所の景色とを脈絡なく接続させる。複数のダンサーの記憶の語りが輻輳し、異なる時間が切り替わりながら、鑑賞者にとっては他者のそれであるイメージをコラージュ的に掻き立てていく。作品はこうした記憶、感覚、認識についての異なる段階を体験するために仕掛けられた、特異な形の観客参加型パフォーマンスといっていいだろう。ここではダンサーのごく個人的な記憶が、鑑賞者一人ひとりの身体性に受け止められ、移植されることが目論まれている。繊細でひそやかな、極めてパーソナルな記憶が、別の誰かの身体に経験し直される試みだ。









2018年3月16日金曜日

国内ダンス留学@神戸六期生 成果上演


310日(土)

国内ダンス留学@神戸6期生  NEWCOMER/SHOWCASE #6
成果上演              ArtTheater dB Kobe

メンター:余越保子


6期目を数えた国内ダンス留学@神戸が今年も8か月にわたる学びの日々終えて成果上演を迎えた。4つの上演枠を巡って振付家志望者が自作をプレゼンテーションし、選ばれた4作品が披露された。創作期間の5週間にメンターを務めたのは余越保子。まずは4作品の報告を上演順に記す。


・アラン・スナンジャ『Who is behind
出演 松縄春香 Alan Sinandja 五十嵐香里 友廣麻央 照屋仁美 川上瞳 合田昌宏 恵風(演奏、11日のみ) 奥田敏子(歌)

アフリカの民族舞踊をベースに、パーカションを中心とした音楽もアフリカンを使用、その種類も多彩に用いて場面を次々と展開してゆく盛沢山な20分間だった。新長田の人々がエキストラ出演して無名の群衆となり舞台を往来するのに対し、ダンス留学6期生の松縄春奈がアランとともに都市の生活と環境から疎外されるメイン・キャラクターを演じ、集団と個、都会と農村、先進国と途上国といった対比がドラマとして浮かび上がっていく。アランのアフリカン・ダンスの特徴ある小刻みのステップは空気を一変させて迫力があるが、彼と向き合ってデュオを踊る松縄も器用な踊り手ではないながら存在感があり、様々なアフリカン・ダンスの語彙に対応して臆することなく踊っていく。アラン自身の出自であるアフリカの踊りと太鼓のリズムが疎外された人間性の回復を示唆するようでもあり、大地を踏むという踊りの起源や農作業から踊りの所作へのつながりも見て取れる。ところが最後は悲劇の結末。単純な二項対立で収める気はない、アフリカ=自然・人類といったステレオタイプなど現代では通用しないということかもしれない。20分の持ち時間にこれだけの要素を投入し、社会批評を込めた複層的なドラマトゥルギーを組み立ててきた。つい内的になりがちな等身大のコンテンポラリーダンスとは異なる作風だ。


・宮脇有紀『Accord
出演 Kyall Shanks Maria de los Angeles Pais 植野晴菜 大谷萌々夏 宮脇有紀

独特の体の質感の追求と、4人のダンサーの関係の変化で見せる20分。具体的なドラマや内容設定をもたず、形式におけるチャレンジをみせたのは今回では宮脇のみだった。たわめられ、ゆがみを含みながら、なめらかに粘りをもって動いていく不定形のムーブメントは舞踏の人の動きとも少しテイストが違う。宮脇自身がこれを濃やかに動いていて、独自の身体語彙を生み出そうとする方向性は、他の3人とは位相を異にするもの。(これが日本のダンスに共有されている何かしらの文脈や問題意識と関係するものなのかどうか、確かなことは言えないが、或いはそうであるのかもしれない。)4人が二組のデュエットを踊ったり、その組み合わせを変えたりしていくが、編成を決して固定させず、流動的に次々と関係を変化させていくもので、ひとところのツボ、快感や納得にとどまらずに変化し続けようとする意図があっての動かし方。とても複雑なことをやろうとしている。中盤がすこし迷走気味だったが、それもコンセプトの抽象性ゆえだろうか。目指すところを高く持って、妥協なく進んでほしい。


・マイア・ハルター『still unnamed
出演 大谷萌々夏 松縄春香 Maia Halter

沖縄民謡「安里屋ユンタ」で幕開け、海が時とともに色を変えていくようにブルーの濃淡による照明が印象的。日本で出会った風景なのか。ここにマイアの西洋仕込みのダンスが重なり、異なる文化、複数の美意識の間を揺れてたゆたう心情を映し出した美しい作品。半ばから白いユニタード姿になった3人の女性ダンサーは三美神のごとく、調和と優美をダンスで体現していく。水/海の中というシチュエーションであるのか、ゆらめくような動きに照明が重要な役割を果たし、また布と衣もモチーフの一つになっていた。終盤に向けて低音のパーカッションがドライヴ感を増し、ヘッドバングして髪を振り女性性の対極的な面を露わにするマイアと、敢えて静かな松縄、大谷。内的世界を海の深さに重ねているようだ。踊りの語彙に新奇なものは感じなかったが、自身の世界観を存分に描き出していて、アランの作品に劣らず様々な要素を投入している。たくさんの素材が引出しの中に蓄えられていて、日常や旅や新長田での生活などで経験される全てがダンスへと注ぎ込まれるような振付と創作の日々を思わせる。見る側も彼女の世界にどっぷりと浸され、大変手応えのある鑑賞体験だった。


・カイル・シェンクス『Shared
出演 植野晴菜 宮脇有紀 Alan Sinandja Maria de los Angeres Pais Kyall Shanks

ユーモアとパロディ、ナンセンスと日常の裂け目を舞台の上に描き出した若者らしい才気にとんだ作品。冒頭は大きな袋からカラーボールを次々と取り出すという現実の作業を舞台上にのせたもので、メタ構造による異化を試みている。小道具をたくさん使い、キッチンやリビングのありふれた情景を異なる切り口で照らし出すもので、4人が家族写真のような絵図をつくって客席正面を向いてポーズするなど、シアトリカルな場面の作りも多用される。クローゼットから取り出されるギリシャ彫刻の頭部など、脈絡のないリファレンスが効果的になされたり、なぜかサングラスをしたカイルがクールな表情でワゴンを押していたり、細切れのイメージがコラージュのように構成され、舞台は謎めいていく。より長い尺の作品にして神話や古典を引用しながらこのパロディを織り上げていったら面白いことになりそうだ。カイルもまた自身が体の利くダンサーでもあり、彼の西洋舞踊をベースとしたコンテンポラリーなダンスとアランのアフリカンと、それぞれの踊りが並んだ場面は見どころの一つ。最後は全員リビングでお茶を入れ、くつろぎ始めてしまうというナンセンス。冒頭のカラーボールが舞台にぶちまけられて、破綻が祝祭的でもあるという世界のもう一つの真実=シュールレアリズムを示して終わる。方向性のはっきりと見て取れる作品。これは4作品に共通して言えることで、今年の特徴だった。メンターの役割によるところも大きいのかもしれない。




成果上演にあたってフライヤーや当日パンフレットに記されたメンター余越保子氏の文章がことのほか印象的だ。「ダンスは予定調和が叶わない縦横無尽な性癖を持ち、偶然、失敗、ハプニングをすべて飲み込んでしまいます」。ダンサーでいることと振付家であることとはマインドが異なることや、「わからなさを享受」すること、「意味や価値を保留することができる想像力」についても語られている。5週間の創作とリハーサルの日々、週に三日は互いの作品の合評に費やしたという。その合評とは「いったい何を表そうとしているのか」「ここをこうすればもっと良くなる」といった質問や助言ではなく、「何が、どのように、起こっていたのか」を言葉で発するワークであったという。これは大変興味深い方法であって、私事を言えば批評のワークショップで最初に言われたのが「(己が解釈や価値判断を披歴するのでなく)そこで何が起こったかを正確に伝えよ」であったし、そのことにいまだに四苦八苦しながらダンスを書くことに携わり続けている。「わからなさを享受する」「意味や価値を保留する」と語る余越氏だが、この日見た4作品は4作品とも非常にクリアな輪郭をもち、コンセプト、主題、素材の適用、ドラマ運び、シーン構成、いずれにも一本の芯が通っていた。「謎」という意味でのわからなさは残りつつも、作る過程を表現者自身の意志や動機に拠らず、外から客観視することが合評を通じて可能になったのかもしれない。


アフタートークの様子も掻い摘んで書いておくと、余越氏曰く、振付作品はどのように出来るか?作品を作るにあたって時間と空間を扱うが他の芸術と違うのは人間を使って作ること。頭の中にある思想を体を使って具現化する。自分の中にある動きを自分で動いて見せてもそれですぐに具現化するわけではなく、ダンサーを動かすには相当の言語能力が要求される。ここではニューヨークで自分も受けた育成システムを応用した。ダンスとは目で見たもののことであって、アイデアはただのアイデア。目の前に現れたものが作品である・・・合評会の手法はニューヨークでの育成システムの応用ということだろう。因みに余越氏は昨年の5期生のショーケースにおいてもアメリカの大学の舞踊課程で行われる振付家育成のプログラムについて言及していた。その経験を生かして現場を導く彼女は非常にプロフェッショナルな方法論をもった日本では貴重な振付家であり教育者といっていいだろう。


振付を行った留学生4人の言葉も様々に示唆に富んでいた。8か月間は長い旅のようで、チャレンジがあり創造がありタフな経験だった、It was hard, very very hard, difficult、そしてラッキーだったと話すのはアラン。メンバーはファミリーであり、母国の友人以上に絆を感じると感慨深げだった。新長田の町と人々のフレンドリーでオープンな雰囲気、dB側の寛容さとサポート、身近に劇場スタッフの仕事を見たこともいい経験だったと語るマイア。仲間で作り上げた成果上演の達成感と、課程の中で少しずつ自身の成長を感じ、気付いたら吸収していたと振り返るカイル。劇場を使いながらのクリエーションは他ではない経験で、ダンサーと常に一緒にいる状態で様々なことにトライできた、普通は絵になるのはある程度時間がかかるのだが、と宮脇。ダンス留学生には年ごとに特色があるが、今年は初めて海外からの受講生がいたこと、そしてメンター余越氏のナビゲートもあって、成果上演の作品自体も、すでに舞踊家としてのスタートの段階を過ぎて自身の舞踊言語を持った人たちによる中身の濃いものだった。そこで敢えて、質問してみた:ダンス留学を通じて学んだこと、とくにNEWCOMER/SHOWCASEの講師5人のリハーサルからテクニック上でも舞踊思想の面でも、なにか新しく得たものを今回の作品に生かしたといった点はあるか? 二人の人が答えてくれたが、いずれも「具体的にどのテクニックをどの場面に生かして、といったことを言うのは難しい。学びは継続的なもので、この先も変化し続けていく。」「実際には様々な条件、たとえば一緒に作る仲間から得るものも多くあり、この成果上演に向けた一か月の間にも変化し続けてきた。これからもそうだろう」といい、ピンポイントでこの技術を得るとか、この新しい考え方を採り入れる、といった限定的なことではなさそうだ。


ダンスの学びというものがすぐれて全人的な経験であり、この人格丸ごとをもって取り組んだ経験を通してのみ、人は本当に変化し、成長できるものなのだと強く感じるアフタートークだった。新長田の町や人々との関わり、町に移り住んで日常生活もここで送ること、内外から集まってきた志を同じくする仲間とどっぷりダンス漬けの日々を過ごすこと、その中で挑戦や創造やタフネスを乗り越えること。国内ダンス留学@神戸はこうした事柄が有機的に結びついた全体性の中にある。ダンス・テクニックのメニューを揃えることとは訳が違うのだ。その一方で、振付という行いには表現を人格や内的な意識から切り離し、自身の外に置いて客観視する眼も必要とされる。内的で全体的な経験と、外から見る眼の双方がダンスの現場を作っていくのだろう。






2018年3月15日木曜日

地点『正面に気をつけろ』


38日(木)

地点『正面に気をつけろ』              @アンダースロー、京都



作 松原俊太郎

演出 三浦基

音楽 空間現代

出演 安部聡子 石田大 小河原康二 久保田史恵 小林洋平 田中祐気 麻上しおり





地点の新作はブレヒトの未完の戯曲『ファッツァー』の翻案。これとは別にブレヒトの『ファッツァー』を構成した舞台は地点のレパートリーとしてすでに上演を重ねている。第一次世界大戦中の脱走兵が地下にこもり、来ることのない革命を同胞たちと夢見ながら、閉じ込められた空間で心理戦を強いられ、欲望と互いへの疑心が彼ら自身を追い詰め、次第に焦燥と敗北の色を深めていく。スリーピースバンド空間現代の図太く鋭い生演奏が弾丸よろしく音を撃ち込み、地点の役者たちのセリフまでもが銃弾のごとく打ち出されるスリリングこの上ない作品だ。今回『正面に気をつけろ』の劇作を行った松原俊太郎はこのシチュエーションを現代の日本に置き換えた。登場するのは英霊たちという設定だが、死んでいるのか死にきれずに彼岸と此岸の間をさまよい続けているのか。当日パンフレットによれば「やってきた者たち」とのこと。「まいったなあ!」で口火を切る台詞の反復と空間現代の相変わらず鋭く重い打音。第二次世界大戦の戦後処理を曖昧にしてきた日本の精神構造が、第二の戦後というべきか福島の原発事故「以後」の閉塞に重なり、二重の不条理な状況を、それ自体がマニフェストかアフォリズムであるかのような政治的かつ詩的にも聞こえる台詞群によって浮き彫りしていく。舞台の手前と奥を分けるように一筋の溝(三途の川?)が通っていて、女がひとり横たわる図はオフィーリアさながら。役者たちが川を渡って手前に出てくると間髪入れずにサイレンが響くのは放射能汚染区域の警報をなぞる。役者たちの発語と身体の緊密な連携にバンドの音が強烈なアクセントで介入し、濃密な観劇体験の中で危機感は高まるばかりである。折しも7回目の3.11を前に、現政権下で起きていると誰もが知っている不正、スキャンダル、崩壊寸前の社会規範と公正と民主主義、外交情勢の急展開等々に見舞われる日々、このままではやばい感が押し寄せる今の日本をそっくり映し出す。新しいメンバー二人を見たのは初めてだった。






2017年10月11日水曜日

NEW COMER SHOW CASE #1 山崎広太『ダンスは日常生活ダ!第2弾』

9月17日(日)
国内ダンス留学@神戸6期生  NEW COMER SHOW CASE #1

山崎広太・振付『ダンスは日常生活ダ!第2弾』   @ArtTheater dB Kobe



国内ダンス留学@神戸の6期目が7月末に開校し、各講座の成果として上演されるショーイングの第一弾が行われた。振付は山崎広太。都合により1日早くゲネプロを見学させてもらう。山崎が講座をもつのは昨年に続き2年目。今回もショーイングの会場内にはひな壇式の観客席を設けず、舞台上から客席フロアまで全面を使ったスケール感あふれるパフォーマンスだ。ダンサーたちは舞台袖にハケることなく(ソデの幕も取り払われているので)、いったん開始したら最後まで踊り切るほかない条件のもと、大海原に漕ぎ出すようにショーイングに臨む。

山崎の作品では踊り手の喚起するイマジネーションが場の意味を様々に変化させる。昨年のショーイング作品でいえば目の前に現れ出る光景はニューヨークの街角だったり、新長田の町中だったり、ナイトクラブのダンスフロアだったり。ほとんど静止し、わずかな身体のブレのみが入るようなスタティックな佇まいから、ダンサーがひとりずつ呟くように言葉を発するポエティックなシーンをはさみ、音楽とともに徐々にエネルギーがその場を満たしてゆく。気が付けばけたたましい喧騒に満ちた都市の祭りへとシチュエーションが変化している。様々なスタイルの踊りで構成される各シーンが切れ目なく続くに従い、劇場空間のボルテージも変化する。この緩やかで大きな波のようなダイナミズムに身を泳がせながら、ダンサーたちは動きと身体の様々な表情や質感を作り出していくのだった。

さて今回のショーイング。会場に入って開始を待っていると6期生たちが気さくに話しかけてくる。ちょうど台風が近づきつつあり近畿上陸の予報が出ていた日、一人の女性ダンサーに「外の様子はどうでしたか?」などと尋ねられ、こちらも「ダンサーの皆さんの衣装が素敵」と話題を振り、これは演出なのかと頭の隅に疑問符を浮かべながらも、ウェルカムな心情を示してくれるダンサー達との他愛ない会話に興じた。やがて音楽が鳴りダンスが始まるが、最初の盆踊り「東京音頭」にも、続くディスコ(クラブ?)でするパラパラ風の踊りにも、観客が誘われ、ステージに上がって一緒に踊る。ここまではいわばプロローグ。客席と舞台の境界をなくして人々を巻き込み、これからここで起こる出来事が誰にとっても現実であり日常であり、誰もが主役であるというメッセージだ。講座では山崎と6期生たちが新長田の町に出掛け、地域の盆踊りに参加するなどの交流をしたという。今期は海外からも留学生が集まり、共にダンス三昧の日々を送ることになる。その出会いへの祝福を込め、小さな点である新長田が世界につながる感覚と、日常に組み込まれた祭りの時間、誰をもその輪に招き入れる盆踊りの形をとったセレブレーションを舞台に立ち上げる。

6期生によるダンス本編では、ダンサーたちがステージ上と、その両端から階段を下りた客席フロアの全体に散らばり、胸のすくような空間の広がりの中でパフォーマンスを展開した。場面の設定はより抽象的。踊りはカウントによる振付ではなく、動きにならない動きの萌芽のようなもの、振付言語となる以前の喃語のような動きをみせている。胸の前で両の手を淡くゆらめかせ、関節をあらぬ方向へたわめ、「直立」にあるような調整・統合の解除された身体で佇んでいる。

ここは混沌と生成の渦巻く“ダンス以前”の場所であり、内と外の境界はなく、自他の認識は外され、 ダンサーたちの漂わす気配は星雲のように曖昧だ。確かな核をもった「個」の存在とは異なるあり様でそこにいる。(そういえばダンスを「存在」で語るなどナンセンスだという呟きを最近見た。)そうした中、ダンサーたちの身体から、今日までの舞踊人生の中で各々が身に付けてきた既存のスタイルの踊りが不意にこぼれ出る瞬間がある。曖昧な佇まいの中に唐突に甦る舞踊言語の記憶。それは生成されるダンスの予兆でもあり、彗星のように現れては消え去る踊りの言語の欠片でもある。脈絡なく現れる踊りの欠片は鮮やかで、強烈だ。

或いはまた、不意にステージ上と客席フロアとに遠く離れた身体が、あるいは触れ合うほど接近している身体同士が、動きのシンクロニシティを見せる瞬間もある。二つの身体、異なる時間が偶然に呼び合い、星雲のあわいに光を放つように、明瞭なダンスの形をひらめかせる。混沌(山崎の言う「暗黒」?)の中に一筋の理知の光が通り抜けていくイメージであり、スケール感、速度と並び、山崎広太の作品に見られる鮮烈な魅力の一つだと思う。

6期生には海外から入学してきた人たちもいて国際色豊かな顔ぶれだ。アランのアフリカン・ダンスのステップや、西洋人の女性のバレエのパとフレーズ。一概には言えないが、海外からのダンサーは強い身体性と強固に仕込まれたダンステクニックを備えている人が多いようで、そのことがテクニックを解除しダンス言語獲得以前の身体に立ち返るような本作のタスクを、幾分困難にしているようにも見受けられた。逆に、これも一概に言うべきではないが、日本人のダンサーは喃語の段階にある身体をさほど困難とせず、現在の自分自身とそう遠くないものと感じているようだった。それだけ“ナイーブな”身体を保っているということかもしれないし、あるいは舞踏の身体観の影響があるのかもしれない。本格的に舞踏を学んでいなくとも、日本でコンテンポラリーダンスを踊る環境の中にはなんらかの形でその身体観、舞踊観に触れる機会はあり、明瞭なフォルムやステップとして成形しない身体表現というものがあり得ることを理解しやすいのかもしれない。そしてそうでないダンサーにとっては、テクニックの「鎧を外す」ことは国内ダンス留学@神戸第6期における一つのテーマとなるのかも知れない。

山崎と6期生たちはカリキュラムの中で新長田の盆踊りを体験し、触発されるものがあったようだ。プロローグに見たように、本作は人々の集まりと、営々と営まれる祭りの習慣に想を得ているのだろう。『ダンスは日常生活ダ!』のタイトルには、ダンスを日常に引き寄せ、誰にもアクセス可能なものにするという民主的な意味と、ルーティンの中にあるベタ足の日常から踵を引き上げ、イマジネーションの力でどこにでも走っていける思考と身体を持つという意味の二つがあると思われる。日常をセレブレイトするダンスの想像力が私たちを突き動かすとき、私たちの身体は世界のあらゆる広場や路上とつながることさえできるのだ。



2017年10月4日水曜日

「アジアの舞台芸術、最新事情!」を聞く 

2017年9月29日(金)

習俗とアート夜話 -新長田アジア学ー 第六夜
「アジアの舞台芸術、最新事情!」

講師 矢内原美邦(ニブロール主宰)

@ミャンマー食堂tete


新長田で毎年秋に開催される「下町芸術祭」。
これをより深く楽しむための予習として、本年は「下町芸術大学」という講座プログラムが企画されている。この中でも特に「習俗とアート夜話」と題したスタディシリーズは、新長田の町をアジアの様々な地域にルーツを持つ人々が暮らす「マルチ・エスニック・タウン」と捉え、町の歴史や多文化共生の様々な事例を講師を招いて学んでいくもの。ここから視点を地理的な/横のつながりへと広げる今回は、ゲストにニブロール主宰の矢内原美邦氏を迎え、2015年に文化庁文化交流使としてアジアの国・地域を回り公演を行った経験から、各国の最新の舞台芸術事情を聞く会となった。私は本講座シリーズに初めて参加した。

矢内原氏が訪れた国・地域から今回取り上げられたのはシンガポール、マレーシア、タイ、ベトナム、インドネシア、台湾、フィリピンの状況。ダンス制作に国家から助成がつくシンガポール、アートセンターやコレクティブが複数存在しシーンが活発なマレーシア、国立劇場が主流で演劇が盛んだがピチェ・クランチェンのような世界的なダンス・アーティストを輩出したタイの3か国のように、日本と状況はほぼ変わらない程度に舞台芸術が盛んな国々がある。(ただ、こうした国々でも「制作」という仕事が独立した職種として確立しておらず、アーティスト自身がマネージメントを行っていたり、それぞれが仕事を持ちながら場所・スペースを運営していたりする。)他方、アメリカとの戦争を経た現在、カンパニーは少ないがお客は非常に熱心で、若い人たちがダンス・演劇に飢えていると感じられるベトナム、稽古中にもモスレムのお祈りの時間がやって来るインドネシア、といったようにそれぞれの歴史、国家体制、民族構成、宗教の違いをつぶさに感じる旅でもあったようだ。検閲の厳しい国もあり、官憲の目をかわしながらその都度公演にこぎつけているマレーシアの例、また大谷燠氏からは質疑に応える形で、軍政のもと美術家たちが作品を形に残さないようにと始めたパフォーマンスアートが身体表現の主軸となっているミャンマーの例など、政治的に厳しい状況下での活動の在りようも聞いた。国ごとに事情が違い、その異なる状況のもと、矢内原氏はニブロールのダンサーたちを呼び寄せたり、現地でオーディションをしたり、滞在先で新作を作ったりと様々な形で公演をやり遂げていった経験を豊富な写真とともに語ってくれた。受け入れの劇場や各都市のダンスシーンにおけるキー・パーソン(アーティスト、プロデューサーなど)も、この日聞きに来ていたダンサーたちに向けて「ここを訪ねてみるといい」などのサジェスチョンとともに紹介された。

アジアで出会うアーティストたちはコンテンポラリーのダンサーもいれば伝統舞踊の踊り手たちもいる。ダンサーのメンタリティについては稽古開始の時間は守られることはないが、本番近くなると自ら望んで夜中まで励む真面目さがある。一様に語ることは出来ないが、急速な経済発展のもと、まだ若年世代の人口が多い東南アジアの国々は社会全体に勢いがあり、国家や社会の民主的な制度や活動環境は未完成な面があるとしても、それらの整うのを待つよりも先に表現への欲求に溢れ、アーティストたちが活発に動いている様子が感じられるレポートだった。それぞれの話には鷹揚さやどこか寓話的なユーモラスさも滲む。その一方、緊張を強いられた場面もある。タイでは滞在中に稽古場から至近距離の寺院で死亡テロが起きた。これを受けてダンサーたちと話をしながら、人間の尊厳や権利に纏わる戯曲をシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に想を得て書いた。貧困や戦争、世界の闇、いかなる状況にあろうと人が備え、保ち続ける良心についての劇だという。

矢内原氏の話は単にどの国・地域にどんな舞台人がいてどんな劇場や組織があって、といった事実関係にとどまらず、アーティストとして直面した事態に対する自らの判断や思考にまで言及され、生きた情報という以上に語りそのものに迫力があった。イントロダクションではアジアという「外」へ向かうことの意味を、「すごい内側とすごい外側は繋がっている」という表現で語った。一人、内心と向き合って過ごすことが多いという矢内原氏だが、国境を越えて思いっきり外の世界に出ていくこと、そこで遭遇する出来事の中にほかでもない自分自身と響きあうものを見出していく。“言葉の通じる”“業界内”の関係では望みようのないものがあるのだろう。

東南アジアを回ってみて実感するのは、自分たちが「教えに行く」という状況では(もはや)ないということだという。経済面ではまだ日本からの技術指導といった関係も存在するが、アートにおいては日本のアートを押し付けるといったことは一切ない、与えるなどということは出来ない、というのである。かつてニブロールがヨーロッパやアメリカでツアーを続けていた時期、彼の地のハイソサエティーに対して「日本では今こういう傾向にありますよ」と見せて歩くような感覚が辛かったという。ある意味、ジャッジされる立場に自らを置く経験だったのだろう。2014年からアジアへ行き始めてみると、(見せる相手は)“原チャリ”で乗りつけてくるような地元の人々であり、東京ブランド、日本ブランドへの興味もあって旺盛な好奇心をもって臨んでくる。西洋に倣った近代化をどちらが先に遂げたかによって優劣の関係に置かれるのではない在り方を矢内原氏は見出しており、そこに可能性を感じているようだ。それは日本にいてもアジアから押し寄せる表現のパワーに触れるたびに、私たち自身も確かに感じ取っている何かであり、おおいに肯けた。彼らの作品に対してジャッジメント(とりわけ美学的な)を下すような対し方は、可能性の中にある大切な未来を取り逃がすことになるだろう。矢内原氏はさらにその先に抱く夢についてもひと言話してくれたが、ここではオフレコにしておく。実現する日を心待ちにしよう。

今回の矢内原氏の登壇は「アジア女性舞台芸術会議」と連動している。如月小春、岸田理生といった女性舞台人の先輩世代が立ち上げ、現在矢内原、羊屋白玉ら気鋭の演劇人らが引き継ぎ発展させているコレクティブ=集合体について、時折耳にするも(如月小春の時代に、伴戸千雅子らが主宰した女性舞踏グループ「花嵐」が参加したことがあったと記憶する)実際の活動を知らずにいたのだが、今年6月に新長田にアジア5か国10人のアーティストが滞在し、トークの会などが催されたのを皮切りに、今秋は「Kobe-Asia Contemporary Dance Festival #4」にて朗読劇上演とトークが企画されている。またKYOTO EXPERIMENT 2017でもシンポジウムが組まれている。何かが動き出そうとしているのか。ダンスにおいて、また世界で、日本で今起きつつあること議論されるべきことはたくさんあり、それらを自分自身に引き寄せ、具体的に考えることを促してくるのが“亜女会”の存在だ。「アジア」「女性」「舞台芸術」この3つの言葉が私を喚起する。6月のトークの会で示された12個のキーワードは、


    境界        検閲        ジェントリフィケーション

    不可視       移民        隠された歴史

    神話        女性        記憶と記録

   アウトサイダー   未来(10年後)    災害


私が、そしてあなた自身が境界を生き、移動と定住を繰り返し、公私様々なレベルでコンフリクトを経験しているのではないのかとの問いかけが、違う歴史を生きている女性たちと出会うことが出来るかもしれない予感を孕んで、身体の奥にある何かを突き動かすのだ。












2017年9月25日月曜日

ダンス講座



びわ湖ホール主催による「バレエ・ダンス講座」のバレエ編を舞踊ジャーナリストの菘あつこさんが、ダンス編を竹田真理が担当しました。ダンス編の講座を9月18日(日・祝)に無事終えました。講座といえばもっぱら聴く側にいた私ですが、昨年、国内ダンス留学@神戸にて「批評家講座」シリーズの一コマをいただいて以来、2度目の経験となります。これまで機会あるごとに気鋭のダンス研究者諸氏によるレクチャーに顔を出し、多くを学ばせていただいてきましたが、そろそろ還元する側に回りなさいという天のお達しかと。2時間の持ち時間で20世紀のダンス史の流れとコンテンポラリーダンスの主な振付家の作品を映像で見ていくという欲張りすぎの内容を企て、手元にある書籍や公演プログラムのありったけを引っ張り出して重要事項をパワーポイントにまとめていく作業は、受験時代に世界史やらのノートを作るなどして以来のことでした。

改めて通史を当たってみると、これまで曖昧に理解してきた事柄がなんとも生き生きと手に取るように感じられて、私自身にとって大きな学びの機会となりました。ドイツ表現主義舞踊など、ラバン、ヴィーグマン、クルト・ヨース、その先にいるピナ・バウシュといった一握りのカリスマとその系譜でのみ掴んでいたのが、時代背景には、健康、体操、ワンダー・フォーゲル、ヌーディズムなど身体を通して新しい生活や文化モードを生み出そうとする社会の大きな機運があったこと、またこの新しい舞踊は、、フライエ・タンツ(自由)舞踊、ノイエ・タンツ(新舞踊)などなど呼び名も様々で固定されず、共通のスタイルなどなかったようで、日々夥しい数の公演が打たれ、舞踊観も作品の主題も内容もさまざま、音楽、衣装、ダンサーの編成、公演する場所、優美なものからなものまでと、ありとあらゆることが試されたのだとか。コンテンポラリーダンスの「何でもあり」などまだ序の口かとさえ思えます。その後ドイツのダンスはその集団性からナチスとの関係を深めていきますが、こうした記述に出会うと、時代の精神、人々の舞踊に託した思いなどが具体的に想像されて実に興味深いです。

1930年代にアメリカのモダンダンスが確立されていく過程にもドラマとダイナミズムを感じます。恐慌後の経済危機の中、ダンスや演劇は労働運動と距離を近くし、デモや集会にも関わったとの記述に出会いましたが、これはグレアム舞踊団の折原美樹さんが「30年代には舞踊団のユダヤ系の女性ダンサーたちがフェミニズム運動に参加していた」と話されていたことに通じてきます。(ただしマーサ・グレアム自身はピルグリム・ファーザーズの子孫であり、マイノリティとしての意識は持たなかったとも。)ダンスに限らず、表現の持ち得る/持たざるを得ない政治性について富みに議論が交わされる昨今ですが、歴史上にはダンスと政治がこのように直截的な関わりを持った時代があったのですね。ダンス史は何度でも発見があり、現在を照らし出す出来事の宝庫です。

もうひとつ気になるのがアメリカのポストモダンダンスの鍵となる人物、アンナ・ハルプリンの存在です。イヴォンヌ・レイナー、トリシャ・ブラウンはじめジャドソン・ダンス・シアターのダンサーらがことごとく影響を受け「ポストモダンダンスの母」とも言われる人で、どの舞踊史の本も少しずつ触れてはいるのですが、どうも実体が掴めません。夫の風景建築家(ランドスケープ・アーキテクト)ローレンス・ハルプリンとともに西海岸に本拠を置き、自然の中で身体感覚を開放し即興を基礎とするワークショップやセミナーの開催を活動の中心としたようです。セミナーにはその思想に共鳴する者たちが世界中から集まったという記述もあり、日本からは川村浪子、田中泯といった人たちが訪れています。川村浪子は夜明けの海岸に全裸で立つなどの身体パフォーマンスを行う人、田中泯が山梨県の白州で農業と芸術を結びつけた活動に入ったのはハルプリンの影響があったとも。ニューヨークを中心とした東海岸の劇場文化やダンス/アートシーンと、西海岸の精神と、ポストモダンダンスの複層的な展開を思わずにはいられません。

レクチャーを終えて感じるのは、ジャーナリズムの役割の大きさです。批評は自身の見方と考察を示すものと取り組んできましたが、後世の人が参照するのは事実の正確な記述であり、「印象批評」と揶揄されますが、いや印象も大切な事実・事象の記録だと思いを新たにする次第。このたびの機会を節目として、また新たな気持ちで劇場に向かおうと思います。

2017年5月19日金曜日

ローザス愛知公演

●5月10日(水)
ローザス『ファーズ-Fase』
@名古屋市芸術創造センター
振付:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル
出演:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、ターレ・ドルヴェン
音楽:スティーヴ・ライヒ(ピアノ・フェイズ、カム・アウト、ヴァイオリン・フェイズ、クラッピング・ミュージック/録音)


ケースマイケル率いるローザスが新旧2作品を携えて日本ツアーを行った。その愛知公演を見る。1982年・作『ファーズ』と2013年・作『時の渦』が日を変えて上演された。二つの作品の間には30年という時が横たわっている。『ファーズ』のミニマリズムから『時の渦』のダイナミズムまでは実に大きな展開があるが、音楽の構造とムーヴメントの関係を作舞の基本構造として追求する姿勢は一貫している。ケースマイケルの出発点と今日の到達点を並置するものと本公演を位置づける言説が多く見られたのも今回特徴的だった。

ニューヨークでポストモダンダンスの洗礼を受けたケースマイケルがベルギーに戻り発表したのがこの『ファーズ』。スティーヴ・ライヒの楽曲を使った4つのパートから成っていて、『Violin  Phase(ヴァイオリン・フェイズ)』と『Come Out(カム・アウト)』はニューヨーク滞在中に、『Piano Phase(ピアノ・フェイズ)』と『Clapping Music(クラッピング・ミュージック)』は帰国後に新たに振り付けた。ケースマイケルにとっては『Asch』(80年)に続く2作目、その後世界中で百数十回公演され、今回の日本公演は発表から35年を数える。翌83年にローザス結成。以上が本作の基本情報だ。

ジャドソン教会派が展開したポストモダンダンスのラディカルで禁欲的な実験は80年代には活動の最盛期を過ぎていたが、ニューヨークにはジャドソンのもたらした自由な実験精神があふれていた。その息吹を浴びたケースマイケルは、そこに開かれた身体言語の地平に立って新しい景色を見たに違いない。ポストモダンダンスがヨーロッパに移植されるルートには二つあると理解している。一つはパリ・オペラ座のカロリン・カールソン、アンジェの国立振付センターのアルヴィン・ニコライ、さらにフランス各地のメゾン・ド・ラ・キュルチュールなどにアメリカからポストモダンダンス系の舞踊家たちが続々と講師として招かれたこと。これがフランスのヌーベル・ダンスを準備した。もう一つのルートがニューヨークに留学してポストモダンダンスの洗礼を直に受け、ヨーロッパに持ち帰って自身の表現形式を確立していった個々のアーティストの活動。ピナ・バウシュがそうであり、ケースマイケルも然りだ。バウシュはタンツ・テアターを独自の方法論をもって確立していった。一方ケースマイケルは音楽の構造をダンスのドラマトゥルギーに据える方法をとった。「ファーズ」はまさにその最初の形で、ミニマル・ミュージックの雄、スティーヴ・ライヒの音楽を得て、そこに生き生きとした生のリズムを吹き込んでいる。ミニマルであることが単に還元的で無機的であるのではなく、旧弊なモダンダンスの約束事を排した後のタブラ・ラサ、新しい地平を前にした清新な息吹を感じさせる作品だ。石井達郎さんがパンフレットの解説でローザスの官能性について触れられているが、おそらく旧来のモダンダンスとは違った意味でのナラティフの要素、歴史性の回復を兆すものと言っていいような気がする。昨年(2016)春に京都に来たトリシャ・ブラウン作品と比べると、その予期された美学への方向性はより納得して感じられるように思われる。

一曲目の「ピアノ・フェイズ」は二人のダンサーが壁前で横向きに並び、ユニゾンで腕を振り子のように振りながら体の向きを変えたり位置を変えたりする。ライヒの2台のピアノによる曲が次第に音列をずらしていくのと同時に、二人の振りもずれを生じ始め、一度は体の向きが正反対になるが、反復を続けるうちにふたたびユニゾンに戻る。曲が16分音符のずれを作っているというから16回の振りで元に戻るということになるか。そうした数理計算上の整合的な面白さもあるが、オフバランスの微かな揺らぎを振付に組み込んだり、ジェンダーを否定しない清楚なワンピースに白いソックスという衣装だったりするのも、これより後に続くローザスの魅力の一端を示すものだろう。二人のダンサーにはそれぞれに2方向から照明が当てられ、背後の壁にシルエットが2体ずつ映るが、そのうち1つずつが中央で重なり、動きがずれていくと同時にシルエットの重なりもずれる。音楽、身体、光と影(シルエット)、3つの要素でユニゾンとずれの時間列を紡いでゆく。壁前で長く踊った後、舞台中央に移動して踊り、さらに舞台前面まで出て来て踊る。それぞれの位置で照明の当たり方が変わり、壁前では平面的な並置の図と幾何学的な運動性が際立つが、前面では陰影が強く出て、少し位相が変わる。

2曲目「カム・アウト」は男性の声で「カム・アウト・ショーレム」と発声する短いフレーズがループするのに合わせて、並んだ二脚の椅子に腰かけた二人が腕のダンスをする。直線的なストロークと上体の向きの変化を素早く間髪入れずに繰り返し、感情を削ぎ落とすような禁欲的な雰囲気で続ける。この動きも同調とずれを主題にしているが、「ピアノ・フェイズ」のような微細なずれが徐々に拡大していくという変化ではなく、素早いテンポのユニゾンの中で瞬時に異なる動きが入り、そのたびに意外さや一瞬の違和感や、微かなエモーションを引き起こす。

3曲目の「ヴァイオリン・フェイズ」はケースマイケルのソロ。大きな円周に沿って動き、さらに円の中心に向けて半径を辿るように動く。動きはミニマルを強調したものではないが、幾何学の理をベースにおいた作品で、自らその理に則して踊るケースマイケルの思慮に富んだ表情が印象に残った。

最後の「クラッピング・ミュージック」はタイトルどおり手拍子によるリズムが反復される中、やはり壁前に二人が横向きに並び、踵を上げて爪先立ったり、膝を前に出したりする動きを反復、継続していくミニマリズムのダンス。手拍子の軽快なテンポに合わせた素早く細かい足のダンスである。衣装は白シャツにパンツ。足の動きがよく分かる。やはり二人の動きにはずれや相違が生じるが一定のテンポの中で再び同調、これを繰り返す。こちらも照明が凝っていて、最初は周囲が暗く、白い壁を背景に、敢えて足部分のみを照らし、フレームで切り取られた“絵”を見せる。しばらくして全体を照らす。内的な奥行きをつぶし、平面上でのミニマム――動きの単位から時間が構成されていくというコンセプトを照明が効果的に伝えていた。





●5月13日(土)
ローザス&イクトゥス『時の渦―Vortex Temporum(ヴォルテックス・テンポラム)』
@愛知県芸術劇場
振付:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル
出演:ローザス・ダンサーズ
音楽:ジェラール・グリゼー
演奏:アンサンブル・イクトゥス(生演奏)


ローザスでは音楽はバルトーク、ウェーベルンなど近代、現代のものが多く使われる。調整されたアンサンブルにではなく、無調整の音列や不協和音の中にダンスへの契機を見出すケースマイケルの才気、直観、理知の力はやはり卓越したものと言っていいだろう。

来日公演2つめのプログラムである今作はフランスの現代作曲家グリゼーの曲に振り付けたもので、まずアンサンブル・イクトゥスの生演奏から始まる。ピアノ、フルート、クラリネットのアルペジオのパッセージが躍動し、ビブラートのかからない弦の音が並走する。粒立つ音、はじけ飛ぶ音の運動と、音相互の遠近、強弱、対比。あらためて曲を聴くとその色彩感、濃やかな光のような躍動感がいきいきと印象づけられる。だが実際の舞台では床も周囲の壁も暗い色で統一され、より深く抽象度の高い時空の存在を想像させた。アンサンブル・イクトゥスのメンバーは最初のパートを終えて弦と菅の奏者が席を立って退き、しばらくピアノだけが演奏を続けるが、最後にピアニストも上昇するパッセージを颯爽と弾き上げるやいなや立ちあがり去っていく。
下手後方から7人のダンサーが現れる。ひとりひとり、閃きを得るように不定形なムーヴメントを動くが、それぞれの動線や全体の位置関係は天体の運行のようにある秩序のもとに司られているように見える。一階席からは気付かなかったが、床にはいくつかの円の軌跡が描かれていたようだ。ただそれが見えなくとも、中心を少しずつずらしながら、ダンサーが動き、時に走り、渦を巻くように遠く近く、大きく小さく、全体の構造を描き出していくのが分かる。ダンサーは一人ずつが一つの楽器の音に対応しているらしい。スコアの存在を指摘する解説がウェブ上に出ていたが、個々が独立して動きながら、全体は一つの関係性のもとに運行し、なお一人ひとりの身体にさざ波立つような瞬間的で即興的な動きの発露がある。ダンサーとともにミュージシャンも演奏しながら舞台に立ち、グランドピアノもぐるぐると渦巻いて移動する。全体が「時」というものの大きな運びの中に息づいていて、音もムーヴメントも、形に残らない瞬間の現れとして、渦巻く時の運びの中に存在する。

ダンスの動きは技巧的なものでは全くなく、またダンサーはステージの「額縁」を大きくはみ出して、舞台前面の両端にまで出てくる。額縁の中だけのイリュージョンを描くのでなく、現実と舞台を結び、世界の成り立ちのままにダンスもあろうとするケースマイケルの思想を見るような気がする。その虚飾なく自由な創造精神が感じられたのが嬉しかった。それぞれの時間、それぞれの軌跡、その構造と法則、関係性と瞬間の発露。精緻な構造と奥行きをもった宇宙を思わせる空間に生成しては消滅するムーヴメントを見ながら、「存在する」ということを巡る音楽家と舞踊家の思考に引き込まれていく。徐々に鎮まりゆく音と動きの最後の瞬間まで。