2019年8月19日月曜日
梅田哲也『Composite』と山下残『船乗りたち』
2019年7月26日金曜日
ローザス来日公演 『我ら人生のただ中にあって』
2019年5月19日 @東京芸術劇場 プレイハウス
【蔵出しレビュー】手元にある未発表原稿を掲載
東京芸術劇場プレイハウスのステージは奥行きがたっぷり深く、ほぼ正方形に近い形状で使用される。本来なら正面性のあるプロセニアム劇場とは違う場所で上演される作品なのかもしれない。2017年の初演は、ベルギー国内の使われなくなった工場か、それに似た場所だったと聞く。舞台上に装置は何もないが、床にはチョークで円や直線などの図形が描かれている。これについては開演前にロビーで販売していた写真集を見て知った。写真集を見ていなかったら1階客席からは気付かなかったかもしれない。2階席から見下ろして図形と実際のダンサーの動きの関係を確かめてみるのも面白かったろうと思う。
奥行きの深さ、天井の高さ、青み掛かった深い照明のトーン、チェリストのための一脚の椅子。それ以外に何もないがそれでもう完璧な深みをもった空間だ。チェリストのインディゴ・ブルーの服が空間のトーンに一層のニュアンスを添える。
バッハの無伴奏チェロ組曲は全6曲、さらにそれぞれが6つのピースをもつ。第一番ト長調なら、1.プレリュード、2.アルマンド、3.クーラント、4.サラバンド、5.メヌエット、6.ジーグ。曲によって5.メヌエットが、3番4番ではブーレになり、5番6番ではガヴォットになる。3番のブーレ、6番のガヴォットは有名で、リサイタルでは単独でアンコール曲として演奏されたりする。プレリュードは「前奏曲」だが、他はいずれも舞曲であることに、振付化される縁を感じる。
第1番はト長調、第2番はニ短調、第3番はハ長調・・・と曲ごとに異なる調整で作曲されている。短調は第2番と第5番だ。第一番はト長調ならではの透明な明るさのある曲調。第3番は華やかさがある。この二つは特に聴き易くポピュラーだ。いずれの組曲も一つの調整で統一された、互いにリズムの異なる6つのピースで構成されている。また第1番から第6番までの異なる調整は互いに関係し合っているともいわれ、組曲全体でひとつの秩序体系を形成しているという。こうした秩序立った形式性に魅かれて作品を作るのはケースマイケルの他の作品でも見られることで、フィボナッチ数列の応用など数理的な理論と音楽、ダンスの関係を探求する彼女の面目躍如といったところだろう。
ケースマイケルは第1番から第6番まで各曲が始まる前に舞台下手前に現れ、客席に向かって指で「I」、「II」、「III」…と曲の番号を示す。示し方にちょっとずつ指の形を工夫したサインが加わり、なにかしらの意味・符牒を込めているようにも見える。このダンス作品が何かしら宇宙のごとき構成体の一部に組み入れられるべきものであることを示そうとするかに思われた。そのことは、やはり各曲開始時、舞台奥の壁にデジタルな4桁の数字が映写される時にも感じた。これはJ.S,バッハの作品番号の提示だと後に知ったが、数字を打つ、ナンバリングするということは、世界の中の事物をある秩序のもとに整え、位置づけ、カタログ化することだ。第1番は「1007」と打たれ、以後一曲ごとに数字が増えていく。
第1番から第5番まではそれぞれを一人のダンサーが踊る。但し各曲とも2曲目のアルマンドはケースマイケルとのデュオになる。第1番は大柄な口髭のある男性ダンサー、第2番は色白の男性、第3番はショートヘアの女性、第4番はさらに大柄であごひげのある熊さん?みたいなダンサー。第5番はケースマイケル自身が踊り、第6番は5名全員で踊る。ただし少々変則的な部分があり、後に述べる。
ダンサーごとに持ち味が異なり、用いられる振付の語彙も異なる。第1番、第2番のダンサーたちがいずれもフロアへのフォールを含んだポストモダンな振付で動いていたのに比べ、第3番の女性ダンサーは精緻に音を取り、身体のポジションを正統に保ち、シャープな動きを見せていた。ただ第3番はチェロ組曲の中でも華やかさと圧倒的な盛り上がりを見せる曲だが、それに対してはちょっとお利巧に収まっている印象を受けた。音楽を詳細にアナリーゼした振付であるのだろうけれど、そしてハ長調からくる正統さと明朗さであるのだろうけれど、単に音から動きへ、では掬い上げきれない音楽の特質といったものはあるだろう。だがそうした「情」や「感」に拠った聞き方をするべき音楽ではバッハはないのだということでもあるだろうか。チェリストのジャン=ギアン・ケラスの解釈は、華美な演奏を志向してはいないものの、敢えて抑制した演奏というのでもない。軽快で、自在な弓捌きが見事で、母語を操るように弓を操る。かつ、技巧に拠るのではない、思慮深さのあるチェロ。第4番の男性ダンサー「熊さん」は床への自由落下を繰り返しながら音楽の節に応じていく。
全6曲に共通した振付要素があったことも記しておかなくてはいけない。各曲の2番目アルマンドはいずれもケースマイケルとのデュオであることは既に述べた。加えて、3番目クーラントはいずれのダンサーも軽快で躍動感ある動きを見せる。4番目サラバンドでは、音楽がゆったりとした拍子であることからだろう、床を使った動きを多用する。5番目メヌエット/ブーレ/ガヴォットでは、前進後退の歩みを音楽のリズムに合わせて行う。6曲目ジーグは各組曲の最後を締める華麗な音楽であり、踊りも躍動的なステップや、回転やターンなど「見せ場」的な要素を多く取り入れたダニナミックな振付となる。第3番の女性はギャロップ風のステップを見せていた。
もう一つ、振付について言うと、2曲目アルマンドのデュオではケースマイケルの振付はどの組曲もほぼ同じものだった、もしくは同じ部分をかなり多く含んでいた。もちろん曲が異なり相手のダンサーが異なるので全く同じデュオのピースを踊っているという印象はないが、それがかえって異なるものの中に埋め込まれた符牒を示すことになる。第4番のデュオでは「熊さん」とケースマイケルがともに客席に背を向け、ホリゾントに向かって踊る。客席からは同じ振付を背後から見ている図になる。
このように、6つのピースからなる6つの組曲という構成に、振付・構成・演出の上でいくつかの共通項を串差すように通し、さらにそれらを数学的・幾何学的に転移させながら、ダンスが音楽と空間の形式と秩序に応えようとしていることがわかる。
チェリストのジャン=ギアン・ケラスは楽曲ごとに椅子の位置を変える。第1番では舞台中央で客席に背中を向けて。2番では位置をずらし、客席に対し横向きに。3番は正面を向いて、といったように。舞台の景色に変化をつけるためと思って見ていたのだが、こうして振り返ってみると、空間的にも、本来正面性のない舞台において、観客が対象のダンサーに対してその都度異なる角度からの見え方を作り出すための操作と考えてよいのではないか。
さて、ダンスはこのまま定形を保ち、バッハの組曲の構成に即して進行するかに見えたが、曲が進むにつれてこの形は変則的になり、作品としての展開を見せていて、なかなか一筋縄ではいかない。第3番の途中で演奏が突如途絶え、ダンスも中断、謎の沈黙・静止に入った。これはちょっとした脅かしやアクセントとしての中断というにはかなり長く、その中断、沈黙、静止の意味を見る者に否が応にも考えさせる。ハ長調の正統、明朗の只中に示された空白の中心であり、秩序ある構造の中心の無を、あるいは明朗・緻密な秩序に対するダンスの不可能性を、示唆するのだろうか。
また第4番ではやはり途中で演奏が途絶え、ダンスだけが続いていく。この楽曲を踊ったのは前述のように臥体の大きな髭の男性(熊さん)。チェロのパッセージに合わせてフォールダウンを繰り返す負荷の大きい動きをしていたが、音のない場面でも踊り込んでいったその果てに、上手袖でこちらに背を向け、身を横たえる。音楽に対してダンスは、身体という実体を抱えている限り、完全な応答は不可能であるのだと、横たわるダンサーの身体は無言で語っていたのだろうか。
チェロは第5番の演奏に入るが、先の「熊さん」はその冒頭を少し踊ってから退いた。楽曲ごとに一人のダンサーが躍るという形態に変化が加わったわけだ。第五番のダンサーとして現れたのはケースマイケルだった。この第5番にはそれまでの4曲とはこれまた異なる変化があり、まずダンスなしでチェロの演奏のみの時間帯がある。照明が落ち、下手サイドからの灯り一つが上手寄りにいるチェリストを照らす。その光にケールマイケルも照らされて踊る。ケースマイケルはしかし光の外に出て、ほとんど姿を見て取れない闇の中で踊り続ける。
つまり第3番は演奏と踊りの中断、
第4番は演奏なしのダンスのみ、
第5番はダンスなしの演奏のみ、の時間帯が挟まれているというわけである。
こうした演出・構成の仕掛けは効果的だった。聞こえない音楽を聴き、見えないダンスを想像する。それはまた、それぞれの曲を振付家がどのような言語に変換しダンサーがどう対応して踊るかにのみ焦点を絞るのではなく、組曲全体の構成、バッハの音楽の構造自体に意識を向け、演奏が、またダンスがある箇所で欠損することで、音世界の完全性(ダンスには決して体現しえない)が逆説的に印象付けられる。
第6番はダンサー5名全員が出て来て、各々のソロの動きを再び踊ったりなどする。個人的に注目したいガヴォットは、やはり5人が並んで前進後退のステップを曲のリズムとともに繰り返し、ステージの奥へ手前へと動く、というもの。本作の規則・形態に則ったとはいえ、うーん、こうなるか、そうか。
しかし最後のジーグは5人入り乱れての蝶の舞のような乱舞となった。チェロが最後の音を鳴らし終えた瞬間、余韻もなくパっと照明が落ちたのがかっこよすぎた。
ダンスについて一点言及しておくとすれば、本作に見られた振付言語は、主に現在のコンテンポラリーダンスを形作っている主要な言語と言っていいだろう。すなわちリリーステクニクを中心とした自由落下、遠心力を用いた回転、ステップ、コンタクト(触れないコンタクト含め)など、重力や空間と対話する身体から繰り出される、自由度の高い動きである。前回の来日時にプログラムされた『FASE』が、ケースマイケルがニューヨークでポストモダンダンスの洗礼を受け、ヨーロッパに戻って間もない時期に作られら作品で、まさにポストモダンダンス色を感じさせたとすれば、今回の来日公演は本作『我ら人生のただ中に会って』、もう一方のプログラム『A Love Supreme』も、ダンス・クラシック、モダンダンス、ポストモダンダンスを経てコンテンポラリーダンスと呼ばれるダンスの今日現在の熟成した言語を示しているのだと言えるだろう。より演劇的に、あるいはヴィジュアル・アートとの混交を深める方向にある今日のパフォーミングアーツにおいて、ダンスそのものの追求を続けるケースマイケル。また『A Love Supreme』がジョン・コルトレーンへの、『我ら人生のただ中にあって』がバッハへの、大いなる/切なる応答として作られたダンスであることは肝要な点だろう。ジャズに対するアプローチと、バロック/古典音楽に対するそれとの違いもさらに考えていきたい。
2019年6月21日金曜日
社会的な身体のドキュメント ~村川拓也『瓦礫』劇評 再掲載
Dance Fanfare Kyoto 2013 参加作品
演劇 × ダンス
『瓦礫』
演出:村川拓也
2013年7月7日(日) @元・立誠小学校
2019年6月15日土曜日
tuQmo 『道具とサーカス』
ART LEAP 2018
tuQmo ERIKA RELAX×池田精堂
「道具とサーカス」
3月13日(水)@神戸アートヴィレッジセンター
【蔵出しレビュー】
KAVCとアーティストが連携し、10か月の制作期間をおいて開催された展覧会。2018年から開始した30~40代のアーティストを対象とした「ART LEAP」という公募プログラムで、作家選定にあたっては公開プレゼンテーションが行われ、そこから選出されたのがパフォーマンスユニット「tuQmo」である。2018年度の審査にあたったのは美術評論家/詩人の建畠晢氏。
建畠氏の選定によるという点にも惹かれたが、今回の私のお目当ては期間中に何度か行われるポールダンサーERIKA RELAXによるパフォーマンスだった。ERIKA RELAXについては2017年1月に日置あつしがアトリエ劇研でおこなった公演に、ドラァグクイーンのフランソワ・アルデンテやダニエル・ジュゲムとともにゲスト出演していたのを見たことがある。ナイトクラブでのショーを主な活動の場とするアーティストたちの麗しく艶やかな出で立ち、見せ場の勘所を押さえたプロの芸能者の仕事ぶりに魅了されっぱなしだったのだが、その中にあってERIKAのポールダンスは、ショーの形式をとりながらも、一つの身体表現としての内的な追求があり、内容的にもピュアで詩的なイメージを伴うものだった。
「tuQmo」のもう一人、美術家の池田精道は、主に木や金属などの素材を用い、「もの」と「他者」の接点の在りようを考察する、と資料にある。今回、会場はKAVC内の3つの部屋を展示に使用しているが、パフォーマンスを行う地下のシアターには、部屋の中央に天井から木製のオブジェが吊り下げられている。三脚の丸椅子を横にしたような造形をモチーフにしたオブジェで、木肌を生かし、整い過ぎないラインを保ったそれは、作家の手による造形物であり、かつ用途をもったデザインの側面をもち、パフォーマンスのための装置でもある。観客席はなくオールスタンディング、壁際に立って鑑賞した。会場は暗く、オブジェの辺りにだけ暖かみのあるライティングが施されている。上演時間が来ると天井からERIKAの足が現れ、オブジェを伝い下りてきて、ポールダンスの技を生かした空中パフォーマンスが行われた。オブジェに身体の部位を掛け、からだの上下を逆さにしてポーズを作る。揺れるオブジェと一体化し、重力とのバランスをとる。途中で池田が現れ、オブジェを地上から引いて重量とのバランスを調節したようだった。会場が暗いのと、見る方向がよくなかったのか、このあたりの装置と操作のからくりをよく見極められなかったのだが。池田は吊り下げられたオブジェから木片の一部を引き抜き、部屋のもう一箇所に設置してある柱状のオブジェに差し込んでいった。柱のオブジェはこれによって一つの造形として完成するということのようだ。パフォーマンスは15分ほどで終了。
もう一つの小部屋にはモニターが一台置かれていて、木のオブジェとERIKAの絡み合う身体を至近距離で撮影した映像が映し出されている。呼吸が聞こえそうな近い位置で撮られた映像は、身体のどの部分を捉えているのか、どこからが身体でどこからがオブジェか、判別しがたい。身体と道具の境界が入り組み、自他の区分が曖昧になった状態から、身体とその拡張としての道具との関係を捉えようとするものに思われた。
展示のメインと思われる一階の美術ギャラリーには、やはり木製の、シェルフが二種類。引出しを開けるとその中にも製作されたオブジェが入っていて、手をかたどったフィギュアと、それに握られる円筒のようなモノが引出しの開け閉めで揺れるように設計されていた。もう一方のシェルフでは、引出しを引くと声がする仕掛け。あとで資料を読んでわかったが、池田とERIKAがリサーチ中に交わした議論の録音だという。
10か月という制作期間には神戸に拠点を構える職人の仕事場を尋ねたり、造船所のドッグを訪れたりしてリサーチを重ね、神戸の町への関与を深めながら人と道具と身体の関わりを考察していったようである。その様子がレポート資料に残されていた。こうした地域の職人の所在を把握しアーティストと橋渡しするプロセスにKAVCがコーディネーターとして機能していることも見えた。リサーチの過程で「tuQmo」の二人の示す視点はとても興味深く、人と道具、身体とモノ、パフォーマンスと展示を相互に関連させ、KAVCのスペースを複数使ってコンセプトを展開していく意欲的な展覧であると見えた。ただ成果物である展示には空間的、物量的に、パフォーマンスには時間量的に、少々ボリューム不足、迫力不足を感じた。人が道具を使用してきた歴史、身体の拡張としての道具の可能性、パフォーマンスの場における身体と道具・装置・モノとののっぴきならない――パフォーマーの命を預けている――関係性へと、まだまだ視点を広げる余地はありそうだ。
2018年7月25日水曜日
シンポジウム 「海外の性教育からみた日本」
7月10日(火)
@ワコールスタディホール 京都
KYTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018の関連イベント第一弾として、シンポジウム「海外の“性教育”からみた日本 ―社会構造と『性意識』形成の関係を結びながら―」が、記者会見直後に行われた。今年のKYOTO EXPERIMENTが「女性」をキーワードとして開催されることから、社会における性意識やジェンダーの役割形成に関わる事項として性教育に焦点を当てたものだ。
パネリストはパトウ・ムスマリ、古久保さくら、山田創平、橋本裕介の各氏。モデレーターは国枝かつら氏。各氏のコメントから要点を紹介しよう。
パトウ・ムスマリ氏(医学研究科博士、京都大学)は第三世界の公衆衛生に携わる専門家の立場から登壇。The WYSH (ウィッシュ Well-being of youth in Social Happiness=青少年の社会的健康)と呼ばれる性教育プロジェクトに携わっている。
・世界の人口の半分は25歳以下であり、
・若者は性病、HIV、望まれない妊娠に見舞われやすい。これは先進国、途上国にかかわりなく言える
・15~19歳の女性の死亡原因に性病や中絶が挙げられる
こうした現状から、sexual educationとreproductiveについてのニーズの把握が重要であること、これらを踏まえてWYSH projectでは
・sexual educationのほか、いじめなどメンタル面での支援も行う
・Risk Personalization 、すなわちHIV、人工妊娠中絶などのリスクが他人事ではなく、自分にも起こり得ることであると理解させる
・Future dream=将来への夢をもてるように促していく
といったミッションを、若者たちとのグループディスカッションなどを通して進めていることが、グラフや写真を用いながら語られた。WYSHにより、コンドームの使用など具体的な事柄も含めた性の知識を得ていること、教師への教育としても有効であることが確認されているという。厳しい現実に公衆衛生という社会的インフラに携わる立場から向き合い、こつこつと地道に活動する誠実な様子がうかがえた。将来への夢を、とのくだりは、一人一人が尊厳をもった存在として自らの人生を生きていけるようにとの思いが込められたものだろう。
後のディスカッションで、性教育に関してアフリカ諸国ではまず医療面での対応が喫緊であり、本日この場でなされたような社会や政治の問題としてエイズを考えるというアプローチはされないと語っていたのも印象的だった。
古久保さくら氏(ジェンダー研究者、大阪市立大学)は、性行動を巡る平等でHappyな関係とは、と題し、大学でセクシュアリティと暴力の関係を教えている。大学教育は18歳を過ぎて性行動が活発になる時期の人達に性教育を行う最後のチャンスであるという。
また弁護士やフェミニストカウンセラーらとともに、性暴力被害のカウンセリングなどの実践的な活動も行っている。
これまでの性教育は被害者にならないためのものであり、実質は結婚前の性交渉はNGであるなどといった純潔教育であった。しかし今は、加害者にならないための教育が中心である。
特に二次被害について詳細な解説がされた。そのメカニズムは、
性暴力が起きる→驚いた周囲の人間は信じたくない、信じようとしない→「あの人が(あんなにいい人が)そのような暴力をはたらくわけがない」→被害者の方がおかしいのではないかと考え始める→これがSNSで広がる・・・このように、「私が信じている世界を崩したくない」ので、「よほど被害者がおかしいのでは」と考えてしまう。これが二次被害(加害)にほかならない。
古久保氏の話は、セクハラなど権力ある人に対して断ることの難しさなど、現場の力関係やその理不尽なありようを知る人ならではの具体性と説得力に満ちている。
山田創平氏(社会学者、京都精華大学)は「マイノリティと地域」、「芸術と地域」の視点から、HIV/AIDS、性道徳、性規範について研究。エイズ予防、セクシュアル・マイノリティの人権、セックスワーカーの権利擁護などの活動に関わっている。
また、MASH大阪という、大阪梅田の東にあるゲイタウンに拠点を置いたNPOで活動した時期があり、この経験が基盤となっているそう。
山田氏の話もまた、支援活動の現場の声を汲んだ切実な内容で、HIV感染者・発病者、ゲイやバイセクシュアルの人々が社会の中でいじめ・差別を受け、困難に直面している状況を、客観的な調査の数字や、メディアで取り上げられた最近の事件や差別的発言などにも触れながら語った。
山田氏の言説は、理論的にはマルクスに根拠を置く。参考文献にマルクス主義フェミニズムの立場をとる上野千鶴子・著「家父長制と資本制」をあげ、「ラディカル・フェミニストは市場の外に家族という社会領域を発見した」の引用とともに、近代=国民国家と資本主義(経済成長モデル)の結びつきが、いかなるメカニズムで家族という領野を自らのシステムに取り込んでいったかが語られた。家父長制による家族、すなわち搾取される労働者、「愛」のもとに無賃の家事労働に携わるその妻、未来の労働者として育成・再生産される子で構成される家父長的家族が資本主義の経済システムを支えてきたモデルであり、これから外れ、有用でないとされる同性愛者、あるいは他のマイノリティへの差別の構造がここから生まれた、とする。
続いて、マイノリティとされる人々が社会において差別・周縁化されていくメカニズムを、「異性愛者、既婚、正社員男性」を中心に置いた同心円の図式を用いて解説。女性、同性愛者、障害者、単身者、非正規雇用者、在日外国人・・・といった人々が中心から円の外へ外へと「周縁化」されていく構造が明らかにされた。
ディスカッションでは、KYOTO EXPERIMENTに向け、性を巡る社会関係と芸術との関係性について、幅広く話し合われた。
KYOTO EXPERIMENTの橋本裕介氏より、「京都で舞台芸術に関わる限り必ずや想起される」ダムタイプの名が挙がり、1993年の『S/N』にみられた、制作プロセス自体のもっていた社会性について提起するところから議論に入った。
中心メンバーの古橋悌二がゲイでありHIV陽性であるという周縁にありながら社会批判を行ったこと、また、ダムタイプが制作集団としてヒエラルキーなく開かれており、様々なジャンルの人が出入りしていたこと、KYOTO EXPERIMENTでも、作品のみならず、作る過程で(アーティストが)どれだけ豊かに関われるかという点にも目を向けたい、といった意見が出た。
古久保氏は2年前に横浜でも上演された『ヴァギナ・モノローグ』を挙げ、女性が自分の外性器をいかに語るのかという問いがあり「私のアソコには呼び名がない」と題されたワークショップがあることに言及。
これに関して客席にいた、あかたちかこ氏より、この自分たちのヴァギナ・モノローグを作ろうというワークショップの中国の大学で実践された例について紹介があり、学生たちが地下鉄で女性器の呼び名をフラッシュ・モブのように発語していくものだったこと、これが教育の場で芸術を用いて気付きを得ていくプロセスであるとした。舞台芸術にはこのような力が強くあるのであり、人に伝えるものとして(手法を)洗練させてゆく芸術の力について語られた。
あかたちかこ氏は性教育とエイズのカウンセラーとしてセイファー・セックスの啓発活動などに携わっている女性で、余越保子・構想・振付による性教育をテーマにしたダンス作品(一昨年のKYOTO EXPERIMENTフリンジ参加作品)に、語り部/教育者として出演したのを拝見したことがある。
議論はまた、(山田氏の示した)同心円の真中に居る人が、周縁の人を「使って」作品を作るという構図にも及んだ。例として@KCUAでのデリヘル嬢をギャラリーに呼ぶとしたイベントが波紋を呼んだ件にも触れ、周縁化された人への想像力の欠如をあらためて指摘するとともに、フェスティバル自体が同心円の中心にいる人たちによるものであり、カッコつきの女性を生んではいないかという問い掛けがなされた。非常に鋭い問い掛けといえる。
かたや芸術における性的な表現を巡って、橋本氏から、KEXは裸体OKと言われているのか、海外から送られてくる売り込みの映像には脱いだりする作品もある。これらについては実行委員たちで議論し慎重に招聘している。いっぽうで、性的なもの、暴力、過激な表現について、「老人や子供が見たらどう思うか」と批判する人がいる。自分自身の考えではなく弱者を引き合いに出す論法であり、性教育の現場に議員らの批判があるのとも同様の、パターナリズムの存在を感じる、と。
資本主義構造におけるパターナリズムは、性は家庭内に押し込め、主婦の無賃労働を「愛」に呼び変えて搾取する、との意見や、
その一方で性産業は非常にさかんであり、売り物の性がはびこる。それなのになぜ芸術の性はNGなのかと、ろくでなし子の女性器の彫刻が法に触れるなどの例を挙げながらの指摘もあった。
これについてはパトゥ氏も、「9年前に日本に来て以来、性的なマガジンが簡単に手に入ることに驚いている。性に関しオープンであるのに、芸術に関してNGが多いのは不思議である。検閲の対象にならないことを願う」と話した。
さらに、舞台芸術の、他の芸術(音楽、美術、etc.)と異なる力とリスクについても言及があり、(観客の)性的な期待を引き受けてしまう(演者の)身体があり、あるいはキャスティングにおけるハラスメントなど(業界の)権力構造がある、と問題の在り処が示された。
モデレーターの国枝かつら氏からは、「誰が語るのか」という問いが立てられ、これについても興味深い発言が続いた。
古久保氏による「周縁のことを、同心円の中心にいる者が語ってよいのだ、むしろ語るべきなのだ」との言葉は力強い。見た目男性のプログラムディレクターが、女性性をテーマにしたプログラムをたてることはあっていいはずである、と。
山田氏はスピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」を挙げ、周縁の者が自分を語る言葉をもつことも大切である、とした。
パトウ氏からは、当事者でないと語れないとするのでは一つの視点しか得られない、様々な角度を得ることで何が見えるのか、と視点の多様さの大切さについて考えが述べられた。
以上、医療、教育、社会学、芸術、それぞれの視点と、理論と実践とが交差した闊達な討論となった。
女性という視点でいえば、マルクス主義フェミニズムからポストコロニアル的な問題提起(周縁化された女性が自分自身を語る言葉を持てるか)までが広く視野に入った議論となった。京都は上野千鶴子が京都精華大学で教えた町でもあり、セクシュアリティ、ジェンダー、マイノリティ、差別、人権といった問題を巡って議論の蓄積がすでにあることをこの日のシンポジウムから感じ取ることができた。
理論研究や社会的実践と並行して、ダムタイプや、そのメンバーによる個別の活動があり、OKガールズ、ブブ・ド・ラ・マドレーヌをはじめとしたアートとアクション、活動や発言が続いてきた歴史がある。古久保さくら氏、山田創平氏、あかたちかこ氏ら研究者や専門家、実務家による実践と合わせ、これらの集積のある京都という都市の土壌を踏まえて、「女性」「女性性」をキーワードにした今年のKYOTO EXPERIMENTのラインナップを見ていくことも、いっそうの深まりを与えてくれるのではないか。
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2018年7月14日土曜日
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018 記者会見
7月10日(火)
@ワコールスタディホール
9回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018の記者会見が行われ、女性アーティストおよび女性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループにフォーカスした12組、15作品による公式プログラムの全容が明らかになった。他にレジデンス・プログラム1件、フリンジ公演37件。今回初めて会場に二条城二の丸御殿を使用。日仏交流160周年及び京都・パリ友情盟約締結60周年記念に基づきフランスから複数のアーティストを招聘する。
フェスティバルを女性アーティストもしくは女性性を打ち出すグループで構成することについて、プログラム・ディレクター、橋本裕介氏のプレゼンテーションは以下の通り;
I. 性、ジェンダーについて。個人的、または文化的なものと捉えられるジェンダーは社会または政治的な要請によって形作られているのでは。この観点からジェンダーを考えてみたい。
II. 集団制作を主とする舞台芸術においても、政治や家庭同様の家父長制が見られるのでは。真の創造性のための集団のあり方を問いたい。
III. 「他者としての女性」という視点で社会と支配の構造を考えてみたい。E・サイード『オリエンタリズム』を参照しつつ、西洋/東洋、男性/女性、主体/客体、等々の二項対立による西洋近代の思考を疑い、世界がより流動化している現在、他者とは、外部とは何なのかをみつめたい。
以上を踏まえたうえで、実際の作品は4つにカテゴライズされる;
1.歴史、記憶との対峙
2.音楽、空間との混交あるいは対峙
3.(KYOTO EXPERIMENTとの)共同製作
4.パリー京都、フランスー日本の友好関係(過去8回で育まれた京都と他都市、アーティストとフェスティバルの関係に順じる)
以下、個々のアーティストと作品が映像を交えつつ紹介された。筆者の個人的なコメントも交えて記す;
・KYOTO EXPERIMENT(以下、KEX.)へ二度目、三度目の登場となるアーティストに、ジゼル・ヴィエンヌ、田中奈緒子、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー、She She Pop、ロラ・アリアスの5組。
・韓国のジョン・グムヒョンはKEX.へは初登場ながら2011年の来日公演『油圧バイブレーター』で、セクシュアリティを妄想とともに淡々と説き進める独自の作風が印象に残っている人。
・ブラジル出身でヨーロッパで活動するロベルタ・リマは昨年のKEX.の関連シンポジウム(*)に登壇し、伏見の女性杜氏をリサーチしている旨語ったが、いよいよ作品化される。
*「ナショナルアイデンティティと文化イベント」 田中奈緒子、キミ・マエダ、ロベルタ・リマの3名の女性アーティストが登壇した
・日本のアートシーン、ダンスシーンで存在感を発揮しているアーティストが、「女性(性)」という文脈から初参加となるのもKEXならではの視点だろう。山城知佳子はインスタレーションのほか自身初のパフォーマンスを発表する。会見にゲストとして登壇した山城氏は「ヒューマンビートボックスを合わせた展示『土の人』では音、リズム、音楽が映像とともに別の次元に連れて行ってくれると知った。(パフォーマンス作品では)この映像からもう一度現場をどう取り戻すかを模索しつつ、映像と音のコラボレーションを構想している」と話す。エキストラ50名を募集し、鑑賞者ではなく作品の中の人になってもらいたいという。
手塚夏子は日本におけるダンス・アーカイブの議論を誘発したセゾン文化財団主催のプロジェクト「ダンスアーカイブボックス」に端を発する「Floating Bottle Project」Vol.2を、スリランカ、韓国のアーティストとともに上演する。一昨年のTPAMで見た本作の最初のプレゼンテーションでは、投瓶通信の形を借りて手塚が西洋近代を問うための指示書を発し、受け手が自らの文化的背景とセクシュアリティの要素を込めたパフォーマンス作品で応答した。会見に届いたビデオ・メッセージで手塚氏は、アジアにおける西洋近代とは世界の中に(分割の)線を引くことだったのではないかとし、「線引きされた視点を動かしてみる時、何が見えてくるか」を問いたいと語る。
・初登場にはさらに往年の劇団ウースターグループ、ライジング・スター的な勢いをみせるダンスのマレーネ・モンテイロ・フレイタス、東京の若い世代の市原佐都子。ゲストの市原佐都子氏は、モノローグを特徴とする自らの戯曲のスタイルについて、「最初の作品をケータイで書いたことから生じた」と語り、社会の多くのことに関心があるわけではなく自身がリアリティを感じる事象を取り上げているという。『妖精の問題』では相模原の障害者施設で起きた事件に自分が東京で暮らしている感覚を重ねる。
ゲストの山城知佳子氏、市原佐都子氏が、会場の質問に答えてさらに語ったところを紹介すると;
沖縄という自らの出自を創作の軸とする山城氏は、沖縄という場所そのものが日本本土から見た他者であり、オリエンタルな癒しの島といった女性性で語られることを疑問に思うことがあると話した。
市原氏は、自作に対する反応の中にいつも「女性」という言葉が付いて回るが自身は男性中心社会にメッセージを出している意図はなく、前提ともしていないという。女性/男性を意識しないというアーティストの表現にどんなジェンダーの表象が見て取れるだろうか。
以下は個人的な所感。
プレス資料にも、また会見の場でもフェミニズムという言葉は使われていないが、女性アーティストもしくは女性性にフォーカスするとした今回のKYOTO EXPERIMENTの方針は、ひとつの芸術祭が多分に政治性を含んだプログラムを世に問うもので、芸術祭のあり方に議論もある中、画期的なものと考える。奇しくも#Mee too運動の世界的な高まりと重なるわけで、主題を文化・芸術の側面からのみ扱う「中立的」な態度に終始することなく、眼前の社会や政治状況との生き生きとした関係を芸術表現がどう築いていけるか、その実験の場となり、様々な問いと議論の行き交う場となることが期待される。
#Mee too運動との関わりに関して、会場からの質問に答える形で橋本氏より、芸術祭の準備には通常2、3年を要し、今回のテーマも2015年頃から検討していたとの話がされた。現実社会で目に見えないもの(の構造)を見えるようにしたいと考えてのことだが、#Mee too運動(によって多くが暴かれ可視化された状況)との重なりは、偶然で驚いている、と。昨年ハノーファーで開催された芸術祭ではラインナップが全て女性と意図は明白であったが、敢えてテーマを掲げることをしないというスマートな姿勢をとっていた。しかし今の日本で何も言わないことに意味はあるだろうかと考え、(フェスティバルとして)表明することにしたという。
いっぽう、芸術祭実行委員長の森山直人氏からは、「#Mee too運動だけでは解決できないこと、必ずしも社会運動に還元できない感情、欲望などの表現を、楽しみつつ考える場としてのKYOTO EXPERIMENT」と、芸術祭本来の可能性を重視する見方も示された。
プログラム全体をざっと辿ってみるとき、「女性」や「女性性」という軸を通したことで、性別以外の指標への注目が、より促されるように感じるのは面白いことだ。その一つ、国籍や活動拠点の多様さについては、フランスが2組、ドイツ・ベルリンを拠点とする人が3組、リスボン、ウィーンとヘルシンキなどヨーロッパの都市が多く目に入る。他にニューヨーク、ブエノスアイレス。アジアからは、ソウル、沖縄、東京。ただしヨーロッパを拠点とする人たちでも出身国はブラジル、東京、福岡と様々である。移動しながら表現し続けるアーティスト、逆に出身地にこだわり続ける人など、様々な混合がみられ、そのこと自体が多様性を物語る。女性であることを抱えつつどの場所で活動していくかの選択に、アイデンティティを巡るそれぞれの物語が、またそこから見えてくる状況があるかもしれない。
一方、今回のラインナップ(パースペクティブ)においては、ジャンルや表現形態の違いをことさらに言う必要がないように感じられるのも、興味深い点だ。展示と上演の双方を行う作家が複数入っていることもあろうが、今年はダンスが何作品あるかと記者発表のたびに注視しがちであったのが(因みに今回ダンスと登録されているのはジゼル・ヴィエンヌ、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー、マレーネ・モンテイロ・フレイタス、手塚夏子の4組)、ダンスであろうとパフォーマンスであろうと演劇、あるいは展示であろうと、女性(性)というモーメントがいかなるドラマトゥルギーを形成するのか、作品と表象の内容にこそ関心が注がれ、言語や形式の違いを超えた議論の展開が期待される。これはダンスなのか、ダンスとは何か、ダンスとそうでないものとの違いはどこにあるのかといった、ダンスの周辺でしばしば交わされるジャンル固有性にこだわる議論は(それがダンスの強度を支えてきたことは確かだが)、ここでは、女性性と身体性との不可分な関わりと表現の成り立ちといった視点に移行するのではないか。形式ではなく内容へ。そのことが現在のダンスをめぐる思考や創作をより多角的な方向へ開いていくとすれば幸いだ。
2018年7月9日月曜日
O.F.C.『カルミナ・ブラーナ』
ダンサー:酒井はな 浅田良和 三木雄馬 他
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団