2025年11月28日(金) @ArtTheater dB KOBE
先週末に見た国内ダンス留学11期生が出演の、スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番』。種がはじけるように6人の動きが一斉に始動、バラバラに見えるが誰かと誰かが同期する瞬間があり、現実の身振りを切り取った動きをベースにした振付が四分音符を並べるような正調な単位で連なっていく。四分音符のようなとはつまり一小節を均等に分割した、揺れや溜めのないシンプルなリズム、極端に早かったり遅かったりしない人の基本運動に即したテンポを想定した言い方で、踊り手の個性への依存を極力抑えベースを保ちながら、全体は強い推進力で運ばれるのが本作上演だった。
いや、こんなことが言いたいのではなく、何より70分の上演時間に投入された夥しい数の身振り、振付の分量に圧倒された事実に言及せねばならない。出演したあるダンサーの本作における動きは総数240を数えるのだという。
独自の振付生成の手法「フィジカル・カタルシス」を適用してダンサーが自ら作った動きを、スぺースノットブランクの二人が取捨選択していくわけだが、その取捨選択の段階では通常の構成・演出よりも作品を構成し上演を運営するための高次の判断がはたらいているように見える。というよりむしろ現場における直観的な何か――「瞬時の判断の速さと精度が」「スぺノの場合特別」なのだとダンサーの一人が言う。
フィジカル・カタルシスとは何か?事前のインタビューでもアフタートークでも質問されタイトルにもなっている今公演の主題となる問いであり注目点だったが、現場を経験したダンサーやリハーサルを近くで見ていたdBのスタッフによるトークからその具体的な活用の一端をうかがい知ることが出来た。
相手の動きの一部を模倣し、それを自らの身体において発展させると説明されたその振付生成の基本は、いわば動きのしりとりと言ってみてもいいような、ダンサー同士の相互性、間身体的な創造であり、自他の「間」がある限り、振付を永久に生み出し続けていく方法論にほかならない。振付の動機が自身の内側に存在しない、ゆえに一個の身体において完結することはない。
先日やはりdBで再演された『原子』も然りだが、目の前の舞台で何が起こっているのか瞬時には掴み難くも何か圧倒的なこと、激しいメタ化の運動のようなことがスペノの舞台では起きていて、言葉にし難いが、どうやらそれを言い表す言葉が私の中にはなく、手持ちの言葉を雑巾のように絞って尽くすほかない状況に、先般の『ダンスの審査員のダンス』の後半の一節を思い起こす。
『原子』では演技者の大石英史の発した言葉をスペノが編集してテキストに。これをふたたび演じる大石が声と身体で運用する。そこにさらに演出が施される。この往還の中で現実の言語の何かが変容し別のロジックのもとに作動する。編集と運用。そして終わりがない。
現在のところここまで。また考える。
『ダンス作品第3番:志賀直哉「城の崎にて」』にせよ、『原子』にせよ、今回の『フィジカル・カタルシス:ダンス作品第7番』にせよ、この短期間に見たスペースノットブランクの舞台がどれも途轍もない密度と圧力を湛えた上演であったことに今更だが驚いている。