2022年6月8日水曜日

展覧会 「ミニマル/コンセプチュアル」

529日(日)

展覧会

ミニマル/コンセプチュアル

ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術

@兵庫県立美術館

 

 

美術史上に思考の転換をもたらしたミニマリズムとコンセプチュアル・アートを、1967年デュッセルドルフに画廊を開いたフィッシャー夫妻が手掛けた展覧会を主軸に振り返る。昨年より川村記念美術館、愛知県美術館での開催を知るも見る機会を逃したと惜しく思っていたところ、足元の兵庫県美で行われているのを閉幕前日になって知り、最終日に駆け付けた。関心の所以はこの動向がポストモダンダンスの発生に深くかかわったものであること、また個人的には現代美術に多く触れた時期の美術界にこの思潮の余波があり、遠い歴史上の一トピックという以上に近しさを感じることである。順路の最初の部屋に展示されたカール・アンドレの『鉛と亜鉛のスクエア』の金属版の並びや『愛と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌』の144個の鉛の立方体は、もの派やその後の80年代の彫刻に通じるストイシズムと物質感を醸している。だが物質や物体としての作品はこの2作のほかは数えるほどしかなく(リチャード・ロングの柳の枝を床に平行に並べた『コンラート・フィッシャーのための彫刻』はその少ない例)、展示のほとんどが写真、スケッチ、描かれないキャンバス、指示書、あるいは手紙、展覧会の招待状、印刷物などの資料で構成されている。ソル・ルウィットの『ストラクチャー(正方形として1,2,3,4,5)』は三次元の物体だが素材と量塊を伴ったモノというよりは観念の立体化というに近い。それがそもそもミニマル/コンセプチュアルというものではあるか。文字情報が多く、キャプションを含めて「読む」ことに労力を費やす展覧会でもあった。それでも作家の思考の跡にこちらの感覚がカチっと嵌る快感がある。

感情を排し、禁欲的で規則的な表現と言われるが、たとえば河原温の日付を記したメモを途方もない年月の分だけ反復連続したインクの跡、とか、画廊主に宛ててその日の起床時間を記して送った絵葉書の何年分もの集積、などには、一定の作業を当該の期間中に一日も欠かすことなく延々と続けた、その静かで淡々とした行為の執拗さ、コンセプトを貫徹する熱量に驚く。行為はミニマルだが想像力は今日の人間が生まれる遥か以前からもう誰も生きてはいないはずの未来まで100万年に及ぶ遠大なものであったりする。これまで機会があれば目にしてきた日付を記した一幅のキャンバス≪Today≫は、その膨大で遠大な反復の中の一コマ、一片、一単位であったのだ。展覧会で一望して初めてコンセプトの全容に触れることができた。またハンネ・ダルボーフェンのペン書きされた賃金・給与リストやそのシリーズも、形は違うが数字というミニマルな単位の反復連続やそのバリエーションへの偏執的なまでの情熱、熱量に圧倒される。この作業に没頭する作家の「身体」が色濃く刻印されている。

 単位、規則性、原理への志向と表現のストイシズムの観点からは、他にリチャー・ロングとスタンリー・ブラウンにも惹かれた。この二人は展覧会の構成上、「歩くこと」と題したセクションにまとめられている。スタンリー・ブラウンによる、人間の踏む一歩と抽象的な距離の10㎞の関係を数理的に考察し、タイポグラフィを打ったインデックスカードに登録・集積した一連の作品も、ハンネ・ダルボーネンとの近さを感じさせる。この緻密で、簡素ながら論理的で、タイトで禁欲的な思考に美、もしくは詩が宿るぎりぎりの表現。柳の枝のインスタレーションで先述したリチャード・ロングは、草地に人の歩いた跡を一本の道=線と見做した写真を展示。ミニマルな志向を自然の環境や身体に結び付ける発想がイギリス人らしい。ベルント&ヒラ・ベッヒャーの写真、ブリンキー・パレルモのペイントに関しても、対象に形状の原型をみる姿勢を面白く思った。なぜかラインナップされているゲルハルト・リヒターや、フィールドワークに基づいたローター・バウムガルテン、「日常」のキーワードで展示されたギルバート&ジョージなどは、ナラティブの要素を引き込んでおり、展覧会の主題との関連に必然性を感じなかった。

 さて、ダンスとの関連では、一点だけビデオ作品にダンスへの接続を思わせる出品があった。モニターの中のモノクロの映像に男性がひとり、自身の脚を尺に、わずかに遠心力を使い、一投足ずつ向きや角度を変えながら振り出す動作を行っている。間をおかずに動作は続くがリズムやカウントはなく、音楽よりも建築的な発想による身体の数理の積み重ねであり、ここからたとえばトリシャ・ブラウンの『Accumulation』までの距離は近い。また、作家がデュッセルドルフのギャラリーまで出向かずとも現地での作品展示を可能にする「指示書」の発想は、近年、議論される振付の概念に関わる事項の一つといえる。美術のミニマリズムがポストモダンダンスの発生源であることはつとに語られているが、日本ではこうした数理・論理的思考による概念的(コンセプチュアル)なダンスの潮流は生まれなかったか、もしくは大きくならなかった。同時代の日本は舞踏の影響が圧倒的であったことがその理由の一つと言われる。だがダンス創作における、あるいは振付における論理思考、原理的思考の経験の欠如が、2020年代現在の日本のコンテンポラリーダンスの一部に見られる学校ダンスの延長のような集団性に依拠したナイーブな作舞や、浪花節的なナラティブに対し、無批判な状況を招いているように思える。 

2021年4月14日水曜日

垣尾優『それから』

228日(日)

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING

@ロームシアター京都 ノースホール

 

 


関西のローカル・ベースで活動してきた垣尾優。京都のハイ・ブラウなアートシーンとも少し毛色の違う彼が、KYOTO EXPERIMENT 2021の公式プログラムにラインアップされた。公演日前から事務局はツィッター上にこれまで垣尾の作品に触れたことのある縁の人々からの応援メッセージを連投、ちょっとした「垣尾優まつり」、といっては大げさだろうか(私も寄稿した)。さまざまな人がそれぞれの言葉でこの異色のダンサーの魅力を伝えているが、それは踊り手として長いキャリアを誇りながら、確定的な評価の言葉を得ていないことの裏返しでもあり(批評の端くれとして責任を痛感する次第)、やはりというか、どの人の言葉も一様ではなく、垣尾の魅力が一言で語れるものではないこと、何か前例のない不思議なセンスの持ち主であってまったく既視感がないことの証でもある。


ダンスボックスが大阪の千日前にあった時代、「呆然リセット」という男性二人組のユニットで活動していた垣尾が一度ソロ作品を発表したのを私は見ている。ナンセンスともユーモアともつかない行為性を含んだパフォーマンスは隘路に迷い込んでいて、まだ自身の方向性を模索する最中のものだったろう。その垣尾がダンサーとしての自身の身体と出会うきっかけは、岡登志子のアンサンブル・ゾネへの参加だったのではないか。確かな理論に基づいた岡の振付を受けて、垣尾が自らの身体の可能性を舞台上で開花させるのを見るのは感動的だった。しかし彼はカンパニーの一ダンサーとして踊ることに留まらず(現在もゾネにゲスト出演しているが)、やがて塚原悠也とcontact Gonzoを開始する。すでに語られているように、ある晩「コンタクト・インプロビゼーションの稽古をしよう」と垣尾が夜の公演に塚原を呼び出したのがきっかけだ。最近では佐藤健大郎と秘密裡にイヴォンヌ・レイナーの『Trio A』を稽古しているとの噂も耳にする。ダンサーの習性であるのか、さまざまな技法やレパートリーに関心を持っては自主練しているのだろう。さらにノーラ・チッポムラのダンス作品、松本雄吉のパフォーマンス作品、砂連尾理の『猿とモルターレ』に出演。最近では増田美佳が主宰するmimaculの『夢の中へとその周辺』に増田、捩子ぴじんと共に出演していて、実にさまざまな方向性をもった表現者に信頼されてやまないダンサーであることが分かる。腰高で胸板が厚く頭部の小さい日本人離れした体格、匿名的な「ある男」として舞台に立つ存在感。振付の核心を直観で受け止め、過度に熱くならずクールに突き放すでもなく、淡々と動いて懐深く体現するダンサーの身体。その垣尾の創作者としての熟した一面が明らかになったのが一昨年に発表したフル・レングスのソロ作品『愛のゆくえ』である。自ら手掛けた空間の仕掛け、小道具、合成した音楽、それらが醸し出す不条理とナンセンスに彩られた世界。垣尾の中にかくも奇妙なテイストをもつ独自の世界が広がっているとは。寡黙な印象のある人だけに舞台は見る人すべてを驚かせた。今回のKYOTO EXPERIMENT 2021への参加は、この『愛のゆくえ』が評価されてのことと思われる。 


ここまで、あまり広く知られていない関西ローカル・ベースのダンサーのこれまでの歩みを振り返ってみた。


さて今回の新作ソロ『それから』は、記者会見時の本人のコメントに違わず、昨今の国際フェスティバルでは希少なほどのダンスそれ自体でシンプルに見せる作品だった。ノースホールの床から嵩を上げた特設ステージ上がパフォーマンスの行われるエリア。会場入り口からステージ脇を通って奥の壁の出入り口まで通り抜けになっていて、奥の開いた扉からは続くバックヤードが見える。この通路の床にはミサンガのようなカラフルなリボンや何台もの自転車が並んでいて、劇場における上演を外へ開く通路であることが仄めかされる。開始前から音響として砂利を踏む靴音や環境音のノイズが聞こえている。垣尾優は通路から特設ステージによじ登って登場し、やがてノイズも止んで無音となった空間でパフォーマンスを開始する。


特設舞台の黒い床の中央に一本の大根が置かれていて、垣尾はその傍らに立ち、片手を眼前にかざした格好で静止する。さりげない立ち姿勢だがどこか飄々として戯画的な風情が漂う。気が付くと姿勢が徐々に傾き、揺れや振りが生じている。垣尾の動きはフォルム、ムーブメント、ステップなどダンスの構成要素として取り出すことのできない不定形で瞬間的なもので、身振り以前、ステップ未満の断片が動きの芽生えや気配のようなものとして身体に生じるさまを観客は息を詰めて見守る。とくに前半部、音楽なしで動きが次々と、相互に脈絡なくとも連続して沸き起こり推移するさまは、濃やかで野性味があり、クオリティの高さに目を見張った。


赤い上下のつなぎを着た垣尾は足音を立てて少し歩をすすめる。床に横たわり、立ち上がって手を振り、せわしなく動く。がくがくっとつんのめるように左右の足を踏み込むが重心はしっかり据えており、左右の手を肩先から、ぐぐっと上へ二段階で差し出そうとするかに見えて、腕を伸ばしきることなく引き戻す。ひとり舞台の上に居て、迷い、選び、探り、動きを手繰り寄せる。日常的というには親密さはなく、パーソナルというより匿名的なそれらは、かつて何者かであった身体の記憶である。岸辺に辿り着いた人類の遠い記憶が身体に到来する。「動き」とカギ括弧つきでは呼び得ないもの、「歩き」「倒れ」「上げ・下げ」「揺れ」「ぶれ」「震え」「振れ」…と名指し得ない身体のざわめきが、遠い記憶とともに絶え間なく到来するのである。


突然「キーン」と耳を劈くエレクトリックな鐘の音でパフォーマンスは次のフェーズへ移行し、天井から銀色の器が下りてくる、垣尾は大根を手に取り放り投げる構えを見せ、虎のお面を被り、また自ら音を出すなど遊びの要素が入り始める。だがここでのメインのタスクは自転車を一台ステージに載せ、工具を使っていそしむ解体作業である。赤いつなぎはエンジニアの作業服からの発想だろう。本物の自転車というゴツいオブジェとの遊び、もしくは難儀しながらの解体作業という格闘は、ほかならぬcontact Gonzo的なタスクと言える。車輪や車軸など抽象性をもった部品が身体とともに舞台にある様子は、手術台の上のミシンとコウモリ傘の光景を成している。工具や部品のたてる金属音にエコーがかかり、メカニックの作業が硬質なリズムのある音楽になる。このあたりの展開はややテンションが緩んでいて、作業する身体の朴訥とした味わいや、脈絡のないシュールなオブジェ、垣尾の分身として『愛のゆくえ』以来のサルのぬいぐるみの登場など、垣尾のキャラクターの滲む箇所でありパフォーマンスの意図するところであるとしても、全体の運びや構成にはまだまだ詰める余地があると思われた。


それでも終盤に向けて、自転車や他のオブジェとの絡み方がカオス度を増し(銀の器を頭にかぶる、解体した自転車をロープで釣るなど)、そこにキレも粘りもある垣尾の踊りが熱量高く混入し始める。相変わらず不定形のまま素早く激しく動く、と思うと浮力を得たように遊泳する。タスクを負い、行為し、振舞い、動き回る身体に、人類の、いや非人類の記憶の中にある身振りが現れては消え、訪れては去りを繰り返しているかのようである。


当日パンフレットにある垣尾の文章は、自己紹介とともに出生からこのかたを辿って遥か大陸を巡り、あるとき道を選択した「運命的な出会い」の時を語る。そして「それからです。」というのである。タイトルの所以である。どこか人を食ったようでいて、踊りへの愛が滲んでいる。



2021年3月8日月曜日

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

 

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

3月5日(金) @ロームシアター京都 ノースホール

 

 

ホルツィンガーは1986年オーストリア、ウィーン生まれのダンサー・振付家。アムステルダムとウィーンを拠点に活動する。今回初めてその世界に触れたが、いかにもヨーロッパらしい肉体への執着・偏愛と濃厚な美学的アプローチに、悪趣味ともいえるサディスティックなパフォーマンスが合体し、唯一無二の過激でスキャンダラスな舞台が繰り広げられた。内容的にも時間の尺も膨大・長大(手元の時計では100分弱ほど)なボリュームがあり、そろそろ一息つかせてほしいと思うこちら側の耐性をよそに、さらにシーンを被せてくる。相当に感覚が刺激されるので、冗談ではなく観覧注意である。新型コロナウィルス感染拡大の影響でアーティストの来日が叶わず、上映会の形が取られたが、本来なら舞台で生のパフォーマンスを見たはずのもの。その場にいたらはたしてどのような感興を得たことであろうか。

 

タイトル『Apollon』はバランシンのバレエ・リュス時代の作品で、作曲はストラヴィンスキー。ギリシャ神話に材をとり、アポロと3人のミューズが登場する。「古典的なフォームの美しさが追求されたバランシンらしい振付」とプログラムにあるが、YouTubeで見るといわゆる古典バレエに対して斬新、清新な作風、かつ天上世界の清澄な雰囲気が「アポロ」のタイトルに相応しい。これをベースにしたホルツィンガーの挑戦は、一つにこのアポロ的な天上世界に対するディオニュソス的な陶酔を追究すること。さらに西洋美学の正統、アカデミズムに対する周辺的、大衆的、娯楽的な路線の対置、ハイアートとエンターテイメントを一緒に扱うことにあると見える。

 

大衆的なパフォーマンスの要素はサイドショーと言われる見世物に顕著だ。ホルツィンガーはニューヨークを旅し、コニー・アイランドで見たサーカスやエンターテイメントに大いに関心を持ったという。サーカスは今回入っていないが、サーカスの「隣で行われる」の意のサイドショーを取り上げている。本作の冒頭は長さ8センチの釘を自身の鼻の孔に差すというもので、ハンマーで少しずつ深く差し込んでゆき、パフォーマーのMCによれば頭蓋骨に到達させるのだという。また細長く膨らませた風船を飲み込むメニューでは、咽頭、呼吸器、食道、胃までを貫く風船のチューブが少しずつ口から入っていく。危険極まりない、きわどいショーである。ピンク色の風船チューブは男根を示唆してもいると思うが、そう、この作品はミューズの名のもとに6名の女性たちが欲望と背徳の限りを尽くすもので、女性の身体表象が大きな主題となっている。女性たちはほぼ全裸、アマゾネスという言葉があるが、エロスと野蛮が全方位的に開け放たれた身体である。腰に黒いベルトをしている者、スニーカーを履いている者、トゥシューズをつけて踊る者など、わずかな装身具が生まれたままの無垢の体と文化的に選択・武装された裸体との一線を保っている。チームはダンサーとサイドショーのアーティストが混在した編成で、ホルツィンガーの友人が多く参加、ショーのアーティストはその道のプロを呼んだという。そうだろう、とても素人の手出しできるものではない危険なもので、剣を飲むメニューなども含まれる。他にピアッシング、脱糞、腕詰め(指詰めならぬ)、自分の左右の鼻孔を通したストローで観客にカクテルを飲ませる、といった痛みや生理的な嫌悪を伴った悪徳、悪ふざけの数々。平行してランニングマシン、ダンベルなどを用いての身体の鍛錬も行われる。痛みと快楽の経験の場としての肉体礼賛であろう。

 

一方、美学的な表象としては、天上を描いた空と雲の背景画、雲の上を模したのであろうか舞台中央を大きく占める白いエアーマットレス、その中央にいる牛の等身大フィギュア、そして二人のダンサーによる左右対称のポーズ。二人はダンベル運動もすればバレエのポワントも見せ、舞台を縁取るようにシンメトリーの構図を作る。舞台で行われる行為の数々、表象、イメージの数々が縁取られて一幅の絵になる。牛は電動でうねるように動き、跨る女の身体も大いに翻弄される。同じく牛の背中に身を預けるもう一人の女は、尻をぴしゃりと叩かれて快楽の笑い声をあげる。牛は舞台上のシンボリックな存在で、獣性、欲望、怠惰、愚鈍、愚劣、下等を意味すると見える。白いエアマット上に寝そべりくつろぐ女たち。脱糞したものを食すという文字にするのもはばかられる行為に至るミューズたちである。おそらくは西洋美術史上の名画や神話の場面を参照しているのであろうと思われるシーンや構図が含まれ、私はこの方面に不案内なのだが、知識があればより楽しみや味わいが増すだろう。ちなみに西洋絵画の伝統では脂肪のたっぷりついた女性の尻のえくぼが美学のツボと聞くが、本作のほぼ裸体の6人は長く美しい脚、豊かな脂肪のついた腰や腹、たわわな乳房、なびかせる長い髪と、たしかに西洋美学のミューズを思わせる肉体を誇っている。贅肉一つついていない現代的なダンサーの身体とは異なる身体像である。

 

参照といえば、ポストトークでディレクターチームから、実際に見て取れた種々の引用について言及があったのは参考になった。西部劇のパロディは誰の目にも明らかだが、スターウォーズ、007、20世紀後半のアメリカ大衆文化も含めた様々なリファレンスに満ちた作品であったことが理解された。初めての鑑賞ではとにかく行為のショッキングなことに感覚の多くが持っていかれてしまうわけだが。それも含め、映像配信ではなく、劇場での上映会の形をとったディレクターチームの選択は正しかっただろう。これをパソコンの画面で情報として受け取ったのでは、全く「体験」にならなかっただろう。


演出:フロレンティナ・ホルツィンガー

製作:CAMPOアートセンター(ベルギー)

 

*映像は201710月にCAMPOによって撮影された

 

2021年3月7日日曜日

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADOR

 

32日(火)

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADORA   @元町映画館

  

モダンダンスの始祖として知られる伝説のダンサー、イサドラ・ダンカン(「イザドラ」が正しいと言われる)。映画ではダンカンについて多くを語らないが、彼女が二人の子どもを事故で亡くしており、その悲痛の中で亡き子どもたちに捧げて創作したソロダンス『母』をモチーフとして語り進む。物語は、この『母』を巡って、作品をそれぞれの関わり方で受け止める女性たちについての3つのオムニバスで成り立っている。互いに直接には関わらないが静かに呼び合う3つのエピソード。舞踊作品『母』には記譜が残されており、これを手に入れた振付師のアガトが丹念に読み込みながら振りに起こしていく様が、最初に描かれる。パリの街の寒色の風景の中、ひたむきに記譜に向き合う若き振付師の勤勉さ、創作にいそしむひたむきさが引き締まった空気を画面に与える。周辺的な話題というものが一切描かれないのも特徴的。アガトという人物や生活にまつわるあれこれなどには一切触れないのである。またダンスを描くのに、稽古場の熱気とか、身体のリアリティといった定形を用いず、記譜を読み、振りを起こし、その作業の中にイサドラ・ダンカンの魂をすくい上げようとする淡々として知的な取り組み方が、かえって新鮮だ。コロナの時代のダンス創作に相通じるものがある。今ここであること、一つの場所に集まること、生身の身体によって遂行されること、共同性の中で創作すること――上演芸術の条件と信じられてきた約束事が無効になって、なおダンスの真髄に触れようとする態度。アウラを介さない創造と受容。もう一つのダンスへのアプローチは可能なのである。


二つ目のエピソードは、『母』の公演を控えてリハーサルを重ねる振付師マリカとダンサー、マノンの対話と交流の日々。二人は親子なのか、と最初に思ったのだが、マリカには離れて暮らす二人の子がおり、マノンはそのマリカの寂しさ(彼女と子たちとの間にどのような関係の経緯があるのかは語られないが)をみつめる。マノンはダウン症であると思われ、いわゆる鍛え抜かれたダンサー然とした身体をもった踊り手ではない。そのことが映画を複層的にしている。マノンは誰かのケアを必要とする側と思われるが、実際には傍らのマリカを深い洞察によって思いやっている。母と娘に似ていながら、それとは違う関係性が一組の振付師とダンサーの関係に垣間見える。


3つ目は『母』の公演を見た観客のひとり、エルザの物語。観劇後の彼女の行動をつぶさに捉えていくが、やはり周辺の事情は一切語られない。拍手をし、劇場を出て、杖をつきながら街路を歩き、レストランに辿り着き、ひとり遅い夕食をとり、タクシーに乗り、夜も更けており、さらに杖をついて夜道を歩き、カギを開け、家に入り、鍵を所定の場所に置き、部屋着に着替える。なぜかこの行動の一部始終をカメラは追っていく。そして彼女の老いが見る者に切なく迫り、部屋に飾られた写真の少年は彼女の子であろうことが察せられる。喪失の中で重ねてきた彼女の月日が想像される。カーテンを開け、夜の街の景色を見るエルザの、遠い目、孤高の魂。かつては舞台に立った人であるのかと、ふと思った。


母になったことのない女性、現在母である女性、その傍らにある女性、そしてかつて母であった女性。年代も境遇もルーツも異なる4人の「母」を巡る思索が、イサドラから時を超えて遠く響き合いながら、静かなトーンで描かれる。余計なもののない物語、そして画面。それでも十分に、むしろたっぷりと語られるそれぞれの魂のドラマがある。



監督:ダミアン・マニヴェル

脚本:ダミアン・マニヴェル、ジュリアン・デュードネ

撮影:ノエ・パック

出演:アガト・ボニゼール、マノン・カルパンティエ、マリカ・リッジ、

エルザ・ウォリアストン

 

2020年12月24日木曜日

勅使川原三郎 佐東梨穂子 宮田まゆみ 『調べ――笙とダンスによる』

 


音と動きのテクスチャー

~勅使川原三郎 佐東梨穂子 宮田まゆみ 『調べ――笙とダンスによる』~レビュー


12月6日 @愛知県芸術劇場 小ホール



ダンスと音楽は親和性の高い芸術といわれるが、その多くは音楽に合わせてダンスを踊るというものだ。拍子をとってステップを踏み、旋律に感情をのせる。ベジャールは『ボレロ』の配役を「メロディ」と「リズム」と名付けた。ケースマイケルはバッハやバルトークの曲の構造を振付に応用する。だが本作では、要素を分析する西洋音楽とは別の回路で音楽とダンスの関係が結ばれる。3人の「呼吸家」が奏でる音とダンスは、風のざわめきや降り注ぐ光を思わせ、自らがその中に含み込まれる空間のトーンを作り出す。太古の人は音楽をこのように、場を満たす全体の気配と一体のものとして感じていたのだろうか。


最初に耳に届いて来たのは闇の中に紛れた一筋の糸のように繊細な笙の音である。わずかに照明の度合いが上がり、世界の目覚めを思わせると、闇に紛れていた勅使川原三郎が、続いて佐東利穂子が静かに舞いながら舞台前方に出てくる。長短の竹を組んだ笙という楽器の音には、天から差し込む光のような崇高さと、竹の感触を残したような複雑な響きがある。不協和音であるのかさえも定かではない音の重なりの中で、二人のダンサーは揺蕩いながら動く。かがめた身体が伸びあがり、腕が大きく軌跡を描いてゆくさまは二人のベーシックな身体語彙といえるが、その独特のテクスチャーが笙の響きとともに放たれると、空間は濃やかな質感で満たされる。二人はその質感の中を、空気を掻くように動き続ける。


笙の8つの演奏曲目はそのまま作品のドラマトゥルギーを構成する。はっきりと聞き分けられる曲調の変化は少ないが、動きに速度や勢いが出たり、静止したりする場面は、曲目の変わり目だったのだろう。無音の中で一人踊る佐東がいて、そこに再び笙の音が入るとき、新たな光がもたらされたように感じた場面。粒子のように降り注ぐ笙の音を浴びながら喜びの中で高揚する勅使川原の踊り。物語性のない本作で、こうした鮮やかな瞬間が印象に刻まれ、しかし同時に全体の流れの中に飲み込まれてゆく。気象の変化や季節の移り変わりのように訪れる舞台のトーンや質感の違いは、解説にあるように、それぞれの場を整える「調子」の曲にあたるものだっただろうか。黒い舞台を照らす、凍てついた白い照明は、冬、北、黒、水を象徴するという3曲目「盤渉調調子」のシーンであったのかもしれない。曲目の進行とともに音、ダンス、照明、空間が変化し続け、一見すると抽象的な空間に、様々な彩りや肌理、質感や抑揚が一体となった「調子」、「調べ」を奏でてゆく。


勅使川原と佐東の踊りの違いも興味深い。身体に軸と中心を設け、左右の腕を対象にかざす勅使川原は、秩序や調和や意志を志向するようにも見える。一方の佐東のうねるような動きは、非対称、流動、揺らぎを体現する。異なる二つの原理を象徴するようでもあり、単に勅使川原、佐東という個体差であるようにも思える。二人は時に近づき、時に遠ざかり、触れることのないデュエットを踊る。宮田まゆみ、勅使川原、佐東の三つの身体もまた、それぞれの音、それぞれのダンスを紡ぎながら、なお分かちがたく結び合い、それぞれの呼吸で場の質感を、彩りを、トーンを、肌理を、「調べ」を奏で続ける。そして自らもその肌理に包み込まれ、時を超えて生き続ける。


夜の訪れのように照明が落ちると、冒頭と同じ笙の一音が鳴り、やがて吹き込む息の音だけになって、舞台は闇に沈んでゆく。呼吸する者らのかそけき気配に永遠を見たような一瞬であった。


(鑑賞&レビュー講座 対象公演)



2020年12月16日水曜日

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING 記者発表

 


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRINGの記者発表が12月15日に催され、全プログラムが明らかになった。本来は本年2020年の10月に開催予定であったが、新型コロナウィルス感染拡大を受け、来年2月6日~3月28日に会期を延期した。今回はこの延期したフェスティバルについての発表である。内容はすでに一般にも公開されたので、ここでは記者発表での発言から印象的だったものを書き留めておく。なお、今回はオンラインで参加した。




今回は3名の共同ディレクターが運営する初回。リサーチ、上演、エクスチェンジの3つの軸で構成される点に注目した。過去10回が選び抜かれたキレのあるプログラム構成を誇ったとすれば、新体制ではコレクティブならではの複数の視点を生かし、周辺領域の知への幅広い関心や、足元の京都、関西のリソース再発見のプロセスを組み込んでいる。


Kansai Studies(カンサイ・スタディーズ)は建築ユニットdot architects(ドット・アーキテクツ)と演出家の和田ながらによるリサーチプログラム。琵琶湖の水にまつわる様々な事象をリサーチし、ウェブサイト、トーク、展示などで3年かけて発表していく。「コロナ流行の中、国境とか県境など境界線を意識する事が多いが、人間が引いた線をキャンセルできる視点を持ちたい。水の循環はそのガイドになる」と和田ながら氏。


上演プログラム「Shows」(ショウズ)でも小原真史が展示で参加。前世紀初頭、帝国主義国による博覧会での被植民者の展示を題材に、見られる身体の歴史を考える。身体を見る、エキゾチックな文化を眼差し、消費するなど現代の芸術と共通する点が多い、とディレクターの塚原氏。Kansai Studiesも合わせ、リサーチ&展示プログラムが充実したものになりそう。


コロナ感染の危機のもと、映像による参加も含まれるが、オンライン配信とせず上映会の形式をとった。これについて塚原氏は「作品は出来る限り決められた空間、画質、サイズで見ることとしたい」と述べる。パソコンやIT環境に左右され一定のクオリティが保てない鑑賞は避けたいとの判断だ。


関西のアーティストが入ることは予想されたが、この顔触れに新風を感じる。垣尾優はベテランだが前回の自作ソロで見せた独特の世界観に度肝を抜かれた。今回もソロにこだわる。自分の表現はシンプルでオーソドックスだが混沌としている。矛盾しているが体そのものである、と語る。ジャンルの境界や外へ向く横軸ではなく、縦の時間に関わるものだという。中間アヤカ『フリーウェイダンス』神戸、横浜に続く京都ではリ・クリエーションする。会見で自作を語る言葉が力強く、自身のやろうとしていることがより明確になっているのかなと見受けられる。


音遊びの会×いとうせいこう。言葉を音や声などより広く捉え、一人一人がいとう氏とセッションすることで、それぞれ存在の仕方が違うのだということが見えるようなパフォーマンスにしたい。一度リハーサルをしたがもうすぐにでも本番に入れそうな勢いであるという。障害のある人の参加は『劇団ティクバ+循環プロジェクト』以来。関西のダンスに通底する価値感だろう。


海外からはカナダ、オーストリア、タイ、インドネシア、カナダ。感染の状況では無事公演ができるか予断を許さないが、中止にせず何等かの形での参加を模索する方針という。3名のディレクターそれぞれ海外のフェスティバルに感じることは世界を同じ作品が回り、消費されている、それが開催地域とどうつながるかが見えないという疑問。作品のプロセスや背景が見えること、地域とフェスがどうつながるかを探ること、社会に受け止められ影響していくかを考えたい、とする。


コロナの影響による会期延期の事態に対しては、ディレクターチームであったからこそ出来ることをやっていこうと前向きになれた。世界各国のディレクターたち同業者とも定期的にミーティングして情報を共有し、プログラムにも影響している。配信ではなく上映会にしようとの決定もこうしたコミュニケーションからヒントを得た、と塚原氏。


前任者の橋本裕介氏からはKEX.の名称だけは受け継いでほしいと要望があった。そのほかは出来るだけ変えてくれと言われた。ディレクター3人で毎週2回ミーティングを行い、社会状況、背景などを話し合っている。3人だから色々なことが出てくる。ふつかることもあるがそのプロセスが面白い、それらを一つの言葉でまとめるのではなく、様々な視点で観客に提供したい。一つの定義より複数あることの自由さがある(塚原、ナップ、川崎)。




2020年10月15日木曜日

柿崎麻莉子 『The stillness of the wind』/ akakilike/倉田翠 『家族写真』


DANCE SELECTION 2020 ダンスセレクション  レビュー


柿崎麻莉子 『The stillness of the wind』

akakilike/倉田翠 『家族写真』


 10 月 3 日  @愛知県芸術劇場 小ホール



ソロパフォーマンスとグループ作品、自作自演と他の身体への振り付け、ダンスに特化し

ていることと演劇性を取り入れていること。異なるロジックで成り立つ対照的な作品がコ

ンテンポラリーダンスの表現の幅を示す二本立て公演である。


柿崎麻莉子『The stillness of the wind』は独特のうねるようなムーブメントが印象的

な 15 分間のソロ。つま先立ちで床を探るように進む足の運びから、腰を落として長い手足

を広げたスケール感のあるフォルムへの途切れのない変容が特徴的だ。盛り上がっては沈

み、肩に肘に首にと潮の満ち引きのように現れては引いていく複雑なムーブメント。外から

形を与えられるのでも、内なる衝動に突き動かされるのでもなく、外部の空間や重力、光や

風の質感と、それらを受け止め触発される動きのモチーフが身体を挟んで静かに拮抗して

いる踊り。異なる複数の力と方向が柿崎の踊る身体を振り付けていく。刻々と移ろいゆく動

きは言葉にならない豊穣なざわめきに満ちている。

肌に密着したシースルーの衣裳は身体を裸体のように見せていて、黄昏時のような照明

を受けて神々しく、なまめかしい。その分節しえない身体の不定形の動きは、植物の繁茂や

人間ではない生き物の息づくさまであったとしても何ら不思議はないように思える。生命

の実体は身体の器に満ちることでしか可視化されないのだ。パフォーマンスは終盤に向け

て徐々に熱を帯びていく。聞こえてくるプリミティブなリズムと女声ヴォーカルのループ

につま先立ちの柿崎の足踏みが同期し、大地に近しい生命力となって舞台に漲っていくよ

うだった。


akakilike/倉田翠『家族写真』は、とある家族に男性一人を加えた7人による不条理感

の漂うアンサンブルだ。最も特徴的な点は全編を通して父親に台詞のあることで、関西弁の

抑揚が生活感と関係性の重みを暗に伝える。ここにバレエ、音楽、写真が混在し、約 60 分

のダンスシアターに仕立てられている。

作品のモチーフは「お父さんが死んだら」お金が下りる生命保険。「もし、もしやで」で

始まる父親の語りは、この「不思議な商品」をきっかけに各々の抱える欲望や矛盾をあらわ

にする。中央に置かれたテーブルを中心に、上下の空間を使った身体のインスタレーション、

個々のパフォーマーの配置や身振りが、ときに親密で、根拠の危うい関係性を浮き彫りにす

る。妹の踊るバレエは過ぎゆく時間のアイコンであり家族を寿ぐ切ないステップに見える。

兄がカメラのシャッターを切るのは時を区切り記憶を刻む行為だろうか。肥大化するひず

みと軌を一にするようにバレエ音楽のフィナーレが最大限の音量で響き渡り、舞台は暗転

する。

 「もし、もしやで」の問いかけから暗転までの過程は、内容を少しずつ変えて3回繰り返

された。このループ構造は、矛盾を孕みつつ懲りずに歴史を繰り返す家族なる制度のあり方

そのものであり、社会に無数に存在するバリエーションの示唆でもあるだろう。


(鑑賞&レビュー講座 対象公演)