2021年3月8日月曜日

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

 

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

3月5日(金) @ロームシアター京都 ノースホール

 

 

ホルツィンガーは1986年オーストリア、ウィーン生まれのダンサー・振付家。アムステルダムとウィーンを拠点に活動する。今回初めてその世界に触れたが、いかにもヨーロッパらしい肉体への執着・偏愛と濃厚な美学的アプローチに、悪趣味ともいえるサディスティックなパフォーマンスが合体し、唯一無二の過激でスキャンダラスな舞台が繰り広げられた。内容的にも時間の尺も膨大・長大(手元の時計では100分弱ほど)なボリュームがあり、そろそろ一息つかせてほしいと思うこちら側の耐性をよそに、さらにシーンを被せてくる。相当に感覚が刺激されるので、冗談ではなく観覧注意である。新型コロナウィルス感染拡大の影響でアーティストの来日が叶わず、上映会の形が取られたが、本来なら舞台で生のパフォーマンスを見たはずのもの。その場にいたらはたしてどのような感興を得たことであろうか。

 

タイトル『Apollon』はバランシンのバレエ・リュス時代の作品で、作曲はストラヴィンスキー。ギリシャ神話に材をとり、アポロと3人のミューズが登場する。「古典的なフォームの美しさが追求されたバランシンらしい振付」とプログラムにあるが、YouTubeで見るといわゆる古典バレエに対して斬新、清新な作風、かつ天上世界の清澄な雰囲気が「アポロ」のタイトルに相応しい。これをベースにしたホルツィンガーの挑戦は、一つにこのアポロ的な天上世界に対するディオニュソス的な陶酔を追究すること。さらに西洋美学の正統、アカデミズムに対する周辺的、大衆的、娯楽的な路線の対置、ハイアートとエンターテイメントを一緒に扱うことにあると見える。

 

大衆的なパフォーマンスの要素はサイドショーと言われる見世物に顕著だ。ホルツィンガーはニューヨークを旅し、コニー・アイランドで見たサーカスやエンターテイメントに大いに関心を持ったという。サーカスは今回入っていないが、サーカスの「隣で行われる」の意のサイドショーを取り上げている。本作の冒頭は長さ8センチの釘を自身の鼻の孔に差すというもので、ハンマーで少しずつ深く差し込んでゆき、パフォーマーのMCによれば頭蓋骨に到達させるのだという。また細長く膨らませた風船を飲み込むメニューでは、咽頭、呼吸器、食道、胃までを貫く風船のチューブが少しずつ口から入っていく。危険極まりない、きわどいショーである。ピンク色の風船チューブは男根を示唆してもいると思うが、そう、この作品はミューズの名のもとに6名の女性たちが欲望と背徳の限りを尽くすもので、女性の身体表象が大きな主題となっている。女性たちはほぼ全裸、アマゾネスという言葉があるが、エロスと野蛮が全方位的に開け放たれた身体である。腰に黒いベルトをしている者、スニーカーを履いている者、トゥシューズをつけて踊る者など、わずかな装身具が生まれたままの無垢の体と文化的に選択・武装された裸体との一線を保っている。チームはダンサーとサイドショーのアーティストが混在した編成で、ホルツィンガーの友人が多く参加、ショーのアーティストはその道のプロを呼んだという。そうだろう、とても素人の手出しできるものではない危険なもので、剣を飲むメニューなども含まれる。他にピアッシング、脱糞、腕詰め(指詰めならぬ)、自分の左右の鼻孔を通したストローで観客にカクテルを飲ませる、といった痛みや生理的な嫌悪を伴った悪徳、悪ふざけの数々。平行してランニングマシン、ダンベルなどを用いての身体の鍛錬も行われる。痛みと快楽の経験の場としての肉体礼賛であろう。

 

一方、美学的な表象としては、天上を描いた空と雲の背景画、雲の上を模したのであろうか舞台中央を大きく占める白いエアーマットレス、その中央にいる牛の等身大フィギュア、そして二人のダンサーによる左右対称のポーズ。二人はダンベル運動もすればバレエのポワントも見せ、舞台を縁取るようにシンメトリーの構図を作る。舞台で行われる行為の数々、表象、イメージの数々が縁取られて一幅の絵になる。牛は電動でうねるように動き、跨る女の身体も大いに翻弄される。同じく牛の背中に身を預けるもう一人の女は、尻をぴしゃりと叩かれて快楽の笑い声をあげる。牛は舞台上のシンボリックな存在で、獣性、欲望、怠惰、愚鈍、愚劣、下等を意味すると見える。白いエアマット上に寝そべりくつろぐ女たち。脱糞したものを食すという文字にするのもはばかられる行為に至るミューズたちである。おそらくは西洋美術史上の名画や神話の場面を参照しているのであろうと思われるシーンや構図が含まれ、私はこの方面に不案内なのだが、知識があればより楽しみや味わいが増すだろう。ちなみに西洋絵画の伝統では脂肪のたっぷりついた女性の尻のえくぼが美学のツボと聞くが、本作のほぼ裸体の6人は長く美しい脚、豊かな脂肪のついた腰や腹、たわわな乳房、なびかせる長い髪と、たしかに西洋美学のミューズを思わせる肉体を誇っている。贅肉一つついていない現代的なダンサーの身体とは異なる身体像である。

 

参照といえば、ポストトークでディレクターチームから、実際に見て取れた種々の引用について言及があったのは参考になった。西部劇のパロディは誰の目にも明らかだが、スターウォーズ、007、20世紀後半のアメリカ大衆文化も含めた様々なリファレンスに満ちた作品であったことが理解された。初めての鑑賞ではとにかく行為のショッキングなことに感覚の多くが持っていかれてしまうわけだが。それも含め、映像配信ではなく、劇場での上映会の形をとったディレクターチームの選択は正しかっただろう。これをパソコンの画面で情報として受け取ったのでは、全く「体験」にならなかっただろう。


演出:フロレンティナ・ホルツィンガー

製作:CAMPOアートセンター(ベルギー)

 

*映像は201710月にCAMPOによって撮影された

 

2021年3月7日日曜日

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADOR

 

32日(火)

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADORA   @元町映画館

  

モダンダンスの始祖として知られる伝説のダンサー、イサドラ・ダンカン(「イザドラ」が正しいと言われる)。映画ではダンカンについて多くを語らないが、彼女が二人の子どもを事故で亡くしており、その悲痛の中で亡き子どもたちに捧げて創作したソロダンス『母』をモチーフとして語り進む。物語は、この『母』を巡って、作品をそれぞれの関わり方で受け止める女性たちについての3つのオムニバスで成り立っている。互いに直接には関わらないが静かに呼び合う3つのエピソード。舞踊作品『母』には記譜が残されており、これを手に入れた振付師のアガトが丹念に読み込みながら振りに起こしていく様が、最初に描かれる。パリの街の寒色の風景の中、ひたむきに記譜に向き合う若き振付師の勤勉さ、創作にいそしむひたむきさが引き締まった空気を画面に与える。周辺的な話題というものが一切描かれないのも特徴的。アガトという人物や生活にまつわるあれこれなどには一切触れないのである。またダンスを描くのに、稽古場の熱気とか、身体のリアリティといった定形を用いず、記譜を読み、振りを起こし、その作業の中にイサドラ・ダンカンの魂をすくい上げようとする淡々として知的な取り組み方が、かえって新鮮だ。コロナの時代のダンス創作に相通じるものがある。今ここであること、一つの場所に集まること、生身の身体によって遂行されること、共同性の中で創作すること――上演芸術の条件と信じられてきた約束事が無効になって、なおダンスの真髄に触れようとする態度。アウラを介さない創造と受容。もう一つのダンスへのアプローチは可能なのである。


二つ目のエピソードは、『母』の公演を控えてリハーサルを重ねる振付師マリカとダンサー、マノンの対話と交流の日々。二人は親子なのか、と最初に思ったのだが、マリカには離れて暮らす二人の子がおり、マノンはそのマリカの寂しさ(彼女と子たちとの間にどのような関係の経緯があるのかは語られないが)をみつめる。マノンはダウン症であると思われ、いわゆる鍛え抜かれたダンサー然とした身体をもった踊り手ではない。そのことが映画を複層的にしている。マノンは誰かのケアを必要とする側と思われるが、実際には傍らのマリカを深い洞察によって思いやっている。母と娘に似ていながら、それとは違う関係性が一組の振付師とダンサーの関係に垣間見える。


3つ目は『母』の公演を見た観客のひとり、エルザの物語。観劇後の彼女の行動をつぶさに捉えていくが、やはり周辺の事情は一切語られない。拍手をし、劇場を出て、杖をつきながら街路を歩き、レストランに辿り着き、ひとり遅い夕食をとり、タクシーに乗り、夜も更けており、さらに杖をついて夜道を歩き、カギを開け、家に入り、鍵を所定の場所に置き、部屋着に着替える。なぜかこの行動の一部始終をカメラは追っていく。そして彼女の老いが見る者に切なく迫り、部屋に飾られた写真の少年は彼女の子であろうことが察せられる。喪失の中で重ねてきた彼女の月日が想像される。カーテンを開け、夜の街の景色を見るエルザの、遠い目、孤高の魂。かつては舞台に立った人であるのかと、ふと思った。


母になったことのない女性、現在母である女性、その傍らにある女性、そしてかつて母であった女性。年代も境遇もルーツも異なる4人の「母」を巡る思索が、イサドラから時を超えて遠く響き合いながら、静かなトーンで描かれる。余計なもののない物語、そして画面。それでも十分に、むしろたっぷりと語られるそれぞれの魂のドラマがある。



監督:ダミアン・マニヴェル

脚本:ダミアン・マニヴェル、ジュリアン・デュードネ

撮影:ノエ・パック

出演:アガト・ボニゼール、マノン・カルパンティエ、マリカ・リッジ、

エルザ・ウォリアストン

 

2020年12月24日木曜日

勅使川原三郎 佐東梨穂子 宮田まゆみ 『調べ――笙とダンスによる』

 


音と動きのテクスチャー

~勅使川原三郎 佐東梨穂子 宮田まゆみ 『調べ――笙とダンスによる』~レビュー


12月6日 @愛知県芸術劇場 小ホール



ダンスと音楽は親和性の高い芸術といわれるが、その多くは音楽に合わせてダンスを踊るというものだ。拍子をとってステップを踏み、旋律に感情をのせる。ベジャールは『ボレロ』の配役を「メロディ」と「リズム」と名付けた。ケースマイケルはバッハやバルトークの曲の構造を振付に応用する。だが本作では、要素を分析する西洋音楽とは別の回路で音楽とダンスの関係が結ばれる。3人の「呼吸家」が奏でる音とダンスは、風のざわめきや降り注ぐ光を思わせ、自らがその中に含み込まれる空間のトーンを作り出す。太古の人は音楽をこのように、場を満たす全体の気配と一体のものとして感じていたのだろうか。


最初に耳に届いて来たのは闇の中に紛れた一筋の糸のように繊細な笙の音である。わずかに照明の度合いが上がり、世界の目覚めを思わせると、闇に紛れていた勅使川原三郎が、続いて佐東利穂子が静かに舞いながら舞台前方に出てくる。長短の竹を組んだ笙という楽器の音には、天から差し込む光のような崇高さと、竹の感触を残したような複雑な響きがある。不協和音であるのかさえも定かではない音の重なりの中で、二人のダンサーは揺蕩いながら動く。かがめた身体が伸びあがり、腕が大きく軌跡を描いてゆくさまは二人のベーシックな身体語彙といえるが、その独特のテクスチャーが笙の響きとともに放たれると、空間は濃やかな質感で満たされる。二人はその質感の中を、空気を掻くように動き続ける。


笙の8つの演奏曲目はそのまま作品のドラマトゥルギーを構成する。はっきりと聞き分けられる曲調の変化は少ないが、動きに速度や勢いが出たり、静止したりする場面は、曲目の変わり目だったのだろう。無音の中で一人踊る佐東がいて、そこに再び笙の音が入るとき、新たな光がもたらされたように感じた場面。粒子のように降り注ぐ笙の音を浴びながら喜びの中で高揚する勅使川原の踊り。物語性のない本作で、こうした鮮やかな瞬間が印象に刻まれ、しかし同時に全体の流れの中に飲み込まれてゆく。気象の変化や季節の移り変わりのように訪れる舞台のトーンや質感の違いは、解説にあるように、それぞれの場を整える「調子」の曲にあたるものだっただろうか。黒い舞台を照らす、凍てついた白い照明は、冬、北、黒、水を象徴するという3曲目「盤渉調調子」のシーンであったのかもしれない。曲目の進行とともに音、ダンス、照明、空間が変化し続け、一見すると抽象的な空間に、様々な彩りや肌理、質感や抑揚が一体となった「調子」、「調べ」を奏でてゆく。


勅使川原と佐東の踊りの違いも興味深い。身体に軸と中心を設け、左右の腕を対象にかざす勅使川原は、秩序や調和や意志を志向するようにも見える。一方の佐東のうねるような動きは、非対称、流動、揺らぎを体現する。異なる二つの原理を象徴するようでもあり、単に勅使川原、佐東という個体差であるようにも思える。二人は時に近づき、時に遠ざかり、触れることのないデュエットを踊る。宮田まゆみ、勅使川原、佐東の三つの身体もまた、それぞれの音、それぞれのダンスを紡ぎながら、なお分かちがたく結び合い、それぞれの呼吸で場の質感を、彩りを、トーンを、肌理を、「調べ」を奏で続ける。そして自らもその肌理に包み込まれ、時を超えて生き続ける。


夜の訪れのように照明が落ちると、冒頭と同じ笙の一音が鳴り、やがて吹き込む息の音だけになって、舞台は闇に沈んでゆく。呼吸する者らのかそけき気配に永遠を見たような一瞬であった。


(鑑賞&レビュー講座 対象公演)



2020年12月16日水曜日

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING 記者発表

 


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRINGの記者発表が12月15日に催され、全プログラムが明らかになった。本来は本年2020年の10月に開催予定であったが、新型コロナウィルス感染拡大を受け、来年2月6日~3月28日に会期を延期した。今回はこの延期したフェスティバルについての発表である。内容はすでに一般にも公開されたので、ここでは記者発表での発言から印象的だったものを書き留めておく。なお、今回はオンラインで参加した。




今回は3名の共同ディレクターが運営する初回。リサーチ、上演、エクスチェンジの3つの軸で構成される点に注目した。過去10回が選び抜かれたキレのあるプログラム構成を誇ったとすれば、新体制ではコレクティブならではの複数の視点を生かし、周辺領域の知への幅広い関心や、足元の京都、関西のリソース再発見のプロセスを組み込んでいる。


Kansai Studies(カンサイ・スタディーズ)は建築ユニットdot architects(ドット・アーキテクツ)と演出家の和田ながらによるリサーチプログラム。琵琶湖の水にまつわる様々な事象をリサーチし、ウェブサイト、トーク、展示などで3年かけて発表していく。「コロナ流行の中、国境とか県境など境界線を意識する事が多いが、人間が引いた線をキャンセルできる視点を持ちたい。水の循環はそのガイドになる」と和田ながら氏。


上演プログラム「Shows」(ショウズ)でも小原真史が展示で参加。前世紀初頭、帝国主義国による博覧会での被植民者の展示を題材に、見られる身体の歴史を考える。身体を見る、エキゾチックな文化を眼差し、消費するなど現代の芸術と共通する点が多い、とディレクターの塚原氏。Kansai Studiesも合わせ、リサーチ&展示プログラムが充実したものになりそう。


コロナ感染の危機のもと、映像による参加も含まれるが、オンライン配信とせず上映会の形式をとった。これについて塚原氏は「作品は出来る限り決められた空間、画質、サイズで見ることとしたい」と述べる。パソコンやIT環境に左右され一定のクオリティが保てない鑑賞は避けたいとの判断だ。


関西のアーティストが入ることは予想されたが、この顔触れに新風を感じる。垣尾優はベテランだが前回の自作ソロで見せた独特の世界観に度肝を抜かれた。今回もソロにこだわる。自分の表現はシンプルでオーソドックスだが混沌としている。矛盾しているが体そのものである、と語る。ジャンルの境界や外へ向く横軸ではなく、縦の時間に関わるものだという。中間アヤカ『フリーウェイダンス』神戸、横浜に続く京都ではリ・クリエーションする。会見で自作を語る言葉が力強く、自身のやろうとしていることがより明確になっているのかなと見受けられる。


音遊びの会×いとうせいこう。言葉を音や声などより広く捉え、一人一人がいとう氏とセッションすることで、それぞれ存在の仕方が違うのだということが見えるようなパフォーマンスにしたい。一度リハーサルをしたがもうすぐにでも本番に入れそうな勢いであるという。障害のある人の参加は『劇団ティクバ+循環プロジェクト』以来。関西のダンスに通底する価値感だろう。


海外からはカナダ、オーストリア、タイ、インドネシア、カナダ。感染の状況では無事公演ができるか予断を許さないが、中止にせず何等かの形での参加を模索する方針という。3名のディレクターそれぞれ海外のフェスティバルに感じることは世界を同じ作品が回り、消費されている、それが開催地域とどうつながるかが見えないという疑問。作品のプロセスや背景が見えること、地域とフェスがどうつながるかを探ること、社会に受け止められ影響していくかを考えたい、とする。


コロナの影響による会期延期の事態に対しては、ディレクターチームであったからこそ出来ることをやっていこうと前向きになれた。世界各国のディレクターたち同業者とも定期的にミーティングして情報を共有し、プログラムにも影響している。配信ではなく上映会にしようとの決定もこうしたコミュニケーションからヒントを得た、と塚原氏。


前任者の橋本裕介氏からはKEX.の名称だけは受け継いでほしいと要望があった。そのほかは出来るだけ変えてくれと言われた。ディレクター3人で毎週2回ミーティングを行い、社会状況、背景などを話し合っている。3人だから色々なことが出てくる。ふつかることもあるがそのプロセスが面白い、それらを一つの言葉でまとめるのではなく、様々な視点で観客に提供したい。一つの定義より複数あることの自由さがある(塚原、ナップ、川崎)。




2020年10月15日木曜日

柿崎麻莉子 『The stillness of the wind』/ akakilike/倉田翠 『家族写真』


DANCE SELECTION 2020 ダンスセレクション  レビュー


柿崎麻莉子 『The stillness of the wind』

akakilike/倉田翠 『家族写真』


 10 月 3 日  @愛知県芸術劇場 小ホール



ソロパフォーマンスとグループ作品、自作自演と他の身体への振り付け、ダンスに特化し

ていることと演劇性を取り入れていること。異なるロジックで成り立つ対照的な作品がコ

ンテンポラリーダンスの表現の幅を示す二本立て公演である。


柿崎麻莉子『The stillness of the wind』は独特のうねるようなムーブメントが印象的

な 15 分間のソロ。つま先立ちで床を探るように進む足の運びから、腰を落として長い手足

を広げたスケール感のあるフォルムへの途切れのない変容が特徴的だ。盛り上がっては沈

み、肩に肘に首にと潮の満ち引きのように現れては引いていく複雑なムーブメント。外から

形を与えられるのでも、内なる衝動に突き動かされるのでもなく、外部の空間や重力、光や

風の質感と、それらを受け止め触発される動きのモチーフが身体を挟んで静かに拮抗して

いる踊り。異なる複数の力と方向が柿崎の踊る身体を振り付けていく。刻々と移ろいゆく動

きは言葉にならない豊穣なざわめきに満ちている。

肌に密着したシースルーの衣裳は身体を裸体のように見せていて、黄昏時のような照明

を受けて神々しく、なまめかしい。その分節しえない身体の不定形の動きは、植物の繁茂や

人間ではない生き物の息づくさまであったとしても何ら不思議はないように思える。生命

の実体は身体の器に満ちることでしか可視化されないのだ。パフォーマンスは終盤に向け

て徐々に熱を帯びていく。聞こえてくるプリミティブなリズムと女声ヴォーカルのループ

につま先立ちの柿崎の足踏みが同期し、大地に近しい生命力となって舞台に漲っていくよ

うだった。


akakilike/倉田翠『家族写真』は、とある家族に男性一人を加えた7人による不条理感

の漂うアンサンブルだ。最も特徴的な点は全編を通して父親に台詞のあることで、関西弁の

抑揚が生活感と関係性の重みを暗に伝える。ここにバレエ、音楽、写真が混在し、約 60 分

のダンスシアターに仕立てられている。

作品のモチーフは「お父さんが死んだら」お金が下りる生命保険。「もし、もしやで」で

始まる父親の語りは、この「不思議な商品」をきっかけに各々の抱える欲望や矛盾をあらわ

にする。中央に置かれたテーブルを中心に、上下の空間を使った身体のインスタレーション、

個々のパフォーマーの配置や身振りが、ときに親密で、根拠の危うい関係性を浮き彫りにす

る。妹の踊るバレエは過ぎゆく時間のアイコンであり家族を寿ぐ切ないステップに見える。

兄がカメラのシャッターを切るのは時を区切り記憶を刻む行為だろうか。肥大化するひず

みと軌を一にするようにバレエ音楽のフィナーレが最大限の音量で響き渡り、舞台は暗転

する。

 「もし、もしやで」の問いかけから暗転までの過程は、内容を少しずつ変えて3回繰り返

された。このループ構造は、矛盾を孕みつつ懲りずに歴史を繰り返す家族なる制度のあり方

そのものであり、社会に無数に存在するバリエーションの示唆でもあるだろう。


(鑑賞&レビュー講座 対象公演)

 

2020年9月3日木曜日

室内オペラ『サイレンス』

アレクサンドル・デスプラ、アンサンブル・ルシリン 

2020年1月18日 @ロームシアター京都 サウスホール



【蔵出しレビュー】


川端康成の短編「無言」をテキストにした小編成のオペラ。原作は幽霊の話が出てくる怪談と紹介される例が多いようだが、病で言葉を失い、読み書き、会話の手段を絶たれた老作家と、その世話をし、他者との意思疎通を作家に変わって引き受けている長女の富子、老作家を見舞いに訪れる後輩の作家、三田の3人によるやりとりが本題である。物語の前後には三田とタクシー運転手との会話が配され、鎌倉から逗子までの見舞いの道中には、トンネルに女の幽霊が現れるという言い伝えが話題となる。老作家を尋ねるエピソード本編と前後の幽霊の話題は直接の関連はないのだが、言葉を失う経験について思索を巡らすうちに、意志や欲望、表現や伝達の主体としての人間という根拠が揺らぎ、危うさが滲み増していく物語にとって、幽霊の話は、確証のなさや不安、畏れのトーンをなして、物語の全編を覆っている。


「室内オペラ」と冠されているのは「室内楽」に対応しているのだろう、演奏を担当する器楽アンサンブルはフルート3人、弦楽器3人、クラリネット3人、パーカッション1人という小編成で、出演者もバリトンとソプラノのみ、これにナレーション担当の俳優ロラン・ストケールが加わる。ストケールはほかにタクシー運転手の役をこなし、後半では、背もたれがこちらに向けられているため姿は見えないが、老作家の役を担って椅子に身を沈めている。音楽の「アンサンブル・ルシリン」はステージ後方に横一列に並んで演奏する。音が鳴り始めるとすぐにストケールが現われ、語り始める。台詞はフランス語、舞台の左右にスクリーンがあり、日本語字幕が縦書きで投影される。原作を読まずに臨んだが、俳優のナレーションは小説の地の文にあたるのだろう。


三田役の歌手、ロマン・ポクレーは登場後、第一声をファルセットで歌い出し、通常のオペラ歌手のイメージからかけ離れていることに少し戸惑った。あれ、この人、バリトンではなかった?と。低音を響かせて物語世界の底を固め、ゆるぎない存在感をアピールするといった役どころとは異なる三田という人物像が、いわゆるベルカントではない裏声(=虚?)の唱法によって映し出される。ビブラートは控え目、そしてファルセットから実声へとシームレスに移行する声は、思慮深く、少し懐疑的な内面や思考のはたらきを抑制的に語り出し、言葉を発しなくなった先輩作家の境遇や意思の在り処、それらの伝達のされ方の謎を巡ってモノローグを連ねる。その思索の中に言葉や記号、音や文字について語るくだりがあり、水やお茶が欲しいのならせめて「ミ」や「チ」と示してはどうなのだ、カタカナで、などと吐露するのだが、こうした台詞は全て作曲のアレクサンドル・デスプラにより歌唱化されている、つまり音程とリズムが与えられ、分節化されている。面白いのは歌唱と演奏がわりと即物的な同期をみせることで、フランス語の歌詞の中で日本語のまま「カタカナ」と発語されると、パーカッションが「タタタタ」と叩いて応じる。「catacana(カタカナ)」タタタタ。こんな具合。


音楽について気付いたことをもう少し言えば、フルートはフルートの管の、弦楽器は弦の、鳴る音そのものの飾り気のない手触りが客席に直接届いてくるような演奏だった。音の物質性というのか、テクニックにより増幅されることのない音は、楽器本来が持っている素朴な質感を伝える。昨年12月にアルディッティ弦楽四重奏団と小㞍健太の共演を鑑賞した折にも、弦楽器の可能性をとことん追求するような音楽に「現代性」を見たと感じたが、今回の音楽も同じ方向性にあるように思われた。モノとして物理的な装置としての楽器と、そこから生まれる音の質感―ー摩擦や振動が空気を震わせる音そのものの物質性を尊重した演奏であると感じた。これはコンテンポラリーダンスが身体そのものを提示する態度にも通じるように思う。とはいえ、まるで無味乾燥な音楽というのではない。「カタカナ」「タタタタ」と、かかとを上げて弾むような機智に富んだ音楽性は、遊び心の表れでもあり、かつ本作の主題である言葉と表現をめぐる意識を、作品の始めの段階で喚起するものでもあったろう。


音の物質性を重視する方向性は歌い手の声についても言えるように思う。バリトンのポクレーについては先に述べたが、半ばに登場する富子訳のソプラノ、ジュディット・ファーも、やはりビブラートを控え目にした、喉の太さからそのまま出てくるような声の太さ、マットな質感が最初に印象付けられた。老作家と富子の住む家には「明白で絶対的なわびしさ」があると叙述されるように、ベルカント唱法による華麗さや過剰さはここには無用というわけだろう。病の父への見舞い客と、彼を迎える家の長女という間柄で交わされるバリトンとソプラノのやりとりは、形式的なあいさつ、節度ある会話から、少しずつ話の核心に踏み込んでいく。言葉を発しない父に代わってその意思を三田に伝える富子は、三田への歓迎やもてなしの意を表する。「お酒を差し上げなさいと父が申しております」、「では一杯だけ」といったやりとりにも、礼節とともに凛とした緊張感があり、老作家の病状はどうか、意思や感情は健在であるか、その表現や伝達がどこまで可能であるのかなど「実際のところ」に踏み入ろうとする三田の欲求と踏みとどまろうとする節度、あるいは富子の側からはたらいている牽制といった、実に微妙で繊細な、ぎりぎり成り立っているような対話を、二人の虚飾のない歌唱が重ねていく。そもそも老作家と三田の直截的な対話が封され、富子を挟んで意思の疎通が図られるシチュエーション自体が、目上の者に直にものを申さない礼儀やしきたり、作法の様式性に通じているとも言え、日本文化に深く根付いたふるまいの美意識、一種のスノビズムとして、西洋人の作り手たちが川端康成のテキストに見出したものかもしれない。


いわゆる「盛り」のない、虚飾や増幅を避けた歌唱は、このような抑制的で儀礼的なふるまいのためだけにあるのではない。声の物質性を尊重した唱法は、聴く人を思慮深くし、ものごとの本質へと下りてゆく態度へと促す。三田と富子の対話の核心はむしろ、書くことをめぐる、表現や創作をめぐる哲学的とも言えるやりとりにある。ある狂気に冒された作家による、書かれることのない物語についての逸話が、象徴的に語られる。書けない作家は白紙のままの紙を母親に渡し、「自分の書いた物語」を読んでくれとせがむのだという。母は何も書かれていない紙を手に、その場で即興で仕立てた物語を聞かせる。そんな読み聞かせが繰り返されるうちに、いったいどちらが作者であるのかが定かでなくなってくる。存在しない物語を即興で語るのは母であるが、書くことを欲望し、読み聞かせを所望する息子の存在なくしては語られることのないはずの物語なのである。「母の読める」と題される老作家の代表作の一つだというこの逸話にならい、言葉を失い沈黙する父に代わって富子が創作を続けてはどうかとの考えが三田の口から語られる。しかしこれは老作家を生かすことでもあり、葬ることでもありうる、非常にデリケートで、ある意味危険な発想といえる。何より、「(先生の)聖なる沈黙を侵すことではないのか」。三田はこの「立ち行った」「差し出がましい」危険な考えを口にしつつ、「無言ほど美しい、豊かなものはない」ともモノローグする。このくだりは本作の主題に肉迫する場面であり、タイトル『サイレンス』、原作「沈黙」の所以となっている。


この見舞いの場面の音楽は、控え目で抑制的なトーンをつくり、アンサンブルの低めの響きが素晴らしい。主旋律(メロディ)、フレーズ、ハーモニーといった概念は打ち捨てられていて、各楽器から発する単音が重なり、音の層を作る。不協和音はもはやデフォルト。デスプラとアンサンブル・ルシリンにおいては「協」「不協」の区別など存在しないのだ。弦楽器はバイオリンの他にチェロが一台。クラリネットの一人はバスクラを吹く(楽器は色々と持ち替えていた?)。そうして低音部が作られる。加えてチェロがピチカートでバリトンの歌唱のタンギングと音程に随伴していくのが面白い。台詞を分節し音程とリズムを与えて歌唱化し、それをさらにチェロがなぞり、ピチカートのほか、ときにはボーイングで歌と同期(ユニゾン)するのである。富子との対話では歌唱のピッチが幾分か上がり、音の全体が透明な緊張を帯びる。とくに対話が核心部分に入り、二人の意思の微妙な食い違いや軋轢の生じる中で、一瞬の高揚により富子がひときわ高音で張らせる声の鋭く閃くような印象は鮮烈だった。また三田が暇を乞い、老作家宅を辞する際の挨拶の場面で、バリトン、ソプラノとも一段と低音で交わす歌声のやりとりも、大変に印象的だった。圧倒的な表現というのではないが、歌、音楽、テキスト、どれもオーソドックスな分野でありながら現代にアップデートされた洗練きわまる舞台作品。衣装デザインはファッション界の著名なデザイナーによるものだったが、こちらがうっかりしていたこともあり、特に注目しなかった。映像は、幽霊を思わせる女性のシルエットや、終始椅子の背をこちらに向けてその向こうにいることになっている老作家の、目元をアップで映したりするなど。



原作:川端康成「無言」

台本、作曲、指揮:アレクサンドル・デスプラ

台本、演出、音楽監督、ビデオ演出:ソルレイ

舞台美術:シャルル・シュマン

衣装:ピエールパオロ・ピッチョーリ

演奏:アンサンブル・ルシリン

バリトン(三田):ロマン・ボクレー

ソプラノ(富子):ジュディット・ファー

語り:ロラン・ストケール(コメディーフランセーズ)



2019年12月29日日曜日

ダンスという仮象 ~ヲミトルカイ 『家の無い庭』~

 ダンスという仮象

~ヲミトルカイ 『家の無い庭』~

2019年4月6日  @角野邸



【蔵出しレビュー】


庭は人の手になる最も親密な創作物のひとつだが、その存在は両義的だ。自然と人工、配置と造形、プライベートとパブリック、内と外。囲われた小空間には美と秩序の完結したイメージが投影されるが、ひとたび放置すれば、たちまち野生が支配する。むしろ変化を内包し、自然の理に即して姿を変えていくことが庭の本来的な在り方であるのだろう。人が自らの理想を託す庭は、両義性のあわいに成り立つ仮象にすぎないのかもしれない。


今作は神戸市長田区の下町に大正時代に建造され、今は住む人のない民家で行われたサイトスペシフィックなダンス公演である。上演のほかにヲミトルカイのダンサーらによる3種類の屋内インスタレーションがあり、全体で一つの公演を構成している。観客は玄関から家に上がり、各部屋の展示に案内される。松縄春香による樹木をかたどり外の光を招き入れる切り絵。いはらみくによる動物のミニチュアを多数配したジオラマ。遠藤僚之介は完全暗転した部屋の中で微かなノイズを含んだ環境音を再生する。いずれも作り手が観察し妄想する「庭」のイメージ/実体の表現である。ダンスの上演はこれら3つに並列した山本和馬の構成・振付作品という位置づけで、この家の小さな坪庭で行われた。観客は家屋の2階から庭に面した縁側へ降り、ガラス窓を通して鑑賞する。窓の大きさが額縁となり、一つの画面を形作る。


開始時、庭石や植生に溶け込むように風景の一部となった山本和馬、いはらみくの姿があり、遠藤僚之介が自身の動線を引き込むように「画面」に入る。ほどなくして山本は庭を囲むブロック塀に上り、天辺を歩くと、そのまま塀の向こう側へ姿を消してしまう。早い段階での山本の不在は、その後もパフォーマンスを通じて通奏低音のように響き続ける。


遠藤といはらの水平に延ばした腕が繋がり、庭に一つの景が立ち上がる。ミラーリングやユニゾン、互いの接触点を移動させるコンタクトなど、同調と離散を重ね、風景の中に芽生えるダンスを提示していく。二人は向かい合って相手の首元に腕を回し、互いに引き寄せ合う。一方がくるりと向きを変えると、相手が背中から抱えるより早く、その身は地面に崩折れてしまう。こぼれる砂のように儚い二人のデュエット、そして周囲の環境を感受しながらすすむ各々の繊細なソロが、身体の境界を曖昧にし、移ろいゆく時間を可視化する。二人はそれぞれ背中で地面を感じ、石の表面や木肌の肌理に身を預ける。自我を消失し、環境に同化してゆく解体的な身体の、自在な物質感に目を見張らされる。


4人目のダンサー松縄春香は、しん、と透徹した空気を漂わせて庭に入ると、周囲を眺め、樹木に手を伸ばし、静かにその場を巡る。松縄の眼差しは庭を対象化する。環境と同化する遠藤やいはらの身体に対し、あくまで見る主体として現れた松縄は、ゆっくりと揺蕩いながら手数少なくソロを舞う。3人で地面の石を手に取り、中央の小山に向けて放ったり、足元の石を寄せながら轍を作ったりするくだりは、風景の変化や物質の風化、その形跡についての言及だろうか。遠藤と松縄のデュエットは、庭と親密な身体と、それらを対象化する身体によるダンスであり、自然に属する身体と人間の身体、見られる側と見る側、男性と女性のダンスでもある。異質なもの同士、位相を異にする主体どうしが時を縒り合わせながら、過ぎてゆく時間そのものを踊るようなデュエット。分節されない身体、刻まれることのない時間の中で、ただ互いのありようを触れ合わせているかのようなダンス。二人は重ねた腕を体の前方へ伸ばすが、さらにその腕の先を庭の境界の外へと向け、身体の実寸の限界を超えて、その先の何かへ届かせようとする。かりそめのダンスの行く先を問うているようでもある。やがて緊張は解かれ、それぞれの身体は、その場に崩れ、地面に同化してゆく。踊り続けていたいはらは動きを止め、記憶の中に固定される。人も自然も風景に取り込まれ、その風景もまた風化への予感を残して、パフォーマンスは終わる。


公演は昼と夜、時間帯を変えて行われたが、自然光のもとでの昼の上演がとくに素晴らしかった。午後の光と澄んだ空気、庭の土、石、樹木、それらの感触がガラス越しにも体感され、わずかな陽射しの傾きでパフォーマンス中の時間の経過を知る。庭を歩くダンサーの目に一瞬、陽の光が斜めに入り、眼球を透き通らせて見せたのが美しかった。


庭を巡る本作の着想は、東日本大震災の被災地を訪れた体験に基づくという。風景の喪失と、かつてそこにあったものの気配。圧倒的な不在の痕跡。風景はそれを形作った営みの去った後も、風景であり続けるのか。人はそこに何を見ているのだろう。この強烈に刻まれた不在と喪失の感覚を、山本たちは、神戸市長田区の、自らのダンスの根付く日常にパラフレーズしたのだ。見上げれば高層マンションも視界に入る、塀に囲まれた小さな民家の庭。かつて住んだ人が縁側から眺めたであろうはずの景色に、ダンサーたちは息を吹き込む。庭はここでは視線の対象たるパフォーマティブな仮象の別称だが、では視線の主体が失われたとき、庭はどこへゆくのか。そしてダンスは?と山本は問う。劇場でそれを欲する眼差しから解かれたとき、そのパフォーマティブな対象はそれでもダンスであり続けるだろうか。「家の無い庭」とは浮遊する仮象を巡る考察だ。かつてそこにあったものの痕跡と記憶が、視線と認識の制度への批判を含みながら、ダンスという仮象のゆくえを探している。



出演:ヲミトルカイ(いはらみく、遠藤僚之介、松縄春香、山本和馬)

舞台監督:米澤百奈

協力:ArtTheater dB KOBE